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【相良頼房24_決着~天草国人一揆5】

前回の一騎打ちで対決予感O(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワクの引きで、次回に続く・・としましたが、
実は出展元の「北肥戦誌」では、描写が非常にクール^^;

木山弾正の大将同士・一騎打ちの求めに、加藤清正は十文字槍を掴んで応じると、槍を突き入れ弾正の高股を突き通した。
木山「ぐはぁ」
(木山の膝が崩れたのを見て)後に続く木山家臣が駆け寄るが、清正が再び突き伏せると、
清正側にあった浪人・阿波鳴門という者が木山の首を取る。

大将首をとった大手柄の阿波鳴門だったが、流れ矢に当たり戦死する。
木山家臣は清正を逃がすまいと一斉に切り掛かったが、清正の旗本衆に悉く突き崩され、大将を失った木山勢は敗走した。


木山VS加藤清正は辰の刻(AM8頃)に始まり、午の刻(PM14頃)に終わる。
清正方が討ち取った首級460余、味方の戦死は士分11人・雑兵279人。

清正はこれら首級を海辺に並べたが、このとき一揆勢が清正の乗船を奪おうとするのを、加勢の龍造寺勢(成冨茂安勢)が追い払った。
ちなみに成冨さんは、感謝した清正から感状を貰ってます^^b

天草からの援軍である木山勢は敗退したが、志岐城の志岐麟泉は籠城続行。
かといって先行きのアテがあるわけじゃない。ヤバイ感が漂うなかに助け舟を出す者あり。

それは猛将・島津義弘(* ̄・ ̄*)Vブイ

義弘「麟泉は中務大輔(亡き出水薩州家の島津義虎のこと)の婿にて某にとっても縁者に候。
(『本藩人物誌』では、島津義虎の娘の婿・親重が麟泉の次男(養嗣子とも)
(島津義虎は義弘の兄・義久の娘が正室で義弘から見て、義理の甥になる)
願わくば御赦免を賜り、さすればすぐさま下城させますm(_ _)m」と求めて、これが秀吉に許された。、

11月10日~志岐麟泉は有馬修理大夫政純を頼って下城、小西行長へ城を明け渡した。

※本渡市教育委員会刊『天草の歴史』では、麟泉は出水へ逃れ、
養嗣子の親重は有馬晴純の実子なので有馬へ戻った後、加藤清正へ仕えた。
後の加藤家改易に伴い、親重の子・親昌は母方の縁を頼り島津家臣となったとある)

人物・島津義弘
島津義弘画像

11月20日~清正と行長は天草種元の本渡城を討つべく、有馬・大村・平戸・五島を合わせた25,000余人で向かった。
翌21日より竹束で仕寄りを形成しつつ、夜毎に少しずつ攻め近付く |竹束|゚Д゚)))コソーリ!!!!
24日~鉄砲を撃ち方始め~~。

同日・未の刻(PM14頃)~天草種元とその子・太郎次郎は、数百人を率いて城から打って出、激しく戦った後に無事、城へと戻った。

翌25日~寄せ手が城内へ入り、二の丸を奪った。城兵700余人が討ち死に、種元は矢倉へ上がって妻子を斬り殺すと、自身も切腹して果てた。

これに譜代の家臣21人が後を追って切腹、残りは悉く逃げ散った。
清正勢にも570余人の戦死者が出、他の小西や有馬らの勢も討死が多かった。

でもって、北肥戦誌には記載無しですが、地元に残る伝承では本渡城に木山弾正の妻・お京の方がいたとされています。
彼女にまつわる秘話・延慶寺(えんけいじ)の兜梅~興味のある方は検索してみてください^^

さて、本渡市教育委員会刊『天草の歴史』によると、天草(一族の久種だけが別の場所にいたらしく生き残った)に続いて大矢野・栖本・上津浦も降伏。
その四氏は領地を召し上げられ、小西の家臣に組み入れられた。

その後に行長は、同じ豪商出身で切支丹の家臣「ビンセンゾ・兵右衛門」を志岐に置き、本渡や上津浦にも切支丹武士を配置。
この翌年、上津浦氏も信者となり3,500人が領主に続いて洗礼を受けたとしている。

さらに朝鮮出兵の際、行長はこの天草・栖本・大矢野のメンバーで構成された水軍で渡海。
これに松浦・大村・有馬、対馬の宗・五島といった水軍の得手が加わったことで、一番乗りに繋がった。

小西(旧天草国人)水軍の大島子村の益田日向兵衛、町山口村の大谷諸兵衛らが、水夫の統率者として従軍し功があったとあります。

天草国人一揆は鎮圧された。

ウィキペディアによると天草の石高は1万石とある。
(天正16年の時点で、大矢野氏は1,755石、栖本氏は850石、天草氏は一族と併せて3,000石ほど)

太閤検地以前の検地は、指出(さしだし)検地と呼ばれ・・・早い話が領主の自己申告。
さらに内容も米の収穫からの算定のみで、他の穀物の収穫や運上金などの別途税収はカウントされていない。

+プラス豊臣政権以前は石高制ではなく、貫高(現金決済)制な上に秤の基準数値が各地でバラバラ~という感じなので極めて不正確だった。

慶長13(1608)年の検地で、天草郡は21,616石とされる。
だが米以外の収入を入れても、果たして倍になるものなのだろうか。
いまさらだが天草郡は大小の島からなる。

季候がどれほど温暖であっても、島である以上は風雨による塩害が避けられず、耕地に出来るのは内陸部に限定されるだろう。
そもそも天草郡は山地が多く耕地にできる場所は少なかった。こりゃ2万も怪しい(--;

仮に21000石あったとして、それが江戸期には更に4万2千石だ。
(領主・寺沢広高が田畑収穫で37000←絶対無理+漁獲・茶・桑・塩など別途歳入5000とした・・・)

とてもじゃないが租税率のアップに民度(生産力)が追い付かない。一揆(島原の乱)が起きるはずだ。
離島の歴史というのは、悲惨・悲哀がつきまとう。本島に近い遠いは関係ない。

さて、個人的な拘りで5話に至るまで国人一揆に御付き合い頂き感謝に堪えませんm(_ _)m
次回より、我らが相良家に戻ります。

御家騒動がキナ臭くなってきますよ~それは・またの話 by^-^sio
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【相良頼房23_一騎打ち!~天草国人一揆4】

天草国人一揆では小西(キリシタン)と清正(法華信者)の間に「宗教的対立」があった・・・という話を度々耳にする。
管理人は逆に「天草一揆まで」は「清正はキリシタンを好きでも嫌いでもなかった」と考えている。
なぜなら加藤清正が「こよなく信頼・尊崇」する「黒田官兵衛がキリシタンだから」だ

人物・黒田如水
幸麿さん作画:黒田如水イメージ画像

過酷な牢生活は、単なる智者(時には智慧自慢)だったクロカンの保身感覚を研ぎ澄ませた。
故に黒田官兵衛は「デウスを語る」「時」と「相手」と「場所」と「内容」を選んだだろう。
従って「熱心な法華信者の清正」であるに対し「礼拝に誘ったり」「受洗を薦めたり」「問われもしないのにデウスを語ったり」などしなかったと思う。
心から信頼していれば、相手の宗教が何であろうと関心はない。(※自分に勧めたりしないのが大前提)

清正:ワシは肌に合わぬが、知恵者の官兵衛殿が熱心ならば、悪いものではなかろう←くらいの認識
だから「清正が天草の国人たちに果断」であったのは「彼らがキリシタンだったからでは無い」と思う。
清正が即断即決で攻撃したのは「何よりも一揆の飛び火が怖い」佐々の二の舞は真っ平御免
(加藤の元には旧佐々家臣がいる)
そして「天草が清正領ではない」ということだ。

一揆を殲滅しても清正自身は困らない。
志岐城下や天草の田畑が兵火に焼かれても、清正への租税が滞ったりはしないのだ。
(今後の人間関係が気まずくなるのは、同じキリシタンの小西だけ~^^;)

肥後着任早々で一揆を鎮圧すれば、清正の武勇を満天下に鼓舞できる「関白殿下に褒められるのね( ̄∀ ̄*)ポワ~ン」
人間とは「感情の動物だ」
冒頭とは矛盾するが「嫌いな奴が信じていれば」「その宗教も嫌いになる」
清正が「ガチでキリシタン嫌い(てか憎悪に近い)になった」のは「天草国人一揆以降」ではないだろうか。

ネタバレになるが一揆鎮圧後、天草は正式に小西行長領になった。
小西は「今までの殿様を失い」「不安に陥ってる領民」の「慰撫に務めた」のだろう。
アフターケアの結果~小西領になった天草で「キリシタンの受洗者急増↑」その数、一気に3500名(* ̄・ ̄*)Vブイ゙・小西「ガンバリマシタ」~
清正「ぶべっ!?Σ( ̄  ̄ノ)ノ 彼奴らめ、増えおったぁ~~~キモッ!」

一定数のキリシタンが一揆に加担したのは「天草国人一揆」が最初だ。
急増するキリシタンは、清正の眼には「一揆予備軍」と映ったのではないだろうか。
一揆では天草国人にコテンパンだった小西兵だが「朝鮮の役」では小西水軍が大活躍。
その水軍というのが「旧天草国人」だったんです(関ヶ原でも加藤水軍は小西水軍に敗れている)

黒田親子は禁教令で表向き(と睨んでる)キリシタンを棄教している。
それだけに小西憎しがキリシタン憎悪に繋がったのでは・・・と考えてました^^



清正自身が援軍として着陣したのを聞いた天草種元は、籠城する志岐城へ天草主水と木山弾正を援軍として派兵した。

11月初旬~天草主水・木山弾正は話合いの上で志岐麟泉(しき りんせん)へ「明朝一斉に切って出て、三方より押し包んで加藤・小西を討ち取るべし」と伝える。
だが、志岐城内の者の中に小西との和平を望む者もおり、軍議が纏まらない。
麟泉「(悩)(;-_-;) ウーム(黙然)」
天草主水~(#゚Д゚)y-~~イライラ~「(怒)ならば我らは本渡(天草の主城)へ帰城する!」と言い捨て、その翌日に陣を引き払った。
天草主水~結論出すの早っ!、(*;^-^)ゞ マイッタネコリャ、
一方の木山弾正は(勝負を極めなければ二度と本渡へは帰らない)と誓っていた為、敢えて引かず陣所へ留まった。

清正は小西行長へ遣いを出し、
「木山は我らと一戦交える心算(つもり)に見える。(* ̄ー ̄*)ニヤリ。

 我らは明朝彼らの陣を切り崩す。御辺は志岐城を堅固に囲んで戦の動向を見られよ!」
{{清正から小西への痛烈な皮肉です「悠長に和睦交渉なぞするタワケは、指を咥えて眺めていろ」ということだ}}
と伝えると、夜のうちに木山の陣の上へ旗指物を隠しながら登ると、その夜は静まり返って合図を待った。

11月5日の黎明~加藤善右衛門の一番備え3,000が敵陣と谷を隔てて合図を待っていた。
すると善右衛門の家臣・伊東次右衛門という者がただ一人、槍を掲げて抜け駆けすべく進み出る。|゚Д゚)))コソーリ!!!!
だが清正は見ていた「(#゚Д゚)ゴルァ!! 誰だ、勝手に槍を振るうのは! あやつを止めよ!」


と使者を出して留めたが、伊東次右衛門は既に山の6,7分を登っており、
(木山方に気付かれ)「あっ」という間に徒歩立ちの者3名が、刀を抜いて伊東に切り掛かった。

伊東次右衛門~初めは槍で支えていたが、更に20~30人の敵が現れ取り囲まれ、あえなく討死。
(抜け駆けは成功すると一番槍の功名だが、敵にフルボッコ戦死のリスクと背中合わせ)

善右衛門先手3,000が(味方が討たれたのを見て)これに堪え切れず(軍令を無視して)進み出た!
木山勢は勝ちに乗じて、坂落としに襲い来る。


先手3000は軍令に背いての進軍である為(善右衛門隊だけが突出したため陣容のバランスが崩れた)坂の途中で突き立てられてしまい、あろうことか清正の旗本勢へ崩れかかる。

清正は床几に座してこれを見ると歯噛みして「(あいつらアホか!)どこまで逃げる心算か。返せ返せ!ヽ(`Д´#)ノ ムキー!!」
と下知したが、いったん崩れた陣を(しかも戦闘中に)立て直すのは容易ではない。
ことごとく討ち負け左右の谷へ落とされた。


だが、さすが清正の旗本勢は退かない。
彼らが馬印を立てたまま留まっていた所へ、木山勢20人ほどが一群を為して襲ってくる。
これに清正自ら槍を掴んで、敵二人を討ち取ると、(; ̄ ヘ ̄)=3 フン! 再び床几へ座った。


清正旗本衆もこれらを討ち取り敵を退かせたが、今度は木山弾正本人が槍を掲げ20人程を連れて現れた。

木山「足元に居るのは加藤主計頭(かずえのかみ=清正のこと)と見える!我と一遣り合わせ、大将と大将の勝負を仕らん!」と駆け寄った。
清正は眼を「くぁっ!」と見開くと、手練の十文字槍を掴んだのだが
・・・それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房22_清正出陣!~天草国人一揆3】

ネット上では清正と小西が不仲になったのは「天草一揆」がキッカケだ・・と、見かける。
だが今回出典の「北肥戦誌」では言い争いになったような記述はなく、ネットにありがちな風聞だったかもしれない。

ただし「一揆の終わらせ方」で両者の意見が違ったのは確か。
小西領である肥後・八代郡で、旧相良家臣(八代衆)が清正幕下という「変則的飛び地」状態だったことが重なり、
じょじょに関係悪化してたところに「朝鮮の役」での「小西が抜け駆け一番乗り」だ。
超負けず嫌いの清正は小西を赦さず「関係修復不能」になったと思う。


志岐城の目と鼻の先にあった富岡城。(城郭から互いを遠望できる)
長年、寺沢広高が江戸初期築城~と、なっていたのだが「どうやら築500年以上らしい」ってことが判明した。
(つまり寺沢は築城ではなく改築^^b)
じゃ天草国人一揆の時は?となると、そこまでは解ってない。

最初に小西が派兵した伊地知隊は、志岐麟泉の夜襲に遭う。
私見だが、それは富岡兵と志岐兵の挟み撃ちだったかもです。
それならば3000もの兵が全滅・大将の伊地知討死・・・というのが頷けます。

その後、志岐城は天草勢の援軍とともに籠城するのだが、加藤清正の援軍到着で富岡勢も志岐城に収容されたんじゃないかなぁ~と推測(素人の辻褄合わせ)してました^^b

要害の地である志岐城は容易に落ちず、小西勢・加藤勢も手こずった。
そこへ松浦久信・有馬政純・大村嘉前・波多親・五島(宇久)盛家ら、更に龍造寺家より【成富家為】の500余人が寄せ手の援軍に入る

(成富家為ってなってるけど、成冨茂安のことです。)

小西行長は、志岐麟泉の縁者である有馬政純を通して「城を降って和睦すれば関白殿下に執り成す」と伝える。

志岐と小西は同じキリシタンだから、便宜を図るのは本気だったかもです^^
とにかく志岐麟泉が「(-_-)ゞ゛ウーム」と 思案する間、合戦は行われなかった。

すると前回、志岐勢の囃子歌の仕返しとばかりに、今度は寄せ手が囃子歌で城方を嘲笑。
「城衆城衆なぜ切って出ぬぞ♪志岐しや♪志岐しや♪へのこしきしや♪( ̄∀ ̄)6mプギャー」


これも方言で古語で隠語なんだけど・・・「へのこ」って殿方のナニのことなんです(/▽*\)キャ
だから・・・その・・・「出て来やがれ、このヘタレ、チ○コ野郎~」って感じ^^;

10月下旬~隈本城に居た加藤清正は、志岐城の堅固さに小西行長が和平に及ぼうとしていると聞いた。
清正「ならばワシが馳せ参じて打ち崩すべし」
10月29日~手勢1万余騎を率いて、志岐浦へ船を着ける


清正は志岐麟泉へ「主計頭(かずえのかみ=清正)が、和談を調えんが為こちらへ着船します」と使いを出した。
志岐麟泉は家臣10余人と海辺へ出迎える。


すると清正は志岐の湊へ着くなり鉄砲を放ってその内の14人を打ち倒し、
城へ向って禿山へ陣を布き【斎藤伊豆守】らに1500を与えて小西勢へ加勢させた。


清正に騙し討ちされた志岐麟泉は無事です( ̄ー ̄A 汗フキフキ
清正「武士のウソは武略でござるな」 ( ゚Д゚)y─┛~~

斎藤伊豆守~~加藤家・弐番備頭・知行5002石余。
なんと春日局の弟です~フルネームは斎藤利宗~元明智光秀家臣(* ̄・ ̄*)Vブイ
年は伊達政宗や立花宗茂と同じ1567年産まれ。

山崎の戦いのゴタゴタ時に「秀吉の命を鉄砲で狙った」という疑いで細川忠興預かりでした。
その後に赦免され加藤清正に仕えました。
加藤家改易後は、3代将軍家光に旗本として取り立てられました。


清正着陣、これが天草の本渡城へ伝わると、天草種元は志岐勢の後詰(援軍)として、天草主水助に700を与えて差し向けた。
天草主水は甲浦から比々尾へ陣を布いて小西勢と対陣。
また天草氏・本渡城に木山弾正という無双の剛の者がいたが、これも志岐を救うべく弓・鉄砲の500人を率いて、禿山の上の山に陣を取り加藤勢と相対した。

木山弾正・・・元肥後益城の城主、島津の肥後侵攻で城を失った後は、天草種元の客将として本渡城に留まっていた。
別名「どもりの弾正」・・・・次回清正VS木山弾正~「一騎打ち!」 それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房21_両軍激突~天草国人一揆2】

豊臣秀吉の国人に対する基本姿勢
一つ・本貫地を領すること能わず!( ̄0 ̄)6mビシ

たとえば肥前(佐賀県)の筑紫広門。
「九州の役」以前に島津サイドから大友サイドに乗り換え、島津軍北上では岩屋城で紹運と共に戦っている。
だが「九州の役」の論功行賞で、筑紫は本貫地は安堵されず、筑後に移封されている。
(もっとも筑紫広門には[人質になった折に島津に寝返った]説がある)

一つ・与力がイヤなら帰農だね!(^_-)☆

与力(主君から貸与・派遣される家臣)は、主に上方~関東で用いられており、他地域ではピンと来ない。
そのため「○○殿の家臣でもないのに、何故に○○殿の命に従い軍役や諸役を負担せねばならぬのだ」となる。

秀吉は各地の国人を活かす場合は、自分が選んだ大名の与力大名(1万石以上の場合)として配置するか、
万石以下の小領主の生き残る道としては、秀吉が選んだ大名の家臣団となること。
それがイヤなら大小の刀を捨てて鋤鍬(スキクワ)を取るか、髷を青々と剃り上げて墨色の衣を纏い諸国行脚でもするしかない。

一つ・事実関係必要無し!ウワサで一揆に成敗なぅ~

当主本人が加担してなくとも、一族に一揆参加者がいれば(ウワサの段階で)容赦無く改易、軽くて減封⇒移封。
特に周辺国人への影響力の強い神社系武家だと、200%以上の確率で木端微塵・徹底的に潰す。

方法としては、庶流当主の家督相続を認めず無嗣断絶で改易アボ~ン。
他には「一揆加担の罪(当主が参加・不参加は関係ない)で当主を処刑」し、嫡流を断絶・武家としての血脈を断つ。

**********************************************

上記3つを手法として複合的に用い、なんだかんだと口実をつけては国人を本貫地から引きはがし、領民との繋がりを断つ。
かろうじて生き残った国人領主は往時の勢いを失い、牙と爪は切られ、飼い猫(家臣)として鈴をつけられる。

なぜなら豊臣秀吉は「豊臣政権の御家人」というような鎌倉~室町風の制度を根底から変えて、未だかつてない「超強力な中央政権を完成」させようとしていたからだ
旧支配体制・・・それら総て・・・いっさいの破壊・・・!!(但し、自らの権威の根拠となる朝廷は残す)
流通革命、経済革命、戦国の誰も経験したことのない新しい中央政権!

家紋・豊臣
ロン様作成:豊臣家紋ロゴ

前回からの続き・・・宇土城修復の手伝いを志岐鎮経(麟泉)天草種元に、思いっきり断られた小西行長。
小西は秀吉に速攻でチクっ・・ゲホグホ失礼・・・訴えた。

秀吉「左様な奴らは成敗だぎゃぁ」と下知
小西行長(大義名分ゲットだぜ (* ̄ー ̄*)ニヤリ)

秀吉の中央政権構想では、室町感覚の抜けない国人領主は邪魔な存在でしかない。
訴えさえすれば「即成敗」の言質がとれます「双方の言い分を聞く」・・・なんて手間をかけない。

ただ~し!「必ず秀吉の耳に入れること」「勝手に成敗はダメぽ」
万が一、成敗に失敗し一揆なんてことになったら「佐々成政と同じ切腹コース」の可能性大。
切腹はなくとも政治的失脚は免れがたい。

ちなみに黒田如水が国人・城井一族を抹殺した時は、事前に秀吉のOKもらってると言われています。
小西行長は秀吉に仕える中で、そのあたりの呼吸は心得てたでしょう。


小西は家臣・伊地知文太夫に3,000の兵を与え、まず志岐城を攻めるべく近くの袋浦(袋の津山=富岡城)へ差し向けた。
(富岡城は近年の研究で築500年以上と判明~江戸初期に寺沢広高が近世城郭に改築です)

だが伊地知隊が船でそこへ上陸すると、志岐麟泉の夜襲キタ━━━━ヽ( ゚∀゚)ノ━━━━♪♪♪
伊地知文太夫以下3,000余騎は全員討死~~志岐麟泉は非戦闘員である舸子(水夫)・船頭らの命を援けて追い帰した。

前回・小西陰謀説を出したのに、伊地知隊が弱すぎる件~~_| ̄|○ il||li がくぅ~
後年、九州の関ヶ原・宇土城攻防戦で小西水軍が加藤水軍を撃破してるのは・・・ネタばれになるので今は秘密~


敗戦の全滅の報に小西狼狽~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
隈本の加藤清正へ援軍を乞うた。
清正は佐々平左衛門・瀧野讃岐守ら1,500余騎を宇土へ向かわせた。
※佐々平左衛門は名前で解るように元佐々成政家臣。
 彼には「佐々成政に殉死した説」「加藤清正に仕えた説」があり、
 本記事の出典である「北肥戦誌」では「清正に仕えた説」です。

また小西も手勢6,500を率い、総勢8,000が船で袋浦(袋の津山)へと渡る。
志岐麟泉は干潟まで出て戦おうとするが、
小西は「油断できない~伊地知の二の舞になる」すぐには戦を仕掛けなかった。


すると志岐麟泉の勢から若武者共が出てきて「京衆京衆なぜ鑓せぬぞ♪かふすの皮のすもりか♪( ̄∀ ̄)6mプギャー」
と悪口を拍子に乗せて囃し立てる


あぅ~方言+古語+隠語で手強い~~_| ̄|○ il||li がくぅ
「かふす」というのは正月飾りに使う橙(ダイダイ)のことらしいです。
飾りだから食用じゃないわけで、その皮だから⇒⇒⇒「見かけ倒しの役立たず野郎」ってとこでしょうか^^b

隈本からの援軍は、これを堪えかねた。

旧佐々成政家臣がいますからね~一揆で改易の悔しさが脳内フィードバック⇒沸点ブチ切れ~

槍を揃えて突き掛かり始めた。小西勢もこれを見て「Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ!ちょ、ぉまっ・・仕方ない~」とこれに続く。
敵味方入り乱れて混戦~両陣に死傷者が多く出ると、城兵は志岐城へ引き退いた。
(富岡城と志岐城は近所で互いに遠望できます)
このときの小西・加藤の討死は将27人、逆に討ち取った首級は21だったそうです。

寄せ手(小西+加藤援軍)は志岐城攻めを開始
城には志岐麟泉の手勢2,000余、天草よりの援兵の侍20騎、弓・鉄砲300挺が詰め、合力して防戦
志岐城は、東は深谷で水が流れ、南は高山で林木が生い茂り、西北は人家に連なり、更に海に囲まれ、西岸は屏風のように岩石の壁となった要害の地
生半可な事では落ちない。


小西・加藤隊の元へ、更なる援軍が来るのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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