25・剛忠(龍造寺家兼)【中編・田手畷の戦い】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^


すぐに田手畷に入りたいのは山々なんですが、大内義隆の少弐退治の許可が足利将軍家からすぐ降りなくって、1年待たされちゃった(´・д・`)

でもって大内が待ちの一年だった享禄2(1529)年2月15日、竜造寺隆信が誕生する(=^・ω・^=)v ブイ
「佐賀市史」
そして享禄元年に父・資元から太宰少弐を譲られたはずの少弐冬尚が、なぜか龍造寺隆信と同い年生まれ(爆
ウィキペディアの間違い・・・というより、冬尚の年齢には異説がありハッキリしてないんです。
滅びる寸前なんで記録が適当に・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

あと地味に直茂の兄・鍋島信房も生まれてます^^/
大友宗麟は龍造寺隆信より一つ年下、享禄3(1530)年生まれ。

そんな享禄3(1530年)の春に、やっと「少弐退治OK」が幕府から大内義隆の元へ届く。
4月下旬、さっそく大内義隆は筑前守護代・杉興連(スギオキカズ)に命じ、東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入る。

少弐サイドだった筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて大内に降伏した。
筑紫尚門は、馬場頼周ダークサイドに謀殺された筑紫満門の子(弟?)です。

横岳資貞は少弐一門で、西千葉家当主・胤勝は彼の実子です。
二人は親子で大内サイドにつきました。
ほら、西千葉の胤勝さんは、馬場頼周が裏切者o( ̄Д ̄θ★ケリッ!って追い出しちゃったから。
当時の噂の真偽は別にして、馬場が追い出したもんだから結果的に西千葉は大内サイドに走ったんです。

で、その大内に走った西千葉の胤勝から龍造寺胤久(村中宗家当主)が領地安堵を受けているんです。
享禄3(1530)年7月15日、龍造寺胤久、千葉胤勝より与賀庄千町六郷を安堵
「龍造寺家文書106」
大内勢が東肥前に討ち入った後だから、村中宗家は間接的に大内配下になったのではないでしょうか。
龍造寺家兼が少弐に裏切りを疑われたのは、村中宗家の複雑な動きが誤解を招いたのかもしれません。

東肥前の者たちが大内サイドに走ったのを知った少弐資元。
彼は「ならば討ち出て戦うべき」と軍兵を集め、
龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。

馳せ参じた龍造寺家兼の手勢の中に鍋島勢がいたのだが、それは・またの話 by^-^sio


ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・4月下旬、大内勢が討ち入ると東肥前の諸将が大内に寝返る
・7月15日、大内に寝返った西千葉から村中宗家が領地安堵を受ける
・少弐資元も大内に対抗すべく軍勢を集め、龍造寺家兼も動員された
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25・剛忠(龍造寺家兼)【前編・田手畷の戦い】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^


鍋島さまが颯爽登場する「田手畷の戦い」の発端は、例によって少弐のリベンジだった。

この戦いは鍋島さまの、いわば社交界?デヴューみたいなもので、龍造寺はもちろん石井家(直茂正室の実家)とも繋がる重要な分岐点。
そのせいか、そもそもの発端である少弐のことは、忘れられがち^^;
骨子が端折られるているか、書いてあっても少弐の事は読む人の脳内に残ってない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
てことで、シオがまた~り語りたいと思います(*´pq`)クスッ

少弐資元は永正14(1517)年に太宰少弐に任官したものの、大内のために本貫地である大宰府に戻ることは叶わず、藤津の山中に蟄居していた。
資元に従うのは宗一族庶流、氏茂のみ。

大永8(1528)年夏になると少弐は室町幕府管領・細川高国を頼み、嫡男の松法師丸を元服させ興信(のちの冬尚)と名乗らせた。
更に「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れると、馬場と江上を息子の後見とした。

「北肥戦誌192頁」

屋形号は国主に許される尊称で、自称することは出来ず幕府の承認がいる。
大内の手前、決まった国の守護職には出来ないが、それに準ずるということなのだろう。

閏9月9日には、松法師丸は横岳資誠に三根郡代職を安堵してます。
「横岳家文書9」(但し元服した名乗りではなく、松法師丸の名で出してます。理由は不明)

以前に書いたように昔の季節感は実際の季節感とはズレてます。(中国のを参考にしたから)
で、この年に細川高国は失脚し近江に亡命しちゃうので(北肥戦誌では夏とあるけど)少弐の(-人-)☆彡オネガイはギリギリセーフな時期・・・年頭~春にかけての事になる。

息子の後事を馬場らに託した少弐資元は、上松浦へ兵を進めた。
獅子・日割の両城他、松浦党を従えると、本貫地である大宰府を取り戻すべく、西筑前へと出陣。

事態を知った大内義興 Σ(´Д`;) 、直ちに少弐退治を将軍・足利義晴に願い出るが、此度は許可が下りなかった。
(歴代鎮西要略によると6月のことらしい)
中央政界が混乱してたのもあると思うが、将軍・義晴が大内義興に良い印象が無かったのかもしれない。

足利義晴(12代目)は、大内義興が上洛した時に奉じた足利義尹を将軍に復職(10代目)させるために、
o( ̄Д ̄θ★ケリッ!っと追い出された足利義澄(11代目)の子だったからです。
だから大内義興の(-人-)☆彡オネガイに、すぐOKしないで意地悪したかも^^b
(大内の力は大きいので本気で敵対する気は無いと思う)
ちなみに足利義晴は、剣豪将軍・義輝と最期の将軍・義昭のパパンです^-^

同年の8月28日に大永から享禄へ改元
同年12月20日、大内義興が54歳で卒去
22歳の大内義隆が家督を継ぎ、7か国(周防・長門・石見・豊前・筑後・備後・安芸)守護となる(=^・ω・^=)v ブイ

後年の姿からは想像出来ないほど英気溌剌だった、若き大内義隆。
彼は当主になると早速に「少弐退治」を将軍に願い出て、許可を頻りに催促する。
1年間・催促し続け、ついに享禄3(1530)年春に将軍家から許可キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

鍋島勢・赤熊武者デヴューの「田手畷の戦い」が始まろうとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
・少弐資元が嫡男・松法師丸を元服させると、「太宰少弐」として「屋形」号を与え勢福寺城へ入れる
・12月20日、大内義興が54歳で卒去
・大内義隆に少弐退治の許可が下りる

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真田丸_籠城42日目

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



そういえば実際の籠城日数は何日になるんだろう←ノリだけで全く調べようとしない管理人

気になってた長宗我部さん出てきました^^
でも何だか温和そう~寺子屋の先生が長すぎたのか^^

ちょっと気になるのは粗暴な後藤又兵衛。
部屋割に文句言うようなセコキャラ設定に(;´・ω・)
尤も毛利勝永が一万石で大名なら、後藤は黒田で3万石級だったのよね。
待遇が難しいのは確か。
身分って理不尽なものですな( ゚Д゚)y─┛~~

織田有楽斎に大野主馬、新キャラも続々登場。
大河後半は名前と役を覚えるのに忙しい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

佐助はワザと手紙を遅くニーちゃんに渡したのかな。
九度山脱出前に知ってたら絶対邪魔しただろうから。
作兵衛と信之のシーン良かったな~川* ̄д ̄*川ポッ 

てか、病の手の痺れを「見逃してくれたんだ!」っとポジティブに解釈する作兵衛に受けた(*´m`)
やっぱ籠城するには、あぁいうポジティブキングが向いてるのよね。

松姉が相変わらずで安心した。
後ろで大きな声・・・参考にしよう__φ(.. ) メモメモ

信吉と信政は弟の方が体格良いのね。
この弟の役が元々は例の人が・・・・ゲフゴホ

だんだん江戸の秀忠のキャラがハッキリしてきた。
大坂の陣では急ぎ過ぎて失敗(後続がついてこれなかった)したネタはやるのかなぁ(・∀・)
家康の老け具合が大袈裟な気がするんだが(-ω-;)ウーン

来週は戦闘があるのかな~変に急がないで戦闘シーンは堪能したい。
次回は遂に真田丸完成か?
来週も楽しみ真田○ (・∀・)

真田丸_籠城41日目【入場・・・じゃない入城】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

尚、管理人本人の「大坂の陣」に関する知識は、司馬遼太郎作「城塞」だけです(爆



いよいよ幸村伝説が始まったゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
もう史実なんぞ、どうでも宜しい。(←おぃ)
徹底的に主役マンセーしちゃって下さい~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

華麗に清正を始末した服部半蔵(二代目)の秘策が
「全力で突っ切る」なのが笑った,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
つまるところ幸村暗殺に失敗したんですな( ゚Д゚)y─┛~~

宴を開いて見張りの浅野家臣を油断させて九度村脱出~
踊りながら一人ずつ消えてるのに、さも演出っぽくしてるのがグッジョブ(=^・ω・^=)v ブイ

春さんが「わたしも戦います」と言った時に幸村が激しく反対したのは、戦で死んだ梅さんのことがあるからじゃないかな~
(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

入城したときには老人に変装して堂々と(・∀・)イイ!

ところで後藤又兵衛と毛利勝永がいたけど長宗我部盛親がいなかったなぁ。
元大名だから優遇されてたはずだけど・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
毛利勝永は活躍してたのに幸村伝説の陰で地味だったから、戦国ファンはクローズアップに喜んでるかも。

秀頼との対面シーンで幸村に軍勢の指揮権を与えるような発言してたけど、後で絶対揉めそうな気がする(;´・ω・)
茶々との再会 川* ̄д ̄*川ポッ 
「また会いましたね」と言った茶々に女帝の貫禄を感じた '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`
今までの淀殿によくある綺麗なだけじゃない不思議な魅力を感じさせる淀殿像だと思う。

信之ニーちゃんの病気(痺れ?)も心配だが、史実で長命することは確定してるんで、ここは安心できる。
二人の息子の嫡男決定シーンと初陣決定に真田家も盛り上がっております~
次回も楽しみ真田○ (・∀・)

24・剛忠(龍造寺家兼)【筑後、星野氏分裂】

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基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^

大永5(1525)年、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。
筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。

この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。
大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。
激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。

大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。
1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。

特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。
九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。
とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。

ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ

さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。
位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。
こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。

豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。
だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
それとも隆景亡きあとで毛利家臣になったものか、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l

不安定な筑後の中で大友に積極的に近づいたのが田尻氏だった。
大友から偏諱を受け、領地の安堵を受け、家督相続では大友の許可をもらう。
それは同時に大友の筑後における支配体制が固まる時期と並行する。

享禄元年(1528)15代目当主・竜造寺家和が死亡。
少弐氏がリベンジのために再び動き出そうとする中で死んだ家和は さぞ心残りだっただろう。
大内家も義興が死に義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
筑後星野氏が分裂し、負けた方の星野氏は大内を頼った。
筑後田尻氏は積極的に大友配下としての地盤を固める。
龍造寺家和が死亡、大内も代替わりする。

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真田丸_籠城40日目【幸村】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
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今日は信繁説得の回~(*´○`)o¶~~♪

すぐ承知するかと思ったら、意外とグズグズ迷ってたわネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

片桐さん、やっぱり可哀想なことになってた。

方広寺のアレはアレよ~~。
でもアレなら「家康」の諱の方だけを使ってるからなぁ。

つまり呪詛説だと弱いのは本当に呪詛する場合は形代を使うし、呪詛する相手の正式名(本姓と武官名と諱)じゃなきゃならないんだよなぁ(-ω-;)ウーン
もしくは髪の毛や爪とか相手の体の一部を使って・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
どっちかっていうと勝手な諱使用は「無礼・非礼」になるかな^^/

それはさておき、大蔵卿局が怖いな~~乳母の権威の貫禄。

こっそり会いに来たのが片桐さんとは意外だけど、説明キャラにはピッタリかも。

あえてキツイ言い方をするきりさん。
きりさんに感謝する信繁。
この流れだと、やっぱりきりさんの片思いのままなのかな。

ついに信繁が幸村を名乗った。
確か生前に名乗ったことはないはずなんだけど、まぁ固いことは言いっこなしで♪
いよいよ最終章・大坂の陣。
新しいキャラの登場が楽しみ~真田○ (・∀・)

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23・剛忠(龍造寺家兼)【裏切り?】

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大本は北肥戦誌が基本ベースです^-^

馬場が少弐を見限った筑紫満門を謀殺してスッキリした大永4(1524)
馬場から見て裏切りしてるのが未だいた。

同年3月28日、龍造寺胤久(17代目)が千葉興常より佐賀郡と小城郡の領地安堵を受ける「龍造寺文書105」
千葉興常は少弐のライバル・大内のバックアップを受けている東の千葉氏。
ちなみに嫡流は東。
少弐の一門・横岳から胤勝が養子に入っているのが西の千葉氏。

龍造寺は四年前までは西千葉と繋がりを濃くしていたのだが、この頃から東千葉との関係を強化しはじめたらしい。
四年間の間に何があったのかは記録がないので不明。

馬場から見れば、龍造寺が西千葉から離れて東千葉寄りになるのは十分裏切り圏内だと思うのだが、
馬場はそれどころでなくなった。

同年夏ごろ、西の千葉胤勝が大内へ寝返ったと噂が出たのだ。( ゚д゚)ンマッ!!
え~と、ここで季節の話になるんだが、
昔の北海道を含まない日本の旧暦季節感では4月くらいが既に初夏なんです。
これは中国の暦を日本にそのままあてはめた為に実際の季節感とはズレが生じてます。
そのために江戸期に渋川春海により暦は作り直されています。

噂を聞いた馬場頼周は、これを諌めようと胤勝の老臣3人へ送り状を出した。
だが、大永4年(1524)の夏に「胤勝は頼周の諌めを聞かず大内に通じた」と聞こえた。

諌めたのが逆効果だったんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

馬場頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し晴気城を攻撃。
5月12日に城は落城、千葉胤勝は密かに落ち延び筑前で浪人したそうな( ̄ω ̄A;アセアセ

ここで龍造寺はシッカリ少弐のために動いてる。
うまくやってるな~

大永5(1525)年、千葉興常は光勝寺に小城郡内の土地を寄進「佐賀市史」

寺社への寄進・安堵は安定した実力の証。
龍造寺が東千葉寄りになるのも納得というもの。

同年、千葉喜胤(興常の嫡男)横辺田で有馬に敗れ、大内の助けで小城に帰る「千葉氏略系図」
東へと勢力を伸ばそうとする有馬の動きは断続的にありました。
領地を守るためにも東千葉には大内の力が必要だったんです。

歴代鎮西志によると、この横辺田の戦いで須古の平井氏が有馬へと属します。
須古・平井氏。
もともとは千葉家臣だったのが有馬に属したことで、後に龍造寺を悩ませるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
龍造寺は東千葉とも少弐とも、いい感じの距離感で上手くやってた。
西千葉が寝返ったと噂が出て、馬場が西千葉を追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
須古の平井が千葉から有馬に寝返る

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22・剛忠(龍造寺家兼)【後編・謀殺、筑紫満門】

本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^

一門でありながら少弐から大内に寝返った筑紫満門。
同じく少弐一門で、筑紫の娘婿である馬場頼周は筑紫満門を謀殺してします。

それは我が子の病気を理由に妻(=筑紫の娘)に文を書かせ、誘き出して多勢で殺すという酷い方法だった。
人物・馬場頼周(黒い馬場頼周:監修様作画)

夫に父と兄弟を目の前で殺された馬場の妻の嘆きは計り知れず、後に夫へ暇を乞い髪を剃って仏門に入ってしまいました。ショボーン..._φ(・ω・` )

同行してた筑紫家臣の生き残りは、大急ぎで勝尾城へご注進~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
筑紫家臣らはリベンジのために綾部城へと向かったが、もとより準備万端の馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!一蹴されてしまう。

馬場が喜びすぎたせいだろうか・・・筑紫満門は死して怨霊となってしまったそうです( ̄ko ̄)
*******************************************************
現代(北肥戦誌が書かれた江戸時代)でも、月が曇り雨暗き夜は綾部城の旧跡に叫喚の声が聞こえ、人心を悩ませている。
或る時、ここの領民が草を刈りそれを馬に積んで乗馬していた際、満門の墓の辺りを通ると、忽ち逆さに落ちて悶絶した。
近くの者は驚き、山伏を呼んで祈祷させると、「我は筑満門という者なり」 と口走り始めた。
更に「昔ここで命を失い、多くの年月が過ぎたと雖も魂は尚も留まりて、折しも今朝卯の刻より猿楽を興行し自らも舞い遊んでいたところ、下々ながら馬に乗り、舞台の前を通るなど奇怪の至りである。だがこれを許し命は助けよう」 と発した。
領民は汗水流して寝入るかと見えていたが、また息をしだした。

200余年の星霜は送ると雖も、その魂は尚も青苔に残る事、不思議な次第である・・・と北肥戦誌は結んでいる。
*******************************************************

馬場の忠義には私心はないであろう。
だが、裏切り者を決して許さず、相手を滅ぼすために謀を巡らすのが、果たして少弐のためになったのだろうか?
相手にも言い分がある以上、馬場の行動は恨みしか残さない。
相手が返す復讐の刃は、馬場の何より大切な少弐に降りかかるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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22・剛忠(龍造寺家兼)【前編・謀殺、筑紫満門】

本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^

少弐氏を支えた忠臣の二大柱が、馬場氏と横岳氏だろう(どっちも一門)。
そして少弐氏再興に最も情熱を注いだのが馬場頼周(ばば よりちか)です。

少弐のためなら手段を問わない。
少弐を裏切る者は許さない。
たとえ、それが縁戚であっても・・・です。
この一途さは、肥後阿蘇氏の忠臣・甲斐宗運を彷彿とさせる(宗運の方が苛烈だけど^^;)

ただ少弐氏が、滅亡寸前(当主と嫡男が自害)になった時に、一門でありながら少弐氏を裏切った者がいる。
それが東尚盛と筑紫満門。
そのうち、筑紫満門が馬場頼周の岳父(妻の父=舅)だった。



馬場は舅の裏切りにブチ切れそうなのを堪え、
時折「以前みたいに少弐サイドに戻って(-人-)☆彡オネガイ」と説得の使者を出していた。

歴代鎮西志によると少弐と筑紫は和睦したとあるのだが、馬場の行動を見るに筑紫を信用していなかったのだろう。
馬場は、筑紫を誅殺すべく呼び出そうするが、婿の気性を知ってる満門は馬場の呼びかけに応じない。

そんなこんなが続いて1524年(大永4)1月中旬。
馬場の子(=筑紫の孫)が疱瘡を患った。

馬場は妻女(=筑紫の娘)に向って云う
「おことが父である満門は、我らに異心あるものと疑い、ずっと訪ねてこない。
我らには些かも別心などない。
いま子供が疱瘡で痛がっているのを、おことより知らせて父を招き、孫らを見舞う様に誘ってくれぬか」


馬場の妻は、夫が血を分けた我が子の病を謀略の種に利用しようとしているなど夢にも思わない。
急ぎ文を認めると父へと送った。
筑紫は1月18日に、息子二人と家臣らを召して馬場の綾部城へ赴いた。

人物・馬場頼周
(黒い馬場頼周:監修様作画)

孫の寝所を筑紫が見舞うと、後ろめたい気持ちがあったのか馬場が挙動不審,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
その様子を見て夫の謀略に気付いた馬場の妻だが、この期に至ってはどうにもならず、ハラハラと涙を零した。
筑紫は孫の容体に気を取られ、色々不自然な娘夫婦の様子に気づかなかった。

実は筑紫満門は陰形の術「木の葉隠れの妙法」を会得してたそうな。
(マジかよ・・・でも北肥戦誌に書いてるんだもん(´・д・`))

そのため馬場は筑紫を討ち漏らす事がないようにキッチリ合図を決めてた。
そして広間に座ってた筑紫と息子たちに襲い掛かり討ち取ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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真田丸_籠城39日目【歳月】

はじめに、この記事は歴史的な検証など堅苦しいことはしません。
ただひたすら「萌えっぷり」を実況する真田○ワールドです。
史実検証に拘る方はスルーしてください^^/

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今回は真田紐誕生秘話でした~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
秀次の娘が出てくるとはビックリ( ゚д゚)
そういえば側室(名目)にしてたっけ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

たかさんが信繁に抱き着いた時に、春さんが咄嗟に武器?を掴んだのが怖かった(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
障子の穴も増えてるし・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
でも春さんときりさんは和解?したみたいで良かった。

薫ママも今日で見納めかぁ
松姉の出番が減っちゃうのかな~寂しい

あ、全然関係ないけど薫ママのセリフで気づいた。
「抗う」って、「あらがう」なのね~~~~~~~
今まで「あがらう」だと思ってた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ひょっとしたら既に間違って過去記事に書き込んでるかもしれん(-ω-;)ウーン
見つけたらコソーリ治そう(*´m`)

信繁、そばがきに文句言ったらダメです(`・ω・´)キリッ
兄・信之もやりくりが大変だったのですよ(`・ω・´)キリッ

真田紐は現在まで保存会で継承されてるんですね。(・∀・)ヨカッタ

うーん、今回はパッと感想が出てこないな~平和すぎて・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
使者が明石さんだとは思わなかった。
次回から最終章、いよいよ大坂の陣ですよおおおおおおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーーーー!

来週も楽しみ真田○ (・∀・)

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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