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【相良義陽72_木崎原の戦い2_愛しのハニー】

さて、元亀1(1570)年前後から相良関係に関する資料が、ガタ減りします。
従って木崎原の戦いに関する記述も薄い。
もしかして島津に遠慮して、書いていたものを後年に処分したかも・・・というのは穿ちすぎだろうか。

何せ「木崎原の戦い」は「島津マンセー・義弘age」が凄い。
だいたい「九州の桶狭間」って比喩が褒めすぎ^^;

島津軍が兵300で、兵3000の伊東軍を破るのは立派なのだが、
双方の損耗率は伊東軍は810人で27%、島津軍は257人で約86%にも及び、
鮮やかな奇襲作戦成功を収めた「桶狭間」というよりは「窮鼠猫を噛んで~」的なノリ。

まぁ伊東軍の総大将を討ち取ってるし、
伊東家の直接の没落の要因(各家の当主or後継者=部隊指揮官を失った)だから、
大きく間違ってはないけど・・・・・・ねぇ(*´艸`)プププ

それと伊東軍が3000というのも、あくまで有力説で確定的ではない。
そんな感じで素人が史実検証っていうのは難しいので、いつもの如く逸話ベースで行きます^^

[女間者(スパイ)の暗躍]~って書いてて恥ずかしい イヤン(/▽*\)
とにかく飯野の島津義弘は、少数で伊東軍の侵攻を迎え撃たねばならないため、
伊東軍の力を分散させるべく様々な謀を巡らしたと言われ、間者(スパイ)も多用したらしい。

以下はネット最大の逸話ブログ「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」からの引用で、解りづらいとこは管理人補正してます。


「木崎原の戦い」が起こる前、伊東家は島津義弘の飯野城を落とすべく、度々真幸院(飯野地区は真幸院の一部)へ進出していた。
「木崎原の戦い」の五ヶ月前も伊東軍は真幸院へと進出し民家を焼くなど挑発行為をしていたのであるが その日の晩、一人の女が迷い込んできた。

伊東軍が女を連れてきて話を聞くと、女は飯野城の西、義弘の妻子が住まう加久藤(かくとう)城の女中であるという。
女中はとある武士と不義密通を重ねていたのであるが遂に事が露呈してしまい、いよいよ明日罰せられることになっていた。
しかし、義弘の妻である実窓院がこれを哀れに思い、自身の住まう部屋に通じる「鑰掛口」よりそっと逃がしてくれたという。

女中は相良領へと逃げようと思ったが加久藤の峠は山深い上に険しく、心細くなってこの伊東軍の陣にやってきたという。
伊東軍はこの女中を不憫に思い、VS島津用の防衛拠点である三ツ山城へと連れて行って、そこの女中として雇った。
そして女中から島津家の内情を問いただしたのである。

女中曰く「加久藤城には義弘の妻子ら50名ほどの兵しかおらず、また自身が逃げてきた鑰掛口は攻められると脆い」と教えた。
伊東軍はこれを信じ元亀3年5月4日の未明、飯野城の先にある加久藤城の鑰掛口を攻めるべく進軍した。
しかしそこは狭い隘路で、また鑰掛口は絶壁でいくら攻撃してもビクともしなかった。

実は鑰掛口とは、その名の通り鉤を掛けて登らなくては通れないというほどの入口だったのである。
そしてこの女中、実は義弘が遣わした間者(スパイ)だった。
まんまと騙された伊東軍は疲労困憊、已む無く兵を引いた先で暑さから水浴びをして沢山の将兵が討たれたのは史実の通り。


「木崎原の戦い」は伊東側の記録だと「覚頭(加久藤)合戦」とあり、伊東軍の目的は島津義弘の妻子がいる加久藤城だった。

島津義弘は、加久藤城に伊東軍が攻撃してくるように、上記の女スパイを使ったり(マジ?)
加久藤城へ、愛しのハニー実窓夫人と大事な嫡男・鶴寿丸(後に早逝)クンを囮として入れ、城の警備も手薄にしていたそうだ。

ほんとに兵力不足だったかもだけど^^;

いかに義弘が熱愛してるとはいえ、妻だけでは囮としては弱い、大切な跡取り込みだったので伊東軍は誘い出された。

ちなみに鶴寿丸は実窓夫人の子供ではなく、生母は義弘の最初の妻・北郷(ほんごう、島津分家)夫人説と、
2度目の妻・亀徳姫様(相良義陽の異母妹)の二説あって判然としない。

2度目の亀徳姫様が相良と島津の和睦破綻で離縁され、実家である相良家に戻り(異説が加治木に残る)
後年、不遇(餓死した)に死んだのを義弘は知っていたのかどうか・・・( ̄  ̄)トオイメ。。


さて、3度目の妻・実窓夫人は島津家臣・園田氏の娘なのだが、あんまり家格が良くなかったらしい。
義弘に嫁ぐ前に広瀬氏の養女になっている。

兄で当主の義久が生来病弱な上に子供も娘だけで、その娘は分家との絆を深めるために使用済マーク。
そのため島津家御曹司たちの中で「政略結婚部門担当」が、次男の義弘だった(3男・4男(庶子)では他家の姫君と釣り合わない) 

だが義弘は二度の政略結婚破綻で精神的にブチ切れた(らしい)
当然3度目も、どこぞの姫と政略結婚~と言う家中の空気に逆らい、一目ぼれした実窓夫人と恋愛結婚^^

「朝鮮の役」で義弘(60代)は
「昨夜は君の夢を見たよ。いま初めて会ったようだ(それくらい夢の中でトキメキドキュン)」
とラテン男のような熱烈ラブレターを送っている。

上記の逸話ブログによると、義弘が実窓夫人にかけた最初の言葉は「その大根を所望したい」だったらしい。
(夫人は家の前で大根を洗ってた⇒女中を使ってないので、家格は自ずと・・・)

身なりを見て「どこぞの貴公子」と思った実窓夫人は菅笠を取り、
被る方ではなく上の部分を凹ませ、そこに大根を乗せ義弘に差し出した。

「被る方にしなかったのは失礼だと思ったのよ」by実窓夫人。

その機転と優しさと身のこなしの挙措動作に、猛将・島津義弘は一目惚れしたそうなのだ。
島津義弘には1番目妻~2番目妻の間くらいに「あかし(明石?)という側室がいた」という話がある。
でもって「あかし=実窓夫人」説があり、もしかしたら彼女は側室から正室に格上げになったかもなんです。

鎌倉以来の名門・守護職の家柄では(身分的に)アリエナイな嫁で、当初の風当たりの強さは現代人の我々に想像も出来ない辛さだろう。
だが実窓夫人は「木崎原の戦い」で危険な囮役を引き受けたことで、「賢婦人」として家中の信望をゲッツ。
16代当主である義久の厚い信頼をも勝ち取り、島津義弘の正室としての地位を揺るぎ無いものにする。
(大河・島津だったら前半の盛り上がりに入れたいとこですな ( ゚Д゚)y─┛~~

それは・またの話 by^-^sio
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【相良義陽72_木崎原の戦い1】

さて、焦らすわけでは無いが、相良義陽が主役なんで飛ばせません~~

元亀3(1572)年3月8日~待望の嫡男・相良忠房が生まれる。

正室・千代菊との間の子供は3人いるのだが、(武家的には)残念なことに全て女子だった。
義陽は止む無く側室を迎え、めでたく懐妊~~

ちなみに義陽の子供は全部で女子3人、男子3人なんだが、
どういうわけか正室が娘ばっかりで、側室が男子ばっかりと偏ってる^^;

ところで忠房クンは産まれる時に、大層な南山・・・難産だったそうな。

その話を聞きつけた相良家重臣・深水長智が「露落ちて その葉はかろき 小松原」と発句すると、
たちまち安産になり嫡男が目出度く誕生した。

ちなみに忠房クンは美少年~~( ̄ko ̄)チイサナコエデ
忠房クンの同い年さんたちは、宇喜多秀家、秋月竜子、立花直次とか(管理人ブログの登場人物限定)です^^

同年の5月4日が九州の桶狭間と呼ばれる「木崎原の戦い」です。
義陽は、この「木崎原の戦い」で島津に対し3度目の裏切りをします。

元亀1(1570)年に島津と和睦しているにも関わらず、伊東の求めに応じて援軍を出しているからです。
相良家と島津家の外交関係を振り返ると、裏切るのは常に義陽の方です。

ですが義陽本人は薩摩に領土的野心があったように感じません。

むしろ天草地方(明との交易ルート維持のため)と豊福城奪還の方に熱心でして、
阿蘇氏の甲斐宗運と相互不可侵の盟約を交わしたのも、もともとは豊福城攻略の一環でした。
(豊福城が当時は名和氏のもので、その名和氏は阿蘇氏のバックアップ受けてたから、阿蘇氏の頭越しに名和氏と諍うのはヤバかった)

武士には武を磨き、功を立て、名を揚げるための「仮想敵」が必要です。
それは近代軍隊でも変わりません(予算確保~)

でもって相良の八代衆と球磨衆にはライバル意識があったみたいです。

地形的に間に迎烏帽子山(ノケエボシヤマ)という1302mの山とそれに連なる山々があり、
21世紀の今日でも高速道である九州自動車道の八代~人吉間には23ものトンネルが存在しています。

それだけアップダウンが激しく、渓谷の険しさを併せ持っており(地図に無くてスマヌ)、
相良当主も八代と球磨を行った来たりの分割統治。
ゆえに何時の間にやら、功を競うあうようになったのでしょう。
そしてハッスルする若者たちのとっての仮想敵が島津でした。

若年(12歳)で当主になり、未だ20代前半の義陽には、浮き足だつ家臣を抑えるのは容易なことでは無かったのでしょう。
若者たちが島津ハッスルなのには、相良の同盟相手であり国衆であった菱刈家が島津と交戦状態だったせいもあると思う。

島津が薩摩・大隅統一するためには、大隅の国衆である菱刈氏を屈服させる必要があったからです。
菱刈氏は島津に敗れ、当主(子供)を人質に差出し一部は相良家臣になりました。

大口城落城に相良の若者たちは「口惜しい」「おのれ島津め」と歯噛みし「いつか目に物を見せようぞ」と気炎を上げた。

家紋・相良
ロン様作成、相良家紋ロゴ

さて「木崎原 まだぁ~~~( ̄▽ ̄)ノ_彡☆チンチンチン」という声が聞こえてきそうなんで話を戻すとしよう。

そもそもの発端は・・・・飫肥城攻略からだと1400年代になるので(爆)
直接のキッカケは、前回さら~と流した島津家15代当主・島津貴久が58歳という壮齢で亡くなったことによる。
ジーちゃんは長生きだったからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

元亀2(1571)年6月23日のことだ。

貴久が島津14代勝久の養子となって家督を継いだのは13歳のことで、もちろん自分で統治できるはずもなく。
「島津中興の祖」と謳われる貴久の実父・島津日新斎(伊作島津当主)の後見あったればこそだ。

宗家当主としての貴久の人生は順風万般ではなく、数話分かけなきゃならないほど苦労しつつ成長し、
実父の日新斎と二人三脚でバラバラだった島津を一つにまとめあげ・・・・
るまでには至ってないが、とにかくその土台を築きあげた^^b

偉大な中興の祖・日新斎ジーちゃんも鬼籍に入り(永禄11=1568年)、今度は貴久が亡くなった。

貴久は既に嫡男・義久に家督を譲っていたのだが、貴久が島津家の大黒柱&精神的支柱であることに変わりはない。
後に「人格で統治した名君」と言われる4兄弟の長兄・義久の当主オーラに、家臣たちは未だ気づいてはおらず、
人々は「島津は昔のように再びバラバラ(分家がまとまらない)になるのではないか」と噂しあった。

打倒・島津が目標だった日向の伊東義祐も「さもありなん」と考えた。

永禄12(1569)年に期待の後継者・義益を病で失い、すっかり意気消沈していた義祐だったが、
亡き義益の忘れ形見が、日々成長する姿に気持ちプチ復活。

「ワシの目の黒いうちに可愛い嫡孫に家督を譲りたいぉ」(何となく元就ジーちゃんと被る)

ちなみに日向をほぼ手中にした伊東義祐だが、いわゆる「国持ち大名」ではない。
大義名分としても守護職(日向守護職は島津氏)ではないし、
物理的にも島津が日向・真幸院にある飯野城に踏みとどまっていたからです。

飯野城を守っているのが猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ


家紋・島津
ロン様作成、島津家紋ロゴ

でもって島津貴久の死をキッカケに大隅の国衆・肝属氏が島津領に侵攻を始めた。
(島津貴久の代で手中にしたのは西大隅までです)

伊東義祐「チャ~~~~~~~ンス」
さっそく相良義陽へ手紙_φ( ̄ー ̄ )メモメモ「島津を倒すから援軍ちょーだい」

義陽は伊東義祐の求めに応じた。

この3度に渡る裏切りを島津は忘れなかった。
後に水俣城落城の時に、島津家は相良家を信用せず、二度と翻意しないようにと多くの相良領地を割譲させ、
さらに島津の家老たちがこぞって起請文を書き、何と100通以上にも及んだそうだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽71_予兆・世代交代】

管理人が相良家文書に拘ってたのは実は真面目な理由がありまして・・・・
相良家の記録は元亀元(1570)年あたりから急に減るんです^^;

頼みの綱の八代日記は永禄9(1566)年までしかないし、他も記述が少ないので相良家文書に何かないかと頑張ったのですが、いかんせん思ったより意訳に時間がかかってしまい、いつまでも本編が再開できないというジレンマで自分が挫折。
開き直って相良家文書は保留!今のストックで進めたいと思います(=^・ω・^=)v ブイ
多分、相良家文書の読み下しを再開したら(マニア的に)壮大な後出しが出そうな予感はしてるんですが、その時に言い訳することにします,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

読んで下さる皆様が御記憶してるか不安なのだが、相良義陽には同年・同月・同日生まれの弟(庶子)がいる。
何やら往年の大映ドラマに出そうな設定だが史実,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

でもってダディ晴広の配慮で、後々の家督争いを避けるために庶弟は幼少時に出家した。
ところが庶弟は還俗し、頼貞と名乗って八代に入っていたんです。

記録が少ないのですが、推定で20歳ころに還俗してたらしく、義陽・頼貞ブラザーズが「はたちの頃」というと、
相良家が島津を裏切り伊東と組んだころで、日向・北原氏の今城が落城した前後。
そう・・・管理人は大河平隆次クンに夢中になりすぎて、主役の弟の人生の岐路をスーーーーッカリ忘れてたんです~~(/▽*\)イヤン
○日向・大河平氏

このあたりで伏線張らないと、後々アレなんでo( ̄ー ̄θ★足跡つけときます(爆
義陽の弟・頼貞が再び記録に出るのは、義陽の死後になる。

家紋・相良ロンさま作成 相良家紋ロゴ

元亀?永禄13?年?月?日~相良義陽に3女・千代菊が生まれる。
また女の子 il||li _| ̄|○ il||l

3女は生母で正室の千代菊と同じ名前が付けられました。
現代の戸籍では親と同姓同名って、出来るのかしら?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

まぁ昔は身分の高い人に対し、直に名前で呼ぶことって無いから同じでも不便はない~
後世の私達が資料見る時に困るけどね(トホホ)~諱ループはマジ涙目

とにかく、正室との間に3連続で姫様しか生まれなかったので、已む無く義陽は側室を迎えることになる。


マニアックなとこで島津家臣の頴娃久虎(えい ひさとら)が兄の死に伴い12歳で家督を継いだ。
久虎ニャンは猛将・島津義弘から「豊肥戦はすべて久虎によった」とまで言わしめた勇将に成長する。

元亀2(1571)年6月14日~毛利元就75歳没
同年6月23日~島津貴久58歳没
二人の大物の死は、そのぞれの家に大きな影と落とすことになる。

さてマニアック度だと久虎よりは知名度があるかな~って言うとこで。

同年?月?日~名和行直(宇土名和氏5代目)が死亡~
豊福城の帰属を巡って長年争っていた名和氏の当主だが、実は元々は豊福城主。

若年の当主が病死すると反対派の家老を押しのけ家督をゲット、豊福城から宇土城に入ったのだが、
自分が出た後の永禄8(1565)年に豊福城を相良家に奪われちゃった(あれ?豊福にいた方が良かったんじゃ・・・ゴニョゴニョ)
家督を継いだ息子・顕孝は、島津の侵攻や九州の役などの難しい舵取りを担うことになる。

同年6月12日~豊州島津家5代目・島津忠親が60歳で死亡
以前も紹介したが重複を恐れず言うと、島津忠親は元々は同じ島津分家である北郷家の当主でした。

伊東の魔の手?から飫肥城を守るために北郷当主の座を実息子の方に継がせて、自分は豊州家当主(=飫肥城主)となったんです。
でもって忠親の姪が、島津義弘の一番目の妻でして、島津義弘は短い間でしたが島津忠親の婿養子でした^^

いろいろ(三氏相互支援)あって養子縁組解消、飫肥城も伊東家に奪われた。
名実ともに隠居した忠親さんは故地である都城に戻り、そこで亡くなったんです。
胃に穴が開きそうな心労が多々あったことでしょう・・・お疲れ様でした・・・合掌( ̄人 ̄)☆彡~~

それにしても6月に死亡が偏ってるなぁ( ̄ー ̄A 汗フキフキ

?月?日~天草氏がキリシタンの洗礼を受けてます
2月?日~相良と全く関係ないが、年代の比較として伊達家の梵天丸ちゃんが疱瘡に罹ります
4月26日~島津亀寿(16代目義久の末娘で、18代目当主の正室)が生まれる
?月?日~相良家の縁戚になる高橋元種(秋月種実次男)が生まれる

世代交代、次世代の若者たちが或いは生まれ、或いは成長していく中で、
相良家でも遂に待望の嫡男が産まれるのだが それは またの話。

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【相良義陽70_大口こぼれ話】

話は戻って島津の新納忠元。

彼が市山城在番の時(永禄9年・1568年正月~3月)に、出しそびれた逸話があるんです(以下の通り)

人物・新納忠元
幸麿さま作成_新納忠元イメージ画像(晩年)

永禄11(1568)年細かい月日不明

新納忠元の陣中に何方とも知れず鎌が飛来した

忠元は是れを吉端とし、諏訪明神の加護であるとして尊崇、
大事に祭ったところ、大口城は落城、菱刈隆秋は降参した。

よって忠元はこの鎌を御神体として社殿を里諏訪神社の側に建立し、飛諏訪神社と称した。
毎年七月二十五日には、忠元の裔孫新納家により祭祀が行われていた。

その後、忠元の領地であった現在地の木之氏に遷座した。
豊宇氣姫尊を祭神とする保食神社を境内に合祀している。

(鹿児島県神社庁HPより「飛諏訪神社(通称:オ諏訪様(スワサマ)鎮座地:伊佐市)

鎌が飛んできたって、暗殺されそうになったんじゃ・・・・^^;
無傷だったから吉端・・ってことなのかな^^

これは「菱刈史」にも無かった神社建立の由来です。
話の流れで盛り込めず、ちょっと残念だったので記事にしました^-^

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【相良義陽69_大口落城】

大口落城に関しては戦況の詳細は残っていない。

「菱刈史」によると島津軍の攻撃は、永禄12(1569)年8月18日とある。
現代の論文や論考じゃないから、何を参照したか書いてないんだよ~il||li _| ̄|○ il||l

ん~~時代を感じさせる勇ましい熟語が連なってるが、要するに相良&菱刈は大口城で籠城戦になったようだ。
相良が大口に援軍を送らなかった理由は分からない。
とにかく援軍のないまま籠城すれば心も折れるし、矢玉も糧秣も尽きる。

9月20日(菱刈史では9月2日)相良&菱刈は島津に降伏開城する。
どっちが正解かは相良家文書にも残ってないので分からん(==;)
だからウィキペディアにも落城した年度しか記載がない(*´pq`)

9月18日、降伏した菱刈隆秋は甥で16代当主の鶴千代(重広)を島津へ人質として差出し,自身は相良家臣となった。
日付が前後してるから菱刈史の方が正解かな?
でも人質出すまで間が空きすぎてる気もするし~分からんわ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)

改めて、菱刈隆秋は菱刈15代当主の兄弟です。
家督を継いだ重広が幼少だったために、後見人として采配を振るってました。

「菱刈史」では大口城側からの人質として相良帯刀(誰?^^;)と深水太郎左衛尉(誰なの?^^;)を、
島津側の人質として鎌田刑部左衛門(政年の子)と本田新助(氏名以外不明)を出して大口城は島津に明け渡された。
この時点では16代・菱刈鶴千代(重広)の動向は分からないが、最終的には身柄は島津へ引き渡されている。

実は「菱刈史」では、菱刈隆秋と相良義陽が大口城から出た。
って書いてるけど相良義陽とあるのは激しく間違ってる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

秀吉の「九州の役」で新納忠元が降伏を拒み粘ることで知られる大口城ですが、新納が城主となるのは相良と菱刈が降伏した後から^^b
菱刈氏が降伏したので「島津の前⇒菱刈の城」とあるのが多いですが、大口城は相良領~*人 ̄▽)♪
ただ大口城の来歴は複雑でして、菱刈と相良の両属する側面もあったようだ。
とにかく、この降伏で相良家は大隅における所領を失った~><;アウチ☆

菱刈家は相良家臣系と島津家臣系に分裂するのだが「菱刈史」では(おそらく島津家臣であろう)菱刈太良が湯之尾田中に灌漑工事を施し新田開発に尽力したそうだ。

永禄13(1570)年1月5日、国衆の渋谷一族降伏。
ついに島津家が薩摩を統一する


日本の戦は将棋に似てる。
敵BOSSを倒した後に、生き残った家臣・兵卒は自分の駒として使うからです。

薩摩・大隅の国人領主を次々倒した島津宗家。
主を失った豪族たちは島津宗家に帰属し、結果として島津宗家の動員兵力がアップする。

敵の抵抗が激しいと逆に損耗するけど、国衆の場合は玉砕するまで戦うって稀でして、
たいていは適当なとこで妥協して降伏します^^b生き残り優先ネ

4月23日に元気・・・もとい元亀に改元。
同年6月?日~関ヶ原で名を残すイケメン・島津豊久が生まれる~ヾ( ̄・ ̄*)))チュ♪

同じく6月24日、相良家と島津家が、加久藤と大畑の国境で和睦の起請文を交わす。
これは義陽⇒島津への起請文だったらしい。
相良家文書によると義陽の起請文に対し、島津は7月6日に起請文を出している。
ちなみに島津義久の起請文は永禄13年になっており、まだ島津には改元の話が伝わってないのが興味深い(・∀・)ニヤニヤ

元亀元年(1570)年7月~8月にかけて、島津~相良間の往来があったらしく複数の書状が相良家文書に残っている。
3度目の正直の和睦なだけに、両家は未だ緊張状態にあったのだろう。
まだ読み下してない(´;ω;`)ウッ

とにかく伊東義祐が凹んで浮上してこないんで、相良としてもどうしようもない^^;;
戦国は元亀・天正年間が大きな分岐点となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽68_伊東家の落陽】

永禄年間(1560年代)後半・・・日向の伊東家は全盛期だった・・・( ̄  ̄)トオイメ。。

永禄12(1569)年、日向・伊東義祐は、傀儡当主(義祐の娘婿)を擁立した北原家の本貫地・真幸院に対し、自らが領地宛行状の発給を始める。
この公儀権確立を持って、日向国の殆どは伊東義祐の手中になったと言える。 

相良+伊東VS未だ力が分散してる島津。

この状態のままであれば、島津は力尽きてしまうか、そこまで至らずとも、後年の飛躍は無かったかもしれない。
だが、運命の歯車は島津のために動き出した。

永禄12(1569)年7月11日、伊東義祐の嫡男・義益(よします)が病のため亡くなる。
伊東義祐の傲慢・奢侈な生活は家臣も眉を顰め、領内でも袖を引き合い笑っていたのだが、
にもかかわらず内部がまとまってたのは、死んだ義益の存在が大きかった。

穏やかで家中から慕われる期待の後継者・義益。
義祐と義益の親子二頭政治でとれていた家中のバランスが崩れ、それはそのまま伊東家繁栄の崩壊となる。

実は伊東義益は次男です。

長男は天文17(1548)年に僅か9歳で夭折してるんです。
義祐は哀しみのあまり出家し(在俗のまま法体姿になる)「三位入道」と名乗ってたの。
日向編でも相良編でも便宜上「義祐」で通してたんだけどね^^;

9歳の子供が死ぬのも辛い・・・だが立派に育った後継者を失うのも比較出来ないほど辛い・・・

伊東義祐の精神(こころ)は二度目の不幸に耐えられなかった・・・
もともと禅宗にハマってたのだが、息子の死で増々のめりこむようになり、
諫言する家臣は遠ざけ、周囲をイエスマンで固めて「裸の王様」になる。

同年8月20日、政(まつりごと)への情熱を失い傷心の伊東義祐はVS島津用の桶平城を撤収してしまう。
ミリタリーバランスが崩れ伊東からの圧力が減った分、島津が息を吹き返した!

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

同年9月20日、島津軍の攻撃に大口城が落城するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽67_激突・相良VS島津】

自分が大正時代に書かれた「菱刈史」を史料とするのは、地元の郷土史家が著者だからだ。
まだ地形が変化してない現地の様子、子孫を探しての取材、そこには相良側にないデータがある。
無論、間違いもあるが、それは相良側のデータを用いることで十分補正可能だ。

さて「菱刈史」によると、島津義虎が退去した羽月城に、市山城にいた新納忠元(&肝属弾正)を入れた。
そして城主がいなくなった市山城には、島津四兄弟末弟にして天才の呼び名が高い島津家久が入ったそうだ。

和睦も整い島津が安心したところで相良が島津を裏切った。


そもそも日向で戦線膠着状態、大隅では手打ちしましょー、っていう二重状態が変だったのだ。
裏切ることで相良は島津を敵とする外交方針一本に絞ったとも言える。
やられる島津は堪ったもんじゃないけど^^;

永禄12年5月~大友軍は毛利軍とガチンコ~半年以上のロングラン対峙戦(内、一番激しいのが多々良浜の戦い)に突入
(肥後守護職なんだが、それどころではない大友宗麟)

同年5月6日~大口城在番の相良軍が島津家久軍に敗れる

相良家臣には変わり種というか兵法者(剣術)がいまして、知名度がイマイチ不安な丸目蔵人さん。

タイ捨流剣術の創始者でして、後年の弟子には立花宗茂いるし、やっぱ後年ですが島津も示現流に替える前はタイ捨流剣術が御家流だったんです。

色々面白逸話がある人でして「相良忍軍を作って活躍した」という荒唐無稽な話も家伝にあるらしい。

その丸目さんが若い頃、京都で修業して兵法者として名を上げて相良へ帰還~意気揚々と大口城に後詰めとして入った。

だが対するは島津四兄弟の末弟島津家久。

家久勢1000は菱刈から落とした10の城の交替要員 & 荷駄隊を装い、丸目らは偽装に気づかぬまま荷駄を奪わんとした。

だが赤池長任家臣の小田八郎右衛門が丸目を制した。

小田「あれは囮ではないか?城を出るのは控えた方が良いのでは?!」

だが自信満々の丸目は聞く耳をもたない「御主は生き延びて奉行にでもなるが良い。我らは死など恐れぬ!」

丸目さんはアレだな。
名選手、名監督にならず・・・タイプなんですな( ゚Д゚)y─┛~~

出撃は重臣の深水頼金も制止したのだが、丸目はそれさえも振り切った。

こうして丸目蔵人の指揮の下、城外へと誘き出された相良勢は、島津家久の伏兵に取り囲まれ全滅の危機に瀕する。

そんな丸目の危機を救ったのは、最初に引き留めた小田八郎右衛門。

敵軍に突撃し丸目達が逃げる時間を稼ぐが、そこで討ち死にしてしまった。



家久に敗退したとの報告が人吉に届いた際、小田八郎右衛門の生死をその父・小田加賀守が義陽に問いました。

急報の戦死者の中に八郎右衛門の名はなかったのですが、

小田加賀守は「これ程の大崩れならば恐らく生きておりますまい。・・・されど、我が子とはいえ八郎は武辺の者なれば、敵陣近くまで攻め入り討ち死にを遂げておりましょう」と述べます。

後日、八郎右衛門が実際にそのように討死していると判り、義陽はここまで理解し合える親子愛を羨ましく思い涙を流したそうだ・・・ダディ晴広を想ったのかもです。。(ω・`))シンミリ

命からがら人吉に逃げ帰った丸目蔵人だが、相良義陽は大敗の責任として蟄居3年を命じるのだった。

よく蟄居で済んだな( ̄ω ̄A;アセアセ

「菱刈史」によると家久と戦ったのは菱刈隆秋になっている。相良側のデータが入手できなかったのだろう。
家久側の兵力の記載がないが、荷駄の移動を囮にしたのは同じ。
ただし・・・・作戦実行は家久単独ではなく羽月城の新納忠元と協力したもの。
合図の法螺と共に菱刈(ホントは相良の丸目さん)は、新納と家久に前後から挟撃されフルボッコ!
そりゃ全滅するわ(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

菱刈史著者には史料として複数の底本があったらしく、戦死者は136人とも300余人ともある。
実数としては「菱刈史」の方が近いのではないだろうか。
地名が文字が潰れて判読不能il||li _| ̄|○ il||l

とにかく判読不能現地には戦没者の首塚があり、著者の生きた大正時代までは盆になると僧侶が鎮魂の読経をしていた。
首塚に近い土地に、耳切り又は鼻切りと呼ばれた村があったと言う。


島津に大敗し旗色が悪くなってきた相良と菱刈。
徐々に盛り返した島津は遂に大口城を落とすのだが,それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良義陽66_和睦or交戦?二転三転】

永禄11(1568)年家臣(前立花・一万田系高橋)と、国衆(秋月・城井・宗像・長野・千手)の謀反で大わらわの大友家ですが、伊東と島津もヒートアップっぷ~~

同年8月中旬~相良と伊東とで「島津を挟み撃ちする作戦」を決行。

だが猛将・島津義弘に見破られ
(情報のリークがあった。参照;日向:大河平編
伊東軍と島津軍は睨み合い~| 本陣 |_ ̄)じー

相良軍も大明寺塁(北原家の城⇒相良軍が落とす⇒島津奪い返した「らしい」~詳細資料無し)にて阻まれた。

伊東義祐は止む無く桶平城を築いて島津軍に備える。

この前後に島津から奪った飫肥城に、伊東祐兵(義祐3男)が城主として入ってます。

永禄11(1568)年12月31日~島津日新斎ジーちゃんが77歳で死亡
永禄12(1569)年1月20日~島津家が相良家&菱刈家に講和を求める

実は講和を奨めたのは、亡き島津日新斎で、もしかしたらの遺言?

ジーちゃんは「島津側は大口攻めでの痛手があり、相良側も長陣に依る疲労と倦怠感があるだろうと」と提案した(らしい)。

そこで野田感応寺の和尚を相良側に派遣し、山野という地域を割譲するとしました。これに相良も喜び和談となった。

「菱刈史」によると、永禄11年5月の段階で、
島津貴久が相良義陽に対し、山野を譲渡するのを条件に菱刈への加勢を止める旨の約定を交わしたとあります。

大口で山野というと伊佐市大口山野。
これまた「菱刈史」によると島津が分家筆頭の島津義虎に与えていた土地だったそうです。

ただ義陽は、その後も島津に反抗する菱刈を支援しており、この「菱刈史」にある和睦話は一旦は白紙になったんじゃないでしょうか?
もしくは島津義虎が和睦条件の土地割譲にゴネたとか?( ̄ω ̄)b

大口城そのものが相良の在番兵が常駐しており、そこに逃げ込んだ菱刈と相良は国衆と上位者の関係。

分かりやすく今年の大河で言うと、井伊が菱刈で、今川が相良みたいな関係^^

頼れる上位者・相良としては、あからさまに菱刈を見捨てるのも(-ω-;)ウーン・・・
でも、このままだと島津と相良の全面戦争(-ω-;)ウーン

日向(ひゅうが=宮崎県)では島津を裏切り伊東と共闘したまま膠着状態。
この上、大隅(おおすみ=鹿児島県)と二つの戦線で島津とガチンコになるのは・・・(-ω-;)ウーン

それで義陽の外交姿勢がブレまくったとも言えます。
でも、それは島津も同じで、日向では伊東と。大隅では菱刈や国衆の謀反と複数の戦線を抱えている。
共通項は支援者が相良!

で、永禄12年に戻る。
同年1月24日~島津と相良が正式に和睦した
さらに1月末に和睦が整ったのを祝し、馬越城(菱刈家の城を島津が落とした)で祝宴が開かれた。

歓待を受けたのが、深水頼金・東長兄・犬童頼安~と相良家の重臣たち。

接待したのが知ってる人は知ってる島津家臣の鎌田政年です^^



島津が胸を撫で下ろしたのも束の間・・・「事件」が起きた。

同年の3月~島津義久(16代目当主)は使者として、蒲池越中守に十七人の従者をつけ平泉の城へ向かわせた。

(※15代目島津貴久は隠居して家督を長男の義久に譲ってます^^)

ところが相良義陽の家臣、深水頼兼が兵百を引き連れ、使者を襲い討つ。

これに激怒した島津義久であるが、菱刈氏と相良氏の連合軍は既に、大口城に集結して島津軍を待ちうけていた。

そのうえ、羽月城に詰めていた島津義虎(分家筆頭で義久の娘婿)は単独で相良・菱刈連合軍を相手にするリスクを恐れ、病気を理由に羽月城を退去し、本拠地の出水に帰陣しちゃったの。_| ̄|○ il||li がくぅ

菱刈史の通り山野が島津義虎の領地だったなら、
割譲されたのが面白くなかったかもだし、
実は薩州家は義虎の父・実久が相良へ起請文出してるのね( ̄ko ̄)
相良家文書
(天草との揉め事の仲裁を相良が取り持った)
だから、最前線から撤退することで先代が相良から受けた恩義の義理を果たしたのかもなんだ。

義久「あの分家は勝手すぎるだろ!!」
「もぉいいよ!アテにしないから!」ってことで、すぐに肝属弾正と新納忠元を羽月城に入れた。
忙しいな新納さん^^;

本格的交戦状態に突入の相良と島津。
てか、伊東の次は菱刈。
と二度の盟約破りで島津義久の相良義陽への心象が『極最悪』になった^^;

相良は外交方針がブレて信用ならない!

これが巡り巡って義陽自身を追い詰めて行く。
和睦・交戦と二転三転する義陽のブレは、家臣の勝手を招くことになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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生存報告

だいぶ体調が回復してきたので、

様子を見ながら再開します。

毎日は無理かな~~(--;

今月いっぱいは仕事の方が忙しいので、不定期になります。

無理しないていどに塩梅みながら更新します^-^
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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