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秋月種実18【毛利VS大友2・攻撃!香春岳城】

戦国時代中盤まで北九州の領有は、少弐・大友・大内の3強が争っていた。
で、少弐を倒した大内氏が優勢となって支配することになる。
(少弐は肥前へ亡命)

その大内氏が家臣の謀叛によって滅んだのだ。
次に北九州を支配するのは歴史の経緯・家柄・実力、どれも満たしている大友氏だ!

と、少なくても当主の大友義鎮は考えていただろう。
名門の大友家から見れば、「大内の仇討ち」という大義名分で、大内氏の遺領を掠め取った毛利など成り上がり者でしかない。


天文23(1554)年~毛利元就の3男・小早川隆景が北九州の門司城を攻略ゲッツする。
弘治元年(1555)~弘治2(1556)年~毛利元就は厳島の戦いと後処理で、大友義鎮は家臣離反のバタバタで両者の激突無し。
弘治3(1557)年~大友軍が秋月氏・原田宗家・筑紫氏と北九州で毛利側の国人たちをフルボッコ攻撃。
(この時の戦いで宗家の原田氏は嫡男と3男が戦死で降伏)
(主役の種実は父母と兄を失い筑紫親子と山口へ亡命するという悲惨な状態)
永禄2(1559)年1月~毛利軍の助力で秋月種実が故郷の古処山城に復活!
永禄2(1559)年~毛利軍の助力で筑紫さん復活!秋月との連合で博多へ侵攻!

家紋・毛利
(毛利家紋ロゴ~ロン様作品)

貿易と商人の町・博多は元々は少弐と大友が、西と東の半分こで支配してまして、
少弐が肥前へ亡命してからは大友氏が手厚く保護して一大商都として発展させたのです。

それが「毛利軍の助力(ここが大友の許せない部分)」を得た筑紫+秋月の攻撃のせいで焼け野原です。
一からやり直し復興で額に青筋プルプルの大友義鎮でしたが、降伏してきた筑紫+秋月を受け入れた。

もちろん懐が広いとこを見せた、ってのは表向きの事で、二人をVS毛利戦のために駒として再利用する為です

毛利と大友は、互いに北九州における勢力を広げるために、相手に属する国人領主を取ったり取られたりを繰り返した。
ヒートアップしてきた両者の争いが直接対決になるのは時間の問題。

そして、その引き金を常に引く男が、打倒大友に燃える主役の秋月種実なのです。
台風の目と呼んでください(O ̄∀ ̄)ノ
秋月種実が永禄4(1561)年に大友から離反し毛利傘下に戻る。
秋月の離反は毛利と決着をつけるためのチャンスを狙ってた大友義鎮の行動を誘発した。
同年の7月・大友軍は香春岳(かわらだけ)城を攻撃する!

人物・大友宗麟
(一族の仇敵・大友義鎮/おおとも よししげ)

香春岳城主は原田義種、香春岳神社大宮司です。
彼は秋月種実の生母の実兄、つまり種実とは叔父~甥の関係でして原田宗家の支族です。

突然の攻撃で毛利からの援軍を呼ぶことが出来ず城側の兵力は、わずか300人!
攻撃側の大友軍は戸次道雪ら6000人!

城側は大石を投げたりなど必死の抵抗を試みるのですが、多勢に無勢で追い詰められて行った。
永禄4(1561)年7月15日 香春岳城は落城。種実の叔父と、その一家13人全員が自害する。
大友義鎮は種実の生母の実家まで滅亡させてしまったんです。

大友義鎮が香春岳城を降伏の余裕も与えず武力制圧したのは種実との血縁関係からでは無く、香春岳城が毛利側の重要な軍事拠点の一つだったからです。

大友義鎮の真の目的は、香春岳城の先にある門司(もじ)城!
毛利VS大友の二大勢力による激突に巻き込まれ、翻弄される北九州の国人領主たち。
果たして彼らは生き残ることが出来るのか?

それは またの話 

次回 毛利VS大友3~門司城合戦です^^


(ウィキペディアより~航空機内から撮影した関門海峡)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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