21・剛忠(龍造寺家兼)【龍造寺17代目・胤久】

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出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

永正17(1520)8月、龍造寺胤和が死亡。
弟・胤久21歳。17代目として家督を継いだ。
「佐賀市史年表」
北肥戦誌によると兄の未亡人を娶り家督を継いだそうだ。
よくある話じゃないか~~(*´○`)o¶~~♪

ちなみに死んだ胤和は龍造寺隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)の父。
だから胤和は肥前のクマーの祖父^^
新当主・胤久は隆信から見て大叔父にあたります^-^

永正11年(1514)に胤久は、西千葉・胤勝から偏諱を受けて胤久と名乗ってます。
この時は未だ14歳だったから、元服の時の名乗りだったのか|史料|。 ̄)じぃー

更に龍造寺当主になった翌年、永正18年1月11日。
龍造寺胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となります。
「龍造寺文書104」
ということで龍造寺17代目は西千葉と縁が濃い当主でした。

ウィキペディアによると、胤久は龍造寺家兼の傀儡当主だったとありますが、もしそうなら家兼は物凄いしたたかな人物だと思います。
自分は胤久自身の意志で動いているんじゃないかと思うんだけど・・・(-ω-;)ウーン

西千葉が肥前で頑張る中、かつて少弐一門で今は大内サイドの筑紫氏も力をつけてきました。
大永元年(1521・改元は8月23日)、筑紫満門は焼失してた宝満の上宮を建立する「北肥戦誌185頁」
大永3年(1523)閏3月27日には神崎郡櫛田社を修造し遷宮を行っている「佐賀市史年表」
神様関係で寄進や安堵は武将の実力の証。

少弐氏の忠臣・馬場頼周は、実力のある筑紫満門に「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。
歴代鎮西志によると同年の大永3年に筑紫満門と少弐資元が和睦したことになってます。
だが、その後の馬場の行動を見るに、どうも筑紫は少弐に服属しなかったようなのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・龍造寺胤久(次男)兄の死で家督を継ぎ17代目となる
・胤久は西千葉・胤勝の推挙で「民部大輔」となる(胤の字も西千葉からの偏諱)
・少弐を裏切って大内に服属したのが筑紫満門
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20・剛忠(龍造寺家兼)【大友、家督相続】

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「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

筑後・星野氏の大友に対する謀反は永正10(1513)に鎮圧された。
このことは大友の筑後統治に大きく影響する。

これで落ち着くかに見えた大友だが、今度は元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こした。
嫡男である義鑑を廃して、13代目の六男を立てようとしたのだ。
ちなみに義鑑の父・義長は19代目^^;
13代目が子だくさんだったのは別にして、あまりにも庶流すぎて失敗するはずだ。
だいたい13代目の六男は出家してて、大友当主になる野心ゼロでした^^;

「田尻家文書20」によると、この謀反に筑後蒲池氏が呼応してたらしい。
筑後は未だ不安定だったのだろう。
で、翌年永正14(1517)11月、朽網親満に呼応した蒲池、黒木、川崎ら筑後国衆が蜂起。
永正15(1518)に朽網親満が大友義長に討伐軍に敗れているので、おそらく筑後で蜂起した国衆も鎮圧されただろう。
同年3月6日に筑後・田尻治種が大友義鑑から上妻群薬丸12町を安堵されている「田尻家文書21」
ちなみに朽網も、このあと記録から消えるので死亡したと見られている。

同年8月、大友氏19代目・義長が死亡。
※大内義興が京都から周防に帰った年。
家督を継いだ大友義鑑は未だ若年(数え17歳)だったので、祖父・親治が死亡(大永4)するまで補佐を受けた。

で、死ぬ前に大友義長は「大友覚書条々」という遺言みたいなものを残した。
全文はシオも知らないんだけど、その中で特徴的なものがある。
二、筑後星野氏に対する警戒
三、肥後対策、特に阿蘇惟長への対策
つまり大友では肥後統治と筑後統治をセットで考えていたんです。

阿蘇惟長は大友の傀儡として肥後守護職の家柄である名門・菊池氏の家督を継いだのだが、
菊池家臣とソリが合わず(誰とも合わない菊池家臣www)惟長本人が嫌気がさして地元・矢部に帰ってしまった。
いったん阿蘇家を出た惟長が出戻ったせいで阿蘇家が揉めるんだが、それは相良氏篇で書いてるので割愛。

大友義長は「もし再び阿蘇惟長が肥後そのものを欲することがあれば、筑後統治も意のままにならなくなる」と警戒してたんです。

この筑後と肥後の統治をセットで考える政策は義長死後も続きます。
なぜなら肥後で何か起きるたびに、筑後で呼応した国衆が蜂起するからです。

ということで筑後とセットである肥後・相良氏を通じて肥後戦国史を扱ってるわけです^-^b
で、大友の筑後に関わる数年間を話したところで肥前に話を戻すのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こし呼応した筑後国衆も鎮圧される。
大友氏19代目・義長が死亡し義鑑が家督を継ぐ
大友氏は筑後と肥後の統治をセットで考えていた。

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真田丸_籠城38日目【昌幸】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



ガチで泣いた(´;ω;`)ウッ
昌幸ロス
忠勝ロス
清正ロス

一気に人口が減ってしまった真田○、来週からは新キャラが出るのかなぁ^^

佐助がきりさんに片思いしてたとは知らなかった( ゚д゚)ンマッ!!
春さんの危ない性格がいかんなく発揮されました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
って、怖かったよーーーil||li _| ̄|○ il||l

三成の清正へのコソコソは秀頼を託したんだ。
奥さんのことかと・・・フェイントに引っかかったぜ(-*-)

秀頼の成長ぶりにビックリ(@@)
過去の大河の中で一番アクティブな秀頼像だ(-ω-;)ウーム

薫ママが仮病してて笑った^^
信之に構って欲しかったのかしら(;´・ω・)

ここで板部岡が出るとは思わなかった。
大坂の陣の前に死ぬ板部岡さんも今後は出番なしのはず。

忠勝が死ぬ前にケガした逸話を使ってたけど、原文は仏像を彫ってたような・・・細かいことはいいんだけどね^^b
清正は暗殺で毒殺逸話は使わなかったんだ。
ところどころ三谷らしさが出てるのが面白いな。

昌幸の死のシーンには本気で泣いちゃった。
戦場に出たい・・・骨の髄まで戦国武将。
だから家康も絶対に許さなかったんだろうし。
文章にするとウソくさくなるので、これ以上は書かないことにしよう。
とにかく泣いた・・・シオは泣きました (゜-Å) ホロリ

来週も楽しみ真田○ (・∀・)

19・剛忠(龍造寺家兼)【西千葉・胤勝】

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「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

永正12(1515)年、有馬&大村連合軍が藤津で千葉勢を破る「歴代鎮西志」(塩見町史)
史料には東か西か書いてないんだけど、自分は東千葉氏のことじゃないなかなぁって思う。
1511年に東千葉氏が杵島・藤津の地を奪ってるから、奪い返されたんじゃないかと・・・(-ω-;)ウーム

永正13(1516)年4月、室町幕府は大内義興の対明貿易の独占権を認める
そりゃそうだ。
いま大内義興は京都にいて今の足利将軍は義興が奉じて将軍にしたんだもん。
つまり他の大名が対明貿易を行うには、某S家のように密貿易をするか、相良のように大内の許可を貰うしかないんです。
大内の最盛期の財政基盤は弥増して盤石なものとなる。

同年5月、西千葉の胤勝が1511年に勝った東尚盛(大内サイド)に逆襲され敗れる「佐賀市史544頁」
むむむ~勝ったり負けたり忙しいが胤勝は諦めないもん!

永正14(1517)春、西千葉胤勝、松浦表に出陣する「歴代鎮西志」
頑張る貴方に吉報です。
同年、少弐資元が太宰少弐に任命される(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ
前後の事情が記録にないので、どういうルートで少弐が太宰少弐に復活したのか経緯は不明です。
京都に大内義興がいるのに妨害しなかったのが不思議~
対明交易に絡んでる人事かも、なんてったってアチラは先例主義だから^^b

永正15(1518)8月、京都で思い通りにならず中央政界に介入することに嫌になった大内義興が周防に帰国「北肥戦誌」「歴代鎮西志」

同年10月龍造寺胤家、日政上人を開山として本行寺を開基する「佐賀市史539頁」
シオが佐賀県に訪問した時に行った本行寺ですよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
胤家が作った寺なの~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

千葉胤勝に話を戻すね^^
同年、千葉胤勝は松浦党に佐志、鶴田を攻める「佐賀市史544頁」
龍造寺胤家、盛家が出陣し、筑前攻めでは先鋒となる「歴代鎮西志」
両名の戦功とあり「歴代鎮西要略」
「佐賀市史」によると永正11~15年における千葉胤勝の勝利は、龍造寺胤家と盛家の武功によるとあります。

龍造寺盛家とは胤家が高木氏から迎えた養子です。
養子に迎えた経緯は不明です。
問題は龍造寺胤家と盛家が龍造寺の分家である与賀龍造寺だということです。
龍造寺は一族全てが西千葉押しになったわけでなく、宗家次男が偏諱を受け、分家の一つが西千葉に加勢するという複雑なことをしてたんです。
肥前の情勢がめまぐるしく変わる中、大友家の方にも変化が訪れるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
室町幕府、大内義興の対明貿易の独占権を認める
少弐資元、太宰少弐に任命される
千葉胤勝の勝利を支えたのは与賀龍造寺

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18・剛忠(龍造寺家兼)【西千葉氏】

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西千葉氏は亡き少弐政資が肥前千葉の家督に介入してできた。
肥前千葉の男系女子(尼日光)に自分の弟を婿として入れて、西千葉氏を立てた。
いわば少弐による家督乗っ取りだ。

それに対抗しているのが東千葉氏。
西と東、どっちが~と言うと嫡流は東千葉氏です。

肥前千葉の姫と少弐実弟との間に子供がいなかったので、少弐一門の横岳氏から養子を迎えた。
永正7(1510)3月13日、その養子の胤治が東千葉氏の敗れて討ち死に。
さらに永正8(1511)年9月25日、同じく養子の胤繁が18歳で死亡する。
毎年喪中(´・д・`)・・・・
胤繁の死因は記録がないので、おそらく戦死ではないかと予測されている。

一方、東千葉氏は大内の後ろ盾で力をつけ、
永正8(1511)2月、東千葉の喜胤が杵島・藤津の地を奪う「by佐賀市史、歴代鎮西要略」

少弐は筑前で再び大内に対して劣勢に立たされていたらしい。
永正9(1512)年閏4月15日、筑前守護代・杉興長(大内家臣)が大宰府天満宮満盛院に侍島の地を還付する。
(by満盛院文書)
還付ということは、侍島は元々は大宰府天満宮満盛院の寺領だったのだろう。
それを出来るということは、大内の筑前のおける勢力が盤石だということです。

少弐が劣勢なので、一蓮托生の西千葉も劣勢。
男子が次々と死んだので、西千葉氏は再び少弐一門横岳氏から養子を迎えた。
それが西千葉氏4代目・千葉胤勝(横岳資貞の子)です。
胤勝が西千葉の養子になった時期は不明ですが、おそらく2代目胤繁、3代目胤治が死んだ後だろう。

永正11(1514)3月15日、龍造寺新次郎が西千葉の胤勝から偏諱を受けて「胤久」となる「by龍造寺家文書103」
龍造寺胤久、龍造寺17代目当主。

北肥戦誌によると胤久は次男だったのだが、兄が早世したために未亡人を妻に迎えて家督を継いだのだと言う。
胤久はウィキペディアだと1500年生まれ、偏諱の時は数え15歳。
元服で偏諱を受けたのか、家督を継いで偏諱を受けたのか微妙な年齢で判断不可。

とにかく龍造寺では東千葉、西千葉両方ともに、程よい距離をとりつつ微妙な均衡の中にいた。
これは東肥前の武家なら、どこもそうだろう。
少弐と大内が常に揉めて、少弐が没落しては復活するので、西千葉とも絶縁という訳にいかないんです(;´・ω・)

同年4月、千葉胤勝が大内サイドの東尚盛を攻め城を奪い城番を入れる。(東尚盛は松浦へ逃げた)
「by佐賀市史544頁、歴代鎮西志」
この戦に龍造寺が加勢したかは不明です。

ただ、この西千葉4代目・胤勝は劣勢を跳ね返すが如く、盛んに活動するのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
西千葉の2代目・3代目が死亡。
西千葉は少弐一門横岳から養子・胤勝を迎える。
龍造寺胤久が胤勝から偏諱を受けた。

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17・剛忠(龍造寺家兼)【龍造寺、三家となる】

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大内義興が上洛した年(永正5/1508)従軍し上洛した龍造寺一門は、北肥戦誌では家和(当主)家兼(分家・水ケ江)の二人。
歴代鎮西志では、この二名の他に嫡男の座を捨てた胤家が入っている。

この年の月日は不明だが、元・嫡男、龍造寺胤家は与賀城に入った。「by佐賀市史543頁」
与賀城は少弐の城だったが、少弐は佐賀郡から神埼郡に拠点を移したので、与賀城は城主不在になっていたのだろう。
少弐は一度没落しているから、城番を置く余裕もなかったに違いない。
元々少弐のものだった城に入るにあたり、少弐に何と申し立てたのかスルーしたのか不明です。

とにかく!この龍造寺胤家が与賀城に入るを持って、龍造寺は三家となった。
総領家・村中龍造寺、分家・水ケ江龍造寺、同じく分家・与賀龍造寺です。
この時から龍造寺は三家が力を合わせて、戦乱の時代を生きることとなるのです。

永正6(1509)年8月、再び大内義興勢が豊前・筑前で少弐資元の党を討つ「by佐賀市史」
前年で大内の上洛に従軍し、筑前の年貢を互いに半納した少弐と大内だったが、やはり一時的な和睦で大内は少弐討伐を諦めたわけではなかったのだろう。

一方、少弐の衰微とともに少弐の一門同然の西千葉氏の旗色が悪くなってきた。
永正7(1507)年3月13日、西千葉の胤治が東千葉の興常・喜胤親子、東尚盛らに攻撃され高田城で討ち死にする
「by千葉氏略年表・日付は歴代鎮西志より」

同年3月21日、家和、家兼、胤家の父・龍造寺康家が没する「by佐賀市史、歴代鎮西志」
父の死によって次男・家和が名実共に当主となる。
もしかしたら、長男・胤家が与賀城に入ったのは父・康家の意向だったのかな~

年表の順番に従っているので、話が途切れ途切れになっているのはご了承願いますm(__)m

もともと東千葉が嫡流な上に上洛するほど勢威がある大内の後ろ盾があるのだ。
東千葉は栄え、西千葉は衰退していくのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
龍造寺康家が死去。家和は名実共に当主となる。
龍造寺が、村中(総領家)龍造寺、水ケ江龍造寺、与賀龍造寺の三家となる
少弐がパッとしないので、少弐のバックアップ受けてた西千葉が衰微する。

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16・剛忠(龍造寺家兼)【上洛】

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【足利将軍を奉じての上洛】
これは信長でもなければ、戦国ゲームの話でもなく史実あった話。
ただし、永正5(1508)年だけどね(^ -)---☆Wink

大内義興が上洛の決意をしたのは、前年に中央政界が大きく変化する出来事があったからです。
それは永正4(1507)年6月23日、半将軍と呼ばれた細川政元が暗殺されたことです。
ちなみに大内義隆は、同じ永正4年11月15日産まれです^-^

それで亡き細川政元に京都をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!された、10代目将軍・足利義尹が西国のドン・大内義興の力を借りて帰洛を決意。
永正5(1508)1月、足利義尹は大内の力を借りて帰洛しようとした。
(※それまで大内を頼って山口に亡命していた)
情報をキャッチした(大内が号令かけた)九州の国人が我も我もと供を申し出る。

上洛参加メンバー一覧(出典元:北肥戦誌)
筑前~秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、
筑後~星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、
肥前~渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、
唐津~波多治・草野永信、平戸~松浦興信、高木~有馬尚監、彼杵~大村純治、
肥後~菊池義国・相良義滋、
薩摩~島津忠昌(名代は子の勝久)、
日向~伊東祐秀
豊後~大友一族、
豊前~城井長門、
対馬~宗義盛

※歴代鎮西志だと龍造寺は家和・家兼の他に胤家もメンバーに入ってます。

一方、京都にいる現将軍・足利義澄も何もしてなかったわけじゃなく
同年2月、足利義澄、大友義長と少弐資元ら鎮西の武将へ大内追撃を命じる。
が、既に勢力が衰えていた足利義澄の命令に答える九州の武将はいなかった。
かつて義澄を押していた大友でさえ、一族を大内勢に同行させた。

敵も味方も過去の遺恨もどこへやら~
手に手を取って「イザ!京都へ((((((((((っ´▽`)っヒャッハ~」

同年4月16日、足利義澄が没落し近江国に亡命「by歴代鎮西志」
なんだかんだと準備に手間取り、足利義尹が出発したのは同年の5月下旬。
6月8日に京都へ到着した。「by佐賀市史」
同年7月8日、足利義尹(10代目)は、足利義稙と改名し室町将軍として再登板する「by佐賀市史」

大内義興の活躍は凄かったらしいのだが、九州から離れちゃうのでシオの守備範囲外~
てか同行してた九州の国人らが、いつまで大内義興に従って行動してたかのほうが知りたい^^;

北肥戦誌によると、この年の筑前の年貢は大内と少弐の半納だったそうだ。
上洛という一大事業を前に少弐と大内も一時的に和解状態になったのかもしれない。
だが、それは一時的なもので、大内義興は再び少弐追撃を再開するのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
大内義興が足利義尹を奉じて上洛
大内に従軍し九州の諸将(龍造寺含む)も上洛
足利義澄は没落し、足利義尹が将軍に復活する

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真田丸_籠城37日目【信之】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆


上杉が全く出てこなかった,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

諦めきれない幸パパ、無理もない。自分は勝ってるんだから(;´・ω・)

久しぶりに出た松姉さま、全然お変わりなくて安心しました(笑
第二次上田合戦も、松姉にかかれば「チョコチョコっと」

出浦さんが久しぶりに出たと思ったら、まだ養生中だった。
いよいよ今回で出番終わり?(´;ω;`)ウッ
なんというか上田に同行する真田家臣は一旦、出番が終了って雰囲気だった。
大坂の陣で再登場するメンバーが何人いるかなぁ(==)

大坂城で信繁が頭を下げて挨拶してたのが毛利勝永かな?
オープニングで配役見落としちゃった(;´・ω・)

最近、春さんが出るたびに、いつヒステリー起こすのかとドキドキする。
薫ママは九度山に行かなかったのね。
置いて行かれて凄い可哀想だったけど、薫ママには九度山の生活は無理な気がする。

きりさん、せっかく信繁に来てほしいと言われて内心喜んでた・・・と思うが、
薫ママが上田に帰るからってアッサリ「上田へ帰っていいぞ」って言われてて( ゚д゚)ンマッ!!

・・・・あり?ヽ(。_゜)ノ 九度山に同行した人たちのなかに、きりさんがいたような~~~

今までニーちゃんをニーちゃんと呼んでたのは諱で書くと混乱するかな~と思ったから。
今回、諱を変えて歴史上で一番長く名乗った「信之」になりました。
だから今後はニーちゃんは信之って書きます。

こういう形で諱を変えるのは本当に辛かったと思います。
主君から頂く偏諱ではなく、親子縁切りの証の改名ですから(´;ω;`)ウッ

秀吉が死んでからというもの、どんどん家康が黒くなっていく。
幸パパに言う時の表情なんて、時代劇の悪代官みたいなノリだったわ~

改めて思ったが、今回の淀殿(竹内結子)美人だわ~~最初は違和感あったけど今はシックリ来る。
次回は秀頼がバージョンアップ・・・もとい成長して成人男子になるみたいだし、
予告のムードだと幸パパが? (゜-Å) ホロリ

来週も楽しみ真田○ (・∀・)

15・剛忠(龍造寺家兼)【喧嘩をやめて】

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永正4(1507)年3月、筑後国人・星野重泰が大友に反旗を翻す。
鎮圧のために大友は一万余騎の兵を動員し、少弐も肥前の諸将を連れて加勢した。
兵馬で城を落とせず、大友は謀略で星野重泰を殺したのだった。

北九州の覇権争い・・・
初めは「少弐VS大内」で、それから「少弐+大友VS大内」になり、
今は「大友(おまけで少弐)VS大内」になった。
(ちなみに大友は肥後国主である菊池家の家督にも介入している。)

そのたびに北九州各地では戦が起きて、大内からは毎度「少弐退治(-人-)☆彡オネガイ」の嘆願来るし、
大友からは「少弐赦免(-人-)☆彡オネガイ」が来る。

さすがに足利将軍家も「イラっ」と、切れてきたのか?。
はたまた、ここは一発「将軍の威光」を示そうと思ったのか?

永正4(1507)年3月、将軍家より御教書キタァ━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━ッ★
「急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよ!!(怒」
公布先は大友、少弐、菊池、伊東、島津、大内、渋川。

「大内と少弐」「島津と伊東」「渋川と少弐+千葉」が、それぞれ手打ち・・もとい和睦した。
てことで御手盛り人事~~^^/
大友義長~~~従四位
少弐資元~~~肥前守
菊池義国~~~肥後守
千葉興常~~~「屋形号」の呼称を許される(国主待遇)

これで落ち着くかに見えたが、戦国なんで落ち着くはずがない。

同年、細川政元が暗殺され、細川澄元が敗北して自害
室町幕府・管領家として権勢を振るい、半将軍とまで言われた細川政元が殺された!!

激しく動く中央政界の情勢に、大内義興は上洛の決意をするのだが、
それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
争いを止めない九州の情勢に室町幕府が怒った。
室町将軍の意を受けて「大内と少弐」「島津と伊東」「渋川と少弐+千葉」が、それぞれ和睦。
だが同時期に室町幕府・管領家細川家による内部争いで、中央政界が大きく変動する。

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14・剛忠(龍造寺家兼)【筑後乱れる_その2】

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永正4(1507)年3月、筑後国人・星野重泰が大友に反旗を翻す。
大友は総勢一万余騎で鎮圧に乗り出すのだが、地の利を生かした星野に翻弄されて中々倒せない。
そこで大友は星野征伐に謀略を用いることにした。

大友家臣に竹尾という者がいたのだが、彼が筑後に入り星野家臣となって妙見城に潜入する。
竹尾が自分の身元を何と偽ったかは不明だが、とにかく上手く星野重泰に近づく事に成功。
リラクゼーションなぅ(入浴中)の星野重泰を殺した。

突然だが入浴中に殺された武将といえば、源義朝かなぁ。
大河「平清盛」に登場した帝・高倉帝だが、謀殺された星野重泰の先祖は高倉帝に仕える調 助能という人物だった。
笛の名手だったので「調」という姓を帝から与えられたの^^b(星野先祖は助能の次男)

大友は「調一族である星野家名跡を絶やすのは忍びない(自分が謀殺したくせに)。」
てことで、星野一族から親実を引っ張り出して星野当主にした。
こんな事されて「はい、そうですか」と星野家中が納得できるはずがない。

実は星野氏の系譜は、じゃっかんカオスでして^^;
この謀反前後あたりは、とくに解りづらく、大友が引っ張り出した星野当主や、大内のバックアップ受けた糸の星野氏とかとか ( ̄ω ̄A;アセアセ

つまり大友は、それだけ星野の反抗的態度&謀反に(数年単位で)手こずってたらしい。
大友義長が自ら筑後入りしたのも、かなり星野に頭に来てたからなのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
義長は死ぬ間際ですら「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.星野はゼッテー許さねぇ」と遺言したそうな^^;

なんだかんだと星野謀反を完全に鎮圧するのに、大友は1513年までかかってます。
星野カッコ(・∀・)イイ!
(シオが筑後で一番好きな国人は星野なのだ~(人´∀`).☆.。.:*・)

落ち着かない九州の情勢に足利将軍家が乗り出すのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまでを三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・謀反を起こした筑後国人・星野を鎮圧するために大友は謀略を用いた。
・潜入させた大友家臣に、入浴中の星野重泰は殺される。
・大友は星野家の家督を星野一族から当主をたて、大内も「糸の星野氏」をたてる。

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13・剛忠(龍造寺家兼)【筑後乱れる】

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そもそも大友氏は文亀2(1502)から、筑後にチョッカイ出してたらしい。
どうも同年の暮れあたりに兵をいれたらしく、12月11日、筑後の田尻治種が大友家から領地安堵を受けている「by田尻家文書14」

その筑後の国人に星野氏がいる。
1478年に肥後の菊池氏が筑後にチョッカイ出した事があるが、星野氏は大友配下として仕えた。

だが大友家という家は国人に対し冷たい家だった。
戦になると、大友は危険な最前線に国人たちを追い使い、自分の旗本を温存するという事を露骨にしたそうだ。
星野氏も大友の態度が腹に据えかね、ついに謀反を決意。

永正4(1507)年3月19日、大友義長は星野氏の妙見城を攻撃するため1万余騎で筑後入りする。
(歴代鎮西志では15000)
大友義長(宗麟の祖父)に反旗を翻したのは筑後国人・星野重泰。
星野氏本城:妙見城(現・福岡県うきは市)。
勢力範囲:筑後の生葉・竹野両郡を領し鷹取・妙見・白石・山中・福丸の城砦を持つ。

星野重泰は、大友と戦う前に自らの葬儀を七回執り行った。
それは、かつて星野氏が大友に対し「七代の間は謀反をしません」と誓詞を出していたからです。
星野「葬儀七回!これで誓詞にある七代クリアしたどぉ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★」
っと、厳かで派手?なパフォーマンスを行う事により、城内の士気と結束を固めた。(伯耆守の七葬式)

この星野征伐に少弐資元が加勢したので、必然的に肥前の諸将も加勢した。
肥前からの加勢は少弐一門の馬場、横岳、他諸将は宗、出雲、江上、姉川。
大軍に囲まれた星野氏・・・風前の灯と思いきや、天下の大友軍が落とせない?!( ゚д゚)ンマッ!!
前線指揮官としての星野は非常に優秀で、かつ妙見城も天嶮の要害だった。
星野は地の利を上手く使い巧みに大友軍を翻弄し、とてもではないが容易に落とせそうにない。
大友義長は焦った・・・!

たかが国人の謀反に時間を労するようでは。大友家の威信にかかわる。
それに豊前が大内の支配下の現在、筑後の星野に通せんぼされたのでは、少弐と連携した軍事行動に齟齬が生じる。
力攻めがダメならと、大友は謀略(正確に言うと臼杵のアイデア)を用いたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまでを三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・筑後で大友に対し星野重泰が謀反を起こした。
・少弐が大友に加勢したので、肥前の諸将も少弐に従軍し大友に加勢。
・要害の星野本城を落とせず、焦った大友は謀略を用いる。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

12・剛忠(龍造寺家兼)【みんな肥前で復活】

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龍造寺康家(家兼ら兄弟の父)が別館(水ケ江御茶屋)を造り、この地に隠居する「by佐賀市史」
既に水ケ江城を父から相続していた家兼が、本当の意味で分家となったのは この時かもしれない。

同年3月、龍造寺家兼は天亨長老を導師(どうし=中心者)として法華経一万部を読誦(どくじゅ)する「by北肥戦誌」
読誦(どくじゅ)とは仏教用語で、要するに中心者(導師)のリズムに合わせて一緒に経文を唱えるんです。
一万部・・・クラクラ~~(@@)何時間かかったんだろう~~

康家が隠居したのは、自分が当主として表に出なくとも大丈夫だろう。
そう判断できるほど、肥前が平穏というか一段落して落ち着いた状態だったのだと推察します。
が、静かなのは僅かな期間でした。

永正3(1506)、少弐資元勢が大内義興勢と筑前・勝野山において争い少弐が敗れた!
この時点で嫌な予感がした貴方。いい勘してます。
敗れた少弐は大宰府に逃れ、更に肥前へと逃げた(by宗像軍記)

どうも少弐資元も肥前に入ったらしい。
同年8月7日、少弐一門である横岳氏(←肥前が領地)が少弐資元から「資」の偏諱を受けて「横岳資誠」と名乗ります。

一方、少弐が後ろ盾の西千葉はパッとしない。
同年10月17日、大内サイドの筑紫満門と東尚盛が西千葉・胤繁がいる高田城を攻撃。
翌日に城はアッサリ落ちて、西千葉胤繁は密かに脱出した。


でもって少弐も肥前に入ったが、4年前に筑後へと追い出されてた九州探題職・渋川尹繁も肥前に復活してたらしい。
同年閏11月3日、渋川尹繁が三根郡光浄寺に禁制を授ける「by佐賀市史」

ここまでを三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・家兼パパンが隠居した。
・少弐が大内に敗れて(また)肥前に入った。
・地味な九州探題職・渋川尹繁(バックは大内)が、筑後から肥前へ復活(=^・ω・^=)v ブイ


あぁ、また肥前で揉めるのね~~~(T^T)
と思ったら、火種は筑後で発火したのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

真田丸_籠城36日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



快晴が続いているので雨漏りは止まってます(;´・ω・)
が、ギックリ腰は相変わらずで腰痛が続いてます(トホホ)
ぼちぼち行きましょう^^

今日、7時前かな~真田丸の予告?をやってたんです。見た?( ̄ko ̄)
一瞬、パラリンピックかカープの優勝で放送時間が変わったのかと焦った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

稲姫が幸パパを門前払いにする有名な逸話は、真田丸開始から楽しみにしてました。
稲姫の隣に おこうさんがいたのが受けた^^
逸話では続きがあって、城には入れないけど後で寺でコッソリ対面して幸パパに孫(稲姫の子)を会わせたとあります。

幸パパと三成のやりとりが古文書分類で言われる「切紙」になってて、時代考証の細かさに感心~
三成が報奨として挙げた川中島は森忠政の領地です。
勝手に人の領地を左右してるわけではなく、川中島の森忠政は徳川方なのね^^/

甲斐・信濃二か国の恩賞OKの返事に幸パパの喜び具合。
関ケ原が一日でケリがつくとは誰も思ってなかったんだろうなぁ。

信繁と三十郎のシーンにはウルウルしました。
いつか真田が一つになる日・・・その日が来ない事を知ってるだけに悲しい(´;ω;`)ウッ

徳川秀忠が上田合戦が初陣というのは通説になってますが、正確に言うと北条攻めに秀忠は「同行」してました。
だから戦場が丸っきり初めてという訳じゃないです。
でも勝ち戦で見分を広めさせるための北条攻めと、実際の戦闘を経験する上田合戦では天と地ほどに違う。

秀忠が「ここは怒って良いのか」とか、本多佐渡に一々確認してるのが可愛い(*´m`)プププ

もっと色々書きたいけど、腰がイテテ・・・il||li _| ̄|○ il||l
上田の真田は勝ったのに、関ケ原本戦の石田が負けた
ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!なのです。
来週も楽しみ真田○ (・∀・)

台風の置き土産?ただいま室内カオス中~~

アパートの部屋が
雨漏りしてるのよー


いま天気予報に被りつき(´;ω;`)ウッ
お天気アナ【北海道も断続的に激しい雨が・・・】(´;ω;`)ウッ

ギックリ腰は順調に回復中ですが腰バンドが離せない(;´・ω・)

雨漏りは三カ所、滲んでシミになってるのが二カ所。⇒いま雨漏り6カ所に増えた。
レンジフードから雨が降ってる・・・シトシトシトシト・・・・
ベッドが二カ所、濡れたよーーーーーーーーーーーーーーー(_´Д`)アイーン

壁際だからバケツじゃアカン。
てことで鍋やヤカンで対応してる・・・・トスッ・テチッ・ポチッてな音が後ろから・・・・
振り返って確認するのが怖い(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

元々他の部屋で雨漏れして、急きょ屋上の防水工事をする事が決定してたの。
でも工事が始まる前に台風やら大雨やらで、ついにシオの部屋にまで波及した雨漏り。

・・・・・・・・・・・・・こんなときに何ですが、こういうパターンのドリフのコントがあったような・・・
オチは忘れた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

やっと夏バテから復活したとこだったのに~~~~~・゜・(PД`q。)・゜・フニァ~
早く晴れて防水工事が再開しますように~(-人-)☆彡オネガイ

そんなこんなで現在室内がカオスでして、記事再開が遅れます(´;ω;`)ウッ
何だかバタバタしててすいませんが宜しくお願いしますm(__)m

真田丸_籠城35日目【犬伏】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



今日はガッツリ泣きました(T^T)

きりさんと春さんで薫ママを取り合ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

予想が外れた。
きりさんはガラシャの死の巻き添えでなく、自分から様子を見に行きました○まる
さすがきりさん、斜め上を行く女(`・ω・´)キリッ

大谷が書く手紙を代筆することになった三成。
大谷の言葉が早すぎて、ついて行くのに必死な代筆専門外?の三成。

伏見攻めでハッスルの男闘呼組・宇喜多。熱血ぶりがピッタリ(*´pq`)
小早川にいる板部岡江雪斎(既に漢字を度忘れして検索した)が徳川のスパイだったとは。
この先の流れは大体わかるが、板部が小早川工作するとなると黒田家の活躍は全スルーになりそうだなぁ(;´・ω・)

スパイと言うか忍びといえば佐助。
登場すると「○○まで何日かかる?」って聞かれているような~~~(*´p`)

しかし真田親子の前をわざわざ横切る必要あるのか。
呼ばれてから御前に出るのが佐助なりの礼なのかなぁヽ(。_゜)ノ

土壇場でクジ・・・またかと思ったら「そういうの、やめましょ」ってニーちゃんがカッコ良かった。
真田のために徳川と豊臣に分かれる発案がニーちゃん・・・って言うのが史実かどうかは知らない~~
いい場面で素直に泣けたから、細かい史実はどーでも宜しい( ゚Д゚)y─┛~~

ところで投げたのが下駄かどうかは、よく見えなかったっす(笑
(この場合は「投げた」の表現であってるよねby道産子)

排水・・・背水の陣の話も良かった (人´∀`).☆.。.:*・

第二次上田合戦が近づいてます ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク 
来週も楽しみ真田○ (・∀・)
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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