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【相良頼房20_アウグスティヌス~天草国人一揆1】

天草一揆というと「島原(と天草)の乱」が圧倒的に有名で、天正年間に起きた「天草国人一揆」を知る人は少ない。
知ってるのは戦国マニアくらいで、それでもローカル戦史ゆえに中身まで調べる人は少ない^^;
この合戦に相良家はチラとも出て来ないのだが、全盛期相良氏の配下だった天草5人衆、その後を辿りたいと思う。

天草5人衆は相良家が島津に降伏するのに前後して、島津配下となった。
その後「九州の役」で関白に降伏し、領地安堵される。

一番リアクションが早かったのは天草氏で、秋月(人名)降伏の4月に筑前・秋月(地名)へ赴き、いち早く秀吉に降っている。
相良が天草諸島に介入したのは16代義滋からで、その相良家も20代頼房の代。
天草5人衆も世代交代し天正16(1588)年現在は、志岐麟泉、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高の5人だった。

天正16(1588)年「肥後国人一揆」の残党も鎮圧され、閏5月14日に責を問われた佐々成政が切腹。
天草5人衆は「肥後国人一揆不参加」だったので、引き続き領地安堵で関白・秀吉から朱印状ゲッツ(* ̄・ ̄*)Vブイ

一方、同年9月に肥後の国分けが決定。

相良家~肥後一揆における島津進軍妨害は不問。引き続き球磨2万石安堵。
加藤清正~肥後北半国19万5千石拝領。
小西行長~肥後南半国(宇土、益城、八代)約20万石拝領。

まったくウィキペディアときたら、どっちも半国、半国と相良家をカウントしてな・・ゴニョゴニョ

でもって大雑把なウィキペディアには記述されてないのだが、

実は小西領であるはずの八代の一部が加藤清正差配になっている
加藤清正差配の八代とは、旧相良家臣八代衆のことです~

亡き相良義陽が降伏した時に八代は島津家へ割譲され、八代衆は島津配下となった。
島津が秀吉に降伏後~肥後国人一揆までの間「八代13人衆」が、どこに帰属していたかは不明。
(普通に考えれば「佐々成政預かり」かなぁ)

9月の朱印状によると「八代13人衆(正しくは14人)」&「八代30人衆」が加藤清正幕下。

八代13人衆は八代の旧相良家老臣(奉行クラス)連中で固められ合計890石。
八代30人衆は葦北などの連中(奉行ほどの身分では無い)が含まれ併せて合計750石。
合計で1640石。

八代が小西領でありながら、旧相良家臣は加藤清正幕下で「変則的な飛び地」状態だった。
この複雑な状況にした秀吉の考えは「清正を島津の抑え」ってことかなぁ~(-ω-;)ウーン

佐々成政以降の国分けで、相良家の気苦労が倍増したのは想像に難くない^^;
超負けず嫌いの若き猛虎・加藤清正は、小西行長にライバル意識ムキ出しで噛みついてくる。
小西と加藤、双方に気配り+御機嫌損ねた島津家とも融和に務め、と「小国の悲哀」が漂う。

トラブルの記録が無いとことみると、相良家は「まだ勝手が慣れぬ小国外交をソツなく熟してた模様」



さて小西行長だが、一番知られている経歴はキリシタン大名ってことで、洗礼名は記事タイトルのアウグスティヌス。

実は小西行長が元宇喜多家臣であるという経歴は意外に知られていない。
さらに宇喜多秀家公・元服のおりに「髪結役」だったのは、もっと知られてない^^;
秀吉に見いだされ宇喜多家からヘッドハンティングの直参。
元家臣ってことで秀家公の髪結役になった。

それと加藤清正が小西に噛みつく時に「薬屋!」と罵るのも、全くの間違いではない。
和泉国堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれたからです。
行長の父・小西隆佐を最初に見出したのは宇喜多直家のようです。(商いで宇喜多家にも出入りしてた)

つまり小西家は「商人⇒武士」となった家。
だからといって小西家の武勇は侮れるものでは無い。
九州の関ヶ原の一つ「宇土城攻防戦」で、加藤清正は宇土城を落とすことは遂に出来なかった。
(主戦場の関ヶ原が敗れたので宇土城は降伏開城した)

相手の武勇にケチをつけられないとなったら、悪口は「相手の出自」。
「お前のカァチャン、出○ソ」レベルの因縁しかない^^;

さらに小西行長の娘は対馬の宗義智に嫁いでいる(関ヶ原後に離縁)。
その宗義智は関白から「李氏朝鮮を服属させるように(天正15(1587)年ころ)」との命令を受けており、
義調(宗義智の養父ともあるが詳細不明)、小西行長、島井宗室らと共に交渉を始めている(ただし捗々しくない)

つまり秀吉が肥後に小西を配したのは「近い将来ある唐入り」を考慮してのことだ。
天草国人一揆は、そういう秀吉の思惑と政治背景が絡んだ陰謀だったのではないだろうか?

天正17(1589)年の秋、小西行長は宇土城の補修を行っていた。
当時の宇土城は中世つまり古いタイプの城で、要害など諸事不便~手を入れる必要があったんです。

小西行長は天草本渡城主・天草種元と志岐城主・志岐麟泉に普請を手伝うよう遣いを出した。


管理人の中で、ここがひっかかった。
亡き肥後国主たる佐々成政が、肥後国人たちに検地~もしくは城普請~って言うなら解る。
なぜなら佐々は肥後国人を家臣化しようといていたから。
(失敗して一揆になった)

だが天草地方は小西行長の領地ではない。
それとも天草5人衆は小西の与力だったのかな?
位置的に与力になっても不思議ではないから、記述が無いだけで、そうだったのかもしれない。

肝心なのは天草5人衆も、肥後国人たちのように「秀吉から領地安堵の朱印状」を貰っている、という点だ
領主の立場ですらない小西が、天草5人衆に「普請諸役を求めても」拒否されるのは火を見るより明らかだ。

賢い小西行長が「無茶振りした」のは、「天草5人衆を成敗し天草領を己が物にする」ためではないのか
「入府早々で一揆が起きた」のは「佐々も小西も変わらない」「自力で鎮圧できなかった」のも同じだ。
「だが佐々は切腹」で、「小西は処断されていない」。
(もっとも肥後国人一揆は政治的時期が激マズイというのが大きい)

それは秀吉にとって「唐入り」で小西が必要な人材であるというだけでない。
渡海時における要衝地・天草諸島を、田舎国人が分割統治していては不便極まりない。

何より天草5人衆と秀吉は「秀吉の意図を理解するだけの人間関係がない」
「唐入り」を命じても、天草衆は(@@)は目をパチクリさせるだろう。

天草5人衆に難癖つけて領地召し上げ⇒小西領に組み入れ来る唐入りに備える
天草国人一揆こそが「秀吉と、その意を汲んだアウグスティヌス・小西」の仕組んだ陰謀ではないだろうか?

だが両人(天草と志岐)これ(宇土城の普請手伝いという小西の申し出)を嘲り
「一昨年、関白殿下が薩摩へ御動座の際に、我らは筑前秋月へ向いすぐさま拝褐し、殿下が御帰洛の砌(みぎり)に御朱印を賜っております。
故に公儀(豊臣政権)の御普請であれば小西殿の下知に従いまするが、小西殿の私的な普請は承りかねます。
また我らとて、相応の疲城とはいえ城持ちですので、修理経営に領内の百姓らを貸す暇もないのです」と返答した。

小西は天草と志岐の返答に憤り、秀吉へ訴える(この辺りが佐々と違い如才ない)
関白・秀吉「左様な奴らは誅伐を加えよ」と下知した
大義名分を得たアウグスティヌスは、同じキリシタンである天草5人衆の成敗を開始るすのだが、それは・またの話 by^-^sio
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【相良頼房19_相良が一揆?!】

さて、肥後一揆における我らが相良家ですが、「求麻外史」に僅かに記述があるのみで、詳細不明です。
(ゴメン、相良家文書の読み下しは追いついてない^^;)
まぁ、とりあえず「相(総)じて良い子」にしてたらしい(*´艸`)~

そんな相良家の元へ佐々成政から援軍依頼
【島津が攻撃してくるから防いで~( ̄人 ̄)☆彡~~】

管理人が面白いと思うのは「島津が一揆加担」というのを
「相良家の誰も疑わなかった」ってところ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
いやぁ、やっぱ日頃の(肥後侵攻・豊後侵攻)イメージって大きいですね~*人 ̄▽)♪

冗談はさておき島津家では肥後で配下になった国人たちを解雇せずに、そのまま島津家臣団に組み入れた・・・と言われている。
そのために江戸期の薩摩藩では武士階級のエンゲル係数が他藩より過剰・飽和状態だったらしい。

らしい・・というのは個別事例をリサーチしてないもんで^^;

参考例で言うと、菱刈家が「相良家臣・菱刈家(庶流)」と「島津家臣・菱刈家(嫡流)」に別れたような事例が発生したって事です。
肥後国人たちは在郷して加藤家、小西家、細川家に仕えたり、帰農したり、諸々の一揆に参加したり、遥か後年島原の乱に参加したり、島津家臣になったりと分散した。
(大名の直参家臣ではなく、陪臣になった者もいただろう)

そうなると、縁戚・親戚・一族郎党の人脈は途切れてないから、
「肥後で一揆あれば島津に影響」「島津で一揆あれば肥後に影響」する。

だから佐々から援軍依頼があった時に「一揆が島津に飛び火した」のが自然過ぎて「確認しなきゃ」って発想が浮かばなかった。

てか、人に援軍を請う以上、「確認する」のは佐々成政の責務だろう。
まさか「佐々の勘違い・早とちり」とは【想定外】
島津的には「実に心外・無礼千万」な話で、怒るのも無理はない。

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

相良家重臣・深水宗芳の唯一の手抜かりは「一揆討伐軍奉行・黒田官兵衛に事前報告してなかった」ことです。
ところが肝心の黒田官兵衛は、御膝元の豊前・中津で城井鎮房による一揆(肥後国人一揆に呼応)発生。
クロカン「はぅっ!( Д )  ゚  ゚」ってことで、中津から離れられなくなった。

小倉の毛利勝信も軍奉行の一人ではあるが毛利絡みで西国に顔が利く黒田とは違い、相良とは交流なくて人脈無し。

さらに「肥後国主たる佐々成政の頭越しに報告」ってのは・・・
今後の佐々との関係を考慮すると、ちと躊躇うものがある。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

とりあえず肥後国主・佐々の依頼通りにしてれば間違いなかろう~~で相良家出陣。

援軍といえば、最盛期の島津軍は10~3万、大隅・薩摩に押し込められた後は1万(参照:朝鮮の役)。
関白に「佐々を援軍せよ」と命じられたからといって、馬鹿正直に全軍を出す御人好しはいない。
「島津義弘+伊集院忠棟(島津筆頭家老)で~2千から3千くらいってとこかな?

相良の武勇は猛将・島津義弘も認めるところ、佐敷で島津の進軍を阻んでしまった。
戦い終わって日が暮れて~蓋を開けて~隈部ら一揆の主だったメンバーが処断されてみますれば~
島津は「一揆加担」どころか「関白の命で佐々への援軍」だった。

相良家「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! 阻ンジャッタ・邪魔シチャタ」

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

天正16(1588)年2月~島津から石田三成、細川藤孝へ
「相良の軍勢差し止めは一揆行動である!
討ち果たすべき対象と見なされるから、相良頼房が大坂へ上がった際には糾弾すべき!」と訴える

「一揆勢と思われた」だなんて「心外の極み」~島津家は超ご立腹~

後年の話ですが、頼房クンは島津との関係融和に頑張ってます^^;

三成、藤孝は4月に新納忠元へ~
義弘の行軍時の苦労・手柄を褒めると共に、三成・藤孝共に頼房の行動を逆心と見做しており、
義弘が上洛した暁には、その辺りの事情について対談し、秀吉の耳にも入れる心算である~と返事


ひーーっ深水宗芳は アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ 急遽大坂入り~
秀吉に陳謝~m(_ _)m~必死に謝罪し、何とか「御咎め無し」の言質をとることに成功する。

佐々が切腹したのは同年閏5月14日~その前から佐々の処断は噂されていました。
佐々への処罰が下った後では、相良も一緒に吊し上げくらうので、深水が上洛したのは佐々切腹前でしょう。

この年の2月9日に足利義昭が室町将軍職を朝廷に返上し、正式に室町幕府が終わりました。
そして4月14日に後陽成天皇が一度目の聚楽第行幸で、関白・秀吉は得意の絶頂~ヾ(  ̄▽)ゞキョホホホホホ
深水が訪れた頃は「超御機嫌な時期」だったんです。

豊臣秀吉は正規の武家の産まれでないし、さらに家臣から成り上がった地金がどうしても出る。
秀吉に物申す時には「御機嫌・不機嫌」のタイミングを見計らうのが非常に難しい。
信長よりも秀吉の方が仕えづらい・・・と感じるのは管理人だけ?^^;

肥後国人一揆は終息した・・・だが今度は天草国人一揆発生、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房18_終息~肥後国人一揆5】

茶臼山(現・熊本城本丸跡)での戦いで一揆勢に勝利した佐々成政。
この戦いで甲斐宗立(亡き宗運の息子)も敗死し、甲斐家は主家・阿蘇氏に先立ち滅亡した。
だが一揆勢全てを殲滅したわけではなく、未だ籠城している山鹿(城村)城に対する付城も兵糧が尽きかけていた。

佐々成政は兵糧を運びに動けず、柳川の立花統虎(むねとら・宗茂のこと)へ援けを頼み、
更に関白・秀吉へも一揆の蜂起を報告した。(内緒で治めるられる段階ではない)


立花統虎は柳川に入部したばかりであるが、人数を集めて武士200、雑兵1800で肥後境まで出陣した。
報告を聞いた関白・秀吉「急ぎ四国、中国、九州の諸将を一揆退治に差し向けよ!」と命令。

四国衆は浅野長政、安国寺恵瓊、
九州衆は小早川隆景、小早川秀包(この頃は隆景の養子)、立花統虎、高橋統増(立花の実弟)
その他近国の諸氏が肥後へ出陣する。


軍奉行は中津の黒田考高(隠居前で現役)、小倉の毛利勝信(大坂の陣の勝永ダディ)である。
ちなみに龍造寺政家は病であり、名代として江上家清、龍造寺家晴が佐嘉勢を率いて出陣した。


9月7日~立花統虎は佐々成政の付城へ兵糧を運び入れようとしたが、
敵城より有働志摩守勢が討ち出て、永野原の道を通る立花勢を追い掛け、立花統虎へ襲い掛かる。

このとき立花勢は、内十但馬守らが立花統虎より先に進み過ぎ、
小野和泉守(鎮幸)が後ろ過ぎてまだ来ていなかったのであるが、内十但馬らが引き返し、小野和泉らが追い付くと、有働は前後より挟撃される形になり、討ち負けて逃散した。


・・・・内十但馬守って誰?!!
答え:立花四天王・十時連貞の一族です~十時但馬は「朝鮮の役」にも従軍してます^-^

立花統虎は手負いを援けながら、既に南関(玉名郡)にありながらも引き返したが、これに大田黒城の有働左近将監が城から打って出て矢を射掛ける。

統虎は油布上総守(由布惟信=立花四天王筆頭)らに下知して300人でこれを追い払うと、
そのまま城へ切り上がり、その日の酉の刻(pm18:00頃)に城を攻め落とした。


城将・大知越前守は立花家臣・池辺龍右衛門に組み伏せられ討たれた。
立花勢は勝ち鬨を上げて北関(国境)へ帰陣した。


11月下旬、一揆の棟梁・隈部親泰はなおも山鹿へ籠城していたが、
浅野長政、安国寺恵瓊が「怨敵の思いを翻して開城降参されれば、我らの計らいを以って上に取りなし、本領安堵させましょう」
と方便(テキトーな事)を述べると、


隈部親泰はすぐさま城を明け渡し、有働兼元、有働志摩守、北里三河守、北里式部少輔ら4人と降人となった。
そして主従80余人を従えて浅野・安国寺と共に上洛しようとするが、
豊前の小倉にて明日出船という晩、毛利壱岐守(勝信)の家臣らに取り囲まれ、一人残らず討ち果たされた。


また、隈部親永、内空閑鎮房、有働一族10余人はみな柳川城へ入れられ、立花統虎に預け置かれた。

最終的に一揆勢は、ことごとく殺された。
12月に秀吉は朝廷へ一揆鎮圧の報告をしているが、実際には残党が各地におり、肥後は不穏な状態が続いています。

で相良家ですが実は肥後一揆で、とんでもないドジをやらかすのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房17_甲斐氏滅亡~肥後国人一揆4】

佐々「検地させろ」
隈部「やなこったo( ̄ー ̄θ★ケリッ」
隈部の嫌がり具合を見てると、隠し田でもあったんじゃ・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

邪推はさておき真面目に・・・肥後国人は秀吉から朱印状を貰い領地を安堵された。
江戸期風に言うと豊臣政権の直参です。

彼らは、肥後国主に任命された「佐々成政の与力」だと思ってたかもしれない。
与力は佐々の家臣ではありません(主君から譲り受けて家臣化することはある)。

彼らの領地は豊臣政権の代官地でもありませんし、佐々も代官ではありません。
従って佐々が国人たちの土地を検地する・・・

と言うのは国人の感覚では有り得ない。
せめて佐々が「秀吉から一筆貰っておけば」「隈部の反応は違ったかも」です。

隈部が「隠し田」を持っていれば「逆切れ一揆」で結果に変化は無くとも、
秀吉への事前根回しアリなので、佐々のみが処断される最悪の事態は回避できたかもしれません。
つまるところ「肥後国主」という呼称では、国人から見て佐々の権限が何処までなのか曖昧なんです。

秀吉が佐々にイジワルで国主にした・・・とは管理人は思いません。
九州という田舎の国人を従わせるためには「国主」という権威が効果的だと配慮したんじゃないでしょうか。

だが国人たちのプライドは秀吉(と佐々)の予想の斜め上を行き、
「佐々の検地なぞ受け入れる謂れは無い」と判断しちゃた_| ̄|○ il||li がくぅ

佐々が隈部を攻撃したために、国人たちは「明日は我が身」と緊張が走った。
そんな中で隈府の浪人・菊池香右衛門が御船城の甲斐宗立(甲斐宗運の息子)を動かそう!と会見した。

菊池「(大意)佐々は国中の所領を掠め取ろうとしてます(※国人たちの誤解です)
これを関白に訴えるために一揆しましょう!」

甲斐宗運の息子・宗立が「凡庸」と評価されるのは、この菊池の言葉に同意したことでも窺えます。
亡き宗運なら主家・阿蘇氏を第一義に考えるので、軽軽に一揆に加担したりはしないでしょう。
宗運に限らず名将の不敗神話というのは「時が熟すまで待つだけの胆力」があるからです。

腐っても鯛・・・失礼、息子でも甲斐(余計に失礼か?)

甲斐宗立が近隣に呼び掛けると、玉名の小代親泰、阿蘇一族の下城摂津守、北里三河守ら、今回所領から離された者らは、鬱憤を晴らす時がきたと悦び、方々より馳せ参じて来た。

って北肥戦誌にあるんだが、玉名の小代親泰は秀吉に召し出されて在大坂で一揆不参加なんです。
(だから潰されずに生き残った)
困ったことに大坂にいる小代親泰の名が、この後も北肥戦誌にチョコチョコ出てくる( ̄ー ̄A 汗フキフキ
どうやら小代氏は一枚岩では無く、親泰の意向に関係無く一族が一揆に参加してたようです。
原文を改変することになりますが、一部管理人補正するのを御了承下さいm(_ _)m

多勢となった一揆は8月12日、佐々成政が留守の隈本城を三方から囲み鬨の声を上げた。
城内は思いも寄らず周章狼狽する。

寄せ手(一揆側)は鉄砲を打ち掛けながら攻め入り、二の丸を焼き落としたが(隈本)城兵も矢玉を雨の如くに浴びせたため、それ以上は破り得なかった。

報告を受けた佐々成政は、まず佐々興左衛門を隈本城へ帰し、自分はそのまま山鹿城(隈部らが籠る)の押さえとなった。
だが佐々興左衛門は、内空閑鎮房(うちくが しげふさ~隈部親泰の兄弟)に途中で遮られて討ち死!

佐々成政_| ̄|○ il||li がくぅ「あぅ~~興左衛門~ワシの甥っ子がぁ~~~」
佐々「おのれ~~一揆ども~~(* ̄▲ ̄*)凸 甥の仇だ!隈本へ帰って討つべし!!」

(佐々は)8月13日の暮れから山鹿の東西に付城を構えて、人数800を残した上で、自らは15日に陣を引き払う。

その際、本道を通れば内空閑勢に遭うと思い、迂回して茶臼山へ登って隈本城へ入ろうとした。
一揆勢はこれを幸いと、茶臼山でこれを迎撃し6~7度戦う。

佐々勢が敗れかけた時、佐々方へ内通していた者小代(当主は在大坂で一族が一揆参加してたらしい)ら3名が、一揆を裏切って攻撃し始めた。

隈本城兵は内通の合図と気付き、城戸を開いて打って出ると、(佐々勢が)敵を三方から挟み撃ちにしたため、一揆は敗走する。

佐々成政はこれを追い立て、(一揆側)3900人が討ち取られた。
成政は勝ち鬨を上げて隈本城へ帰還した。
翌16日~佐々成政は甲斐の御船城を攻めるべく、家臣・松原五郎兵衛に軍勢を与えて差し向けた。


甲斐宗立は茶臼山の敗戦で痛手を負い、御船へ帰らず健軍社あたりに居たのだが、これを知って御船へ急行した処を松原勢に見つかった。
宗立は逃れ得ず、雑兵の手に掛かるよりはと、六嘉村の地蔵堂へ入り腹を切った。
家臣も共に腹を切ったか、或いは逃亡した為、御船はそのまま空地となった。

こうして甲斐家は滅んだ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。
家紋・甲斐
ロン様作成:甲斐家紋ロゴ

茶臼山の戦いで痛手・・・というのが手足に深手を負って身動き出来なくなってたらしい。
だから自害と言っても、ちゃんと自力で出来たかは疑問で、家臣が介錯という形で命を断ったのかもしれない。

熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2243に「六嘉の足手荒神(ろっかのあしでこうじん)」社(甲斐神社)がある。
傷を負った甲斐宗立が潜伏し、また切腹した・・・とされる場所だ。

社伝によると里人たちは厳しい追討の眼をくぐり、手足に深い傷を負った宗立に、手厚い看護の手を差し伸べた。
これに感動した宗立はその最後に臨んで、
「霊はこの地にとどまって、手足の病に悩むものあればこれをなおし、民草の守り神となろう」と言い残して果てた。
現斎主の祖先が、この遺言によって宗立の霊を祭り、あわせて父宗運を祭ったのが現在の甲斐神社の起こりだと言われている。

手足の病に霊験あり・・・。てことで、ご利益の願いを込めた足型、手型、平癒を喜び感謝を表す供え物、不要になったギブス、コルセット、松葉杖などが奉納されてます^^b

茶臼山では勝利した佐々軍だったが、隈部らが山鹿が籠城中な上に、隈部に同調した者により既に一揆は飛び火していた。

豊前~長野氏、
筑前~原田氏、麻生氏、宗像氏、
筑後~三池氏、蒲池氏、草野氏
肥前~草野氏、西郷氏、
肥後~赤星氏、和仁氏、永野氏、辺春氏

拡大する肥後国人一揆に関白・豊臣秀吉は威信にかけて討伐軍を編成するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房16_激突!肥後国人一揆3】

佐々「検地させろ」隈部「ヤダo( ̄ー ̄θ★ケリッ」で揉め、怒った隈部は城に引き籠って出仕拒否。
佐々は隈部と嫡男が不仲と知り嫡男へ「父を討ったら領地は安堵するぞ(* ̄ー ̄*)ニヤリ」と提案したのが逆効果。
息子たち「不和と言えど、子が父を討つなどできようか!こうなれば父子揃って一所にて討死すべし!」
まさに火に油~( ̄ー ̄A 汗フキフキ
天正15(1587)年7月24日~「ならば隈部を攻めん」と佐々成政は6000余騎を率いて、隈部親永の隈府城を攻めるべく取り掛かる。


隈部親永の家臣に多久大和守という者がいたのだが、突然に寝返り(理由不明)佐々勢を城内へ引き入れた。

このため城内は大混乱~~佐々勢に討ち負けて悉くが戦死した。
隈部親永は止む無く法体となって城外へ逃れた。

隈部の嫡男・親泰は佐々勢が父を攻めると知り、隈部親永の城の後方・玉祥寺原まで出陣したのだが、
既に落城しており一戦に及ばずで、間に合わなかった。
そのまま山鹿へ引き返すと、一族や浪人を集めて兵糧を用意の上で城へ立て籠もった。


それを知った佐々成政は「しゃらくさい!ガキもまとめて始末しろ!」
あ、間違い~これは悪役テンプレセリフ~~
【楽屋裏】ヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノ【佐々様・台本】

それを知った佐々成政は「急ぎこれも討つべし!」
と、8月7日に隈本城から出て山鹿へ着陣、まずは斥候を日輪寺山へ上げて城内を量らせ、
さらに足軽に鉄砲を打ち掛けさせると、その日は取り敢えず隈本城へ戻った。


8月12日、佐々は家臣の佐々興左衛門成能、佐々右馬助らに兵3000を与え山鹿へ向かわせた。
佐々興左衛門らは三方から城攻めを開始。

佐々右馬助が谷を上がり攻め入ると、これに城兵は崩されかけたが、
隈部親泰自身が槍を縦横に突いて廻った為に城兵が気を立て直すと、状況は逆転。


佐々右馬助は討ち死に、寄せ手は200余人の犠牲を出して敗走。
寄せ手が佐々へ注進すると、佐々はまた兵3000を率いて山鹿へ向った。


これを知った有働兼元(隈部親泰の兄弟)は佐々と勝負致さんと、こちらも3000を率いて佐々陣へ打ち入る。

(。 ̄ ・ ̄)=3 ヒュ~♪ 佐々と同数で勝負しようだなんて、肥後国人は鼻息荒いわぁ~

ところが今度は(有働勢が)進み過ぎた為に(深入りしすぎたらしい)打ち負け、山鹿へ引き退いた。
佐々はこれを追い掛け城を攻めたが、守りが堅固な為にその日は山鹿で夜を明かした。


佐々成政が隈部親子を攻めたと聞き知った国人らは「明日は我が身」と不安に駆られた。

そのとき隈府の浪人・菊池香右衛門が、隈部の事を聞いて、急ぎ御船の甲斐宗立(親英)に対面した。

*****甲斐宗立(親英)*****
亡き甲斐宗運の息子。
「こちらから島津に仕掛けるな」という甲斐の遺言無視したのは、この息子です^^;
父・宗運は苛烈すぎた・・・でもお蔭で阿蘇氏は、それまで無事だったんで一概に批判出来ない。

宗運は日向伊東氏に接近を試みた己の次男・三男・四男を誅殺。
父に反発し排除しようとした宗立(親英)までも宗運に殺されかけたが、家臣が必死で諌めて(嫡流が絶えちゃう)思いとどまった^^;
甲斐宗運毒殺説では、この殺されかけた宗立(親英)の妻が悲憤し、犯行を目論んだ(実行犯は宗立(親英)の娘)とされる。

主家・阿蘇氏が島津に敗れ、宗立(親英)も早々に島津に降伏~八代へ連行されてたのだが、
「九州の役」での戦後処理で御船の旧領を復活浮上~~<( ̄^ ̄)/
肥後国人一揆のころは御船城にいたんです。
************************

隈府の浪人・菊池香右衛門曰く
「佐々殿は、関白の上意と偽って国中の所領を掠め取って横領しようと考えているのでしょう。
ここに於いては一人も逃れられる侍はありますまい。
唇亡びて歯寒しとはこの事です。
これを関白へ訴える為にも、一揆を企て隈本城を攻めるべきです」と述べた。


あぁ・・・見事に噛み合ってない・・・(T0T) 
肥後国人が生き残るには、佐々の検地を受け入れ家臣になるしかないんです。
だって九州国分けで肥後は佐々に与えられたんだから(相良除く)

甲斐宗立(親英)は菊池の意見に同意すると、近在の国人たちに激を飛ばした~

腐っても・・ゲホグホ失礼!・・・息子でも甲斐。
阿蘇氏筆頭家老オーラの残滓が、国人たちを勇み立たせたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房15_勃発・肥後国人一揆2】

相良家文書は未確認なんだけど、とりあえず今まで調べた段階では、肥後国人一揆に関し相良側の記録には殆ど記述が無い。
てことで今回のメイン資料は「北肥戦誌」なのだが、この史書は江戸期に佐賀藩士が記したものなので、
肥後に関しては、時々??なミスがあるので管理人補正入れつつアップします。
見落としあったら御容赦願いますm(_ _)m

肥後国人一揆を理解するには、国人全般の知識がないと「秀吉陰謀説」に飛びついてしまうだろう。

佐々成政が国人に検地を強制しようとした理由は、超単純だと管理人は推測している。

理由1)佐々成政には蔵入地(領主個人が治める土地)が無かった
ただし全く無いわけではない、「蔵入地っぽい?候補地」はある~
それは秀吉が肥後人から召し上げた土地だ。(それらを全て佐々が貰えた、と過程する)

大まかな没収リスト:島津からは旧相良領の八代郡、相良家からは芦北郡、阿蘇氏からは本領4000町(矢部に300町残る)
前回「検地する・しない」で揉めた隈部親永は、約半分の800町に減らされた。(それでも肥後国人の中ではダントツ)
ジグソーパズルかパッチワークか、佐々の手元に残るのはツギハギ飛び地だらけの土地ばかり。

この状態から佐々本人の取り分(蔵入地)と、佐々家臣団へ配分するというのはキツイ。
それに入府早々というのは何かと金がかかる、最初の数年間は赤字経営を覚悟しないければならない。
毎年入る(であろう)租税の金額を掌握したい、と思うのは当然のことだろう。

理由2)佐々成政は肥後国全体の石高(実態)を知らなかった(じゃないかなぁ~と推測^^
例えば筑前なら「秋月氏」という勢力がいた。
筑前の新たな支配者は、秋月家の残した土地台帳や検地記録をベースにすれば当面は事足りる。

ところが肥後には一国を統一する者が出て来なかったため、土地台帳は50余人いたという肥後国人が個々に抑えている状態だ。
これでは肥後国全体の総石高が解らない。(あっちを足してこっちを足して・あれれ??聞いてた石高超えた~ホエ~てな事態が発生する)

理由3)佐々の都合にお構いなく、関白からは実務者レベルで粛々と「肥後一国分の軍役・諸役が課せられる~
佐々は勤めを果たす為に、その軍役・諸役を各国人に割り振らねばならない。
国人から不満が出ないように振り分けるには、やはり前もって検地して石高を知る必要があるんです。

理由4)肥後を兵農分離しようとした。

兵農分離とは国人の独立を認めない。
家臣になるか、ならないか、YESかNOの二択しかない。

というのが管理人の推測。

一方の肥後国人たちは「関白から朱印状を拝領している」ので、佐々の家臣になった覚えはサラサラ無い。
江戸期風に言うと直参のつもり。
関白が求めて来たら軍役・諸役を果たさねばならないが、佐々が軍役ウンヌン~とゴチャゴチャ言ってきても、家臣ではないので「何としても果たさなければならない義務」とは思っていない~

満座の席で隈部に「検地は御免蒙るo( ̄ー ̄θ★ケリッ」と一蹴された佐々成政。

佐々は隈部が嫡男・親泰を不仲だと知ると、親泰の元へ密使を送った。
佐々の密使「父を殺して味方に参じれば隈部本領を保証する」と伝える。

これに隈部親泰は弟の有働兼許・内空閑鎮房を招いて相談した。
「如何に不和とはいえ親を討つ法はない」「父子兄弟一所に討ち死にすべき」と定めた。
このような密使が来る以上は、佐々が隈部攻めを考えていることは疑う余地もない。対策を用意し始めた。

天正15(1587)年7月24日~ならば隈部を攻めんと、佐々成政は6000余騎を率いて隈部親永の城を攻めるべく取り掛かる~
これが・・肥後国人一揆が始まった瞬間だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房14_発端・肥後国人一揆1】

肥後戦国史で肥後国人一揆は外せない ( ー`дー´) キリッ

今回の典拠「北肥戦誌」ただし多少(??)な部分があるので、可能な限り管理人のほうで補正します~

さてさっそくですが、ウィキペディアには「佐々成政・肥後時代」として
天正15年(1587年)の九州の役で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた
(,,#゚Д゚):∴;'・,;`:ゴルァ!! ~球磨を安堵された相良家を幕下扱いすなぁ!!~

とはいえ、佐々成政本人が「肥後一国を与えられた」・・・と思っていたのは確かだろう。
天正15(1587)年6月2日に成政を肥後国主に任命する領地宛行状(楓軒文書簒)があるからです。

室町時代の支配感覚だと、守護職の下で各国人・小領主は「被官(家臣ではないが緩やかな従属関係にある)」になります。
国主たる佐々成政は、肥後国内の国人たちに号令をかける資格がある。
ところが室町感覚の厄介なところは、国人たちは国主(守護職)に絶対服従しなきゃならない・・・というほどの強い拘束力が無いことなんです。

むろん、その国主が往年の大内や大友のような実力があれば、大人しく良い子にしてます。
そうでない国主であれば、国人たちはソッポ向いて軍役・諸役には応じません。
気に入らない国主をスルーして幕府の御家人(直参)になる事も出来ます。
(国主の被官と幕府の御家人・・・立場が両属してもOKなの)

佐々は尾張人です。
肥後国人たちに「時代が変わった」という重大なニュアンスを口語で伝えるのは容易では無かったでしょう。

さらに不味いのが天下人・豊臣秀吉が「国人たちにも気前良く朱印状を下付した」ことです~
国人たちは天下人に領地を安堵された・・・つまり御家人になった・・・と解釈した~
(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ これが肥後じゃなく、スレっからし?の中央圏の武将だったらなぁ~~

人口の流入が激しい中央圏では、織田信長が兵農分離を推進したことで、国人の家臣化=室町体制感覚が抜けるのが速かった。
秀吉の「都合の良い時は太っ腹」なとこを見抜いて「朱印状を本物にする」ために「念押し」しただろうに。。( ̄  ̄)トオイメ。。

肥後は難治の国と言われ、ある意味「誰が治めても一揆発生」の確立が高い土地柄ではある。
とはいえ、佐々を国主に任命しておきながら、国人たちに秀吉が朱印状を発行してしまっては「不和の種」を撒くようなものだ。

秀吉は目障りな佐々成政を潰すつもりで肥後を与えた・・・という陰謀説もあるが、
秀吉は「九州の役を早く終わらせるため」に、朱印状を出した「だけ」なので、
そこから「一揆が勃発し佐々に責任とらせて処断する」ところまで「期待する」のはIF要素が多過ぎる。

豊臣秀吉に限らず「仕事の出来る男」というのは「あらゆる場面を想定し、可能な限り手段を講じるタイプ」であって「偶然の積み重ねに託したり」などしない。

佐々は「肥後国の戦国大名」になったつもりだった・・・~
肥後国人は「佐々を新しい守護職(服従する絶対的な義務・拘束力無し)だと思っていた~
肥後国人一揆は「時代の過渡期」にありがちな「意識の差」が産んだ悲劇ではないだろうか?

家紋・豊臣
ロン様作成:秀吉家紋ロゴ

天正15(1587)年7月1日~佐々成政は国人らを隈本城へ召集した。
佐々成政が今回秀吉の代理として命を与える旨を申し渡すと共に、国中の仕置の事など談じれば、何れも異議無く了承した。
その集まりの中に隈部親永も出仕していたのだが、成政は「御辺の領地は800町の御朱印である。
これに検地を入れて引き渡そう^-^」と述べた。


佐々が並み居る国人たちの中で隈部を名指ししたのは、
隈部家が、かつての肥後守護職菊池家の三家老といわれた家で、肥後の有力国人領主、土豪領主のなかで最も有力な地位を占めていたからだろう。(領地も肥後国人の中でダントツ)

だが、この申し出は「絶対に受けることが出来ない」ものだった
佐々の「検地を受け入れ」「朱印状を押し頂いたら」隈部は佐々の家臣となることを承知したことになる~

ちなみに秀吉が佐々へ「慎重な領国運営を求めた」というのは、宛名の不自然さから近年疑問視されている。
秀吉は九州を「唐入りの前線基地」と捉えていた・・・
佐々が秀吉の構想を耳にしていたなら、むしろ検地は一番先にやらねばならなかったはずです。

隈部親永は不機嫌に「その儀は関白殿下の上意にも、菊池・山鹿・山本の三郡にての800町を所有する事に相違ないとされました。検地の儀は御免あれ」と返したが、成政は承諾しなかった。
隈部(怒)「我らが領地は先規の如しであれば、成政の支配などとは心得難い。
その上、国中の侍の中で我が領地だけ検地を受けるとは面目が立たぬ。
まして持領を何故他人に手に依り検地されねばならぬのか」と言い捨てて席を立つと、直に居城へ帰り引き籠った~


室町感覚なら隈部の反応は正しい・・・家臣でもないのに検地を受け入れる謂れが無い。
毛利輝元も自国内を検地する時に、国人の益田に対し「益田のとこは検地しないから心配しないでね」と気遣いしているほどだ。
それほど国人は誇り高く・独立自尊の意識が強く、優秀・有力国人であればあるほど扱いが難しい。

佐々は焦っていました。
一刻も早く検地を敢行し、キッチリした領国支配体制を確立しなければならない。

唐入りのためではありません。
既に大坂城が築城され、引き続き聚楽第が築城され完成間近。

旧織田系家臣であれば、それらの城下に屋敷を建てねば・・・と頭を巡らすことであろう。(金子(きんす)を用立てねば・・・)
スピードを要求されるのは、旧織田系家臣なら大なり小なり魔王に叩き込まれている。

催促されてからでは遅いのだ。
石高に応じた諸役負担分を弾き出して目録奏上し、関白殿下の覚え目出度くしなければならない。

だが肥後人である隈部ら国人たちには「佐々が何故に急ぐのか」「その感覚が理解できない」
焦る佐々は入府早々の土地で謀を為そうとするのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房13_降伏の明暗】

菱刈源兵衛が「務めを最後まで果たしたい」と、島津家に行ったのには、
島津家の人質となっている菱刈本家当主(幼君)が心配だったのもあっただろう。
後年に菱刈源兵衛が島津から相良へ帰参する時には、島津家臣となっていた菱刈本家の行く末を見守った上で人吉へ帰っている。

さて天正15(1587)年の相良頼房、犬童頼安、内田、岡本頼氏は、菱刈と別れて球磨へと戻った。
同5月8日~弟・家久に続き、島津義久が降伏する~
島津義久は剃髪し名を龍伯と改め、川内・泰平寺にいる秀吉の元を訪れ正式に降伏した。

同5月9日~豊臣秀吉、島津義久へ薩摩国を安堵する~
で、同じ日に相良頼房の名代として深水宗芳が、秀吉への御機嫌伺いの為に泰平寺を訪れてたんです( ̄ko ̄)チイサナコエデ

う~~~~~ん、まさか島津義久と出くわす・・・はずないか。
でも島津の消息くらいは、深水の耳に入ったかもだなぁ ポリポリ(6 ̄・ ̄)

深水が秀吉に拝謁した際、由巴法橋という者が、宗芳を歌道の達者と紹介し、共に連歌を発句しあった。
それに感心した秀吉により津奈木・水俣を与えるとの朱印状が出された。

と、記録にあるんだが実際に朱印状を与えたかは、ハッキリしていない。
深水は後に水俣の代官になるので、それと混同しちゃったのかも^^
とにかく、秀吉は深水宗芳のことが甚く気に入り、そのことが後に相良家のピンチを救うことになるんです。

同5月15日~島津義久の末娘・亀寿が人質として上洛することが決定する~
この時から、亀寿姫の苦難に満ちた人生が始まったと言える。

家紋・島津
ロン様作成:島津家紋ロゴ

同5月22日~抵抗を続けていた島津義弘が降伏する~
義弘の長男・久保(後に亀寿と結婚する)が人質になる~
同5月26日~豊臣秀吉、島津義弘に大隅国を安堵する~
いっけん、温情があるような処置だが、弟の島津義弘に「新恩(大隅安堵)」を与えることによって、兄弟の分断を画策したんです。
秀吉の目論見は中り、島津家中は義久(長兄)派・義弘(次男)派に割れた。

同5月28日~相良頼房が深水宗芳を伴い、八代に着陣した秀吉に初拝褐~m(_ _)m
文字の色を変えんと主役が霞む,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同5月27日~豊臣秀吉、島津家久に佐土原を安堵~
同6月5日~島津家久が41歳で病没する~

このあまりのタイミングに家久の死には毒殺説がある。
犯人として挙げられるのは、秀吉の弟・羽柴秀長です。
羽柴秀長は、豊臣秀吉のダークな部分を担ってた人物で、そういった方面で怪しまれている。

だが家久は一番先に関白に降伏しているのだ。
4兄弟の分断を図るならば、家久を生かした方が兄弟グダグダには効果的なはずです。

島津家では宗家の意向に歯向かった重臣・親族が「都合良く死ぬ」ことが、しばしばあり、
そのたびに「自害説」「病死説」「暗殺説」「毒殺説」が飛び交うヘビーな家なんです^^;

島津家久は病ニテ・・・という記述が残っており、それが病死説の根拠となっている。
家久の死後、佐土原の領地は嫡男の豊久が相続することとなった。


同6月13日~九州の国分け決定~
あぁ忙しい~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~どこが、どう決まったか書き切れない~
同6月15日~吉川元長(亡き元春の嫡男)40歳が日向で病没 ☆( ̄人 ̄)☆彡~~~
このころは、まだ羽柴秀長が日向にいたのよね~~~偶然・偶然ヾ(;  ̄▽)ゞオホホホホホ


この間に・・・・各武家では波乱万丈いろいろあるんだが、全部素っ飛ばして

同6月19日~伴天連追放令が発布~

圧倒的な物量・兵の動員能力だった関白軍。
関白軍の武将たちの甲冑は、金の装飾がほどこされ、陣羽織には高価な錦が織り込まれている。
その華やかさは九州の国人たちの戦闘意欲を削ぐのに充分だった。

秀吉は「既成事実」を積み上げ「豊臣政権」を確たるものしたかった。
そのため九州征伐を急いでいたんです。

秀吉は「九州征伐を終わらせるため」恭順する国人たちに「気前良く」「領地安堵の朱印状」をバラまいた。
国人たちは、「自分たちの領地は認められた」と信じていた。

結果を急いだ秀吉の辻褄のツケが、破綻するのに数か月を要しなかった・・・・

同8月13日・・・肥後国人一揆発生~
それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房12_源兵衛が務めにてござる】

天正15(1587)年4月25日~深水宗芳が頼房の弟・長誠(藤千代クン)を連れて、八代敷の河内にて豊臣秀吉に拝褐、相良家は球磨を安堵される。
(そのかわり葦北は失った)

4月27日~日向に居た相良頼房と犬童頼安に知らせが届く~

ところが相良家臣・菱刈源兵衛だけが「拙者は殿(相良頼房)の名代として島津家に留まる」と言いだしたΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ~~


菱刈家は相良家と数代に亘って、幾重にも婚姻を重ねて固い同盟関係を築いた。
義陽の叔父「上村三兄弟の謀反」に、菱刈一族で加担した者がいたため、両家の間は一時期ギクシャクするものの、
天草5人衆の仲介で和睦し、大口城攻防戦で「共に島津を敵として」戦った。

菱刈家は一時期、島津と対等に近いほど拮抗していたが、それもそのはず。
その頃の島津は、分家が言う事聞かなくて「宗家単体」だったんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

やがて島津宗家の元に分家たちが糾合し、4兄弟たちが成長するようになると、菱刈氏は徐々に押され始める。
10にも及ぶ支城を落とされ、馬越城を失い、遂に力尽きて菱刈氏は大口城で降伏した。

降伏した時に「菱刈家は二つに別れた」
これは島津も承知してます。
大口城を接収した時に菱刈家の処遇が協議されるからです。

菱刈家の幼い当主は人質として島津家へ(筆頭家老・伊集院家預かり)
幼君の後見人で叔父の菱刈隆秋は、リベンジ目指して相良家臣となったんです。

人質の幼君は済し崩しに島津家臣となるだろうが、菱刈の家名は残せます。
たとえ幼君に万が一があっても「相良家臣系菱刈家」の家名が残るんです。

どんな形でも、バラバラになっても「家名は何としても残す」それが武家というものなのだ。
菱刈源兵衛は、菱刈の一族ですが幼君とも菱刈隆秋とも別系統・・・彼らの数代前に別れた庶家の出です^-^
(姓は菱刈だけど傍流ってことです)

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

御家存続決定に湧く相良家中の中で、一人「島津に残る」と言う菱刈源兵衛の心底を、重臣・犬童頼安が問いただした。

菱刈源兵衛曰く
「御存知の通り昨年豊後入りの時分、島津兵庫頭(義弘のコトネ)様が御所望によって内田伝右衛門・岡本河内(頼氏)ならびに拙者、以上三人彼方へ罷り越し、所々の軍陣に粉骨を尽くしました。
然るに九州の残る処は秀吉公に属し、大名衆一人も残らず出仕あそばされ、天下一統の儀は程なく達成致しましょう。
とはいえ、先の約束の最中にある間、某一人が名代として島津家へ長く奉公致します」


島津義弘に「召し出された務め」を「義弘が帰っていいよ」と解放するまで、律儀に遂行すると言うのだ。
犬童・・唖然・・( ̄O ̄)島津家は関白に征伐されようとしているのに「筋を通す」にしても程があるだろう。

だが菱刈の決意は固かった。自分は務めを果たしたいだけで主君・頼房への異心は無い。
その証として妻と5歳の男児(後の名は菱刈将監)を犬童頼安に預け球磨に留め置く、と言う。

頼房・頼安・内田・岡本「おーい、ひしかりぃぃ~一緒に球磨へ帰ろう~(OT▲T)ノ~
菱刈・・・( ̄  ̄)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。。。。m(_ _)m。。。・・~
脳内モードは「ビルマの竪琴」∴・…( ̄人 ̄)

その後の菱刈源兵衛は、島津義弘に従い各地を転戦「関ヶ原の戦い」にも従軍している。
関ヶ原の後に老いを迎えた菱刈源兵衛は、相良家へ帰参 (ノ´▽`)ノただいまぁ~~ッ♪
元和年間に人吉で病を得て波乱の生涯を終えた。

ちなみに島津家に現地妻?との間に子を生し、島津家臣として長じた男子は大口城番頭を務めてます。
菱刈の血を引く者を大口城に配するとは、粋な人事だ(*´艸`).oo本人も優秀だったのだろぉ


九州の役後の相良家と島津家の外交関係を慮るに、菱刈源兵衛の果たした役割は地味ながら大きかったかもしれない。
関白が来る~~てことで「国人が次々離反する」のは「まぁ折り込み済」というか「いちいち一喜一憂してられない」
だが相手が相良家・・・となると(怒 ̄ ̄)ピキピキ~~と、根に持っても不思議では無い。

寝返り・裏切りは義陽の代から数えて通算4度目・・・島津家は幾度も煮え湯を飲まされてきた。
特に島津義弘は最前線にいただけに、相良家の動向には常に神経を尖らせてただろうし、
相良との同盟のために不幸に終わった政略結婚も(義陽の妹と)している。
そんな相良家から「約束は最後まで果たしたいm(_ _)m」と菱刈源兵衛が来たのだ。

世間の誰もが「隣の家が火事になったかのように」島津から離れようとしている時に、火の粉を恐れず駆けつけ来てくれた・・
人の一念というものは、その節所における進退でわかる、というが何とも鮮やかではないかメチャクチャ、カッコいいぞ菱刈源兵衛~



損得に左右されず、信義を重んじ、奢らず、武勇優れた勇者・・・まさに薩摩人推奨の武将像だ。
関ヶ原まで従軍させるとは、武勇もさることながら菱刈源兵衛の人柄そのものを、島津義弘は愛でていたのかもしれない。

島津家と相良家の外交関係に、大きなシコリが残らずに済んだのは「戦国の倣いで止む無し」というだけでなく、
「自ら死を選んだ義陽の覚悟」と、さらに「自らの進退を損得で判断しない・菱刈源兵衛の存在」が島津義弘の心を溶かした部分もあったのでは・・・
とロマンチックに終えたところで、次回「降伏の明暗」島津家はテンヤワンヤです ~それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房11_領地安堵】

天正15(1587)年3月~秀吉が豊前入り「九州の役」本格スタート<( ̄^ ̄)/ビシ★

3月下旬~秀吉の弟・秀長軍が日向入り<( ̄^ ̄)/ビシ★~

4月2日~筑前・秋月種実が降伏(豊前は前年12月に黒田如水らが制圧済)

4月10日~肥前・龍造寺家&鍋島家が関白に恭順~秀吉軍先鋒に編成される

4月17日~「根白坂の戦い(宮崎県児湯郡木城町)」で島津家が秀長軍に敗れる~

秀長軍の攻撃で松尾城が陥落~秀長軍は引き続き島津家臣の勇将・山田有信が守る高城を攻撃したが、
高城は堅城で、秀長軍は手こずってます。

義久は秀長軍に備えるために軍勢の殆どを日向都於郡城に結集していました。
ところが肥後口から秀吉本軍が南下してくると知り、義久~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ~
軍勢を二手に分けるより日向口の秀長軍と決戦する道を選択したんです。

「根白坂の戦い」・・・秀長軍8万VS島津軍3万~~~
倍の兵数に挑むのは島津の伝統なのか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

人物・島津義弘
「根白坂の戦い」でも最前線で戦ってた島津義弘^^

で、冒頭で記したように島津軍が敗退・・・

4月?日~4兄弟・末弟の島津家久が秀長軍に降伏~Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ~

管理人は家久の降伏は「根白坂の戦い」の後じゃないかなぁ~って思ってます。
とにかく、この家久の降伏は島津家にとって衝撃だったようです。

この島津軍3万と関白軍(秀吉軍+秀長軍=推定20万)との圧倒的な兵力差に、相良家重臣・深水宗芳は「寝返り」を決意した。
水俣城攻めでの島津軍は「公称10万」となってますが、これには水増しや去就定かでない肥後国人もカウントしてると思います。
北上の時の島津軍が3万でしたので、国内に守備兵(極限まで動員すれば残るのは、傷病兵・老兵・女子供です)を置いていたとして、
「薩摩大隅本国から」「外征できる動員兵力は3万」で、それに各地から軍役に応じて動員される国人が増減する・・・といった感じだと思います。

そして「相良の寝返り」・・・一度、相良家は和睦(実質降伏)してるんです。
どこのサイト見ても「相良へツッコミ」は入れてないですが「島津から見れば」「相良の裏切り」になります。
義陽の代で3度(途中に入る和睦は仲介への義理で双方、守る気ゼロ)頼房の代で1度・・・通算4度の寝返りします^^;;

4月25日~深水宗芳が頼房の弟・長誠(藤千代クン)を連れて、八代敷の河内にて豊臣秀吉に拝褐、相良家は球磨を安堵される~
(藤千代クンは島津家への人質だったのですが、この頃は任を解かれて相良家へ戻ってたようです。)

全盛期・・・八代・葦北・球磨の3郡を領していた相良家。

島津への降伏で八代を失い、
今また、秀吉への降伏で葦北を失った・・・・だが、それでも残っただけマシなのだ。

島津へ味方した国人たちは数多(あまた)いる。
それらが全て生き残ったら、秀吉軍も秀長軍も従軍した武将への恩賞が不足・手詰まりになってしまうのだ。
生き残るためは「椅子取りゲーム」のように早い者勝ちなんです。

【速報】領地安堵~~~御家は存続でござる~~~【早馬】
日向に居た相良頼房と犬童頼安は4月27日に、これを聞く。

ところが相良家臣・菱刈源兵衛だけが
「拙者は殿(相良頼房)の名代として島津家に留まる」と言いだしたΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ~

この先、島津家に留まれば「どのような艱難辛苦」が待ち受けているか解らない。
いや、ここが「今生の別れ」になるか解らないのだ。
あえて死山血河の道を行こうとする、菱刈源兵衛の心中とは?それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房10_生き残れSAGARA!】

府内を制圧し臼杵城まで迫った家久軍・・・豊後内部に侵攻していた分、撤退するのは容易ではなかったはずだ。
侵攻の際に不仲になった義弘と家久、二人が撤退の時にもギクシャクしてたのだろうか?
その後、宴で顔を会わせても一言も言葉を交わさなくなったそうだ。

天正15(1587)年3月15日~島津義弘軍が撤退開始~20日に日向へ入る
同年3月13日~島津家臣・伊集院三河守と相良家臣・犬童頼安が、島津家臣・赤塚真堅の助勢を得て阿蘇郡坂梨まで退去。
その際に頼安は数ヶ所傷を負う~


*****伊集院家*****
島津家支族、本家当主は伊集院忠棟で島津家筆頭家老。
伊集院本家から派生した庶家・分家・一族は、合わせて30数家で島津家臣の中で最大の勢力。

歴戦を生き延びた伊集院三河守は、後に阿蘇氏に悲劇をもたらす「梅北一揆」で散ることとなる。
また伊集院本家も、後に嫡流が断絶する。
******************

*****赤塚真堅*****
島津義弘に従って飯野へ移り、天正4(1576)年に小林の地頭代&足軽大将となった。
この人の経歴は変わってて・・・隠密(スパイ)活動もしてるんです~( ̄ko ̄)チイサナコエデ
「死して屍、拾う者なし」の世界。島津用語で「山潜り」~ ( ̄ko ̄)チイサナコエデ

肥後国皆越城(相良領)などへ忍び入り(義陽降伏前ネ)、諸所への工作員(エージェント)してたの ( ̄ko ̄)チイサナコエデ
ん~てことは、大河平隆次クンの遺族(皆越に嫁いでいた姉上)に接触したのは、ダブルオー赤塚かもですね~^^
仕事は裏も表も、allOKな頼もしい男が、犬童たちの助っ人してくれたんです。
******************

あっと、書き忘れ~伊集院三河守と犬童頼安は、豊後岡城の支城だった菅迫城在番だったんです。
位置は岡城の側なんで、現在の竹田市にありました。

秀長(秀吉本軍は豊前から入った)軍が来るということで、豊後勢(寝返りしてた大友家臣や国人たち)が(島津を)裏切ったと知り、
城を捨てて撤退することになったんです。(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ

3月22日、豊後は切禿城在番の島津家臣・伊集院元巣と、相良家臣・深水宗芳の名代・深水弥五郎も湯浦まで退去。
敵に追いつかれ、二里(約8km)の間に数度の戦いがあり、深水弥五郎は討ち死にするも、島津・相良の勢は相良領まで退去を果たす。


*****伊集院元巣*****
元巣は入道号で元々は久信。伊集院庶家。横川地頭で義弘付き家老。
木崎原の戦いの戦後処理において、島津義弘の命で伊東・島津両軍の戦死者を弔う六地蔵塔を建ててます。
実は彼も後に「梅北一揆」に呼応してるんですが、再び島津に帰参してます^^
********************

?月?日~伊集院元巣は湯浦に留まらず、北里城(鹿児島県姶良郡湧水町)在番の新納忠元と合流。
新納(にいろ)も島津義弘と豊後に従軍してたんですが、撤退した後は日向から北里城に入ってたようです。
日向入りは20日のはずですから、新納も殆ど休まず移動したことになります。
なにぶん撤退時で混乱してますので、記録に無い移動部分は脳内補完してます( ̄ー ̄A 汗フキフキ

3月25日~伊集院三河守と犬童頼安が入った阿蘇坂梨へも敵が押し寄せてくる
3月27日~北里城代・新納忠元と伊集院元巣が坂梨へ後詰(ごづめ=ヘルプ)に現れ、伊集院三河守と犬童頼安は無事に退去する
犬童頼安と当主・相良頼房は日向在留。

家紋・豊臣
ロン様作成:豊臣家紋ロゴ

4月1日~豊前・岩石城(秋月種実の支城)が秀吉本軍の攻撃で落城。大量の重火器による物量作戦に敗れる~
4月2日~筑前・秋月種実(島津の同盟相手)が一夜城食らって心が折れた~秀吉に降伏する~


4月5日~立花宗茂~秋月にて豊臣秀吉に拝謁
4月10日~龍造寺政家&鍋島直茂~高良山にて豊臣秀吉に拝謁~
4月11日~立花&鍋島&龍造寺~先鋒軍に編成~肥後へGO!
4月14日~先鋒軍、肥後まで進撃~

4月17日~日向「根白坂の戦い」で島津軍が秀吉軍に敗れる!!

・・・・・・!!!・・・破竹の勢いだった島津家が敗北!
このままでは、島津家と共倒れになってしまう!

てか頼房と相良勢は未だ日向にいるんだよ~~~ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
相良家重臣・深水宗芳は、相良家が生き残る道を模索することになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【相良頼房9_脱出】

チームワーク抜群だった島津4兄弟・・・その次男・義弘と末弟・家久が大ゲンカ。
そのキッカケが豊後侵攻だった・・・肥後口から侵攻し岡城に手こずった島津義弘。

義弘(O ̄∀ ̄)ノ「家久~~おぃに援軍ば出しっくんやい~」

家久(* ̄^ ̄*)「お断りしもすぅ~ わい(自分自身)でどげんかすっでごあんど~」

義弘(* ̄□ ̄*)「怒)どげもならんやっで、頼んじょっちゃが~~援軍出しっくんやい」

家久(* ̄▲ ̄*)「イラッ)卜占で援軍は凶事っせ出たごわんで、援軍はなりもはん~」

こんな感じのやりとりの結果・・・家久軍は戸次川合戦で先発軍・四国勢を撃破、さらに大友首都・府内制圧~~
と、義弘軍は美味しいところを、家久軍に先んじられてしまった。
(お蔭で岡城攻城戦の知名度が戸次川合戦に喰われてる^^;)

これには島津義久の軍編成方針も、多少からんでいる。

人物・島津義弘
最前線大スキー猛将・義弘(次男)

人物・良い家久
野戦指揮官として抜群の戦場勘を持つ天才・家久。(四男・異母弟)

長兄で当主の島津義久は、それぞれに一軍を率いさせ互いをライバルとして功を競わせていたんです。
今までは、それで軍氣が増し兵のテンション揚げる相乗効果となり、良い方向に働いてた。

「沖田畷の戦い」は家久が総大将。
北上した島津軍は4兄弟従兄弟の忠長が総大将。
ここ暫く義弘は大きな戦場で出番が無かったので、豊後侵攻に欣喜雀躍(キンキジャクヤク・躍り上がるほどウレピ~)していたに違いない。
それが、このままでは功績は家久軍のものになる~と地団駄フミフミで悔しがっていた。

もっとも家久自身は自軍の成果に決して満足してはいなかった。

臼杵城の大友宗麟には波動砲・・・じゃなかったフランキ砲「国崩し」を食らって近づけず、
栂牟礼(とがむれ)城では、弱冠18歳の佐伯惟定に家久得意の野戦で敗退し、城を遠巻きで眺めるだけで終わっている。

*****佐伯惟定*****
耳川の戦いで祖父と父が戦死して数え10歳で家督を継いだ。
それが8年後に島津家久を翻弄するほど立派な若武者に成長したんです~
佐伯家DNAがハイスペックな件~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
******************

因みに豊後に留まることなく豊前へ遁走しちゃった大友義統だが、ダディ宗麟と連携して臼杵城で戦うって選択肢はあった。
だが協力し合うには絶望的に不仲な親子だったので、義統は天地がヒックリ返っても「父に助けを求める」などしない。
臼杵で親子協力して戦っていれば、義統に対する秀吉の心象は違ったんだけどなぁ ポリポリ(6 ̄・ ̄)
実の父より、頼りは豊前の叔父さんなんだもんなぁ~~~トホホ。゜゜(´□`。)°゜。

家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

天正15(1587)年3月、豊臣秀吉が豊前入り「九州の役」が始まった
秀吉本軍が来るというのに敵地(豊後)に留まっていれば、どのような不測の事態が発生するか解らない。

戦の定石として撤退する事になったのだが、まず秀吉軍に対し島津義久は圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。
「戸次川の戦い」後に義久の弟・島津家久が占領していた豊後府内城から家久は後方の松尾城に撤退し、
代わって島津義弘が府内城に入って守備を固めていたんです。

だが豊臣秀長率いる秀長軍によって府内城が攻められるや、
圧倒的な兵力・物量の差を悟った島津義弘は3月15日の夜半に風雨にまぎれて海路で府内城を脱出。
弟の家久が守る松尾城に退却し合流しました( ̄ー ̄A 汗フキフキ

こっから先は島津義弘の動きしか調べてません^^;ゴメン

同3月15日~島津義弘軍~豊後から日向へ退去することとなった
殿(しんがり~軍の最後尾で本隊を逃がすために踏みとどまって戦う危険な任務)は以下の5武将~
島津家より比志島国真、有川貞春、
相良家より内田伝右衛門・菱刈源兵衛・岡本頼氏~

*****比志島国真*****
比志島氏の庶流。
殿(しんがり)に選ばれるから武勇優れていたと思います。

話は飛ぶが人吉相良家の庶流で島津家臣になった相良氏があるんです。
人吉相良家へ島津から使者を派遣する時には、島津家臣相良さんが出向いてました。

その島津家臣相良の娘が、比志島家嫡流に嫁ぐんです~もちろん後年の話なんですけどね。
豊後撤退時に殿を務めた武将たちの主家が、縁組で関連するんだから歴史って面白いですね^^
********************

*****有川氏*****
後に伊勢氏と改名。
この伊勢(有川)氏から、薩摩藩初代藩主・島津忠恒の懐刀だった家老・伊勢貞昌が出ます。
****************

一番大事なのは、殿(しんがり)という軍の撤退で重要な役目に相良家臣が選ばれてるとこです
猛将・島津義弘が認める相良家の武勇を太文字で強調してみました\(≧▽≦)ノ~


とにかく島津軍は豊後で孤立し、周囲には誰もいなくなった・・・?
いや・・・いる・・・それまで道案内してくれてたのに、今は敵に転じた国人・地侍たちが・・・

正規の武士と地侍(半農でつ)と、どっちが強いか?となると個々の能力もあるんで一概には言えない。
ただ地侍のヤバイとこは、野に下って「ゲリラ化」することです。
落とし穴とか・馬を止めるために綱を張ってたりとか、草を結んで足を取られて転ぶようにしたりとか、
坂や崖に差し掛かると、頭上から岩を落としてくる。

こんな感じで有象無象のトラップを仕掛けて襲いかかってくるので、おちおち寝ることも出来やしない。
とにかく一刻も早く豊後を出て、島津勢力圏内の日向に入らなければならない。
てか、秀吉軍が来るってことで日向の国人も浮き足だってるから、日向も長居は出来ません~><;アウチ☆

3月20日~必死こいて死にもの狂いで走って、島津義弘は無事に日向に入った
島津義弘(O ̄∀ ̄)ノ「勇者たちよ」って殿(しんがり)を務めた5人の武将に【感状】を出した~
ところが、これで安心は出来ない。

日向入りしたのは、島津義弘本人&本軍のみだからです。
豊後侵攻が途中まで順調だったのが、撤退となったら裏目に出た。
サクサク落とした城には、当然ながら留守兵を配置する。

義弘軍(おそらく家久軍も)も、将兵が各城に分散してたんです~
そして攻め落とした城の留守兵の中にも、相良勢が残っていた~
バラバラになってしまった相良勢・・・果たして全員生きて戻れるのか?それは・またの話 by^-^sio

テーマ : 歴史
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【相良頼房8_首都陥落~豊後侵攻後篇】

相良勢は、肥後口から侵攻した島津義弘軍に同行しているので「戸次川の戦い」不参加です^-^

さて夏に北上したときは岩屋城に粘られたせいで、不完全燃焼だった島津軍。
こんどは大丈夫(* ̄・ ̄*)Vブイ 大友家内部から離反者が出たもんね~*人 ̄▽)♪
てことで初めはサクサク進軍できたのだが、北上と同じく又も躓いた。(あれ?)

日向口から侵攻した島津家久は鶴ケ城に抵抗されて足止め。
肥後口から侵攻した島津義弘は岡城に抵抗されて足止めくらった。

特に岡城は志賀親次が、先陣の新納忠元を撃退 o( ̄ー ̄θ★ケリッ
埒が明かないんで岡城スルーしようとしたら背後を脅かされる始末だ。
大友家臣・志賀親次の縦横無尽の活躍は、敵である島津軍から「天正の楠木正成」と称賛されたほどだ。

いっぽう島津家久に抵抗し続けた鶴ケ城の凄いところは「城主不在で奥方と留守兵」が奮戦してたとこです。
鶴ケ城の城主はいずこ~~~というと、大友義統が豊前援軍に同行させてた(←この大馬鹿者!)

島津の豊後侵攻の知らせに ( Д )  ゚  ゚ ビックリ仰天の鶴ケ城城主が、
足腰ガタガタになりそうな勢いで馬を乗り潰し、猛ダッシュで退き返したのは言うまでもない。

いっぽう首都・府内をスッカラカンにして、大友義統と四国勢が豊前に来たことに、黒田官兵衛もビックリ!( Д )  ゚  ゚
黒田「な、なにやってんの~~謀反はコッチで手当てするから、すぐに本国に戻って!!」
さすがクロカンは仕事が速い。

高橋元種の小倉城を落としテキパキ処置していったが、抑えた城に兵を置くために手勢が足りない~~~
てことで毛利輝元に使者派遣して、吉川・小早川の両川に出馬を求めた。
途中で吉川元春の病死というハプニングが起きるものの、12月には完全に豊前を制圧(* ̄・ ̄*)Vブイ

さて、鶴ケ城が落ちれば島津家久軍は、首都・府内へ一気に雪崩込むことが出来ます。
今ここで家久軍を撃退しなければならない非常事態です(自業自得なんだけど)

肥後口から侵攻してる義弘軍と合流されては、大友も四国勢も瞬殺されます。
てか生き残れても「命令無視して勝手な軍行動した罪」で関白秀吉の処断が待っている。
仙石と四国勢が失敗を糊塗するには、家久軍と戦い勝つしかなかったんです。

てことで「戸次川の戦い」は別の機会に記事にしますね^^

敗れた仙石が四国まで遁走したことは、管理人の中では「(自己保身という観点で)それはそれでOK」です。
戦国時代に一番ダメなのは「中途半端」です。
逃げるなら逃げるで仙石レベルまで徹底してた方がマシです。

仙石が下手に九州に留まってたら、諸将への見せしめとして関白から処断されるかもだし、それ以前に長宗我部家臣に報復される恐れもありますから。
仙石が歴史ファンに不人気なのは「自分の為」というのが、あまりにもミエミエだからでしょう。

さて戸次川で四国勢が敗れたため、島津家久軍が首都・府内を制圧~略奪フィーバータイムです。

大友義統が選択を誤ったことは、まだ豊後国内で踏ん張る家臣がいるにも関わらず、
府内を捨て・・・さらには豊後まで捨てて、叔父さんのいる豊前に逃げちゃったことです。,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そして豊臣秀吉の大友義統に対する評価(ダメ武将)は、ここで決定的になりました。
朝鮮の役での失態は、大友改易のための口実にすぎません。
豊臣秀吉が、すぐに大友家を潰さなかったのは「豊臣政権安定まで」「大友家が必要だった」からです。

家紋・豊臣
ロン様作成:豊臣家紋ロゴ

島津征伐の大義名分は「大友家の訴え」が端緒でした。
関白の威光に従う者は既得権益を保護する。
この安心・安定の政権ブランド力が定着するまでは「関白に助けを求めた大友家」は、政権アピールのために必要だったんです。

明けて天正15(1587)年春・・・いよいよ九州の役が始る
悪い子はいねがぁ?ヘ(ーーヘ)(ノーー)ノヘ(ーーヘ)(ノーー)ノ~~関白が来るぉ~
秀吉本軍が来るというので、豊後を撤退し体制を整えることになった島津軍。

ところが仲良しだったはずの4兄弟に異変が起きていた。
次男義弘と四男家久が大ゲンカ!
こののちだが宴で会っても言葉を交わさないほど不仲になるΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ

秀吉本軍が来るということで、それまで島津に従ってた国人も離反・寝返りを始め島津軍は急速に孤立化しつつあった。
肥後口担当だった島津義弘軍の中には相良がいる!!><;アウチ☆
果たして我らが相良家臣は無事に人吉城へ帰ることが出来るのか、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房7_斜め上に援軍?!~豊後侵攻中篇】

ココ重要~まず初めに「豊後侵攻」と「戸次川の戦い」はリンクしています。
大将・仙石秀久のブッチギリ遁走と、長宗我部氏の悲劇(嫡男の戦死)が有名すぎて、
時代小説などでも、豊後侵攻との関連に字数を費やしてはいない印象を受けます。

豊後侵攻から見ると、戸次川での仙石秀久の軍行動が「必然だった」ことが解ります。
無謀だろうが、リアル「背水の陣」だろうが、やらねばならなかった「戸次川の戦い」
それは四国勢も承知していたはずです。
長宗我部が仙石を諌めた(?止めた)というのは、後方の豊臣秀吉への配慮(&作戦が失敗した場合の保険)だろうと、自分は推察しています。

さて、以前に豊前で残る大友勢力は「宇佐の竜王館」だと記事にしましたが、御記憶にあるでしょうか?

島津軍北上の動きに呼応して、その豊前で謀反が起きたんです(天正14=1586年の秋頃)

これは島津の同盟相手である、筑前・秋月種実が裏で糸を引いていました。
豊前で大友に対し蜂起したのは、高橋元種(秋月種実の次男)と野仲氏(秋月と同盟している城井氏の支族)で、
その謀反の勢いは豊前一帯に「あっ」という間に広がり、竜王館城主・田原紹忍(たばらじょうにん)のキャパ超えた^^;

8月14日に黒田官兵衛たちが「立花城の援軍」のために、豊前入りしてました。
それは「既に長途遠征に嫌気が差してた島津軍撤退」には役立ったが、豊前の謀反鎮圧には即応出来なかった アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
手が足りないってことで、秀吉の強い要請を受けた吉川元春が体調不良を押して、豊前入りをするんです。

豊前の大友家臣・田原紹忍は、宗麟の正室・奈多夫人の実兄&現大友当主・大友義統の実叔父です。
身内という甘えがあるからだろう、田原紹忍は大友義統に援軍を要請した。
これは・・・・空気嫁!o( ̄ー ̄θ★ケリッ・・・と非難されるレベル。

玉砕した岩屋城も立花宗茂も筑後の問註所も、大友に余力ないのを熟知しているので「一度たりとも援軍を請うた事が無い」
身内に裏切り者が出ても、自分たちで対処して「主家に泣きついた事など一度も無い」
これはやはり、器量云々以前に武将としての覚悟の問題だろう。

さらに空気読めないのが大友義統だった。
大友義統は「大好きな叔父さんを助けるため」に「援軍するのは当然だ」と普通に素で反応~
生まれながらの貴公子だからだろうか、大友義統には他の大友家臣が自力で奮闘している苦衷を察する心の機微が欠落している。

天正14(1586)年10月上旬~大友義統は田原紹忍の援軍として自らが豊前へ出陣
この援軍に仙石ら四国勢も同行~大友の首都・府内はモヌケのカラ~Σ( ̄▲ ̄ノ)ノげぇっ~
仙石を非難するなら「この行動」です。

なぜなら豊臣秀吉は「自分が到着するまで勝手な軍行動を禁じて」いたからです。
だが功名に逸った仙石は、大友義統を止めるどころか、四国勢を引き連れて豊前へ同行したんです。

キング・大友、真の崩壊は、ここで起きた
大友義統の行動にブチ切れた大友家臣が島津へ寝返った!

大友義統の実弟・田原親家、志賀家から一族が、入田家が島津へ内通~
(O ̄∀ ̄)ノ「いま、府内は留守~~」と、大友義統と四国勢の軍事行動をバラした!
家紋・大友
ロン様作成:大友家紋ロゴ

家族関係が泥沼だった大友家で「たった一つの絆・・・それが田原紹忍の存在」でした。
奈多夫人にとっては田原紹忍は実兄、いわば実家みたいなものなので、何くれと相談してたし、
大友義統も、ママン奈多が信頼する田原紹忍を厚遇した。
で、超人間不信の大友宗麟までも「田原紹忍だけは信じてた」

田原の能力はハッキリ言って疑問符が一杯(大敗北した耳川の戦いの大将^^;)
でも田原は道雪のように「諫言」しません、返事は常に「YES」なんです。
超人間不信・自分探しするフェアリー宗麟にとって、信頼度と能力値はイコールじゃないんですよ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。

宗麟&義統は田原紹忍をプッシュ・エコヒイキし、一時は大友家臣の中で最大の版図を保持してたほどです。
田原紹忍は寺社奉行の要職にあるのを良いことに、寺社関連の裁定は自分に有利な(奈多神社・大宮司なんで)ように下していました。
神社仏閣勢力が大友を見限ったのは、宗麟がキリシタンなだけでなく、田原紹忍の不公平裁定にも原因があるんです。 

田原紹忍に対するエコヒイキが、ず~~~~~~~~~と不満だった大友家臣にとり、「豊前だけ援軍」で遂に堪忍袋の緒が切れた!

北上が不完全燃焼だった島津家にとって、まさに千載一遇の大チャンス~
同年10月中旬~島津軍の豊後侵攻が始る
島津家久軍~日向口より侵攻開始
島津義弘軍~肥後口より侵攻開始

義弘 (O ̄∀ ̄)ノ「相良さぁ、おたくの内田伝右衛門と菱刈源兵衛と岡本頼氏を従軍させたいぉ~ちょっと借りるね~
それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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