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【相良義陽80_降伏 ・前編】

相良と島津の外交は和睦と破綻を繰り返した。

1度目
北郷・島津・相良の三国間同盟⇒相良が裏切り伊東と組んで、島津サイドの城を攻撃
この頃の義陽は本格的なVS島津に踏み切れなかったようで、言い訳の使者を島津へ派遣している。
だが交渉は失敗に終わり、完全にドタマに来た島津による大口城攻撃が始まる。

2度目
島津と相良の和睦⇒相良が島津家の使者を殺して破綻。
ドタマに来た島津義久が以下略~

3度目の正直
「木崎原の戦い」で相良が伊東の要請に応じて援軍派遣したため破綻~

何があっても4度目の和睦
これは仲介の元関白・近衛前久の顔を立てるためで、双方守る気ゼロ~

八代・球磨・芦北3郡~南肥後一帯を治める相良家が潰されれば、肥後全体への影響は計り知れない。
(実際、島津による肥後平定へと歴史が動いた)

肥後の国人にしたって「亭主(後ろ盾の島津)元気で、留守が(肥後に来ないで)いい」が理想。
ましてや龍造寺にしてみれば、島津と本格的にブツかる前に時間的猶予(vs島津のワンクッション相良)が欲しい。

天正9(1581)年5月、龍造寺家と肥後国人・名和家から島津へ「相良捨てられまじく懇望」と書状が出されている。
名和氏は相良と豊福城の領有を巡って争ってただけに、領地が相良に近接している。
それだけに、既に島津へ帰服していたとはいえ、相良が潰れた後の余波が怖いのは当然だろう。

が、期待虚しく島津による水俣城攻撃が始まった。

水俣城降伏の時期が島津8月、相良9月。
と、ひと月違うのだが、使う暦が違うだけで実は同じ時期を指してるかもしれん。
じゃあ何月?というと謎なわけで、ここは相良編なので相良の記録9月で。

はっきりしてるのは「水俣城の降伏開城は義陽降伏後」ということです
主家が降伏したのを知らずに、抵抗続けてた忍城(小田原の役ネ)を思い出した^^

肥後国人は次々島津サイドになり、ピンチはピンチの相良なんだが、同盟国の阿蘇は島津に従うつもりはサラサラ無い。
極端な話、満身創痍となっても相良が抵抗を続けてれば、いずれ龍造寺が南下してくるので降伏せずに済んだかもしれないんです。

だが現実問題として、そんなボロボロになるまで相良家中が一致団結出来るか?となると怪しい^^;
傷が浅いうちに降伏・・・というのは恥でも卑怯でもなく、多数の家臣・一族を束ねる者としては妥当な判断だと思う。

というか、過去の経緯を見てると義陽は機会を窺って「また島津を裏切る」つもりだったんじゃないだろうか。

自分は降伏前・降伏後かはともかくとして、甲斐宗運と相良義陽の間で密約が成立してたと考えてます。
少なくとも「そう仮定すると」自分が抱いていた「義陽最期の行動」に対し納得できるんです。

実は、阿蘇惟将から義陽へ8月28日付けの書状が送られており、それには「油断無きよう」と記されている。

それはさておき、以前話した龍造寺・島津両軍対峙だが、
「北肥戦誌(肥前2次史料)」と「上井覚兼日記(島津一次史料)」を比較すると天正11(1583)年が一番自然なようだ。

上井覚兼日記に和睦の話が出るのが同年3月で記述が無くなるのが同年10月。
従って10月に和睦が整ったのだろう。
仲介が秋月種実なのは、どっちも一緒^^/

北肥戦誌では高瀬川を島津と龍造寺の国境にしたとある。
現在の熊本県玉名市なのだが、高瀬川でなく高瀬津ではないだろうか?

菊池川には高瀬津という豊かな交易港があった。
地理的に可能か地元じゃないんで怪しいが、美味しい土地を分割統治するのは大内と少弐の博多の例がある。

では自分が勘違いした天正9(1581)年に龍造寺の動きがなかったのか?
というと、実はあった。

北肥戦誌によると、龍造寺は阿蘇、阿蘇家老・甲斐、相良の要請で天正9年9月に援軍を出している。
兵数は記載なし。派遣されたのは龍造寺家晴(隆信の従弟の息子)
そして援軍は阿蘇の御船までしか来なかった!ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

疑り深い龍造寺隆信は、何度も島津との和睦を裏切る相良義陽を信用してなかったのだ。
この出来事は義陽の心が折れるのに十分だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良義陽79_相良揃って歌合戦・後篇 】

歌合戦の出典元「島津世禄記~宮之城島津家編纂」
初代・尚久(島津4兄弟の叔父)から数えて4代目・久通の命で編纂されました。

三国擾乱記~土持仙巌が享保年間に書いた「宮之城記」を幕末~明治にかけて再編纂。
装丁の表題は島津久光の書らしい~~
ちなみに土持仙巌は、宮之城島津の家臣。
相良側の資料では9月というのもあるそうですが、今回は島津側資料を元にしたいと思います

天正9(1581)年8月18日~島津軍着陣!<( ̄^ ̄)/ビシ★
八景ヶ尾に島津義久(長兄で当主)勢23000、銭亀ヶ尾に義弘(次男)勢17000、出水陣に義虎(分家筆頭で義久の娘婿)勢13000
※後に義久勢は出水陣に移動し、熊ノ岩牟礼の陣へ3男歳久(新納忠元含む)が、軽石ヶ尾の陣へ末弟・家久が移動。
総勢5万余~島津4兄弟揃い踏み&オプション親指武蔵の豪華ラインナップ。

対する水俣城は犬童頼安を城主に兵1000が籠る、将兵を指揮するのは岡本頼氏。

実は記録では「人数」ではなく「騎数」になってるんです ( ̄ko ̄)チイサナコエデ
騎馬武者(指揮官)が万単位だと、動員兵数がトンデモないことになるんで
「人数」に置き換えました・・・( ̄O ̄A 汗フキフキ

島津勢は盾を立て、水俣城を一面に囲んだ。
翌日、相良兵が水俣城の大明神口より討って出る。
このとき島津側の討死にが140余人、相良側が160余人。
実は相良側では朴河内(ほうこうち)城の城主・東頼兼、頼一親子の不甲斐無さに憤っていたのです。

天正7(1579)年~島津軍1回目の攻撃⇒⇒城主親子が城も兵も家族も置き捨て遁走~八代の援軍で持ち堪える
天正8(1580)年~島津軍2回目の攻撃⇒⇒落城アボン⇒⇒城主親子~自害せず生き延びたが、流石に恥じて謹慎中。

「朴河内城での恥を雪ごう」と、大軍に囲まれてるにも関わらず、水俣城兵は勇を鼓して討って出たのでした。
もちろん、この程度の損害では島津軍の陣容はビクともしない。

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

島津勢は更に鹿垣(竹や枝つきの木で粗く編んだ垣)を結わえた物を立て番手を置くと、日暮れより鉄砲を撃ち掛け、鯨波を上げた。
あ、鯨波って「鬨の声(例:えいえい(大将)おー(兵士が応える)」のことです^^b

攻め取るのではない、圧倒的な兵力と攻撃によって、城側を降伏させる。
完全なる包囲戦・・・それが島津軍による水俣城攻撃だ。

南肥後一帯を支配下に置く相良という狼から、その牙を抜き爪を切るためには、完璧な勝利が必要なのだ。
途中で和議などは断じてない、水俣城が降伏するまで攻撃は続く。
報告を受けた相良義陽は、八代勢を率いて葦北まで出陣したのだが、退路を塞がれるのを警戒し八代へ引きかえしている。

一部サイトで、島津では義陽が援軍に出てこれないように、東郷氏を配置したとあったが出典不明なので詳細は未確認。
ありえない話ではないなぁ~薩州の義虎と東郷は揉めてた時期あったから、義虎と同じとこには配置しないで遊軍に使うのは不自然じゃないかも。

激しい攻防戦のなかで、高名な歌詠みが起きたのだが・・・・

実は歌を詠んだのは城主の犬童頼安じゃないんです。
(ウィキペディアでは犬童になってるので、みんな犬童だと信じてるだろうなぁ)

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

最初は島津軍から矢文が届きました^^大軍の余裕~

島津家臣・瀧聞美作守<「秋風にみなまた落つる木の葉かな」または「落ちてみなまた秋風の木の葉かな」
(素人の超意訳:水俣城は秋風で落ちる木の葉のように落ちるだろう~さっさと落ちろ( ̄∀ ̄)6mプギャー)

むむっ!釣りか?だがスルーしたら相良家の名折れだ~と云ったかは知らない^^

水俣城側からの返句として、奥越前守<「寄せては沈む浦波の月(或いは「月の浦波」)」
(寄せ手(島津)は、浪間に沈む月~そっちこそ波の下で溺れちまえ!( ̄∀ ̄)6mプギャー)
と思ったが別のサイトだと解釈違うぉ^^;

なかなか小癪な返句だなぁ~どれどれワシが一句_φ( ̄ー ̄ )スラスラ~~なんて遣り取りしたか知らない^^

新納忠元<「真砂路を飛び立つ(或いは「鳴き立つ」)雁の峯越えて」
(・・・・・・・・・・・・・・もう無理~誰かお洒落に超意訳プリーズ!!><;アウチ☆)

8月20日、力尽きた水俣城は降伏した。
ただ相良側の史料だと丸々ひと月ずれてる^^;
どうも暦が相良と島津だと使ってたのが違ったらしい。
どっちも太陰暦だけど昔は暦の種類色々あって、暦が全国統一されるのは天下統一されてから)

相良義陽は、自力で島津に抵抗することを断念。
9月2日に龍造寺家へ起請文を提出し援軍を請うのだが、相良側暦だと降伏前になる。
いずれにせよ単独では無理と判断したのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽79_相良揃って歌合戦・前篇 】

歌合戦の出典元は三国擾乱記~作者・土持仙巌(享保年間)
えっと、日向で伊東家と争ってた土持氏が記憶に残っているでしょうか?^^;
本家の縣(あがた)土持家は、大友宗麟に滅ぼされた(耳川の戦いのちょい前)のですが、
庶流が生き残り島津家へ仕えた(最初は日新斎ジーさん)に・・と以前、記事にした・・・はず(多分)。

土持が仕えたのは、島津は島津でも分家の方で、宮之城島津家です。
で、その子孫の土持仙巌が享保年間に「宮之城記(戦国時代の事を書いた)」を書いてるのですが、
どうやら、それが幕末に再編纂されたらしいんです、んで表題「三国擾乱記」と書いたのが例の島津久光。

これ以上は解らなかった~~鹿児島県立図書館蔵~現代語訳が無ければ見れても読めん><;アウチ☆

も一つ「島津世禄記~宮之城島津家編纂」
宮之城島津家は初代が島津尚久で、4兄弟の父・貴久の異母弟(32歳で死亡)です。
で、尚久の息子が忠長~ほら、高橋紹運が玉砕した岩屋城攻めの大将です( ̄ko ̄)チイサナコエデ

岩屋城でのエピが一番知られてる忠長の経歴なんですが、その他にも活躍してます。
(全部は書き切れない)忠長の多大な功績により、宮之城島津家は分家の中でも「格別の家」として扱われてたんです。

それだけでなく宮之城は暗君無しの島津家に相応しく、累代優れた人材を輩出してまして、
特に初代藩主・忠恒と2代藩主・光久の業績を支えた名家老を出しました(日新斎ジーちゃんのDNAパネェ!)

えっと、一行で語るのは絶対無理な政治事情で、島津宗家とは2重・3重の婚姻関係を結んだ分家VIP。
んで、宮之城島津家は史書編纂に熱心で「島津世禄記」を作らせたんです^^
そういう家に仕えていたから、土持仙巌氏のような人物が出たかもですね^-^


親指武蔵の新納忠元で有名な水俣城攻撃。

でも知名度だけが突出してまして、肝心の中身が資料少ない_| ̄|○ il||li がくぅ
とりあえず解ってる範囲で記事をまとめますね^-^

で、新納が有名すぎて霞んでますが、島津家分家筆頭の薩州家、島津義虎も先陣を務めてます。
で、新納の猛攻が凄すぎて霞んでますが、水俣城攻めでの島津義虎の功績も大きなものでした^-^

地図・天草関連

島津義虎の本拠地は出水城で、水俣城のすぐ近く。
相良は薩州家からの軍事的圧力を受けてて、天草諸島の一部である長島を奪われています。

もちろん水俣城攻めにおける軍功で新納に及ぶ者はいませんが、島津義虎は存在そのものが功績でした。
なぜなら、
島津当主・義久の長女が妻で、
分家筆頭の地位にいる島津義虎に、
近隣の豪族たちが次々と配下になることを申し出たからです。

隣国の日向国は伊東が没落し大友も敗れ、島津勢力圏となった。
大隅国大口城も島津に攻略された。
天草諸島は天草氏が、相良に見切りを付けて島津配下に。
国人の城氏・名和氏が島津サイドで、龍造寺サイドだった合志氏も島津に降伏。

見渡す限りが島津色~~~泣けて来るんで、これ以上は詳しく書くのが忍びない~~

周囲が敵だらけになった相良が、水俣城を失ったら降伏するしかなくなるんです
肥後国内において、相良家の味方は阿蘇氏のみ。

天正9(1581)年春、その阿蘇氏は縁戚関係だった大友に見切りを付けて、龍造寺に人質を送った(誰を送ったか未確認)
龍造寺家文書ーーー龍造寺隆信覚書によると
一 (甲斐)宗運此方同意之事

とあるので、阿蘇家筆頭家老・甲斐宗運と龍造寺隆信との間で合意があったようだ。

それが出来るのは阿蘇の地理的位置の(相良領というワンクッションがある)お蔭だ。
阿蘇と同じことをするには、相良領は島津領に近接しすぎている。

頼みの綱である龍造寺が、海路はるばる兵を率いて(隆信本人は来てない)肥後に来たのが天正9(1581)年。
この対陣が天正9(1581)年の何月からスタートかは不明なのだが、自分は水俣城落城以降ではないかと推測している。

もし相良が力尽きて降伏する前に、龍造寺と島津のロングラン(約2年に及んだ)対陣が始まっていれば、
阿蘇と相良が龍造寺と連携した軍事行動をとれたはずで、そうなれば島津の肥後統一の歴史が変わったかもなんです。

さらに注目したいのが、大友義統の命による「英彦(ひこ)山焼き討ち(1回目)が同年10月8日だってこと。
英彦山は筑前にある山伏の総本山で、比叡山のように武装化した宗教勢力です。
大友が兵を起こしたのは、龍造寺兵が肥後へ出兵してたからじゃないだろうか・・・

てことは肥後・菊池川を挟んだ「島津と竜造寺の睨みあい」スタートは、8月20日以降の10月8日前・・9月ごろ?
龍造寺は、阿蘇の同盟相手である相良の降伏を受けて、勢いづく島津へのプレッシャーとして動いた・・・??
はっ\(////O////)ノいかんいかんIFはいか~ん、水俣城に話を戻そう。

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

水俣城主の犬童頼安(いんどう よりやす)は天正5(1577)年に、深水下総と交替で水俣城主になった。
その時に空堀を二重にし、矢玉避けの萱垣を大量に立てる等の改造を行っています。
ただ建物の屋根だけは変えてなかったそうです。(予算の都合か理由は不明)

で、水俣城戦が起こる前に島津の間者が侵入し、城に放火しています。
そこで改造してなかった屋根が茅葺だったため、火災による被害が多かったとか。
止む無く竹瓦に葺き替えさせますが、担当者は水俣城下が放火された際に出陣し、葺き替え途中で討ち死にしています。
それと、逆に新納側から犬童に寝返った者が七名いたそうです。

とにかく新納の攻撃は凄まじく、一日の内に3~4度も突撃しててブラックな職場状態^^;
水俣城三の丸は、あっという間に落とされ、二の丸で踏ん張る相良兵。
激しい戦闘のさなかに、一つの矢文が射られたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽78_ヨリエ登場! 】

歴史上、島津絡みで知名度がある「島津の水俣城攻撃」・・・の前に朴河内(ほうこうち)城が攻撃され落城したのを、無理矢理入れ込んだのですが、もう少し詳しく言わせて下さい^^

あ、今回のソースはハッキリしてます~梅山無一軒の南藤蔓綿録(なんとうまんめんろく)です^^b

天正7(1579)年9月13日に攻撃を受けた時に、城主の東頼兼・頼一父子がビビって逃げたと書きました。
しかも内容は最低で逃げる時に、城兵はおろか家族まで置き捨ててました( ̄ー ̄A 汗フキフキ
で、八代勢の救援で落城寸前で守られたんですが、失態を犯した東頼兼・頼一父子は引き続き城主の任を継続してます。

八代には義陽の同い年の弟・頼貞が、還俗後津奈木領主になってて、天正7(1579)年当時は義陽と不和になり、八代の谷山というところで謹慎生活してました。

八代には頼貞擁立派がいたらしく(管理人の推測)、義陽にすれば武将としての資質はアレでも、
東頼兼・頼一父子以外は、信用できなかったんでしょう・・・。。(ω・`))シュン

自分が義陽の記録から感じるのは「孤独」です。
主戦派と頼貞擁立派(おそらく八代勢で両者はイコールか被ってる)からの突き上げに、
バラバラの肥後もっこす家臣団・・・個別には優秀でも纏まりが無い・・・

文治派タイプの義陽には、彼らを一致団結させるだけのカリスマが無かったのだろう・・・
相良家で義陽は、自分の胸の内を打ち明ける相手がいなかった・・・
少なくとも、それほど親しい人物を探す事は出来ませんでした。

人物・相良義陽
(幸麿さま作画:義陽画像)

朴河内城が落ちたのは、天正8(1580)年5月12日、島津から二度目の攻撃を受けた時だ。
その際は夜になると嵐になり、風雨に紛れて島津勢が城内に侵入した為に落城しています。

その一方で同日に白髪岳にも島津勢が出陣していますが「夜の嵐で退却だぉ~白髪権現の加護だぉ」と史料には記されています。
どう考えても、白髪岳の方は囮で、そっちに気を取られてる隙に朴河内城内に侵入された~と思うが、
記録を書いた梅山無一軒さんは、相良家の剣術指南役だった人で、孫の代に藩主に献上してるくらいだから「基本、悪くは書いてない」です^^
相良の家記って大火で焼失してるんだよなぁ( ̄  ̄)トオイメ

朴河内城が落ちたとなれば、島津が次に水俣城を狙うのは、誰の目にも明らかだ。

緊張の高まる中、一人の稚児が寺を脱走し、水俣城に入った
それは水俣城主・犬童頼安(1577年より水俣城主)の息子・頼兄(よりえ)~
後に相良家筆頭家老となり、相良家で超絶な権勢を振るう犬童頼兄が歴史に躍り出る瞬間だった

犬童頼兄(いんどう よりえ)は永禄11(1568)年産まれだから、伊達政宗より一つ年下で、水俣城攻撃当時は13・14歳くらい。

ウィキペディアには「父・頼安が水俣城に籠城、苦戦していると聞き及び寺を抜け出して共に籠城」と記載されているが、
籠城中に島津の囲みを突破して入るなんて、どんな豪傑な13歳だよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もちろん実際は籠城前に入ってたそうで、時期としては朴河内落城の後だと思います。

稚児になっただけあって犬童頼兄は美少年だったらしい・・・( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
悪役が美形なのは、もはや定番なのか、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽77_弟、出奔 】

ウィキペディアを見ると「島津は大友に与する阿蘇を潰そうとして、同盟国である相良を攻撃した(要約)」とあり、
初めに阿蘇ありき・・・のように記述してるが、そもそも島津と揉めたのは相良が先。

それも相良の方から島津を3度も裏切ってる。
進軍コースから言って「はじめに相良潰しありき」で、「阿蘇潰し」は勢いが止まらない状態。

この頃になると「(落ち目の)大友に与してるか、どうか」が問題ではなく、「龍造寺か島津のどちらに帰属してるか」が重要なのだ。
中小企業で構成されている肥後国人クラブ参加企業は、既に協賛グループを決めている。

だが地場産業ながら一部上場クラスの「阿蘇&相良」は、なまじ地力があるがゆえに抵抗を続けた。
肥後エリアに食い込みたい龍造寺と島津にとり「阿蘇&相良」を潰さなければ、肥後エリアに参入しても採算が合わない~

ライバル同士の新興・龍造寺と老舗(守護職)・島津。
両者共に損益分岐点は、どちらがより多くの「阿蘇&相良領」を奪うかにかかっていたのだ。

とまぁ、シビアな状況をチャラかすのは、このくらいにして (; ̄ ・ ̄)=3 コホン

あくまでも自分個人の印象だげど、相良義陽は「戦国武将に向いていない文治派」のように思う。

1)いくら大将とはいえ、最前線に行かなすぎ
2)八代と球磨を統治のために往復するが、生母・内城の随行付き(何歳まで同行かは不明)

初陣はどうだったのかなぁ~過保護っぽいから、周りが御膳立てした安全コースだろうけど。

3)VS島津に関し、義陽本人の「不動の決意」が感じられない。
何かに(主戦派?)突き上げられて流されてるような中途半端さがある。
4)海千山千の黒公家・近衛前久が感激するほどの無垢な朝廷への尊崇

和歌の勉強で知った王朝絵巻の世界に憧れてたのかなぁ・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
書を読み、詩歌管弦と、また~り時を過ごすのが義陽には良く似合いそう^-^

いっぽう、寺に預けられた同年・同月・同日産まれの弟・頼貞。
能力は未知数ながら気性は武将向きだったようで、僧侶生活に飽き足らず20歳前後に寺を飛び出し還俗している。

同い年の庶弟・頼貞は、義陽とソリが合わず(文治タイプと武将タイプなら合わないだろうなぁ)、
何やら仕出かして?謹慎してたのだが、天正9(1581)年島津による水俣城攻撃の前後に出奔した。
行く先は栗野とも飯野ともあり、栗野なら鹿児島県で飯野なら宮崎県、どっちにしろ島津勢力圏。

・・・最初に寺院を飛び出した20歳ころというと、北郷・島津・相良の三氏相互支援(伊東への盾にするために北原を支援する会)の頃で、義陽の異母妹・亀徳姫が島津義弘に嫁ぐ話が決定した頃。

亀徳姫は頼貞と生母が同じ・・・もしかして頼貞は妹が島津に嫁ぐことに反対(=島津との同盟に反対)で還俗したかもしれない。

何が言いたいかっていうと、あれほど御家騒動が多い相良家で、揉める元である同い年の弟・頼貞の記録が少なすぎるのだ。

家紋・相良
(ロン様作成:相良家紋ロゴ)

しかも筆マメな八代日記が永禄9(1566)年で断筆し、以降は相良家の記録そのものが減って行き、他家からの記録から覗き見るような状態になる。

弟・頼貞に絡んで、意図的に記録を隠したか、後日に処分されたのでは無いだろうか?
処分するとしたら怪しいのは犬童頼兄(もうちょいしたら登場します^^)
相良家文書を読み下してないから、まだ決めつけられないけど(-ω-;)ウーン

弟・頼貞は謹慎中は八代にいた。
それが脱走してIN鹿児島or宮崎・・・誰かが手引きしなきゃ追手を振り切れるはずが無い。

八代には「頼貞派グループ」がいたんじゃないだろうか。
歴史から途中でフェイドアウトする赤池長任は、頼貞派だったのでは?
だから後年に記録が削除されたのでは?

八代奉行は大口城在番を兼務したことがない(球磨奉行は兼務)
てことは八代奉行が八代から離れるのが不味かったのかもしれん。

さらに八代兵と球磨兵は軍行動を共にしたのは、豊福城攻撃の一度だけ・・・
両者が良きライバル関係なら、むしろ共に行動させて切磋琢磨させようとするはず。

両者が軍行動を共にしたら不測の事態(裏切り)の危険があったからでは無いだろうか。
生母・内城が息子が大人(元服)になっても八代行きに同行してたのは、単なる過保護マザコンだけでなく、八代に頼貞派の暗躍があったのなら納得できる。

出奔した頼貞は、かつての日向・北原当主のように、島津に相良当主として擁立されることを望んだのでは無いだろうか?
だが島津は他家の家督に介入するのに懲りたのか、頼貞の後ろ盾にはならなかった。
後年の話だが頼貞本人は家督を諦め、島津領内で保護されつつ生涯を終えたようだ。

だが頼貞派だった相良家臣(がいたと過程する)は、相良家中に温存されたままだ。
元頼貞派が次に注目したのが、頼貞の妹・亀徳姫様と再婚相手の上村長陸だったとしたら?

傍流だが上村家から義陽の父・晴広が当主に入っているし、義陽&頼貞とは血の繋がった従兄弟だ。
当主としては血統的に無理があるが、不満分子の旗頭であれば上村当主のネームバリューは申し分ない。

上村長陸は朝鮮の役のドサクサに謀反を企んだ過度で処断された。
その時に、元頼貞派も政治的に抹殺されたのでは無いだろうか。

2度目の夫・上村長陸の死後の亀徳姫は、筆頭家老・犬童頼兄(次くらいに登場するんで待ってて~)に蔑ろにされ、最期は餓死したと言われている。
でもってお約束の~~祟り~~ヘ(ーーヘ)(ノーー)ノヘ(ーーヘ)(ノーー)ノ~~祟り~~があったらしいが、何が何して何とやらで、原因も経過も結果も良く分からない不合理状態なんです。

この「もわ~ん」とした感じこそ、頼貞に絡んだ「もわ~ん」に激似。
いかに関ヶ原で功績ある筆頭家老とはいえ、主筋の姫君が蔑ろにする仕打ちに、誰一人声を上げる者がいない。

家老の専横とか家臣がヘタレというレベルの問題ではない。
「寺社関連・民話や民間伝承にすら痕跡が無い」ほどの沈黙、というのは異常なんです。
亀徳姫様の存在そのものが、頼貞と頼貞派に絡んだタブースイッチであり、闇に葬らなければならないものだったんじゃないだろうか。

人物・相良義陽
(幸麿様作成:相良義陽画像)

それは、さておき、もう少し現実的な話。

相良家中のVS島津イケイケ主戦派=(イコール)弟・頼貞擁立派・・・と自分は推測している。
相良家降伏後、主戦派たちが政治的に失脚したのは間違いないだろう。

ましてや関ヶ原以降の近所付き合いを考えれば、島津と激しく争ってた記録を残すわけには行かない。
時期不明だが主戦派たちの言動をゴッソリ処分した中に、弟・頼貞がらみも消されたと思う。

頼貞擁立派=主戦派なら、頼貞の記録が極端に少ないのも頷けるし、亀徳姫が晩年に蔑ろにされた理由も解る。
島津義弘と政略結婚⇒離婚の亀徳姫は、相良の方から島津を裏切ったことの生き証人。

相良家では亀徳姫の口から「迂闊に過去の話をされたり」誰かが「亀徳姫の過去を調べたら」困るんです。
亀徳姫に憐憫をかけたり保護することは、島津が相良を裏切った黒歴史のタブーに触れることになる・・だから蔑ろにされるのを誰もが見て見ぬふりしたのだ。

もちろん相良の裏切りは隠せるものではないし、裏切り自体は戦国時代なんで仕方ない(3度は酷いけど^^;)
それより「相良家中」の「誰が主戦派」で「どんな言動」をして、「島津に対して何をやらかした」かを隠ぺいする方が重要だったはずだ。

もっとも「相良家記」は江戸期の大火で焼失してるので、隠ぺいか、あった記録が火事で失ったかも確認しようが無い。
て感じなんで弟・頼貞出奔すらも相良側に資料が無く、島津家臣の日記にしか無い。

だから正確な時期も逃走ルートも手引きした相良家臣も、今となっては歴史の闇に埋もれている。
天正9(1581)年の今はまず、同い年の弟・頼貞が出奔し、相良義陽の心を悩ませた・・・とだけにしよう。

それは・またの話 by^-^sio~脳内妄想で一話消費スマソ(笑)

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【相良義陽76_阿蘇包囲網・後篇 】

戦国時代の阿蘇家文書には神社としての記録しかない。
国衆とやりとりの書状、安堵状、起請文などは一切ない。
従って戦国期・阿蘇家の動向を知るには、肥後の二次資料や他家の一次・二次史料を元に類推するしかないのが現状である。


天正6(1578)年11月、大友軍が「耳川の戦い」で島津軍に敗れた影響が、肥後に伝播したのは翌年天正7(1579)年の秋。

肥後国人の城氏と名和氏が島津へラブコール~~求めに応じた島津が家臣の佐多と川上を派遣。
二人は隈本城在番となり、阿蘇氏への脅威となった。

さらに相良サイドの国人・天草鎮尚も、相良を離れ島津配下となり、
新納忠元の大口兵が、相良の朴河内城を攻撃する。
(八代からの援軍により何とか死守)

筆頭家老・甲斐宗運を通じて同盟関係だった阿蘇氏と相良氏は、急成長する龍造寺家と島津家の狭間で政治的に孤立しつつあった。

肥後国人たちは、それぞれ龍造寺、島津へ接触、大友サイドだった阿蘇と距離を置くだけでなく、自分たちが生き残るために阿蘇領を「草刈り場」にしようとしていた。

家紋・阿蘇
(ロン様作成:阿蘇氏家紋ロゴ)

天正8(1580)年3月、島津兵+肥後国人連合軍が阿蘇氏を攻撃!
甲斐宗運が兵8000で迎え討つ!!
島津家臣は上記の佐多と川上の手勢+肥後国人連合軍メンバーは名和氏、城氏(島津サイド)+隈部氏、合志氏、川尻氏、鹿子木氏(龍造寺サイド)
勢いはあったんだけど、連合軍で肥後もっこすなせいか、いまいちマトマリが・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ

ちょうど夜半になって雨が降ったので、肥後もっこす連合軍「戦は無い」と、判断。
隈部氏と城氏の陣営で酒盛りワッショイになった^^;

そこへ甲斐宗運が雨の中、華麗に渡河し(川を挟んで対陣してたらしい)夜襲決行!
にわか作りの連合軍は、阿蘇の守護神に o( ̄ー ̄θ★ケリッ 撃退された。

ここで阿蘇氏が盛り返せれば後年の悲劇は無かっただろう。

だが阿蘇の縁戚(当主の祖父の正室が宗麟の実叔母)で後ろ盾だった大友で一悶着発生!
天正7(1579)年12月、大友の分家・田原家の謀反発覚。
天正8(1580)年4月13日、大友家臣・田北紹鉄(たぎた じょうてつ)が謀反の罪で大友宗麟に討たれる。
ああああああああああああああああ!紹鉄が勿体ない!!!_| ̄|○ il||li がくぅ

謀反の真相は定かではなく、田原親賢(大友分家の分家当主で、宗麟正室・奈多夫人の実兄で、奈多神社大宮司←宗麟が激エコヒイキしてた)の讒言で陥れられた説が有力。

同年4月16日、名和顕孝が島津家老・伊集院忠棟へ_φ( ̄ー ̄ )メモメモ~
名和の手紙<城氏の奴らと連携して阿蘇をブッ潰すからよぉ~ちくと兵貸してちょ

実は名和は阿蘇に個人的な恨みがあった。
名和と相良では豊福城の領有を巡り、双方・数代当主に渡り、都合9回も争っていた。

最終的に相良義陽が直々に出陣して豊福をゲッツするのだが、その時に阿蘇は相良寄りの態度をとった。
(甲斐宗運と相良義陽が相互不可侵の盟約を交わすのが、この頃)

それだけでなく名和顕孝の父が家督相続を巡って、家老と争いになった時に、敗れて亡命した名和家老を阿蘇家が保護したんです。
阿蘇にすれば、長年・肥後国人の盟主的立場だったので、頼られたら無視も出来なかった。

だが名和にすれば不愉快極まりない上に、豊福城を失うという一大事に阿蘇は素知らぬふり。
名和「大友の後ろ盾があったから立ててただけだぃ!もぅ遠慮イラネ潰しちゃる!!」

家紋・甲斐
(ロン様作成:阿蘇筆頭家老・甲斐家紋ロゴ)

同年5月12日、相良の朴河内城が二度目の攻撃で落城、相良のジリ貧度アップ!
ちなみに城主の東頼兼と息子の頼一は、岡本に帰りました(O ̄∀ ̄)ノ

同年6月~7月~大友宗麟~謀反を起こした田原家討伐開始。
そもそも田原が謀反起こしたのは、宗麟が自分の息子を当主にしようとゴリ押ししたからなんです。
元からいた当主候補の田原娘婿が怒って謀反起こし、この件では田原家に同情する大友家臣もいて、謀反の罪で討たれた田北は同情派家臣だったんです。

同年8月、田原を援軍しようとした毛利水軍を、大友の若林水軍が撃退。
織田水軍に敗北した痛手が残ってたか・・・往年の毛利水軍も衰えたな・・・

一時の勝利はあっても、大友王国内部がガタガタになってるのを対外的に糊塗するのは既に不可能!

同年8月12日、今度は城氏が伊集院へ手紙<今、やれ(阿蘇潰しは)成就するから(援軍して)
ピンチの大友に魔王降臨 ̄ ̄ ̄ ̄<( ̄^ ̄)/ビシ★
同年8月12日、織田信長⇒島津義久へ仲介無しで初の直接交渉「大友との和睦」を促す。

同年8月28日、龍造寺隆信⇒島津義久へ「共に大友を討ちません?(O ̄∀ ̄)ノ後は要相談~」
同年9月13日、信長が島津へ再び大友との和睦勧告。
同年9月19日、根負けした島津が大友の和睦を承諾。証として日向鷹を信長に贈呈。
便乗おねだりしてた近衛に鷹が贈呈されたかは定かでは無い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同年9月16日、基地港計石で相良軍が島津水軍を撃退。
同年10月?日、阿蘇家臣・中村惟冬の矢崎城と中村弟の網田城が、島津の攻撃で落城!
同年11月23日、島津家臣・佐多(隈本城在番)が龍造寺サイドの合志氏を攻めて降伏させる。
アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ あぁピンク=大友と青=肥後関連の太文字が錯綜~~

大友の衰退、龍造寺と島津の台頭と相良と阿蘇への攻撃と、肥後国人たちの動きは複雑に連動してます。

天正9(1581)年春、(やっと)大友に見切りをつけた甲斐宗運が龍造寺家に人質を送る。
同年?月?日、天草諸島国人・志岐氏が龍造寺に服属する。

天正9(1581)年?月?日、ついに島津と龍造寺の両軍が菊池川を挟んで睨み合い!
伝えられるところでは海路肥後入りした龍造寺隆信は、現・玉名市北部、土豪大野氏の居館のあった内野城に本陣を構え、菊池川沿いに大軍を布陣したという。
一方、島津勢は1万数千ほど、数の上では圧倒的に龍造寺勢が優勢だった。

この時期に島津義久が何処にいたかリサーチ出来なかったが、おそらく島津軍は隈本在番の佐多と川上が中心で、義久本人は出馬してないように思う。

両軍は対峙しただけで撤退、菊池川を互いの国境と定めたそうだ。
有利だった龍造寺がアッサリ引き上げたのは、帰属したばかりの肥後国人が不安だったのと、
前年に蒲池一族を抹殺してて、家中の動揺も残ってたからではないかと推測してます。

で、この時に龍造寺と島津を仲介したのが、筑前の秋月種実なんです^^b

龍造寺とは国境定めて、とりあえず和睦。
大友とは、信長が五月蠅いから、渋々和睦。

島津「じゃぁ相良潰しに全力投球するぞ!その次に(北上して)阿蘇を料理ね」

ドミノかオセロのように、あっという間に塗り替わる勢力分布図。
今日の決断が明日の死かもしれない。
と言っても過言でないほど、島津と龍造寺の勢いが凄過ぎる!!Σ(´Д`;)はぅ

効果的な手を打つ間もなく、島津による相良に対する本格攻勢が始まるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良義陽76_阿蘇包囲網・前篇 】

キングオブ九州探題・大友宗麟が島津家に敗れた(既に隠居してキリシタン三昧だが世間では、こう見る)事は、肥後の国人領主たちにとっては衝撃だった。

肥後国人たちの脳裏に真っ先に浮かんだことは「阿蘇家とは離れよう!」だった

阿蘇家は大友家と縁戚関係(現当主の祖父の正室が、宗麟の実叔母)である事をテコに、
長年、肥後国人たちの盟主というか兄貴分的立場でして、
むろん戦国時代だからして、何時も友好関係なわけじゃないけど、
肥後の国人たちは、阿蘇と何かあったとしても、結局は大友の後ろ盾がある阿蘇家を、蔑ろにすることは出来なかったんです。

だが大友家が衰退した今となっては「大友のバックアップ」という看板が、阿蘇にとって禍したのだ。
身軽な国人たちと違い「阿蘇神社・大宮司&肥後の盟主的存在」という立場が、阿蘇氏の去就の判断を遅らせたのかもしれない。

一方の大友宗麟、起死回生の外交戦術「織田信長の介入」は、一回目交渉が失敗し頓挫した。

失敗の理由の一つは、仲介役の近衛前久が島津義久に「麿に日向鷹ちょうだいネ*人 ̄▽)♪」と、
ちゃっかりおねだりするなど、他人事・遊び気分混じりだったのも多少はあるだろう^^;

メイン理由は、この頃に徳川家康が正室・築山殿と嫡男・信康を処断してて、
信長の神経がそっちに集中して、ちと九州どころじゃなかったから^^b

家紋・大友
(ロン様作成:大友家紋ロゴ)

肥後もっこすA「北からは龍造寺、南からは島津~~どっちか決めないとなぁ,阿蘇と相談?んなこと出来る訳ないでしょ~」

天正7(1579)年?月?日~天草鎮尚が相良家を離れ、島津配下になる。
天草鎮尚はキリシタンの洗礼を受けた時(天正2=1574年)に、弟が大反対して家中を二分する争いとなった。

鎮尚弟は「兄貴は相良と組んでるから」ってことで「相良の敵・薩州家の島津義虎」を頼った。

で、結果↓

鎮尚弟「相良さぁ~ん!すいませ~ん、兄貴に負けちゃいました~島津とは離れるから匿って下さい」と居候。

天草鎮尚との関係を考えれば非常に迷惑なんだが、国人に頼られたらNOと言えないのが戦国大名の辛いとこ。

天草鎮尚は天正4(1576)年に島津と和睦したが、それだけだけじゃ治まらず年々大きくなる島津からの圧力に遂に屈した。
天草諸島の全ての国人が島津サイドになった訳じゃないが、
天草で一、二を争う有力国人だった天草鎮尚が、島津配下に与した影響は大きかっただろう。
何よりも相良家の「明との交易ルート」が脅かされてしまう。

天正7(1579)年9月?日~新納忠元の大口勢が葦北の朴河内(ほうこうち)城(現水俣市宝河内町)を一回目の攻撃。
情けないことに相良家臣の城主・東頼兼と頼一親子は、大口勢の攻撃にビビり城を捨てて逃げた^^;
(東頼兼は岡本(あさぎり町)地頭の東頼春の子で、天文19(1550)年父の死去で僅か15歳で城主に抜擢されていた)

八代から援軍が来たので、何とか城は落城を免れました( ̄ー ̄A 汗フキフキ
解らないのは、失態をした東頼兼が引き続き朴河内城主してることなんだよなぁ。・・・ポリポリ(6 ̄_ ̄)
何となく相良が人材不足に感じるのは、管理人だけでせうか( ̄  ̄)トオイメ。。 

肥後もっこすB「相良の支城が島津の攻撃受けたぁ!島津と相良は停戦してたが、その前に相良が3度も島津を裏切ってたからなぁ~やっぱ4度目の和睦も破綻したか!」
肥後もっこすC「今後は相良と同盟してる阿蘇と関わるのは増々ヤバイ!」
肥後もっこすD「離れるとか関わるとか、まだるっこしぃ。積極的に阿蘇を潰して生き残り好位置キープすべし(O ̄∀ ̄)ノ」

天正7(1579)年秋頃~肥後国人の城氏と名和氏が島津へラブコール~
求めに応じた島津が隈本城へ佐多と川上を派遣する。

佐多家は島津分家の一つです^^川上も知ってる人は知ってる有能武将^^
国人の城氏は元菊池家3家老の一つ、名和氏は相良シリーズで何度か出てますね^^b

阿蘇氏の頭越しに、肥後国人たちは島津や龍造寺にアプローチを開始する。

歴史で「○○家が、15**年に○○侵攻」って紹介される時は、○○家の本軍起動がベースになっている。
だが実際には、その数年前から動きがあり、それぞれの配下の国人による代理戦争が必ず起きています。
急成長する龍造寺と島津の狭間で、争いの「草刈り場」になったのが、大友サイドの阿蘇領だった。

隈本城に島津家臣の佐多氏、川上氏。
島津サイドに上記の城氏、名和氏。
龍造寺サイドに隈部氏、合志氏、川尻氏、鹿子木氏。

着々と阿蘇包囲網が出来ていく・・・

阿蘇包囲網は、阿蘇と同盟する相良家も、肥後国内において孤立して行くことを意味するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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