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【相良頼房40_法廷闘争?】

今回は(池田こういち著『肥後 相良一族』&人吉市史)を参考資料とさせて頂きました。

深水頼蔵が石田三成へ訴状を出した正確な時期は解ってません。
慶長元年(1596)年10月13日に深水頼蔵が相良家を出奔し、加藤清正に匿ってもらってます。
実父・織部も息子に続き出奔し、二人を追って出奔しようとした深水一族73人を犬童頼兄がバッサリ成敗
(詳細経過は前回既出)
それを憤った深水頼蔵が公儀(この場合は豊臣政権)へ訴状を出した。

これだけ書くと「犬童DQN」って思われるかもですが、戦国も江戸期も出奔(脱藩)は基本許されることじゃありません。
だって主家の内部+軍事情報を抱えてるし、郎党を引き連れていれば主家の兵力減にもなります。

だから勝手に出奔の誰かさんは追手や刺客を放たれたり、某氏は「奉公構え」くらったりと、それなりの報復を受けるものなんです。
加藤清正の保護下にある頼蔵・織部親子が無事な代わりに、相良領内に残る深水一族にトバッチリが来るのは政争の常。
とにかく訴状は慶長元年(1596)10月13日以降で、第二次朝鮮の役出兵までの間に起きたんです。

石田三成は訴状の確認の為に犬童頼兄を召して、深水頼蔵と共に詰問した。
頼兄は「深水一族への処断は、法に照らしてなされるもので、個人の勝手な判断で行ったものではない。
主君の命により成したものである。
と述べると、主君・相良頼房からの指令が書かれた文書を提出した。
頼蔵「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

実は・・・初めのころ、相良頼房と犬童頼兄の衆道関係を疑いました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ
(頼兄は美形で寺の稚児上がりの経歴なんで、つい腐女的発想を・・・ゴニョゴニョ)

主君・頼房にしてみれば「アタシ(深水一族)と、あの女(犬童一族)のドッチを取るのよ!」と究極の選択を迫られた状態なわけで、頼房「魯鈍ちゃんより、仕事の出来る方が (・∀・)イイ!!」となるのは当然の帰結。
亡き深水宗芳が生きていれば、頼房も頼兄だけを選ぶことは無いだろうし、そもそも両派の争いは起きてないだろう。

なんとなくなんだけど、深水頼蔵は深水一族の過去の功績から「自分は大丈夫」って、根拠レスな思い込みがあったんじゃないだろうか^^;
で、不利を悟った頼蔵が何をしたかと言うと・・・法廷からトンズラ。・゚・(ノ∀`)σ・゚・。アヒャヒャ

妄想1:三成・頼兄の前を頼蔵が脱兎の如く逃走~三成・頼兄 ( ゚д゚)ぽかーん
妄想2:頼蔵が「イテテ~持病の癪が・・・ちと休憩」と言って退出遁走

具体的に、どうやってトンズラしたか記録に残ってれば面白かったのに~
頼蔵がトンズラしたと知った時の三成の顔を見て見たい(大爆)

そして改めて三成は頼兄に、頼蔵追捕の許可状を与えたそうだ。
その追手は山井五郎により殺害され、深水頼蔵は事無きを得た。
「石田三成が捕縛しようとした」と聞いて、加藤清正は増々意地になってしまったらしい。
深水頼蔵を匿った(伏見屋敷か?)
深水一族と犬童一族の争いが、加藤清正と石田三成との争いにまで発展?それは またの話^-^
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【相良頼房39_亀裂】




文禄4年(1595年)1月・・・朝鮮にいる相良頼房の元へ「石田三成家臣・黒川右近が検地の為に下向した」旨が伝えられた。

相良家も島津家と同じく、当主が朝鮮出兵で留守の間に検地が実行されたようだ。

その時に主君・頼房は、犬童頼兄を帰国させている。

どうやら前年の竹下監物(深水一族)誅殺以降、深水一族と犬童一族の対立は如実化しており、

それを懸念した頼房が、頼兄を帰国させたらしい。

石田三成家臣・安宅秀安は5月に犬童休矣へ下記のように伝えた。

(安宅秀安~石田家において主に島津・相良との折衝にあたった家臣)
「頼房の在陣は大事(竹下監物誅殺)の前のこと。

犬童休矣・頼兄父子と深水織部・頼蔵父子の諸事に渡る熟談を勧める。

両者の対立は大人げなく、第一に頼房の為にも宜しからず、

検地の実施に於いても、休矣・織部(ダディ同士)で熟談の上で、頼兄を上方に差し向けたのであろう。

そうでなければ、三成も非常に心配している」

相良家中における深水一族と犬童一族の相克は奉行たちの耳にも達しており、相良の御家取り潰しの可能性が示唆されていたらしい。

文禄4乙未年(1595年)黒田甲斐守(長政)が帰国し、その陣所が空いたので(相良頼房は)そこに移って翌申年まで在番した。

そのうちに、清正の陣に自分勝手な振る舞いが秀吉の耳に入ったので、その申し開きのため清正は帰国した【※】。

頼房も翌年5月に帰国し、直に京都に上り、太閤秀吉にお目見えのうえ事情を説明して、同年9月に球磨郡に帰着した。

(出典:南藤蔓綿録)

【※】清正の帰国

明との和平交渉について、小西行長・石田三成らから弾劾された清正は、秀吉の怒りをかい、
慶長元年(1596年)6月に帰国を命じられ、京都伏見屋敷に謹慎となった。

朝鮮から帰国してるのに、地元の土を踏まずに自ら京都へ報告・・・律儀なんだなぁ。

いや、そのくらいしないと宮仕えは務まらないか・・・。。。( ゚Д゚)y─┛~~

とにかく相良勢は9月にやっと故郷に戻り、戦塵の垢を落とし、マタ~リお茶 ~~旦(-^ )頂きます♪

じゃなくって、その前に出陣前に参詣した社に御礼参詣デショ! (._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

母上(義陽の正室)&ママン(生母)に帰国の挨拶した?
留守中の検地の報告に目を通して! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

忙しいながら、日常を取り戻しつつある時に「事件」が起きた。

慶長元年(1596年)10月13日~深水頼蔵が加藤清正の元へ出奔!




(監修様作画による、深水頼蔵と犬童頼兄のイメージ画像)

深水一族と犬童一族の確執は、抜き差しならぬものとなり、ついに最後の一線を越えて「頼蔵出奔」に至った。

深水頼蔵の実父・深水織部も息子に続いて出奔。

[球磨]ε=ε=(* ̄ー)ノノ[佐敷(現:熊本県葦北郡芦北町)]に住んだ。

家老の犬童頼兄は、頼蔵・織部の妻子を捕えて監視させたが、これに深水一族は反発。

恨みから町屋を殺掠する事件にまで発展する(犯行に及んだ9人が討ち取られ、残りは逃亡)。

また頼蔵の移り住んだ佐敷が深水氏縁故(★)の土地であった為に、

出奔を企てる深水一族が後を絶たず、犬童頼兄はその通路に待ち伏せさせ、一挙に73人を殺害した。

(★葦北は亡き深水宗芳(頼蔵の叔父で養父)が、豊臣秀吉に抜擢されて郡代官を務めた地です)

相良頼房は朝鮮の役で、加藤清正の陣に所属した。

頼房が国境の城を守り抜いたことに感動していた清正が、相良家を出奔した深水頼蔵・織部親子を匿った。

これは加藤清正と石田三成の確執・政争が絡んでしまった事によるらしい。

朝鮮でも加藤清正は(頼房が戦死した)と、早とちりしたりするあたり、意外と思い込みが激しいっぽい。

深水親子と対立している、犬童頼兄に「大嫌いな石田三成が肩入れしている」とでも思ったのだろう。

あるいは深水頼蔵が清正に対し、そのようなことを言外に匂わせたかもです。

相良家の検地は石田三成(正確に言うと家臣を派遣)が行っており、その時期に頼兄も帰国してるので、

傍から見れば「一連ナカマ!((( ^-^)爻(-)))ナカマ!托生」に感じたかもです。

主君・頼房が案じて頼兄を帰国させたのに、既に関係が拗れまくってたので、悪意でしか物事を判断できなくなってた。

一族が殺されたことを知った頼蔵は「頼兄の深水一族への行為は私怨によるものである」として石田三成に訴え出た


相良家中の争いが「公儀の俎上」に乗っただが それは またの話^-^

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【相良頼房38_争乱】

文禄2年(1593年)相良頼房公は、清正と同道して安辺から高麗の都(漢城)にお出になり、そこから諸軍勢は元の陣にお帰りになった。
頼房公は清正と一緒にセツカヒ(西生浦)に在番した。

出典「南東曼綿録」より

争乱は、主君・頼房が朝鮮出陣で不在の時に起きる
「御家騒動」で定評?のある相良家・・・その家中の争いは、加藤清正と石田三成をも巻き込むこととなる

上司・深水頼蔵(年齢不明だが頼兄よりは年長さん)、部下・犬童頼兄。

文禄2(1593)年現在、共に主君・頼房と共に朝鮮へ出陣しているのだが、実は渡海前に一悶着あった。
頼兄が切れ者過ぎるのか、性格もキツイのか、上司なのに頼蔵は仕事に関して手も足も出せなくて、(頼兄の事務処理能力に対応できない)おいてけぼり。。(ω・`))ポツーーン

男女の別なく職場がこれでは辛い・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ

頼蔵は「魯鈍」って記録されてるくらいだから、そもそも能力以上の地位なわけで、気の毒と言えば気の毒なんだが、この後の頼蔵を見るに「器量も人の上に立つガラじゃない&どうにも小物臭がする」

朝鮮への渡海命令が下ったのだが、深水頼蔵は拗ねて出社・・・もとい出陣拒否して山田に御籠り。
.......ドウセワシナンカ、頼兄ガイレバイインダシ・・・・( ___ ___)σイジイジ

頼蔵を深水家の跡目にと推薦した深水一族の竹下監物が コッチコイ!( ̄- ̄ )o―――――∞Cと説得され、んで心配した主君頼房が(二人に協力し合って欲しい)という願いを込めて、頼蔵と頼兄に「相良姓」を与えたんです。

鬼(武闘派)がいぬ間に太閤検地~~
ウィキ~の記述だと、豊臣秀吉は統一した国は、都度検地を行っていたとあるが、島津のように家臣の抵抗が激しいとこだと、一度では終わらず(出来なくて)五月蠅い連中が朝鮮出陣中にリベンジ検地してた。

相良家にも出陣中の文禄2(1593)年に太閤検地が入ったんです。
その太閤検地がキッカケで(当事者は朝鮮なんだが)深水一族と犬童一族の対立は増々酷くなってしまった。

検地で生じた租税納入分を賄う為、「無駄に高録の者」の領地や寺社領の召し上げ(没収)が行われ、その一番最初に竹下監物、その子・外記、その儘(まま)子・中道坊、竹下監物妹聟の蓑田大隅らの領地が奪われた。

領地土地整備っていうと、寺社領が整理対象に上がるのは鉄板なんですが、無駄に高録な者リスト一番目に上がるって、どうなのよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
竹下監物はこれを犬童頼兄の計略と訝った為に不穏な状況となり、深水一族600人は湯前城に籠城する


竹下監物とは何者なのだろう・・・
深水一族なのは、まず間違いない。

竹下・・・姓が違うから庶流。
諱は不明。通常呼ばれている監物は、本来は官名で(多分自称)号じゃないから隠居はしてない。
年齢が判んないなぁ・・・嫡子の領地・・・成人に達した子供がいるので30歳以上は確実。
深水家の家督に関し「意見具申(頼蔵を推薦した)」出来たから家格も悪くない。
それどころか湯前城に600人も糾合するのだから、深水一族内で相当の影響力があったのだろう。

だが、その割に深水宗芳生前でのエピが見当たらない。
竹下監物は深水宗芳の後継者に、深水頼蔵を推薦し、その後ろ盾になることによって、深水一族内で重きを置くようになったのではないだろうか。

逆に魯鈍・頼蔵には竹下の後押し(後始末&フォロー)が欠かせなかったわけで、竹下の勢力が削がれたら、(頼兄より仕事が出来ない)深水頼蔵の立場は悪くなる。

竹下が領地没収を「頼兄の陰謀だ」と疑ったのは、そのあたりから来てるかもしれない。
頼蔵に竹下のフォロー必須なように、竹下の権力基盤には頼蔵を相良家老職に据え置く必要があったのだ。

あと「梅竹一揆」から檄文が届いた時の評議で「休矣の言葉( ー`дー´)キリ」が主導権握ったのも面白くなかっただろう。
朝鮮にいた相良頼房は国許からの知らせに深水頼蔵を呼び出し詰問するが、頼蔵は「自分は関知していない」旨を伝えた。

頼房は籠城した者らに切腹を命じ、竹下監物ら数名が切腹して事態は一応の沈静化をみたが、頼蔵と頼兄が ♪和気( ̄▽)人(▽ ̄)藹々♪ になれるわけもなく、
対立は増々激しくなるのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房37_細川幽斎】

細川幽斎・・・室町・安土・桃山・江戸・・4つの時代を生き残ったモンスター
某元首相の雑誌インタヴューより「いやぁ、うちには解読されてない古文書は、まだまだあるんですよ~」だそうです^^;

秀吉は、島津義久の「一揆鎮圧報告」に逆切れしたのではない、細川幽斎が秀吉に「祁答院(歳久)処分」を囁いたんです
首謀者・梅北国兼の思惑は外れて、一揆は「肥後一揆」の時のように飛び火しなかった。

檄文送付~お誘いした相良家も対馬も一揆には加担してくれなかった。
対馬に至っては|壁 |_ ̄)じー って様子見して、一揆勢が不利となるや鎮圧側に加担する始末だ。

肥後国人一揆で、名のある領主を悉く成敗(生き残った者も本貫地から引き離された)したのが効をそうし、肥後は結果として、未分化ながらも強制兵農分離状態となり、生き残った在地の豪族たちも一揆に呼応しなかったんです。(肥後国人一揆の残党は参加してたっぽい)

梅北の妻を名護屋で火あぶりに処したのは、豊臣政権に威光を示す格好のデモンストレーションだった。
梅北の妻が毅然として刑を受け入れたのも、「逆らっても無駄だ」と示すのに、より効果的だったことだろう。
肥後の地ならしは、ほぼ完成した・・・・となると不穏なのは島津の方だ。

「反豊臣派」と目されている島津義久と弟・歳久。
祁答院・歳久は「金吾サァ」と家中から慕われ衆望を集めていた。
さらに5年前から中風を発病し、起居が自身でままならない状態でして、反豊臣系家臣が暴走・ヤンチャする時に「神輿」として担ぎ出すのにもってこいの人物だ。

歳久を成敗することは不安要素を取り除くだけでなく、反豊臣派に豊臣政権に威光を思い知らせる絶好のチャンス。
が、歳久処分を不服とし「城明け渡しをガン拒否」「籠城慣行した者たち」がいる。

籠城したのは亡き歳久の妻と、その娘・・・W未亡人の~ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!
(娘の方は夫が(婿養子で従兄弟)根白坂の戦いで討死してます)

ちなみに歳久の妻も、義弘夫人のように家格は高くない家来筋出身。
歳久夫人の才知・気性に惚れこみ、歳久が正室に向かい入れた(*´艸`)ラブラブ

歳久の娘も母に似てキツイ・・・ゲホグホゴホ・・・え~と、そう!烈女でして( ̄0 ̄A 汗フキフキ
後に自分の再婚相手を逆指名し、叔父・島津義弘に対し強行に捻じ込んで、要求を通してます( ̄0 ̄A 汗フキフキ~薩摩おごじょは強か~
あと、歳久には側室がいましたが、こちらは籠城前に城を出て日向へ行き、島津義弘の保護下に入ってます。
( ̄0 ̄A 汗フキフキ~苦労してます義弘~

そういう母娘なんで、夫を処断した島津義久の説得なんて聞く耳持たず~
文禄元年(1592)7月20日に籠城開始。
(事情が事情なんで、義久も無理な攻撃は出来ない)

手に余った義久は諸悪の根源・・・もとい、友人である細川幽斎に説得を頼んだ。

幽斎「(O ̄∀ ̄)ノ~奥方たち~亡き歳久嫡孫・常久チャン2歳が成人したら旧領(祁答院他1万8千石)を復活させますよ~」
と同26日に義久、幽斎の連盟で誓詞を出してるが母娘は信用せず無視。
義久は新納忠元を派遣し説得させ8月11日、ようやく開城させた。
(新納とのやりとりは不明)

もちろん島津宗家でもアフターケアし、後年に祁答院で復活は出来なかったけど、代わりに日置に領地を与え「日置島津家」として残ります(* ̄・ ̄*)Vブイ

祁答院は島津義久の直轄領となった(てか余人が領したらガチで揉めて収拾つかなくなる)
宗家の直轄領が増えるのは、秀吉の意向に沿ったものでした。

一見、矛盾してるようですが「朝鮮の役」を円滑に運ぶためには、領内の抵抗する国人たちを島津宗家に抑えてもらわなければならないからです。
「外征」のために「内政を固め(内部締め上げ)る」って「どこの帝国主義かよ」って感じで、朝鮮の人たちだけでなく、国人を愛する管理人にとっても、秀吉の遣り方は全く腹立たしい限りです。

プラス「朝鮮の役の軍役(兵糧自前)もシッカリやれよ」ってプレッシャー有り^^;
通常の戦では長期・遠隔地の遠征だと蔵米地(所領とは別・兵糧調達のための貸与)が与えられるんですが、日本全国の戦国大名が関わるので、島津だけに蔵米地を用意することは出来ません。

どこまでも「自分で何とかしろ」なんです~
で「大変だろうから歳久を始末して、宗家の直轄地増やしたらいいよ!(O ̄∀ ̄)ノナイスアイデア~」

・・・・まったく余計なお世話ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

宗家・直轄地となった祁答院(けどういん・現川内町)の検地は、細川幽斎が行った。
島津の検地というと石田三成が(オタには)有名なんですが、この頃の三成は朝鮮で武断派と揉め・・・・・・アワワ~~~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ
~~えっと、朝鮮に出陣で不在でしたので、島津家と交際が長い幽斎が務めた。

だが細川幽斎の政治力をもってしても検地できたのは祁答院のみで、他の島津領は家臣たちの抵抗が激しく出来ませんでした( ̄ー ̄A 汗フキフキ

祁答院ですが、その後がオタ的には非常に興味深い ( ̄ko ̄)チイサナコエデ

文禄4(1595)年の検地からみで「日向・都城」が、豊臣秀吉エコヒイキの伊集院忠棟(島津筆頭家老)に与えられた。
都城は島津分家・北郷(ほんごう)氏の本貫地~宗家を支えつつ頑張って死守してきたのにアッサリ没収。

怒りで額の青筋プルプル北郷を宥めるために、宗家は身銭(直轄地)を切って祁答院を与えた。
んで、伊集院忠棟が島津忠恒(初代藩主)に粛清され、怒った伊集院の嫡男・忠真が「庄内の乱」を起こした。
んで慶長5(1600)年に鎮圧され、空いた都城に北郷が執念の復帰(* ̄・ ̄*)Vブイ

んで空いた祁答院は、亡き歳久の首を奪還して隠した島津忠長に、多年の功績として宮之城と共に与えられた。
その島津忠長の系譜が「宮之城島津氏」となり、梅北一揆のソースとなった「征韓録」を編纂するんです。

「島津歳久文書」を隠匿・処分するとしたら、島津義久と島津忠長あたりでないか~~~と睨んでます(* ̄ー ̄*)ニヤリ
~史書編纂する家が怪しいよね!

祁答院領は島津の御家事情で、領主が二転三転するという数奇な運命を辿ったが、似た事例は日本各地にあったことだろう。
さて、島津内部の事情を語るとキリがないので、この辺でお開きとして相良に戻ります。

我らが相良家も、お約束通り揉めてましたが、それは・またの話 by^-^sio 

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【相良頼房36_梅北一揆4・決着】

犬童休矣は士分30余名で(一揆鎮圧の)救援に向かった。
しかし梅北一揆3で紹介したように、既に首謀者の梅北国兼は討たれていた。

八代に向かっていた一揆勢の東郷甚右衛門(別働隊か?)が国兼死去を知って、佐敷城に戻る途中の佐敷川の橋で、相良とバッタリ出くわし交戦。
相良は一揆勢の首級40を討って、名護屋に送った。
ちなみに菱刈源兵衛の嫡男・将監クンは、手傷3ヵ所負いながら立派に初陣の務めを果たしました(*´艸`)

梅北一揆の第一報は義久の報告だったらしい。
国元からの注進により知った義久「はぅ( Д )  ゚  ゚」絵文字通り目が飛び出るほど驚き、
すぐに石田正澄(三成の兄)に依って、事情聴取された。(義久は名護屋にいた)

秀吉は報告を聞くと、「朝鮮渡海の始めに不意の変に及ぶ事は吉兆ではない。これは義久の罪である
と怒り心頭(=怒りレベルMAX)である処、大納言(徳川)家康卿が御前に現れm(_ _)m


家康「御怒りは御尤もですが、義久は当陣に参り、義弘父子は朝鮮に渡海し、その上、義久の息女と義弘の妻女は聚楽に勤めておりますれば、誰がその子弟を忘れて反逆を企てましょうか。義久を罰する事は如何なものでしょうか
と頻(しき)りに言上した為、秀吉も怒りを和らげ義久の帰国を許した。


関東・東北の申次(もうしつぎ=受付窓口)だった徳川家康は、今までのフィールワークの関係もあって西国大名に馴染みは少ない。
家康は薩摩に厚意を用いることで懇意になりたかったのだろう。
家康の取り成しを島津義久がどう思っていたか、出展元の「征韓録」には記載されていない。
家康の義久へのアプローチは常に「片思い」だったようだ^^

てことで義久は薩摩へ馳せ帰り、梅北と与(くみ)した者の一族を罰しようとしたが、その命が下る前に、既に留守居の者らによりその者らは悉(ことごと)く誅殺されていた。

義久は、その旨を記して名護屋へ送ったものの、秀吉は義久の報告を見て怒りが復活。

一揆を唆した者が島津家にいるはず!その者たち全員・10が20になろうとも首を刎ね、京都へ送って来い!祁答院(けどういん=弟・歳久の事)が、その反乱者の支援をしていた!祁答院の首を刎ねよ!
島津義久への通達は、義久の友・細川幽斎を介して伝えられた(祁答院~4兄弟の3男坊歳久の領地で、そのため歳久は祁答院と呼ばれていた)

義久・・・_| ̄|○ il||li

どうにもならなかった・・・・天下人の口から祁答院の名が出た以上、逃れる術はない。
5年前の天正15(1587)年の3月頃から、歳久は中風を患い病の床についた。

秀吉に最後まで抵抗した反骨の英雄・・・後に戦の神として祀られた「金吾さぁ(これも歳久のこと)」だが、
もともと秀吉の実力を認め和睦を唱えていたのは歳久だった。
だから秀吉へ抵抗した歳久の「心変わり」の理由には、諸説あってハッキリしていない。(or家臣の暴走?)

梅北一揆が情報操作された(らしい)と、言われているように、影の首謀者として処断された歳久に対しても、隠ぺい・隠匿工作が為されている可能性がある。
なぜなら「歳久関連文書(受取人が歳久の書簡29通)」はあるが、「歳久文書(差出人が歳久)」が一通も無いからです。

文禄元年(1592)年7月18日・・・島津歳久は実の兄・義久の討手によって成敗された・・享年56歳
国人オタであると同時に、島津ファンである自分にとっては、これほど悲しいことはなく、歳久の死の様子を記事にするのは、胸が潰れるような思いで、ガチ涙でPCが見えなくなるので割愛します( ̄人 ̄)☆彡~~合掌。

京都で罪人として晒し者になった歳久の首は、従兄弟の島津忠長が奪い返して隠した。
(故郷に埋葬し直されたのは明治後の大正時代)
義久は秀吉の死後、速攻で歳久の菩提寺を建てて供養している。

下戸だった義久に代わって、酒を飲むのが歳久だった。(そんなだから中風・・・ゲホグホゴホン)
戦国時代には珍しく仲良しで、協力し合って生き抜いてきた・・・決して弟の死を望んだ訳じゃない。
だが、それでもなお、島津宗家のために「歳久の命」が必要だったんです。

いつの時点かは解らない・・・だが義久は弟を犠牲にする道を選んだ。
家族への情愛と、当主としての決断は、交わることの無い別義のものだ。

そして「非常の決断」が出来る人物でないと島津当主は務まらない。
それほど分家と国人たちを束ねるのが大変だったんです。

当主以外に衆望を集める人物は不必要。
逆らう家臣の粛清は必須。
だがそれは義弘では出来ない。

島津内部で「正式な家督相続を受けていない義弘」が、歳久を犠牲にしたり、家臣を粛清しようとしたら、おそらく島津家中の何者かに暗殺されていただろう。

時代は戦国の荒々しい気風のままだし、義弘をプッシュする豊臣政権は太閤検地と刀狩の前で、まだ権力基盤が不完全だからです。
従って歳久の処断は、長兄である義久でしか為し得ないことです。

一揆実行犯・梅北国兼の子供は全員殺されたわけではなく、捕縛を逃れて密かに生き延びた者がいたらしい(詳細不明梅北の妻は名護屋に連行され、秀吉が「ハァハァ)ワシに仕えよ」と言ったのを拒んだので、火あぶりの刑に処せられた
あ~「秀吉が~拒んだので」までは「女好き伝説テンプレ」ですのでスルーしてください,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって梅北が推定50代後半~60代なんだもん、妻の推定年齢だって・・・ねぇ^^;

梅北の妻の最期はフロイスが日本史に書いてるので、興味ある方は図書館などで読んでみてね^^

文禄元年1592年8月3日~徳川家康が細川幽斎に、おてまみ書いた_φ( ̄ー ̄ )カキカキ~
家康「(幽斎が)歳久成敗を(秀吉に)申し上げた事は肝要である_φ( ̄ー ̄ )グッジョブ~

幽斎さん・・・ほんとの悪は、あんたはんでしたんか?それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房35_梅北一揆3・救援】

一揆は僅か3日で鎮圧され、文禄元年(1592)年6月17日に討たれたことになっている島津家臣で首謀者の梅北国兼。

だが研究が進み、一揆勢は半月間粘り、別働隊もいたらしいことが解って来た。
どうやら一揆を小規模だったかのように、為政者(島津と豊臣政権の両方)が情報操作していたらしい。
だから一揆が本当に鎮圧された期日は、明確にはなっていない。

生前のアグレッシブ梅北は「一揆への加担」を呼びかける檄文を _φ( ̄ー ̄ )カキカキ 送り付け、
それは、我らが相良家にも届いていた。

文禄元年(1592)年といえば「文禄の役(第一次朝鮮の役)」の真っ最中で、
当主である相良頼房も加藤清正旗下で戦っていた。
ちなみに頼房20歳~~シーマンズの影響か、すっかり猛将タイプに仕上がってます。∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

檄文の内容も手紙が届いた期日も不明だが、要するに「佐敷城に籠城する一揆勢へ加勢して欲しい。」ってことらしい。
頼房の亡き父・義陽が島津に降伏してから九州の役までの短い期間だが、阿蘇合戦や豊後侵攻と、共に轡を並べて戦場に出て、同じ釜の飯を食って来た。
まぁ島津から見て相良家に対し ♪仲間( ̄▽)人(▽ ̄)仲間♪意識があったのだろう。

なんか薩摩隼人らしい感覚~~~実際に家臣間でも交流があっても不思議では無い。
さがらんとシーマンズは ♪お隣さん( ̄▽)人(▽ ̄)御近所さん♪ だもんね^^b

アテにされて困惑したのは相良家だ。首脳陣は朝鮮に出払ってる。
とにかく台芳尼(義陽正室・千代菊)の元で評議が持たれた。

このとき「梅北の主張にも一理ある」との意見も出たそうだ
う~~~~~~~ん、檄文的招待状が残っていれば、梅北の諸説ある一揆の動機が分かったのに~(惜しい!
留守居の家臣らが同調しかけるってことは、やっぱ領土問題が動機かなぁ(6 ̄・ ̄)ポリポリ

事の重大さを忘れ、梅北の文に流れされそうになっている評議の空気に、重臣・犬童休矣が静かに、だがハッキリと意見を述べた。

犬童殿曰く「殿は太閤の命により清正殿に属し、遠く朝鮮で戦っておられる。斯様(かよう)な時に梅北如き凶徒に与(くみ)して、太閤・清正殿に背(そむ)く事が出来ようか( ー`дー´) キリッ
いかなる理由でも一揆は御法度・大罪!同情してどーすんだ!
おのれら殿の留守に御家を危うくする気か?!シャキっとせんか~い!! 

犬童の言葉に \(////o////)ノ「ハッ」と一座は冷静さを取り戻した。
犬童休矣は、士分30余名で(一揆鎮圧の方の)救援に向かった。((((((((((っ´▽`)っ

そしてこの士分の中に菱刈源兵衛の嫡男・将監が初陣(戦場デヴュー)してます。
ん?菱刈源兵衛を覚えて無い?^-^

ほら、豊後侵攻の撤退の時に、「御家存続が決定して、島津との盟約を破棄して人吉へ帰ろうとする相良'zの中で」「武士の約定を果たしたい~って妻子を人吉に残して一人だけ島津家に残った勇者です( ̄∀ ̄*)ポワ~ン」
人吉に残ってた菱刈の幼かった嫡男が、初陣を務めるまでに成長したんです( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

ちなみに将監クンは江戸期に相良家(二代目藩主時代)の家老になります~~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
大隅国人の雄であった菱刈の血(庶流だけど)は、相良家で脈々と受け継がれてます( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

さて、佐敷城の梅北の方に話を戻そう。
6月14日に蜂起した一揆勢は、肥後葦北郡・佐敷城を攻撃。

さらに八代の城をも陥れんと協議して、田尻(梅北の同調者)は松橋(まつばせ)を放火。
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。
松羅はすぐに八代の城に入って堅く守った為、田尻の残党は佐敷城へ引き退かんとした。
それを松羅の人数が追い掛け、肥後国・赤松太郎と云う処で悉(ことごと)く打ち殺す。
(出典・征韓録~読みやすいように補正あり~以下出典は略)

別働隊って、この田尻のことかな?( ̄・ ̄)じー 相良の動きと合わせると、他にもいたっぽい感じです。

梅北国兼は佐敷(さじき)城に在って、家臣の山蜘(やまくも)という天性の狼藉者を近郷へ遣わし、(一揆の)賛同者を募らせる。
佐敷住人の境善左衛門・安田弥左衛門は国兼の無勢を悟り、若き女房らに酒などを持たせて、炎天の苦労を慰めさせようとする。(←つまり罠)

国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽(たちま)ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。
ほんの数杯で興に乗って油断するって、どんだけデカい杯だったんだ ∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

『梅北一揆始末書』の記録だと、また少し違います。
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意(ぎょい)として城の受け取りを迫ったものの、安田弥右衛門ら留守居(住人ではなく清正家臣になってる)が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答。
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。
んで、酒と鮒寿司(って戦国時代にあったっけ?)で油断させて以下同文。

注意しなければならないのは、これは家臣が一揆しちゃって超迷惑だった島津側の記録だってことです。
だから梅北のアッサリ討たれるカッコ悪い最期は、額面通りに受け止めることは出来ません。
とにかく、犬童らが一揆鎮圧の応援に出陣した時、すでに梅北は討たれた後だったのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房34_梅北一揆2・檄文】

前回、柿も裸子・・・書き漏らし~九州の役後の仕置きで、日向にも島津領が残ってた^^
島津豊久~佐土原領・島津久保~真幸院・島津義弘~大隅の他に諸県郡1,400町が安堵です^^
でも島津家臣に分配するには、ぜんぜん足りません~~~_| ̄|○ il||li

梅北の一揆の動機には「秀吉の朝鮮の役に対する批判」というものがある。

今まで、一揆は僅か数日で鎮圧されていたことになっており、今回出典でも鎮圧された期日の記載がなく、あえて曖昧にしたのでは?と勘繰りたくなる。
近年の研究で一揆は半月も粘ったことが判明し「別働隊もいたらしい」ことが解って来た。
てことで注目されて三省堂の教科書に「梅北一揆」が載ったそうだ(自分は未確認)

それで自分も上記の説に傾いていたのだが、再リサーチで「梅北が国人あがり」監修様情報で「紙屋氏の説」を知って、
「朝鮮の役に対する不満」は後世の後付けではないか?と考えるに至った。

九州の戦国大名に「朝鮮の役」を喜ぶ者などいない。
軍役の負担がマッハ涙目なのは勿論だが、どこも大なり小なり明国は貴重な交易(倭寇込で)相手だったのだ。
朝鮮(+援軍の明国)と戦になれば交易は途絶えるし、秀吉が「海賊禁止令」出したから倭寇も大っぴらには出来ず収入が途絶えた(;;)あぅ~

豊臣政権からくる(過重な)動員兵数を果たすために、各大名たちは片っ端から徴収かけるものの、それを嫌った領民たちが田畑を捨てて逃散してしまい、困った豊臣政権では流れ者の山伏とかを強制徴兵したほどだ。
それらの声なき民の声が、前時代の領主だった梅北を懐かしがり、神として祀ったのではないだろうか。

では「朝鮮の役」が一揆の動機に全くの無関係かと言うと、そうでも無いだろう。

キーは「梅北が大隅国人+九州の役後に大隅国は義弘に安堵された」だと睨んでいる
梅北国兼は島津義弘に従い、朝鮮へ渡海するはずだった。
ぶちゃけ梅北は、義弘に従うのがイヤだったんじゃないだろうか?


これには島津の御家事情が深く絡んでいると思う。
一応、島津義弘は島津家17代目当主・・・ってことになっているが、
研究者+オタの間では「義弘を当主としてカウント」するか未だに意見が分かれている。

理由はカンタン・・・歴代島津家当主が所有し、当主の証である「御重物」が、義久から義弘に譲られてなかったからです。
当主所有=個人所蔵だった「御重物」は、昭和終戦後「この先、個人が守る続けるのは厳しかぁ」ってことで、時の当主が東大の研究室に預けた。

結果、御重物の研究が昭和後期に進み、義弘に正式な家督相続が為されていなかった事が判明したんです。
ネット上で「御重物」の情報が少なくって~^^;
「国宝指定・島津家文書←コッチで検索すると一発なんだけどね(苦笑」の事だって解るまで1年以上かかったのは懐かしい思い出(*´艸`)

てことで「御重物を所持しない者」は、いかほどの権勢があっても、島津家中からは当主とは認められない。
豊臣政権が「御重物」のことまで知ってたかは不明だ。
だが(御重物を所持する)亀寿姫(義久末娘)を、義久が正当後継者にしているのは知っている。

だから亀寿姫の人質の任を解くのは許さないし、帰国に関しても一度の要請でOKされたことがない。
(関ヶ原前後も帰国許可は降りず、密かに大坂を脱出し義弘と合流して帰国した)

島津家が義弘を当主としたのは、あくまでも形式上のことで、国許では長兄・義久が実権を握っていた。
豊臣政権では島津家中を分断するために、義弘に大隅国を新恩として安堵するだけでなく、あくまでも義弘を当主として立てつづけた。

冒頭で挙げたように、義弘の嫡男・久保に対しても日向の重要地・真幸院が安堵。
島津義弘には「豊臣姓(本姓)」「羽柴(名字)」が与えられ、義久には「羽柴」のみと差別化している。

さらに豊臣政権と島津家のパイプ役である家老・伊集院忠棟に対し秀吉から直々に大隅国のうちから肝付一郡が与えられている
(一時は伊集院に大隅国そのものを安堵という案もあったそうだ。)

肝付郡は梅北家の本家・肝属氏の本貫地です。
島津義弘や伊集院は、親豊臣派として優遇・エコヒイキされ、これまで労苦を共にしてきた者らが蔑ろにされている。

不満・不安が募るところに、文禄元年(1592)年4月の評議での「地頭職の領地返上案(結果として実行されなかった)」が、トドメになったのだろう。

義弘派・義久派の融和として亀寿姫と義弘嫡男・久保が結婚するのだが、リアル存亡の危機をビシバシ感じてる湯尾地頭・梅北には、今後の保証となるものではない。

島津家中において「島津義弘に従い渡海する」ということは「親豊臣派」とみなされることになる。
分家筆頭の出水薩州家も義弘と共に渡海はしたものの、義弘配下として編成されるのを拒否して戦をサボタージュしている。
(これが秀吉の知るところとなり、出水薩州家は改易処分をくらう)
筆頭家老の伊集院忠棟も朝鮮に渡海し、島津家中における「親豊臣派は不在」となった。
現状(九州の役後の仕置き)に不満を持つものが、一揆を企むには絶好のチャンス(* ̄ー ̄*)

梅北が一揆を起こす場として肥後・葦北郡・佐敷城を選んだのは、島津水軍を担当してたのが大きいだろう。
佐敷城の遺構をネットで見ると、かなり堅固な石垣で加藤清正が佐敷城を重要視していたことが窺える。
城を堅固に~という期待からか、城代には石工集団・穴太衆の在地出身・加藤重次を配した。
が肝心の城のエキスパートも、加藤清正と一緒に朝鮮へレッツGO((((((((((っ´▽`)っ

葦北町は「相良氏が降伏後~九州の役まで」島津が領しており、一揆加担者を糾合しやすい。
実際、在地の庄屋・農民・町人などが一揆に加担している。
水軍担当だった梅北は、佐敷城周辺の在地豪族とも知己だったのではないだろうか。

湊町だった佐敷町は球磨・日向・大隅・薩摩へと街道が通じていた。
かつて国人が分割統治していた肥後で一揆を起こし、「天正の肥後国人一揆」のように各地に飛び火するのを期待したのだろう。
(これは第一人者の紙屋氏が唱えている説・水軍うんぬん部分の自分が加味)

アグレッシブな梅北国兼は「チュギャザァ~しようぜ」_φ( ̄ー ̄ )メモメモ
と、一揆加担を呼びかける檄文を送った。

原文は解らないが宛先で判明してるのが、まず対馬。
でもって我らが相良にも「一揆への招待状」が届いたのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房33_梅北一揆1・勃発】

事件は再び肥後で起きた!
文禄元年(1592)年6月~朝鮮の役で出陣中の加藤清正の留守を狙って、一揆が発生!
首謀者は島津家臣・梅北国兼(推定年齢50~60代)大隅国湯尾地頭~得意分野・水軍!
出展元・宮之城島津氏編纂『征韓録』~島津義久主朝鮮渡海恩免之事(附)家臣梅北一揆之事より


梅北家は大隅国人・肝属氏庶流で、南北朝時代では島津家と敵対していました。
戦国期に島津配下から⇒家臣団に組み入れられたわけですが、
地頭という立場+世代などを鑑みると、梅北国兼には国人気質・体質は色濃く残ってたと思います。

結果から言うと「一揆は鎮圧」されるのですが、梅北の犯行動機には諸説あり、さらに一揆後の影響が大きいこともあり、謎の多い「事件」です。


某町の某郷土史家(つまり誰か忘れた^^;)は「島津義久による教唆」を匂わせています。
その傍証として「義久の元へ、梅北の部下が使者として、一揆失敗の報告をしたが、使者は極秘のうちに消され関わりは無かったものと揉み消された」事実を挙げている。
(出展元記載なし、郷土資料か?)

道産子の自分が物申すのも憚られるが、少し勘ぐりすぎだと思う。( ̄O ̄A 汗フキフキ
教唆しようがしまいが「失敗した一揆の首謀者からの使者」が来たら、即始末するに決まってる。
それに「義久教唆説」が弱いと感じるのは「国人を扇動するリスク」が考慮されていないからです。

一揆の扇動なんてリスク恐れずヤッチャうのは、東北の誰かさんのような怖い者知らずの若い世代のやること。
50代後半以上の年齢の戦国大名なら、国人の扱いに散々散々さん~ざん、苦労して骨身に沁みてます。
敵を攪乱するために「敵側の国人を扇動する」ことはあっても、「自国内の国人(半ば家臣化してるとはいえ)を扇動する」とは、ちと考えにくい。

為政者が体制強化のために「ちょっとしたデモ(一揆)を起こさせて鎮圧する」という手法が無い訳では無いが、一揆が飛び火したら収拾がつかなくなるのは「肥後国人一揆」で証明済みだ。
どれほど裏で取引・交渉しようが、最後は「秀吉の機嫌次第」だからヤバすぎる。
言い訳に十字架を背負ったり、白装束になるのは一人で充分∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

生来、慎重で用心深い島津義久には「一揆の教唆」は似つかわしくない。
自分の前提~「島津義久は梅北一揆には無関係~ただし後処理を政治利用した説」で話を進めます(* ̄・ ̄*)Vブイ
                  
最近では、この研究の第一人者である史家・紙屋敦之氏の唱える「領地問題が原因説」が有力らしい。
かいつまんで言うと、九州制覇まで「あと一歩」だった島津氏は「九州の役」で敗れて、「大隅・薩摩」に押し込められた。
肥後・日向に領地を持っていた島津家臣はオールナッシング~ゼロ資産。

領地を失った島津家臣らには、大隅・薩摩国内で領地補てんをするのが本来の筋なのだが、
島津家では、それをしなかった・・・・と、いうより出来なかった・・・と言った方が正解かもしれない。

どこの地方でも一緒なのだが、豊臣政権誕生は「兵農分離」と同時に「国人が家臣化」する過渡期でした。
大隅・薩摩国内における既存領地を寸土たりとも削ろうものなら、本貫地を死守すべく国人はもとより、分家・支族が黙ってない。
とてもではないが、領地補てんは不可能(::)

島津義弘は領地の代わりにすべく(撫育金みたいな感じ?)八方金策に回り苦労したらしい。
忠恒(初代藩主)の代になると家臣を粛清して領地を・・・ゲホグホ失礼!
日向に領地があった上井さん(日記で有名)が、九州の役後に隠居したのは、その辺に事情があったんじゃないだろうか。

で、紙屋氏の研究によると「天正20年4月に、寺社領整備と共に地頭職分の返納について評議」があったそうです。
天正20年とは文禄元年でして、西暦でいうと1592年・・・ズバリ梅竹一揆のあった年。

結果は寺社領のみ整備して、一部領地を捻くり出してるんですが、4月領地評議で一揆は同年の6月。
湯尾地頭の梅北が己の地位を脅かす施策に「一揆を起こした」というのが氏の持論です。

梅北国兼は島津4兄弟の父・貴久の代から仕え、島津の「大隅統一」に大きく寄与した。
その後も活躍し、島津北征(岩屋城の時)には島津水軍を率いている。
それが「領地返上(上知ですね)」となったらブチ切れるだろう。

一族郎党を、どうやって養えというのか、梅北国兼は江戸期リーマン侍じゃない「国人あがりの戦国武将」なんです。
自分のなかの国人に対する考察(とカッコ良く言ってみる)から見て、紙屋氏の説が一番しっくり来る。
文禄元年(1592)年4月?日~梅北国兼は地頭職の領地返上が評議されていると知り、一揆を決意した
               

文禄元年(1592)年6月5日~島津義久~肥前・名護屋にて豊臣秀吉の饗応を受ける。

修理大夫義久は年老の為、起居が思いに任せず、その上、持病があった。
殿下はそれを聞き及ばれ、兵庫頭義弘父子に命じて、領国の士卒を率いて朝鮮に渡海させた。
義久は、この(秀吉の義久への心遣いに対する)御礼の為に、名護屋に参陣し、殿下に褐し奉る。
饗応と丁寧な御言葉を賜り、喜悦浅からざる処
・・・つまり秀吉の機嫌が良いので「ホッ」としたとこ^^b


そんな中、梅北宮内左衛門国兼・田尻但馬という者が、島津義弘に従軍する筈が、肥前国平戸の辺りに留まったままだった。
むろん一揆を企てるためで、チャンスを窺ってたんです|壁 |_ ̄)じー

(梅北らは)「主君の仰せ」と偽って、薩・隅・日の悪党らを招き、都合2,000余人を糾合した。
6月14日~梅北らは(加藤清正が不在で留守の)肥後葦北郡・佐敷城を攻撃

朝鮮に既に渡海した義弘らは「兵が遅いなぁ」と気を揉んでました^^
そして名護屋に滞陣している島津義久も、一揆勃発を未だ知らずにいたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房32_朝鮮の役4・激戦】

文禄元年(1592)・・・「破竹の勢い」と言えば聞こえはいいが、クールに言えば「前線が伸びきっている状態」~~日本軍^^;

朝鮮国王は首都ソウルを捨てて「オランカイ(中国吉林省東部・朝鮮と明との国境)」へ脱出した。
勢いづいた加藤清正率いる一番隊も、オランカイまで進軍。
相良頼房も国境であるアンヘン(安辺)に至った。

そこで相良頼房は、大将である加藤清正に安辺城の在番を命じられる。
だが、この年の暮れに明軍からの援軍を得た、朝鮮側の反撃が始まった。

それは「黒山の人だかり」とか「雲霞の如く」という喩えのまんま。
ものすごい兵数で「野鳥の会メンバーでもカウント不可」な件~
それは全て騎馬武者で歩兵は一人もいなかったそうだ。

野も山も川も海も、とにかく見渡す限り騎馬武者で埋まった。
その余りの多さに「チキンハートな日本軍」が潰走したらしい。

このとき、振る舞い悪く退却したものは横目役(軍艦)が秀吉殿下に報告するであろうから、
帰朝の後にはたぶん改易(所領没収)されるであろう。

(南藤曼綿録より~ただし誰が逃げたかは記載なし)(江戸期に書かれてるので「秀吉」と書いてるんです)

相良が守る安辺城も朝鮮軍+明軍に囲まれた Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ

このとき家老、相良兵部(頼兄)をはじめ老臣たちは
「日本軍の大方が都に引き上げた今、相良氏の軍勢の戦力武器弾薬は敵の百分の一にも満たない。
これではとても永々の籠城はできないので、今のうちにどこか〔敵の包囲網の〕一ヶ所を打ち破って都へ引き返してはどうか」と進言した。

主君・相良頼房は
「皆の申すことはもっともである。しかしよく考えてみよ。
清正が申されたのは[この城は国境の重要なところである。相良氏は古風な家で万事律儀な家なので在番を命じると云われた]ので「ご安心くださいm(_ _)m」と申し上げたのだ。
侍が侍に対して堅く約束したのを、朝鮮人が蜂起したからといって、城を空けて退却することができようか。
自分はこのたびの陣触(出陣の命)の朱印状を拝見してからは、朝鮮国の土になるつもりで渡海してきたのであり、それは摩利支天もご覧になっているであろう。
番城を命じた清正方から伝令が来るまではこの城を出てはいけない( ー`дー´) キリッ


老臣たちも主君・頼房の言葉を聞き「至極尤ものご意見である、退却するのではなく城を守って戦うのだ!ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!」
と全軍に命令を出したので、城兵たちは活気づいた。

決意を述べた頼房が敵情を | 城壁 |_ ̄)じー と見て考えると、再び口を開いた。

頼房「歩行の武者は一人いない、それに騎馬武者は各人それぞれの兵糧を自分の馬の鞍につけているようだ。(手持ちの糧秣だけなので)この様子では長陣はできないだろう、時間を見計らって打って出、敵陣を押し潰してしまえ! ( ̄△ ̄)6m ビシ★~
弱冠二十にして、この胆力・戦況の判断力。
さすが、小大名といえども「関ヶ原」を生き残る当主だけのことはありまつ (*´艸`)萌~
10年早く生まれてダディ義陽を支えて欲しかったかも (´д` ;)

人物・相良頼房
幸麿さん作画:相良頼房イメージ画像

頼房の言葉を受けて、攻撃を一日延期したところ、二日目に敵軍が大太鼓に合わせて雪崩を打って攻めかかってきた。
藩主頼房「いまだ、打って出よ!( ̄△ ̄)6m
と命令をくだし、城兵は鉄砲を撃ちかけ突撃した。

敵は馬上で半弓を射ること、とても人間業と思えない早さだった。
矢を140・150~200本も背負い、雨が降るように射続けてくる。

それに対抗するため相良は馬を降り、徒歩で彼らのの乗った馬を切り、落馬した敵兵を撫で斬りにした。
敵兵の数が半端ないので首は取らず、とにかく力の続く限り切りまくった。
その奮戦ぶりに、10町(1町=109m)の間は死者だらけになった程であった。

だが敵兵力がケタ外れだったので、切っても切っても減らない。
やむなく相良の人数をまとめて城内にひきあげた。

その夜、敵軍は大鐘を鳴らして騒ぎ立てたが、翌早朝見てみると、大軍はみなオランカイへ引き払っていた。
来るのも去るのも、あっという間の明軍。

実は清正が在番していた城も、安辺城と同日に包囲されてたんです。
ですが清正が大軍をもって即時に追い払ったので、こっちも同日にオランカイに撤退しています。

援軍の明兵にとっては朝鮮国土が蹂躙されていても「所詮、他人事」なのでしょう。
頼房が気付いたように、腰兵糧(携帯用食料)しか持参してないということは「はなから本腰入れての援軍では無い」ってこと。
日本軍が思ってたより手ごわかったので、自軍の損害が惜しくなったのもあるでしょうね^^;


清正が言った
「私は大きな間違いをした、この辺りでさえこのように苦戦するのであれば、相良氏が在番する安辺は三日路奥にあり、オランカイとの境だからたぶん戦死したであろう。
我らの組中であり、また「万事後見せよ」と主君秀吉から命ぜられていたのに、やすやすと討死させては申し開きのしようもない。

大事な国境の城だから自分が在城するなり、大将クラス四・五人も差し置くべきところを相良殿一人に任せたことは、悔やんでも悔やみきれない。( ̄  ̄)トオイメ。。 
しかしながら過ぎたことをくよくよしても仕方がない。今はせめて相良殿の討死の場を見届けよう((((((((((っ´へ`)っ」

男・清正の想像はヒートアップ、すっかり討死扱いの相良頼房∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

清正が安辺に着いてみると、頼房は無事で城を堅固に守っていた。
清正「(ノ´▽`)ノオオオオッ! 頼房の手を取り、涙ながらに「朝鮮人蜂起によって諸方で苦戦していると聞き、
きっと頼房公も討死したのではないかと思っていたが無事で何より、死者が蘇ったような気がする。」


勝手に死んだと思い込んだ上に、ゾンビにされた・・・∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
清正って、けっこう面白い性格なんだなぁ^^;
 
「相良氏は古風な家柄とは聞いていたが、律儀そのものの働きで、しばらくとはいえ、討死したのではないかと考えたのが恥ずかしい」
と言い、両人は同道して都(漢城)を後にした。

時に相良頼房二十歳。
報告を聞いた秀吉は感激し、頼房に奉書を与えた。

頼房の死後、老臣たちは頼房を「まれに見る大剛の大将だった」と評し、朝鮮の役でのことを「一代のなかで、一番にとりあげるべきこと」と言っている。

さて、頼房の第一次朝鮮の役は終わった。
だが留守の間に肥後ではトンデモナイ事件が起きていたのだが それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房31_朝鮮の役3・戦地】

朝鮮の役の当初の目的は「中国(当時は明王朝末期)をゲッツするぜ!」だった。
そこで古来の呼称を用いて「唐入り」と呼ばれていました。

秀吉は途上にある朝鮮国に道案内をさせようとしたのですが、明の冊封国(さくほうこく・形式上の家臣)である朝鮮が従うはずがなく、明国より先に朝鮮を征伐する~~ってことになった。

中国と冊封国(自分らが世界の中心⇒上目線の中国と貿易をしたければ、冊封国にならなければならない)の関係は、室町時代の守護職と国人の関係に似ています。
つまり「配下になるし」「服属もする」けど「被官だから家臣じゃない」という状態。

冊封国たちは、中国を文明の中心&兄貴分として立て、その威徳に服するけど、あくまで独立した国家なんです。(西洋人には解りづらい発想らしい)
ですが常日頃、兄貴分・大人(たいじん)として敬われている以上、冊封国がピンチの時に明(他の王朝も)は、知らんぷりが出来ない。
結果、明国は朝鮮へ援軍を出すことになるんです。


さて肝心の「秀吉の唐入り構想」ですが、何やら雲を掴むような話。
広大な中国の国土全てを(他国が)長期間に亘り占領・統治は不可能に近いと思います。

ただし、戦闘に勝つだけなら、勝てるでしょう。
なにせ当時の日本兵の精強さは、世界でもトップクラス。
国産火縄銃も生産量は世界トップクラス、性能が良いメイドインジャパンは、遠くオスマントルコまで輸出されていました。

豊臣政権から江戸時代まで、為政者達は「リア充・戦闘民族」だった日本人から「爪と牙」を抜くのに、100年近い年月を要しています。
ですから「唐入り」は、戦国スーパーサイヤ人?達の「ガス抜き(浪人対策)」という説もあるほどです。
はた迷惑な「秀吉の外征」は、既に国家として求心力を失いつつあった明王朝の寿命を、さらに縮めました。

加藤と小西は揉めつつも、日本軍は順調に勝ち進み文禄元年(1592)年6月15日には平壌を占拠する。
が、勝ち進みすぎたのが逆効果で、補給困難なほど前線が伸びきってしまい、そこから苦労する羽目になる。
兵站が下手なのは日本人の先天的な欠点なんだろうか^^;


とにかく我らが相良も、ガンガン進軍した。
まるで「狩りをする時のように、山といわず川といわず押し進んだ」そうです^^b
山の中で戦闘することもあれば、あ、それと野宿はいつものことだから!

あぅ~~~6月だってのに雪がまだあるなんてアンビリバボー!(朝鮮は北海道より寒い)
とてもじゃないけど、ほんとに我慢できるもんじゃないけど、でも頑張って進軍したぉ!

6月には晋州を攻撃したところ、晋州城・牧司城は良く持ち堪えたそうだ。
日本軍の攻撃に対して朝鮮側は半弓で反撃し、慣れない敵の武器に少なからず日本軍は手痛い目にあう。
その後、日本側は大石を以って打ち崩しにかかったが、多くの死傷者が出た。

主君・相良頼房は大将ながら真っ先に進んだ。
頼房は、梨子打鳥帽子の真ん中を石で打たれたが、兜が丈夫だったんで無事 (* ̄・ ̄*)Vブイ
ちなみに騎馬で参戦です。

で、途中で足を射られて負傷したけど、幸い浅手だったので、本人ケロリと(やせ我慢か、夢中で痛みを感じなかったのかは不明)少しも構わず城攻めを続行。
即時に城を乗っ取ることができたそうな。

最前線に一度しか出たことのない父・義陽とは違い、次男坊は猛将タイプだったようだ。

木上地頭の久保田大蔵は、紺糸の鎧に白毛の兜を身につけて縦横に駆け巡ってハッスル!
が、朝鮮兵が城内から見下ろして半弓で打ちかけられ、その場で戦死。
同じく蓑田助七郎・深水弥助・深水小兵衛も戦死した。

その後、城乗りに成功し、敵大将の牧使判官は相良家臣・深水新左衛門が討ち取る!<( ̄^ ̄)/ビシ★
それからさらに軍を進めること80日、高麗の都(ソウル)に進軍した。

後日、戦死した久保田大蔵が着用していた鎧を調べてみたが、子札(鎧の材料の小さい板)の厚い立派な具足で、
相良「これだけ丈夫なのに、矢に当たって戦死したとは不思議だ」「どれどれ?」
ってことで、皆が着用してみたが、少しも矢の貫ける隙間がない無い。ホエ?(´д` ) ホエ?(´д`) ホエ?( ´д`) ホエ?
いろいろ確かめたところ、シコロ(錣)の外側、ごく僅かな隙間を矢が貫いた・・・らしい。

眉間に鉄砲がジャストミートして戦死した武将もいるが、弓で隙間ジャストミートもあるんだなぁ~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ

一方、深水平内左衛門なる者は裸同然で出陣し、敵から雨のように半弓で射掛けられながら一つも当たらず無事。
なんか「傷だらけ井伊直政」と「無傷の本多忠勝」を思い出す話^^;
筆者の梅山さんも「天と地ほどの差」と二人の運・不運を書いている。


日本軍は80日ほどで高麗の都(ソウル)に押し寄せたが、市民は家財道具を残したまま逃げて、山中に隠れてしまった。
逃げ遅れたのか、家を離れがたかったのか、居残っていた者は全て撫で斬りにした・・・とある。
戦になれば、罪のない一般市民は少なからず巻き添えを食う。綺麗な戦などありはしない。
とはいうものの「撫で斬り」の記述は、どの戦で見ても凹みます。。。(ω・`))シュン

朝鮮国王は明の国境のオランカイに逃げたので、日本軍はさらに進んで行き20日ほどでオランカイ境の安辺群(現在は北朝鮮領内)にいたった。

ちなみに相良家は加藤主計頭清正の組に所属だったので、陣中加藤清正と一緒だった。
清正は、「この安辺は高麗国の果てである。ここは相良軍が在番されたい。私は少し都に近いところに在番する」
と言って、安辺より三日路都のほうに移った。

だが文禄元年(1592)年の師走(12月)に、朝鮮人の蜂起が始まったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房30_朝鮮の役2・渡海】

全ての日本人・・ひいてはアジアの運命が動き出す。。。。

文禄元年(1592)1月?日~後陽成天皇が二度目の聚楽第行幸
秀吉から諸大名へ~「3月朔日(1日)に(朝鮮国出陣の)諸大名は(それぞれの)地元を出発し、名護屋へ下向せよ」との命令が出る
3月6日~豊臣秀吉が大坂を出陣~4月5日に名護屋へ着陣
3月17日~先発隊が名護屋へ向かう・一番隊は前田利家
3月26日~豊臣軍本隊3万が大坂を出陣
3月26日寅の刻(am4:00)~宮内少輔頼房(相良頼房)が、朝鮮国出陣のため球磨を出発、御供の軍勢は760余人
時に相良頼房・19歳、相良左馬介(深水頼蔵)は32歳(or28歳)、相良兵部(犬童頼兄)は25歳。



「親子鷹」で紹介した頼兄に対する休矣パパンの訓諭は、この出発の前にしたらしい。
もっとも話の中身には別バージョンもあります。
別バージョンでは獺野原(うそのばる)の戦い部分が、違う人の批判だったり、
義滋の喩えが晴広だったりしてます。

・・・・別バージョンじゃなくて、ほんとに何パターンも頼兄に語ってたりして∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

>其の方が若輩の故に語らなかった
なんて神妙な顔?して、懇々と訓諭する休矣パパンだけど、当時の武将って酒席だのなんので「武勇自慢」はウザいくらい絶対する。
現代の上司が居酒屋で絡んで来るより超ウザ濃い。
休矣パパンが自慢しない謙虚無口タイプでも、他のオッサン連中から「獺野原(うそのばる)の戦い」は耳タコ状態だったと思うのよね。

頼兄がパパンの訓諭を守れなかったのは、生来の気質だけでなく話の中身が聞き飽きてたんじゃ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!!


ま、順当に考えて数パターンある逸話って、ほんとに説諭したかどうかすら怪しいんですけどね^^;
逸話って軍記物出典が多いから、史実の味付みたいなもんですな~~( ゚Д゚)y─┛~~


ちなみに相良の出発にも別説があって、それだと3月1日 に出立、8日に名護屋着陣、12日に出船、となってます^^

名護屋の御陣所の御船数は8700余艘で、雑兵は合わせて31万7985人の人数である
南藤蔓綿録より
今更だけど当時の記録に顔文字はない^^;

4月12日、段々に船を出し、石火矢を放懸け、鯨波をあげ(矢のごとく高波をあげて)、
船の綱をとき数千艘の帆柱を押し立て帆をあげて、鬨の声は海上に響き、天地を動かすほどである。
当浦を遙かに出て、前後を見渡すと多くの大船・小船は家紋をつけ、幕を張り巡らし、思い思いの旗指物を飾り立てている様子は、
(桜で有名な)吉野山をこの浦に移し(紅葉で有名な)立田の錦を海にさっと流しいれたようで、
実際に心が雲になり、故郷のことも忘れてしまうほどである。


筆者の梅山さんは詩人でつね ( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
 
翌13日~にわかに順風がふきだし、一行は壱岐の島についた。
同月25日午の刻(pm12:00)順風を利用して対馬を目指して出船。((((((((((っ´▽`)っ
同月27日未の刻(pm14:00)それから順風だったので、対馬豊崎の浦、鰐の浦、葛の浦の三ヶ所に頼房&相良一行の船は泊まった。(* ̄・ ̄*)Vブイ


さてここからは日和(海上の天気)を待つ| 船 |_ ̄)じー
同月29日~、御船一同で釜山海に着船し、ハマン(咸安)・ウル山(蔚山)を固め、御陣をはられた。

高麗は日本から北西に当たる。
日本から釜山港に渡り、そこから上陸して北に、ととねき(東莱)・くちゃん(機張)・せつかい(西生浦)に向かう。

上陸して十三里で蔚山・西生島より七里、大よそ蔚山はせつかい(西生浦)より八里、南のかも島(唐島・巨済島?)・きんむら(金海)・竹島・かや(伽耶?)・ちやわん(昌原)・かく島(加徳?)・そてん(泗川・そせん)、これは南の端である。
日本勢は皆釜山港に着船し、それぞれの地方を領地として受取り、城を普請して在番した。


小西と清正の一番争いとか、島津義弘が遅刻したことなんかは、
相良には関係ないので出展元には書いてません^^。

諸将や総大将である宇喜多秀家が京城に入ったのは、一番隊到着の翌日、5月3日です。
その5月3日に島津義弘は、やっと釜山に到着します。

島津内部が揉めていることは、周り廻って相良にも関連してくるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房29_朝鮮の役1・出陣】

史実(事実)は一つだけのはずなのに、通説・異説・新説と議論は一向に定まる様子がない。
なぜなら史実の解釈には、その時代における真実と正義なるものが必ず付随し、それらは100人いれば100通りの真実と正義があるからだ。

政治的な思惑が働く「大きな声(勝者の公式記録)」が、100%史実であるはずがないし、
「個々の声(私的日記)」にも、筆者・編者のフィルターが無いという保証はない。

自分は歴史からフェイドアウトした「小さな声(中央に敗れた記録)」に、堪らなく惹かれる。
各地方の郷土史こそが、小さな声・・その「最たる者」だ。
郷土史から微かに洩れる声に耳を澄まし、ひっそりと眠る記録を掘り起こそう。
生きることも死ぬことも、笑うのも泣くのも、現代の我々と変わらぬ「人間」がそこにいる。

熱く 激しく マニアック! 相良家の「朝鮮の役シリーズ」スタート!!
主要、出展元「南藤曼綿録」他からの引用は都度明示します。
                     

天正19(1591)年・・・この年、関白・豊臣秀吉は相次いで「身内の死」にあう。

位人臣を極めても「生老病死」だけはコントロールできない。
権力者も社会の末端にいる者も、それで辻褄・釣り合いがとれるようにという、天の配材なのかもしれない。

1月22日~羽柴秀長が52歳で病没。
2月28日~千利休が切腹。

秀吉の覇業を影となって支えた弟の死は大きく、秀吉の行動のストッパーがいなくなる。
千利休に関しても謎が多く、地方史ばかり追っかけてる自分には手に余る素材だ^^;

8月5日~鶴松が2歳2か月で死去
往年の大河「おんな太閤記」では、秀吉が鶴松の死を紛らす為に「唐入り」を始めた、、、ような演出だと記憶しているが、
実際の秀吉は、それ以前から「唐入り」を構想し、それが九州の役を急いだ一因でもある。

九州の役の後の大名配置も「唐入り」を考慮してるし、小西・宗氏に朝鮮との交渉も命じている。
国人たちを容赦なく移封・改易するのも「唐入りの前線基地たる九州」を露払いしておきたい意図もあったと思う。

ただ「愛息の死」は、秀吉から「理性」「自制心」「平常心」などの掛け金を、少しずつ外していったようには感じる。
完全にヤバくなるのは、秀頼誕生がキッカケだろうなぁ・・・(6 ̄・ ̄)ポリポリ

ちなみに、この年の9月に高橋元種が高千穂の三田井を滅ぼします (O ̄∀ ̄)ノ大蔵系LOVE

10月10日~肥前・名護屋城が築城開始 (* ̄・ ̄*)Vブイ
12月?日~秀吉⇒⇒島津へ朝鮮出兵準備を命じる
シーマンズ「ええええ~~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタ 」

他の大名たちにも動員はかかってるはずなんだけど、動員時期を検索できたのが島津だけだったもので^^;

12月28日~羽柴秀次が関白に就任
                   

文禄元年(1592)1月?日~後陽成天皇が2度目の聚楽第行幸
2月1日寅の刻(午前4時)~相良頼房が朝鮮出兵を前に青井阿蘇神社に参詣
この参詣で主君・頼房は、深水頼蔵と犬童頼兄に「相良」姓を下賜しています。

これにより「深水左馬介頼蔵⇒⇒相良左馬介頼蔵」「犬童軍七頼兄⇒⇒相良兵部頼兄」と名乗りを変えます。
さらに相良左馬介(頼蔵)を頼房の軍師(or参謀)とし、相良兵部(頼兄)を左馬介(頼蔵)の補佐とした。

とにかく不仲の二人に「協力しあって欲しい」という、頼房の配慮でした。

さらに井口八幡ならびに十嶋天神、愛宕山へ参詣~
同月24日~谷の坊延命院において、出陣の御供の人数は残らず誓紙を書き、全員が相良左馬介(頼蔵)、相良兵部(頼兄)と誓紙をとりかわした
もちろん誓約書は血判~( ̄人 ̄)ムン!☆彡~~本式だと神水も飲むのかな?

同月25日~今度は十嶋天神にご参詣~三百韻の連歌(奉納興行)をされ、同じく百韻の御独吟(奉納興行)をされた。
(別の記録だと参詣の日にちとか細部が違うけど、概ねこんな感じ^^b)

つか頼房クン・・・独吟って、一人で百首も詠んだの?(@@)さすが相良クオリティ~

ちなみに頼房クンは19歳。子供はいない・・・てか結婚もまだ。
なにしろ父・兄が相次いで死んで「九州の役」に「肥後一揆」でしょう?

天草一揆は相良は直接は関係ないけど、加藤・小西両軍が出陣で慌ただしい。
とてもじゃないが「婚活」する余裕が無い ( ̄ー ̄A 汗フキフキ
ガチ「頼むから無事に帰ってきて~~」( ̄人 ̄)☆彡~~参詣に熱が入るはずだ。

他の海外出兵メンバーも、奥方・側室と長期に離れるから出生率低下してそうだ。
立花はついに子宝出来ずじまいだし、黒田長政も鍋島勝茂も第一子誕生は関ヶ原以降だもんなぁ。

ちなみに出兵には僧侶も同行してます。願成寺の勢辰、妙泉寺義運、正延寺の全慶の3名です。
吉兆占ったり、必勝祈願とか、あと戦死者の弔いとか、色々することはあるんです^^;

さぁ出陣前の仕度が整い、いよいよ人吉城を出発~~それは・またの話 by^-^sio

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【相良頼房28_親子鷹】

さて、世代交代に伴い犬童頼安の名を休矣(きゅうい)に改めます~~~(O ̄∀ ̄)ノ
意味は聞かないで_| ̄|○ il||li ・・・なんか中国の言葉からとったみたいです。

剃髪(スキンヘッド)し休矣と改名した犬童ですが、出家も隠居もしたわけではありません。

亡き主君・相良義陽の喪に服し、その菩提を弔うための剃髪で、在俗(寺へ入らず俗世間にいること)のまま。
嫡男・頼兄(よりえ)と休矣の通称は同じ軍七なので、剃髪した時に通称を嫡男に譲ったと思われます。

男子は頼兄一人で、他に娘(頼兄の姉か妹)がいたようですが詳細は不明。
頼兄に家督を譲った時期も不明ですが、一つの目安として武家の子弟が家督を継ぐのは二十歳頃だそうです。
休矣が隠居(現役引退)した時期も不明です^^;

剃髪後も休矣は、島津配下として相良'zを率いて各地を転戦してたし(主君・頼房も同行)、
奉行職も引き続き務め、休矣・頼兄の親子鷹が若き主君・頼房を支えたのです。
が、親子鷹は過去にもう一組ありました。

        
もう一組みの親子鷹・・・それは深水頼金(ダディ)・宗芳(ジュニア)です。

これにはちと説明がいりますね^-^

かつて相良家臣だった八代衆(現在・加藤清正配下)は、純然たる相良家臣ではなく元は在地の豪族たちでした。
そのためか、八代奉行も世襲職(地縁・縁故関係重視)だったんです。

いっぽう球磨(人吉)奉行は選定基準は解りませんが、世襲でないのは歴代奉行の名前がバラバラな事で解ります。
推薦?自薦?他薦?・・・とにかくそんな球磨奉行の中で「親子で奉行」がいるということは、
親子そろって優秀・有能ってことで、それだけに奉行衆の中で主導権を握る「勢力」があるってことです。

ジュニア長智が先々々代(つまり晴広)の13回忌に、休矣みたいに剃髪して宗芳になってるんで盲点なんだけど、
ダディ深水頼金はピンピンしてるし隠居もしてないし~~~∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

現当主・頼房の兄、忠房の代の時も奉行で、頼金・宗芳は親子で奉行~(* ̄・ ̄*)Vブイ
(お蔭で調査初期の頃、頼金と長智と宗芳がコンガラガッタ( ̄ー ̄A 汗フキフキ)

推定で70にはなってるはずなんで、てっきり程なく ( ̄人 ̄)☆彡~★☆・・・と思って記事にしてなかったんだけど、
監修様から「現当主・頼房の代の時も現役奉行だった」と聞いてビックリ^^;(何歳まで生きてたんだ?)

深水宗芳が独断専行で藤千代クン(頼房の弟)を連れ出し、秀吉に御家存続交渉が出来たのはダディ頼金の後押しもあったからだろう。
ジュニア宗芳が葦北代官になったことで、相良家臣の深水一族を見る目は胸中穏やかではなかったはずだ。

そのジュニア宗芳が亡くなり、後継の奉行として深水頼蔵と犬童頼兄が入閣。
ここに犬童休矣・頼兄のNEW親子奉行が誕生。(* ̄・ ̄*)Vブイ

奉行衆の主導権は深水一族から、犬童家へバトンタッチすることになる。

                    
家紋・相良
ロン様作成:相良家紋ロゴ

休矣は死後・殉死者が出るほど人品骨柄優れた素晴らしい武将で、その実力は島津家も認めるところです。
ですから休矣には相良家を牛耳ろうとか、奉行衆の主導権を握ろうなどどという「俗念」は微塵もありません。
ですが世間・・・・犬童家を快く思わないものは「そう」感じます。

なぜ「そう」感じるかと言うと、休矣の嫡男・頼兄が原因でしょう。
もちろん頼兄にも、そのような邪な考えはありません。己の職務を力一杯果たしているだけなのです。
問題は「その力一杯」加減。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

優秀な頼兄は、ガンガン仕事を片付けて、テキパキ物事を進めてしまう。
そのため新参・若輩でありながら「出過ぎ」てしまうんです。
人々は「何となく面白く無い」「何かモヤモヤなもの」があっても、功労者である休矣の手前、言葉に出すことはしません。
知らず知らずのうちに頼兄は孤立してしまう。

ちょっと後の話になりますが、息子の人間関係を心配し休矣が訓戒します(緑文字スルー可)。
今度〔相良〕頼房公は天下 (豊臣秀吉)のご朱印状を頂き、異国退治のためご渡海について、〔相良〕左馬介(頼蔵)殿のご相談相手として、若輩のそなたを任命されたうえは、
できるかぎり念入りに内外のことに隔て無く相談いたし、士卒恨みがないように武剛を抽んで、戦功が最要(最も肝心なこと)であるべきことはもちろんである。
先ごろより語り聞かせようと思ったけれども、其の方が若輩の故に語らなかった。

〔しかし〕この度朝鮮国に出立について、かどでに大体のことを語り聞かせよう。
よく聞きなさい。
先年宮内大輔〔相良〕義滋公御在世の御時、宇土(名和氏)と度々戦い、二度まで当家(相良家)が破れた。
その節〔相良〕義滋公が仰せ出されたのは、球磨・八代・芦北三郡の諸侍のうちに鑓柱(槍働きに秀でた人物)と思われる者を吟味いたし、一人ずつ三郡にて三人選出し、八代へ遣わすようにと仰せられた。
よって三郡の諸侍で吟味して、球磨より岩崎藤左衛門、八代からは蓑田三浦介、芦北からは竹下播磨の以上三人を撰出申し上げたところ、
まず蓑田三浦介を御前に召し出されて仰せられたことは、八代には鑓数は全部で何本あるかとお尋ねなされたので、十二本ある旨を申し上げた。
八代一郡数百人の侍中に十二本は劣の事(少ない)と、ご機嫌以ての外であった(悪かった)。
その後岩崎藤左衛門を召して、球磨には〔鑓は〕如何ほどあるかと仰せられたところ、二十四本ある旨を申し上げられた。
次に竹下播磨を召して、芦北には如何ほどあるかと仰せられたところ、七浦には一本しかない旨を申し上げた。
これは右の鑓柱と申す一人宛残し置いての數であり、しからば球磨二十五本、八代に十三本、芦北に二本である。
重ねて義滋公が仰せられるには、三郡の諸侍中にも腕の毛をさする鑓は多くはないものであろう。
それならば各方、宇土の合戦評定は三人で備え(防備)の次第(対策)を談合(相談)するようにと仰せつけられ、上意のように談合して〔防備の対策を〕申し上げた。
そこでそのように〔防備の対策を実行するように〕仰せ出されて、宇土衆(名和勢)は崩れて(破れて)、数多当家(相良家)に討ち取られて、〔相良義滋公〕は大勝利を得られた。
これは右三人の手柄である。合戦は鑓柱たる者の分別が専要(肝要)である。
私(犬童休矣)は、義陽公が未だ万満頼房と申しておられたご幼少の時、ご当地(球磨)へ召し寄せられ、
〔名を〕犬童美作に改め、その内他国での粉骨比類無かった。
ただし、永禄二己未年(一五五九)獺野原での合戦の時は、私三十八歳の時であった。横瀬大王に陣取っていたところ、
多良木勢が崩れたように聞こえたので急ぎ駆けつけ、牛頭大王坂に向かったとき、
私が命令したところ、東能登が過言(無礼な物言い)をしたので、すでに口論になったけれども、
脇から止める人があったので、双方理屈にしたがって互いに憤りを押さえ、その競いにのって両人先を争って〔敵陣に〕押しかけ、敵の首を取って高名をあげた。
このように張り合いによって勝利を得(ることもあれば?)、遅れをとることも必然である。
私は当年七十一歳である。物語に入らないことではあるが、今後の心得のため申し置く。

休矣パパ・・・説教長いっす∴,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ここで問題なのは深水頼蔵が、頼兄の上司だってことです。
休矣パパは16代義滋の逸話や、自らの獺野原(うそのばる)の戦いの経験を話し(頑張って読んだぉ)、
「(深水頼蔵と)念入りに内外のことに隔て無く相談」することを、微に入り細に入り伝えようとしたのですが、頼兄は訓戒を守れなかった。

頼兄の仕事が手早すぎて、上司であるはずの愚鈍・頼蔵は、置いてけぼり状態だったようです。

そうなると深水頼蔵も面白いはずがない。
帰り新参の犬童家と違い、深水一族は奉行職を累代務める譜代家臣の代表格なんです。
深水一族と犬童頼兄の対立の深まりは、不味いことに【朝鮮の役】の真っ最中で、
しかも対立が外部に漏れ政治問題化するのだが それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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