秋月種実20【最初の和睦・前編】
少し遡るが宗像氏のおさらい~~^^b
まず76代目と77代目が家督争いになった。
大内氏の裁定で76代目の娘と77代目の息子が結婚し78代目となる。
陶氏の謀叛で大内氏が自害し、大内氏に従がった78代目も戦死。
陶氏の介入で、76代目の隠し子・79代目氏貞が当主となる。
陶氏のバックアップで当主になったので、1555年の「厳島の戦い」で宗像氏は陶側に兵を送った。
ところが陶氏は毛利元就に敗れ自害してしまう ( Д ) ゚ ゚
毛利氏の傘下になることで一件落着・・・にならなかった大内⇒陶⇒毛利とくれば、次は大友だぁ
永禄2(1559)年9月~宗像氏の家督を狙った従兄弟、宗像鎮氏に攻撃される。
宗像鎮氏(むなかた しげうじ)は、亡き77代目の息子で、父が死んだ後は大友氏の庇護を受けた。
大友義鎮から鎮の文字を拝領し、大友軍の支援で宗像領に侵攻したんです。
宗像氏貞は支えきれず筑前(福岡県)から安芸・大島へ亡命し毛利元就の保護を受ける。

(宗像家紋ロゴ~ヌル雀士さん☆作品)
永禄3(1560)年3月~宗像氏貞は毛利の支援で領地を奪い返し、従兄弟は討ち死。
宗像氏の家督相続は、北九州の覇権を狙う実力者たちの代理戦争の場となっていたのだ。
そしてついに永禄4(1561)年に門司城と香春岳城を巡って、毛利と大友が直接ガチ戦となる。
永禄4年?月~宗像氏貞の支城・許斐岳(このみだけ)城が大友軍に制圧される!( Д ) ゚ ゚
こっちに来るなんて想定外~~
正確な日付が不明なのだが、門司城合戦の前後だったらしい。
頼みの毛利軍は門司と香春岳の防戦で一杯一杯で、援軍が出来なかったんです。
宗像氏にとって、全く迷惑な大国同士の争い。
振り回される宗像氏を見て、領内の者たちは「6人女の(*´ 0)~(´0 *)祟りじゃ~」
と、ウワサし辛気臭いったらない。
永禄5(1562)年~大友軍も撤退したし、心機一転!
宗像氏は蔦ケ岳に城を築き、そこを本城とした。
そんな宗像さんに φ( ̄ー ̄) カキカキ (φ ̄∀ ̄)ノペタ 【戦国ニュース速報☆】です
宗像氏貞「ゲェェ!大友と毛利が和睦する?!( Д ) ゚ ゚
心機一転したのは宗像氏貞だけでは無かった。
毛利との戦いで得るものが薄かった大友義鎮は、永禄5年に出家し宗麟(そうりん)となったんです。
主君にならって家臣たちも出家、この時に戸次鑑連が戸次道雪と名乗ることになります^-^
同じ年~朝廷にせっせと献金してた毛利元就が「従四位・陸奥守」に任官。
負けられないと宗麟は、室町幕府に献金「足利義輝の相伴衆(管領の次席)」となる。
宗麟が足利義輝に接近するのは、将軍に和睦の仲介をしてもらいたい下心があったからです。
将軍、義輝に否やは無い。
和睦が成功すれば幕府の権威復活に繋がります。
永禄6(1563)年5月に毛利と大友は足利義輝の仲介で和睦交渉に入る。
条件:門司城は毛利家に帰属するかわりに、香春岳城を破却し北九州から手を引くこと。
特に大友氏は香春岳城の破却は、絶対外せないと強く要求した。
だが、その条件に対し毛利側から猛反対の声が上がった
香春岳城・城番の毛利家臣杉氏「門司城は香春岳とセットで軍事施設として機能してるんですよ!!
破却なんて条件を呑んじゃダメです!!
主役の秋月種実15歳「和睦反対!!いま毛利に手を引かれたら、大友の圧力に抵抗し切れません!!」
宗像氏貞「和睦反対!うちは支城を大友軍に占拠されたままなんですよ!今さら見捨てないで~~!!
う~~ん、将軍の顔を立てて和睦するのはともかく、
この条件を呑んでは北九州の国人領主の信頼を失って後々困りそうだなぁ。
と、迷う毛利元就に、更に反対の声が上がる。
毛利隆元「毛利の利権が大事で最優先!将軍の和睦命令など拒否しても構わない!!」
この男らしい意見を出したのは、毛利元就の長男・隆元(たかもと)です。
強気で決断力のある長男に対して、父の元就は慎重な男というバランスのとれた親子だった。
考え抜いて元就は「まず背後の尼子氏を倒そう!北九州はそれからにしよう」と決断し、条件を承諾する。
和睦の承諾が為され、話を煮詰めようとした矢先、訃報が元就の下へ届いた。
同年8月4日に41歳の若さで毛利隆元が急死してしまったのだ
毛利家の財政・軍事の細かい部分を掌握し、父・元就を縁の下から底支えていた嫡男の急死に、毛利家には激震が走った。
毛利と大友10年戦争、最初の和睦の顛末は?
秋月種実や涙目の宗像さんは、どうなるのか それはまたの話 (* ̄∇ ̄*)
まず76代目と77代目が家督争いになった。
大内氏の裁定で76代目の娘と77代目の息子が結婚し78代目となる。
陶氏の謀叛で大内氏が自害し、大内氏に従がった78代目も戦死。
陶氏の介入で、76代目の隠し子・79代目氏貞が当主となる。
陶氏のバックアップで当主になったので、1555年の「厳島の戦い」で宗像氏は陶側に兵を送った。
ところが陶氏は毛利元就に敗れ自害してしまう ( Д ) ゚ ゚
毛利氏の傘下になることで一件落着・・・にならなかった大内⇒陶⇒毛利とくれば、次は大友だぁ
永禄2(1559)年9月~宗像氏の家督を狙った従兄弟、宗像鎮氏に攻撃される。
宗像鎮氏(むなかた しげうじ)は、亡き77代目の息子で、父が死んだ後は大友氏の庇護を受けた。
大友義鎮から鎮の文字を拝領し、大友軍の支援で宗像領に侵攻したんです。
宗像氏貞は支えきれず筑前(福岡県)から安芸・大島へ亡命し毛利元就の保護を受ける。

(宗像家紋ロゴ~ヌル雀士さん☆作品)
永禄3(1560)年3月~宗像氏貞は毛利の支援で領地を奪い返し、従兄弟は討ち死。
宗像氏の家督相続は、北九州の覇権を狙う実力者たちの代理戦争の場となっていたのだ。
そしてついに永禄4(1561)年に門司城と香春岳城を巡って、毛利と大友が直接ガチ戦となる。
永禄4年?月~宗像氏貞の支城・許斐岳(このみだけ)城が大友軍に制圧される!( Д ) ゚ ゚
こっちに来るなんて想定外~~
正確な日付が不明なのだが、門司城合戦の前後だったらしい。
頼みの毛利軍は門司と香春岳の防戦で一杯一杯で、援軍が出来なかったんです。
宗像氏にとって、全く迷惑な大国同士の争い。
振り回される宗像氏を見て、領内の者たちは「6人女の(*´ 0)~(´0 *)祟りじゃ~」
と、ウワサし辛気臭いったらない。
永禄5(1562)年~大友軍も撤退したし、心機一転!
宗像氏は蔦ケ岳に城を築き、そこを本城とした。
そんな宗像さんに φ( ̄ー ̄) カキカキ (φ ̄∀ ̄)ノペタ 【戦国ニュース速報☆】です
宗像氏貞「ゲェェ!大友と毛利が和睦する?!( Д ) ゚ ゚
心機一転したのは宗像氏貞だけでは無かった。
毛利との戦いで得るものが薄かった大友義鎮は、永禄5年に出家し宗麟(そうりん)となったんです。
主君にならって家臣たちも出家、この時に戸次鑑連が戸次道雪と名乗ることになります^-^
同じ年~朝廷にせっせと献金してた毛利元就が「従四位・陸奥守」に任官。
負けられないと宗麟は、室町幕府に献金「足利義輝の相伴衆(管領の次席)」となる。
宗麟が足利義輝に接近するのは、将軍に和睦の仲介をしてもらいたい下心があったからです。
将軍、義輝に否やは無い。
和睦が成功すれば幕府の権威復活に繋がります。
永禄6(1563)年5月に毛利と大友は足利義輝の仲介で和睦交渉に入る。
条件:門司城は毛利家に帰属するかわりに、香春岳城を破却し北九州から手を引くこと。
特に大友氏は香春岳城の破却は、絶対外せないと強く要求した。
だが、その条件に対し毛利側から猛反対の声が上がった
香春岳城・城番の毛利家臣杉氏「門司城は香春岳とセットで軍事施設として機能してるんですよ!!
破却なんて条件を呑んじゃダメです!!
主役の秋月種実15歳「和睦反対!!いま毛利に手を引かれたら、大友の圧力に抵抗し切れません!!」
宗像氏貞「和睦反対!うちは支城を大友軍に占拠されたままなんですよ!今さら見捨てないで~~!!
う~~ん、将軍の顔を立てて和睦するのはともかく、
この条件を呑んでは北九州の国人領主の信頼を失って後々困りそうだなぁ。
と、迷う毛利元就に、更に反対の声が上がる。
毛利隆元「毛利の利権が大事で最優先!将軍の和睦命令など拒否しても構わない!!」
この男らしい意見を出したのは、毛利元就の長男・隆元(たかもと)です。
強気で決断力のある長男に対して、父の元就は慎重な男というバランスのとれた親子だった。
考え抜いて元就は「まず背後の尼子氏を倒そう!北九州はそれからにしよう」と決断し、条件を承諾する。
和睦の承諾が為され、話を煮詰めようとした矢先、訃報が元就の下へ届いた。
同年8月4日に41歳の若さで毛利隆元が急死してしまったのだ
毛利家の財政・軍事の細かい部分を掌握し、父・元就を縁の下から底支えていた嫡男の急死に、毛利家には激震が走った。
毛利と大友10年戦争、最初の和睦の顛末は?
秋月種実や涙目の宗像さんは、どうなるのか それはまたの話 (* ̄∇ ̄*)
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