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【相良頼房27_犬童頼兄(よりえ)】

***間が空いたから今更だがザッとおさらい***

【相良頼房・さがらよりふさ】・・・18代義陽の次男・相良家20代目当主にして人吉藩初代藩主。

本来なら家督に縁のない、ピンチヒッタースペア次男坊。
予期せぬ兄の病死により万が一の順番が来て当主となったが、島津配下となった相良家では喜ぶユトリ無し。
頼房は短い期間ながらも島津家の人質となって、大人社会の洗礼を受ける。

さらに島津の豊後侵攻にからんで日向入り~おそらく初陣はこの時だろう。
大名の子弟の戦場デヴューともなれば、重臣たちに全て御膳立てされ恙なく終えるものなのだが、
秀吉軍と秀長軍の九州入りで、急遽撤退することに アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ

同じ島津配下の国人や道案内を務めた地元民が、瞬く間に敵に転じて牙を向く。
重臣・深水宗芳の起死回生の交渉術により、相良家は豊臣秀吉に御家存続を認められる。

だが生き残るには島津を裏切る不義をしなければならず、
さらに秀吉によって、父祖の代からの領地である葦北郡を失い、相良家は僅か2万石の小大名となってしまう。

頼房少年は学んだだろう・・・
深水を見て、家名を残すためには、あらゆる手を尽くすことを。
犬童頼安、岡本ら相良家臣を見て、誰がどのような働きをしているかを。
島津への信義のために一人、人吉に戻らず薩摩へ行った菱刈を見て、どのような人物が信じるに値するかを。

それらの貴重な経験は、激動の時代を生きるための智慧となって、少年を大人にした。
【九州の役】【肥後&天草の国人一揆】は終わり、頼房の当主としての座は一応の落ち着きを見せる。

天正18(1590)年~北条征伐&奥州仕置発令・秀吉の天下統一がなされた年の8月21日。
相良家最大の功労者・深水宗芳が死去(享年59歳)

深水宗芳の死後、【朝鮮の役】【関ヶ原】・・歴史の奔流・波濤の中、相良家の舵取りをしたのが、犬童頼安の嫡男・頼兄(よりえ)だ
主要・出典元【南藤曼綿録】他からの引用は都度明記
関ヶ原まで残すところ10年!熱く激しくマニアック!生き残れ相良!ってネタバレしてる^^;

***丸椅子かソファーか、座り心地なんて想像もつかないが「権力の椅子」は一つだけだ***
***そして一つしか無いがゆえの【孤独】を、後に頼兄も知ることになる・・・・・・・***

秀吉に気に入られた深水は、主君の旧領・芦北郡の代官となった。
主君も相良家臣の顔ぶれも変わらないのに、己の立ち位置だけが変化するというのは、居心地の良いものではない。

だが家臣の中に「豊臣政権の代官がいる」というのは、一つのステータス・相良家の名誉でもある。
豊臣政権との外交パイプがあるのは心強いが、関ヶ原以降だと、それが逆に邪魔になる。
だから個人として深水宗芳は、いいタイミングで死んだと思う。

長命していれば間違いなく失脚し、深水一族もそれに巻き込まれたに違いない。
その深水が死の直前まで心配だったのが「自分の後継者」だ(深水の嫡男は父に先立ち戦死した)

深水は初め、犬童頼兄を養子にして後継者にしようとした。

犬童頼兄は重臣・犬童頼安のたった一人しかいない男子で、それを所望しようとしたのだから余程思いつめていたのだろう。
wikiによると「(養子の件を)一族の竹下監物に反対される。
宗芳はやむなく頼蔵(よりくら)を自らの後継としたが、心許なく思い、主君・相良頼房の許しを得て、頼蔵、頼兄の両人を自らの後継の奉行とした」とある。

人様の嫡男を養子~他に兄弟がいないのに~雷神様(立花道雪)より酷い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だからつい犬童家と深水家の関係をアレコレ深読みし、深水頼蔵の評価もアレコレ深読みしてたのだが、
亡き深水が思いつめるぐらい「パっとしない男」だったらしい_| ̄|○ il||li がくぅ~

人物・相良頼房
(幸麿さん作画~相良頼房^^)

深水頼蔵は生年が不明なので年齢が解らない、頼兄より3つ年上説と7つ年上説あり。
頼蔵評は『左馬助(頼蔵)は性質魯鈍、軍七(頼兄)は天性鋭気叡智にして左馬助に頭を出させず(嗣誠独集覧)』とある。
※嗣誠独集覧~南藤曼綿録と同じ梅山無一軒が書いたものです。

ろどん・・・(* ̄* ̄*)ムゥ・・・ほら、一口に魯鈍って言っても色々あるじゃん!
例えば「黒田如水と長政が並んでいれば、長政がドンくさく見える的」な感じかもよ!
と、好意的に解釈(深読み)してみたが、実は上記の緑文字部分は南藤曼綿録だと経緯が違う。

宗芳が頼蔵を推したが、当主・頼房が「左馬助(頼蔵)一人ではとても勤まるまい」として頼兄も同役に任じ(以下略
主君も「心許なく」思ってたようです_| ̄|○ il||li がくぅ
はぁ・・・深水は死んでも死にきれなかっただろうなぁ・・|草場 |・T)じぃ。。。

犬童頼兄(通称が軍七^^)は、年少の頃は稚児として寺に入っていた。
稚児になるだけあって、容姿端麗(イケメン)だったらしい。
元々秀逸な性質なとこにもってきて、寺で成長したから受け答え明朗明解、所作もバッチリ物腰涼やか~~。

深水頼蔵・・・たださえ魯鈍なのに、頼兄と同役では余計に見劣りし、ぶっちゃっけ引き立て役。
魯鈍といっても、知能がアレなわけではない。
自分が他人から「どう見られているか」は怪しいが、少なくとも「頼兄と比べられている」のは自覚している。

かたや明敏な頼兄から見れば反応の鈍い頼蔵にイライラする。
頼蔵に理解させるために費やす時間が勿体ない。

当然のごとく二人は非常に不仲で、主君・相良頼安を悩ませるのだが それは・またの話 by^-^sio
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【相良頼房26_功臣の死】

深水宗芳が犬童頼安の嫡男・頼兄を養子にしようとしたのは、深水自身の保身だったかもしれない。
相良家御家存続の大功労者の深水だが、その時に重大な越権行為をしているからだ。
仮の話だが「秀吉が相良家に含むところがあれば」「深水の行動を利用して」「相良家を分断していたかも」しれないんです。

深水の越権行為とは?まず(* ̄・ ̄*)b島津への不義・・・島津から関白へ乗り換えたのは深水の独断です。
当主の頼房は日向国にいたので、連絡してたんじゃ時期を逸する・間に合わない~~というのは解る。

だが、あくまでも結果オーライなだけで、タイミングが悪ければ(島津にバレるなど)日向にいる頼房の身に危難が及んだかもしれないのだ。

これは序の口で、序の前も序二段もないが、一番問題な行動~~
頼房弟・藤千代クンを「頼房に無断で」「頼房の前に」「秀吉に拝謁させていること」です。
相良家存続を訴えるためには「相良家の誠意(人質)」が必要なのは解る。手ぶらでは行けない。

だがそれが藤千代クンである必要があっただろうか?
島津の筆頭家老・伊集院忠棟は、自分自身を人質としているし、
後年の関ヶ原の戦いで前田家が生母を江戸に人質に出したのは有名だ。

普通の生母ならトウが立ってるが、若年の頼房ママンなら秀吉が喜びそうな熟・・・ゲホグホ失礼!
とにかく秀吉の女好きは知れ渡ってて、女性を人質として差し出す国人は少なくなかったんです。


源平合戦・南北朝の戦い・戦国時代・関ヶ原・・・大きな政変・戦になると庶流が嫡流を凌いだり、弟が兄を差し置いて当主になる「逆転劇」が、しばしば見られる。
相良家そのものも元を糺せば庶流で、南北朝で嫡流を凌ぎ、戦国時代で嫡流を倒した歴史がある。
関ヶ原以降に伊達政宗が「豊臣家に近すぎる」という理由で、長男を家督から外し次男を跡継ぎにした話も知ってる人は多いだろう。
(おかげで親子関係の修復に時間を要した)

吉川家でも元春(父)・元長(嫡男)が相次いで亡くなり「家督をどうする?」って話になった。
他家に養子に出してた次男を戻そうか・・・という話が出た時に小早川隆景が言った。
小早川「家督は次郎五郎(広家)だ、関白殿下が見知った者を当主にすべき(大意)」この発言で末弟の広家が当主になった。

管理人が言わんとすることが解るでしょうか?
万が一「頼房が島津加担の罪は勘弁ならぬ」となったら、弟・藤千代を当主に戴き御家存続を願い出るm(_ _)m
深水宗芳が藤千代クンを伴ったのは、そこまで考えたからだ・・・と思います。

逆に「もし秀吉が相良家の力を削ぐこと」を考えたなら、「藤千代クンを当主にして球磨を安堵」します。
さらに、頼房を処断(強制隠居など)しないまでも、日向か筑後あたりに飛ばして与力大名にしてしまう。
これで完全にノックアウト。相良は頼房派と藤千代派に分裂し二度と和合することはない。

だが秀吉は島津ほど相良家を危険視してはおらず、自ら関白の下知に従う姿勢を見せたことを喜んだ。
何より目の前の深水宗芳を気に入ってしまったことが、深水にとって有難くも気苦労な事態になる。

深水を気に入った秀吉は、蔵入地(=直轄地)の代官とした。
ウィキペディアには簡素に「水俣の代官」としか書いてない(ほんと大雑把なんだから!)
これでは相良を知らない人や土地勘無い人は、現代の水俣市規模を連想してしまう^^;

水俣だけじゃないんです。葦北郡全部・・・深水は郡代官だったの。
城代も2つ兼務。水俣城と津奈木(つなぎ)城です。
葦北郡の石高は慶長9年で17000余で、相良家の球磨郡は約2万。

天正年間の石高は解らなかったが、主君である頼房と深水の代官地に大差がない。
代官ともなれば任地に赴かねばならず(城代だし)、都度主君へ「行ってきまつm(_ _)m」挨拶しただろう。
葦北は相良領だったのに・・・|次の間/襖 |_T)じぃ・・・by相良家臣

深水は和歌が堪能・・・つまり空気読む能力スペックが高いから、すごい気まずかっただろうなぁ。

年若い主君・頼房は(この時点では)深水にどうこうは無いと思う。
深水は島津義久との関係融和に努めてたし、深水の独断専行のお蔭で御家存続だし、肥後一揆のチョンボもフォローしてもらったし・・・・・それでなくとも祖父の代からの功臣だから頭が上がらない。

功績が大きいのは悪くない、だが秀吉から貰う見返りが大きすぎて、非常にバランスが悪い。
藤千代クンを当主うんぬんは管理人の推測で、そんな意図は深水に無かったかもしれない。

だが管理人が勘ぐったように、相良家臣が勘ぐる可能性はある。
もし深水が「秀吉死去~関ヶ原まで」存命していたら、間違いなく失脚していたことだろう。

天正18(1590)年8月21日・・・深水宗芳死去・享年59歳・・それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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