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【相良頼房4_関白宣言!】

天下獲る前に♪云っておきたい♪ことがあるだぎゃぁ♪
天正11(1583)年11月1日~秀吉から家康を通じ、九州より先に関東へ惣無事(令)発布<( ̄^ ̄)/ビシ★
(出典:竹井英文氏の著書)
更新が遅れたのはコレのせい。il||li _| ̄|○ il||l
最近では政令としての惣無事は無かったが主流になりつつあります(今後の解釈どうしましょ←ヤケクソ)


九州というコップの中で戦う武将たちには、もちろん知る由もない天下の動きだった。
だが、この【惣無事】が、やがて彼らの身にも振りかかることになる。

天正12(1584)年3月18日『沖田畷の戦い』龍造寺隆信が討死!島津+有馬連合軍の大勝利。

同年3月27日、小牧の役
同4月9日、長久手の役
同年9月6日、羽柴秀吉が徳川家康・織田信雄と和睦する。

同年9月?日、足利義昭から島津義久へ「自分への忠義のために(羽柴秀吉サイドの)大友を討て!」と命じる(義久の返答は不明)

同年12月26日、停戦状態以降交渉中だった毛利家と羽柴秀吉が正式和睦
証として輝元養女(内藤氏娘)と羽柴秀勝(信長4男・秀吉養子)が結婚(出典:川端家文書・萩藩閥閲録)

この間に阿蘇氏は惟将(兄)・惟種(弟)と相次いで当主を失い、島津からの圧迫も強まり衰退していく。
「毎年喪中だわ、新当主・惟光が2歳だわ~~って阿蘇さんとこも大変だなぁ~( ̄∀ ̄*)」
なんて他人事として眺めてる場合じゃなかった。

天正13(1585)年2月14日、19代目相良忠房が14歳の若さで病没!
容貌気性優れた期待・希望の少年当主死亡で、相良家中のガッカリ具合は半端じゃなかったらしい。
その悲嘆ゆえか、忠房の死は「猫の祟り(湯山事件に絡んだ呪詛)」と囁かれた。

一部ネットでは島津が相良を潰そうとするのを、重臣・深水が奔走して云々~とあるが、それは事実ではありません。
むしろ島津では忠房が家督を継いだと同時に成立した「相良家との和睦」が御破算になるのを恐れました。
既に島津と阿蘇氏との戦い・・・「阿蘇合戦」は始まってます。
島津から見て、肥後の玄関口である相良家が今更グダグダ混乱されては困るんです。

てことで新章の主役やっと登場。忠房の弟・相良頼房が20代目当主となる。

人物・相良頼房
(幸麿さん作画・相良頼房画像~~実物より凛々しく仕上がってます(*´艸`)

当時の頼房クンは12歳。これ以上の当主低年齢化はカンベンして下さい~~~
島津へ遣わす人質は、頼房から藤千代クン(義陽3男)8歳にチェンジ~(* ̄・ ̄*)b
相良家が当主&人質交代で アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ 慌ただしいころ、

同年4月7日~天下も慌ただしい~~羽柴秀吉~紀州征伐を決定
同年6月~~四国征伐

同年7月3日~阿蘇氏の守護神・甲斐宗運71歳が死去。
甲斐宗運は「阿蘇から島津に仕掛けてはならない。いずれ天下を統一する者が出るから粘れ~」
てな内容の遺言をしたそうだ(毒殺説があるが、そうだとしても即死じゃなかったってことだな)

待ち焦がれた天下人・・・島津の侵攻を公正に裁いてくれるはずであろう天下人・・・
まさか、その天下人が「阿蘇氏をはじめとする神社系武家」の存在を全否定するとは、夢にも思わなかっただろう( ̄  ̄)トオイメ。。

同年7月11日~羽柴秀吉~近衛前久の猶子となり、関白を拝命する

同年8月10日、阿蘇氏、御船、堅志田、隈庄兵が、花ノ山城(島津家臣・鎌田左京在番)を攻撃する。
甲斐宗運の後を継いだ息子は、宗運の遺言を守らなかった・・・
阿蘇の方から島津を刺激してしまったんです!

この戦いで、犬童頼安と深水摂津介(深水宗芳の嫡子)を大将にした相良勢が、花ノ山城(=島津側)に加勢してます。
その際、相良側に被害が出ており、深水摂津介らが討ち死に(異説あり)する。
深水宗芳が跡取りを失った事が、後に相良家に起きる御家騒動の遠因となっていきます。

同8月13日~島津義弘リベンジ!o( ̄ー ̄θ★ケリッ
相良勢も加わり、阿蘇氏の堅志田城が落ちる。
ついに阿蘇氏が降伏、前後して高千穂の三田井氏も島津に降伏。
(ただし阿蘇家臣の抵抗は続いてます)
家紋・豊臣
(ロン様作成:戦国のラスボス?豊臣家紋ロゴ)

同年9月9日~羽柴秀吉~源平藤橘の他に新姓「豊臣」を帝より賜る
新姓創設って、とっても凄くホントに大変な事なんだが、現代人にはピンと来ない出来事の一つ^^;
まぁ秀吉が「豊臣姓」「羽柴姓」をバラマキすぎて(後世から見て)有難味が薄れてるのもある,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同年9月11日~大友氏の雷神・立花道雪73歳、陣中で死亡
同年9月25日~大友から島津へ「Hey!同盟して龍造寺と秋月を倒さない?~~(O ̄∀ ̄)ノ」と勧める
大友は秋月に、だいぶ手こずってますなぁ~( ゚Д゚)y─┛~~

10月2日~~~九州へ惣無事(令?)キタ━━━━(´Д`;)━━━━ッ!!
(要するに秀吉から島津に書状が来た。当然出典は島津家文書)
ちなみに、この年の7月25日、管理人お気に入りの薩州家・島津義虎が病死してます( ̄人 ̄)☆彡~~合掌

次回、ここから先は、更に色んな出来事が錯綜しますよ~~それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良頼房3_宿縁 】

振り返ると、相良編は阿蘇氏と甲斐氏の話から始まった。
年号で言うと永正年間(1504年~1521年)でして、通常の時代小説では馴染のない年号なので、
読んでくれる人がいるか不安なスタートでした^^

自分が阿蘇&甲斐主従から話すことに決めたのは、相良義陽と甲斐宗運の友情を描くためではありません。
推理記事で説明しましたが、義陽が死を決意したのは「甲斐宗運との友情からという通説」を使うつもりは最初からありませんでした。

阿蘇氏からスタートしたのは、阿蘇氏と相良氏を制する者が肥後国を制するからです。
肥後守護職である菊池氏が大友宗麟によって滅ぼされた後は、肥後国を統一する者は現れませんでした。
大友氏が守護職なんだけど、肥後の度重なる謀反に懲りて守護代を派遣せず、肥後は半自治国となった。
ですが国人たちに影響力を持つ2大勢力として、相良氏と阿蘇氏があったのです。

相良氏と阿蘇氏さえ潰せば、肥後国人は「抵抗を続けるより服属して領地安堵する道」を選択します。
卑怯でも根性無しでもありません。「強きに従う」それが国人というものなんです。

ウィキペディアでは「島津が肥後統一を狙って」「初めに阿蘇潰しありき」のようなニュアンスで書かれています。
確かに阿蘇氏は大友サイド(縁戚だった)でしたので、「大友VS島津」という構図のみから見れば、そうなります。

「三州(薩摩・大隅・日向)統一」は、島津が題目のように唱えていた悲願でした。
ですが肥後の場合は統一が目的ではなく「時の勢い」というもので、島津自身にも制御できない奔流のようなものだったと思います。

繰り返すようですが、島津を都合3度も裏切り続けたのは、相良義陽の方なんです。
怒った島津が実力を蓄えた時点で、相良へ報復するのは当然のことでしょう。

そして相良を降すほどの力を持つ者が出現すれば、肥後国人は続々と帰属・服属するので、
そうなると島津内部でも「もう、このままイケイケ領土拡大」という主戦論が占める。
相良が実質降伏し島津が勢力拡大するに伴い、じょじょに阿蘇領は浸食されていた。
家紋・阿蘇
(ロン様作成:阿蘇氏家紋ロゴ)

筆頭家老・甲斐宗運は大友から龍造寺に乗り換え、和睦交渉で時間稼ぎしつつ粘っていた。

天正11(1583)年、この大事な時期に当主・阿蘇惟将が子供の無いまま死亡~Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
天正12(1584)年3月18日、沖田畷の戦いで同盟相手の龍造寺が島津氏に大敗北~Σ( ̄▲ ̄ノ)ノひぃっ
ちなみに、この前後くらいに相良忠房クン(兄)と頼房クン(弟)は、人質の任を解かれて人吉に帰ってたようです^^b

同年?月?日、家督を継いでから一か月後、弟の阿蘇惟種が45歳の働き盛りで死亡。
嫡男・惟光は僅か2歳~(TOT)あぅっ
天正13(1585)年7月3日~トドメ!阿蘇筆頭家老・甲斐宗運が死去!ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

宗運の跡を継いだ息子は(残念な器量)となっているが、そうでなく普通レベルでも阿蘇氏の難局は乗り切るのは不可能だろう。
「もう少し粘れば九州の役で島津征伐されたのに~」という考えは甘い。

なぜなら関白・豊臣秀吉は神社系武家を一つ残さず潰すつもりだったからだ。
軍事力を持つ宗教勢力に各戦国大名は手こずり振り回されていた。
誰が天下人になっても秀吉と同じ事をしただろう。

阿蘇氏が『武家として』生き残る方法「個人的推測」^^
 ・阿蘇神社の大宮司であることを放棄する
 ・阿蘇領地の全てを関白に献上
 ・幼少の当主・惟光を人質として大坂に留め置く
 ・四国か東北のどっかに2~3万石ほどで、阿蘇とは一切地縁の無いとこに領地替えする

ここまでやって、秀吉の御機嫌な時(秀吉は気分のアップダウンが超激しい)に交渉すれば「可能性はあるかも」という状態。
この「生き残る方法」は「阿蘇氏が阿蘇氏であることを止めること」だ。
とても実行できるものではないが、甲斐宗運が存命していれば「やってのけた」かもしれない。

かつて阿蘇氏は守護職・菊池氏の家督に首を突っ込み、そのために兄・惟長と弟・惟豊が家督争いとなった。
16代目・相良義滋と宇土の名和氏は、兄・惟長派だった。
もし惟長派が勝利すれば、相良・名和・阿蘇の三ケ国連合が、肥後を支配したかもしれない。
(とはいえ相良と名和の間には、豊福城問題があったので、これはこれで実現が難しい^^;)

阿蘇の家督争いを制したのは甲斐家を味方にした弟・阿蘇惟豊。
甲斐家は元々、菊池家庶流。
本家菊池氏と家督争いに敗れ、南北朝時代でもリベンジ失敗。
歴代甲斐当主は「いつか肥後に帰る(;;)」と、高千穂で黙々と実力を蓄えていたんです。

阿蘇惟豊に接触することで「念願の肥後入り」を果たした(甲斐宗運ダディの代)ので、
甲斐宗運にとって阿蘇氏は、何よりも・・・我が子の命よりも大事な主家だったのだ。

以降の阿蘇氏の家督は,甲斐家という守護神に支えられた惟豊系が続く。
甲斐家と惟豊系阿蘇氏は、まるで前世からの縁で結ばれた伴侶同士のようだ・・・
甲斐家を得て興隆した惟豊系阿蘇氏は、甲斐家が力を失うとともに、戦国大名としての命脈を失うのである。

家紋・甲斐
(ロン様作成:甲斐氏家紋ロゴ)

天正13(1585)年・・甲斐宗運が死亡し衰退まっしぐらの阿蘇氏だが、相良家でも御家存亡に関わる一大事が起きる。
それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房2_戦の前には和睦ありき 】

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる
同年6月13日、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れる

同年11月20日、甲斐宗運が島津に和睦を申し入れる。

上記の島津に対する甲斐の和睦申し入れだが、甲斐は本気で和睦するつもりじゃなかったらしい。

甲斐宗運は11月20日に島津家久(4兄弟末弟)に和睦を申し入れ、承諾されます。

すると甲斐は22日に「旧領(おそらく宇土半島)を返して( ̄∀ ̄)テヘ」と求めます。

島津諸将は家久に
「普通ならば領地を献じて降伏を乞うべきを、逆に土地を求めるなど無礼なるかな。これを許してはなりません(怒」
と述べ、家久も当然承服しません。

さらに甲斐は使者を出し「敢えて土地は求めません。願わくは宇土に庇せん*人 ̄▽)♪(宇土を格護したいの意か?)」と伝えてきます。

家久は「汝の子を必ず人質に出し、隈部氏を討つべし」と返しますが、

甲斐は「願わくば(島津が)隈部氏を討って下さい(ソッチデヤッテ)」

とまぁ、こんな感じで、のらりくらりと相手を食ったような返事をし時間稼ぎをしていた。


時間稼ぎには2つのパターンがある。

1・歯医者の予約のように嫌なことを先延ばしたいだけ
2・いま粘れば援軍(この場合は龍造寺)が来る
主君・阿蘇氏の縁戚だった大友家に見切りを付けて、龍造寺家に友誼を通じた甲斐宗運。

龍造寺氏が自前の水軍で、海路やってくるのを知ってたんじゃないだろうか。
(有明海は台風時期でなければ大丈夫^^)

甲斐宗運の死亡時期には天正11(1583)年説と天正13(1585)年説がある。

そして甲斐宗運は遺言で「島津には決してこちらから戦いを仕掛けず、矢部(阿蘇氏の本拠地)に篭って守勢に徹し、天下を統一する者が現れるまで持ちこたえるように」と言い残していたそうだ。

いずれにせよ、甲斐宗運は阿蘇氏単独で島津と戦になるのを、何とか避けようとしていたんです。

甲斐が島津を焦らせてるうちに明けて天正11(1583)年
3月2日、秋月種実が島津義久に談合の申し入れをする。

同年3月21日、忠房と共に頼房・深水宗芳・犬童頼安が鹿児島の義久に謁見。
引き出物を献じた後に頼房の宿所へ伊集院忠棟・本田親貞・上井覚兼が訪ねてプチ宴会。
オジサンの宴会席に畏まっているのは、子供にはキツかったろうなぁ^^;

同年7月21日、龍造寺信が前年10月から揉めてた田尻氏と和睦
同年9月27日、秋月種実から隈本へ使者派遣⇒龍造寺と島津との和睦仲介の申し入れ。

秋月使者の口上「共に大友義統を討つならば、龍造寺家と秋月家は島津家を九州之守護を仰ぎ奉ることでしょう」m(_ _)m
あくまでもハブられる大友家,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同年10月9日~島津側が和睦を受け入れる
同年10月22日~秋月使者が(帰路)八代へ入る
この9日~22日の間に竜造寺と島津の和睦が成立したらしい、国境は菊池川と決まった。
あり?国人たちは強制的に、島津か龍造寺のどっちかに入るわけ?!

龍造寺と島津が秋月種実の仲介により手打ちとなり、肥後は一時的に落ち着いたかのように見えた。

ところが、そうは問屋が卸さない~~~~~~~~

天正11(1583)年・・・この年、阿蘇家の当主・阿蘇惟将が死亡した。
相良家のかつての同盟相手・阿蘇氏の没落が始まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房1_プロローグ 】

まもなく「戦国」という一つの時代が終わろうとしているのを、認識している人が果たして何人いただろうか。
「終わったと思えば、忘れたころに戦」で、その時代を生きた人には明確な線引きは不可能だろう。

また戦国時代の牽引力となった国人たちは、その存在役割を終えようとしていた。
封建体制・中央集権国家を目指す者にとって、「独立自尊」の気概をもって戦国大名の家臣になるのを拒む国人領主は邪魔なものでしかない。

「天下人」の目指す「新たな国家像」は、日本各地の国人たちの血と肉で贖われた。
その天下人の断固たる意志と権威確立のために、火の国・肥後が最初の贄(にえ)として捧げられようとしている。
激しく動く時代の中で、少年当主を戴く相良家は大海に浮かぶ小舟のように揺れ動く。

九州の役・天草&肥後国人一揆・梅竹一揆・朝鮮の役・庄内の乱・関ヶ原の戦い
君ナラ生キ残ルコトガデキルカ?
「相良頼房の章」スタート。


5話で死んじゃう義陽の嫡男・忠房クン(しかも最後は猫騒動^^;)ですが、新章は義陽の死んだ翌年に戻ります。

新章の頼房(よりふさ)は、義陽の次男で生母(側室)は忠房と同じです。
武家で嫡男の扱いが別格なのは言うまでも無いのですが、実は次男と3男以下の扱いにも差があります。
というのも次男は嫡男に万が一あったときの大事なストックだからです。

島津家だと4兄弟の長兄・義久と次男・義弘は、日新斎ジーちゃんの膝元で一緒に薫陶受けてます。

相良家が島津家に降伏した時に、人質として差し出す人選に嫡男・忠房だけでなく次男・頼房も要求したのは、そういった背景もあるんです。

嫡男・忠房クンは天正10(1582)年に家督を継いだのですが、弟・頼房と共に薩州家(島津分家筆頭)預かりのままで、そのまま出水城に留まってたようです。

事情も家臣の気質も違うんですが、徳川家康(竹千代クン)が今川家人質で、三河武士団が留守を守ってたのと似てます^^

てことで竹千代クンにとっての鳥居忠吉にあたるのが、
相良忠房・頼房兄弟における深水宗芳と犬童頼安になります。

戦国時代に少年当主で、しかも当主自身が人質で不在なんです。
深水宗芳と犬童頼安がいなければ相良家は潰れるか、島津に完全に吸収されていたでしょう。

深水宗芳(50歳)は17代当主晴広の13回忌の折に剃髪しましたが、
犬童頼安は18代当主義陽の死後に、二度目の剃髪をしました。
(一度目は子供の時で成長後に還俗して(詳細略・経歴は記事アップ済)武士になった)

剃髪したから名前も変わったんだけど、自分が混乱するので当分、犬童は頼安で通します^^;
でもって犬童は響野原の義陽の討たれた場所に、義陽の廟所を建ててます。
そこは街道だった為に人馬が通るのを勿体ないとして、豊福の人夫に土を盛らせて廟所を建てさせました。

犬童にすれば一度謀反に加担して出奔してた自分を帰参させるだけでなく、その能力を認めて引き立ててくれた事に感謝してたんでしょう。

元々犬童一族にとって、義陽の相良家は仇でした(だから復讐の為に謀反加担した)
その恩讐を凌駕するほどの恩を義陽から受けた・・・と考えてたかもです。

天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる。
同年6月13日、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れる
この中央政界、驚天動地の一大事が余波となって、九州に影響する。

織田信長の介入によって、渋々(--怒)大友と和睦した島津家。
大友宗麟にすれば織田家の力を借りて島津を退けようとしてたのに、まさに泣きっ面に蜂状態。

島津にすれば五月蠅い魔王蠅がいなくなって、豊後侵攻を阻む者がいなくなったのだが、島津の矛先は肥後に向いていた。

同年?月?日~天草鎮尚が死亡し嫡男・久種が家督を継ぐ。
天草氏は大蔵系氏族です~

はっきりした記録は探せなかったのですが、鎮尚の鎮は大友宗麟からの偏諱のようです。
(一時期、大友家が天草諸島に介入したことがある)

武家家伝・天草氏では「響野原の戦い」で天草氏が相良家に助勢し奮戦したとありますが、これは違います。
天草鎮尚は既に相良家に見切りをつけて、島津配下となってます。

ただ鎮尚の弟が兄貴と大ゲンカし(鎮尚のキリシタン洗礼に大反対)天草家を出て相良家に帰属してました。
奮戦し義陽と共に響野原で散ったのは、この鎮尚弟で、翌年に後を追うように兄も死亡したんです。

家督を継いだ久種の年齢は不明ですが、島津義久に付き従い転戦してたようなので、相良兄弟のように若年だったかもしれません。

同年?月?日、天草諸島で龍造寺サイドだった大矢野氏が島津家に降伏する。
同年10月~12月上旬、龍造寺隆信~赤星の人質(娘8歳・息子14歳)を誤解から磔にして殺す・・・悲憤の赤星は龍造寺サイドから島津サイドへ寝返る。
同年11月22日、甲斐宗運が島津に和睦を申し入れる。
島津と龍造寺の対決が刻一刻と近づいていくなか、相良家では3月に湯山騒動⇒4月老女の呪詛で猫騒動^^;

さらに8月27日に亡き義陽の長女・虎満が18歳で死亡し喪中が続く~_| ̄|○ il||li がくぅ

つまるところ「義陽の死⇒義陽の弟が挙兵」の痛手でから、未だ人心が不安定だったのだが、
それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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