秋月種実23【略奪された人妻?!~筑前騒乱1】
永禄7(1564)年に憎い大友氏に降伏してからの3年間を、種実は無為に過ごしていたわけではない。
妻から大友家の奥の様子などを、さりげなく聞いて、
同門・同族の縁戚関係や人間関係など、外側からだけでは分からない様々な情報を手にする。
大友傘下の国人領主として出仕した折には、舅の田原親宏が娘婿を大友家臣たちに引き合わせた。
舅の田原「婿殿、こちらの方は秋月家と同族の高橋家の当主、高橋鑑種(たかはし あきたね)殿でござる。
種実「?はて?確かに我が一族は宗家が原田氏で、同族に高橋家が御座るが、血筋が絶えたと聞き及んでますが?」
高橋「ご不審は尤も、自分は元は一万田当主の弟でしたが、主君の命令で名家である高橋の家名を継ぎました次第です」
種実「さようでござったか。失礼しました。(血縁無いが)同族のよしみで宜しくお願い致す」

(大友家紋ロゴ~ロン様作成)
永禄10(1567)年は、有名武将の誕生ラッシュだ。
伊達政宗、立花宗茂、真田幸村(信繁)、毛利秀包、淀殿、大野治長と続々~~~
そして2月7日、秋月種実にも嫡男・種長が産まれ、種実は19歳で一児の父となる。
同年、秋月種実は毛利元就の支援を受けて、大友氏に対して挙兵!
同年6月、種実の誘いに応じて高橋鑑種が、大友氏に対して謀反を起こす!!
高橋の主張「大友宗麟は兄である一万田当主を無残にも殺し、その妻を辱めて妾にした!自分の謀反は非道を正すための正義の戦いである!」
大友宗麟暴君説の根拠となっている話の一つなのだが管理人は疑問を感じる
一万田当主には嫡男がいたのだが、その嫡男は叔父の謀反に加担せず大友家に仕えているからだ。
一万田当主が何らかの罪で、宗麟に処殺されたのは事実だ。
だが「父を無実の罪で殺され、母親を辱められた」のが本当であれば、嫡男は、叔父である高橋の謀反に同調しているはずだ。
永禄10(1567)年は宗麟の三男が誕生しており、この時期はまだ正室・奈多夫人とは良好な夫婦関係だったとも思う。
戦国時代は女性の出産年齢は早く10代半ば位からなのだが、一万田夫妻は長く子宝に恵まれず、
死んだ一万田当主が神仏に祈願して、やっと授かったのが嫡男だった。
てことは、現代女性のように20過ぎに嫡男産んで、嫡男は戦場で戦える成人に達している・・・
となると、一万田夫人は40前後?・・戦国時代の女性は老け方が早く、40過ぎたら衰えは隠せない。
夫を殺して略奪するには、年齢が行き過ぎてる~~~^^;;
ウィキペディアを見ると宗麟の側室に一万田夫人とあるから、側に侍った期間はあるのだろう。
もちろん戦国時代でも貞操観念はある。
だが武家にとって、それ以上に重要なのが家督相続だ。
(多分)黒木瞳クラスの美貌だった一万田夫人は、夫が罪を得て殺されたのを知り、嫡男が無事に家督を継げるように自ら宗麟の元へ赴いたのでは無いだろうか?
自分から望んだのと、無理やり蹂躙されたのでは、意味合いが全く違う。
それならば家督を継いだ嫡男が、大友宗麟に仕え続けたことに対する説明がつく。

(ロン様作成、秋月家紋ロゴ)
高橋鑑種の主張した謀反の理由は、自己正当化のために過ぎない。
彼の本音は「実家である、一万田の家督」が欲しかったのでは無いだろうか?
その証拠に彼には実子が三人もいながら、高橋の家督を「他の人間」に譲っているんです。
そして高橋が「家督を譲った他の人間」というのが秋月種実の弟、種冬だ。
種実の弟・種冬は詳細が全く分かっておらず、高橋鑑種の養子になった時期も不明ですが、
おそらく二人が語らい、大友に対して挙兵した時期じゃないか・・・と推測しています。
種実の動きに筑前(福岡県)の国人領主たちが呼応!
かつて秋月と同盟してた筑紫惟門、秋月の宗家・原田氏、さらに宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏が次々と大友家から離反する!!
秋月種実が引き起こした「筑前騒乱」が幕を開けた。
それは またの話 (* ̄∇ ̄*)
次回「筑前騒乱その2」
妻から大友家の奥の様子などを、さりげなく聞いて、
同門・同族の縁戚関係や人間関係など、外側からだけでは分からない様々な情報を手にする。
大友傘下の国人領主として出仕した折には、舅の田原親宏が娘婿を大友家臣たちに引き合わせた。
舅の田原「婿殿、こちらの方は秋月家と同族の高橋家の当主、高橋鑑種(たかはし あきたね)殿でござる。
種実「?はて?確かに我が一族は宗家が原田氏で、同族に高橋家が御座るが、血筋が絶えたと聞き及んでますが?」
高橋「ご不審は尤も、自分は元は一万田当主の弟でしたが、主君の命令で名家である高橋の家名を継ぎました次第です」
種実「さようでござったか。失礼しました。(血縁無いが)同族のよしみで宜しくお願い致す」

(大友家紋ロゴ~ロン様作成)
永禄10(1567)年は、有名武将の誕生ラッシュだ。
伊達政宗、立花宗茂、真田幸村(信繁)、毛利秀包、淀殿、大野治長と続々~~~
そして2月7日、秋月種実にも嫡男・種長が産まれ、種実は19歳で一児の父となる。
同年、秋月種実は毛利元就の支援を受けて、大友氏に対して挙兵!
同年6月、種実の誘いに応じて高橋鑑種が、大友氏に対して謀反を起こす!!
高橋の主張「大友宗麟は兄である一万田当主を無残にも殺し、その妻を辱めて妾にした!自分の謀反は非道を正すための正義の戦いである!」
大友宗麟暴君説の根拠となっている話の一つなのだが管理人は疑問を感じる
一万田当主には嫡男がいたのだが、その嫡男は叔父の謀反に加担せず大友家に仕えているからだ。
一万田当主が何らかの罪で、宗麟に処殺されたのは事実だ。
だが「父を無実の罪で殺され、母親を辱められた」のが本当であれば、嫡男は、叔父である高橋の謀反に同調しているはずだ。
永禄10(1567)年は宗麟の三男が誕生しており、この時期はまだ正室・奈多夫人とは良好な夫婦関係だったとも思う。
戦国時代は女性の出産年齢は早く10代半ば位からなのだが、一万田夫妻は長く子宝に恵まれず、
死んだ一万田当主が神仏に祈願して、やっと授かったのが嫡男だった。
てことは、現代女性のように20過ぎに嫡男産んで、嫡男は戦場で戦える成人に達している・・・
となると、一万田夫人は40前後?・・戦国時代の女性は老け方が早く、40過ぎたら衰えは隠せない。
夫を殺して略奪するには、年齢が行き過ぎてる~~~^^;;
ウィキペディアを見ると宗麟の側室に一万田夫人とあるから、側に侍った期間はあるのだろう。
もちろん戦国時代でも貞操観念はある。
だが武家にとって、それ以上に重要なのが家督相続だ。
(多分)黒木瞳クラスの美貌だった一万田夫人は、夫が罪を得て殺されたのを知り、嫡男が無事に家督を継げるように自ら宗麟の元へ赴いたのでは無いだろうか?
自分から望んだのと、無理やり蹂躙されたのでは、意味合いが全く違う。
それならば家督を継いだ嫡男が、大友宗麟に仕え続けたことに対する説明がつく。

(ロン様作成、秋月家紋ロゴ)
高橋鑑種の主張した謀反の理由は、自己正当化のために過ぎない。
彼の本音は「実家である、一万田の家督」が欲しかったのでは無いだろうか?
その証拠に彼には実子が三人もいながら、高橋の家督を「他の人間」に譲っているんです。
そして高橋が「家督を譲った他の人間」というのが秋月種実の弟、種冬だ。
種実の弟・種冬は詳細が全く分かっておらず、高橋鑑種の養子になった時期も不明ですが、
おそらく二人が語らい、大友に対して挙兵した時期じゃないか・・・と推測しています。
種実の動きに筑前(福岡県)の国人領主たちが呼応!
かつて秋月と同盟してた筑紫惟門、秋月の宗家・原田氏、さらに宗像氏、城井氏、長野氏、千手氏が次々と大友家から離反する!!
秋月種実が引き起こした「筑前騒乱」が幕を開けた。
それは またの話 (* ̄∇ ̄*)
次回「筑前騒乱その2」
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