秋月種実25【動く生首~筑前騒乱3】
立花鑑載(たちばな あきとし)・・立花家七代目当主。
1565年5月に一度目の謀反を起こし、その時は許されて大友家臣に戻った。
ところが「筑前騒乱」を引き起こした秋月種実(あきづき たねざね)の工作により1568年2月に再び謀反を起こす。
1度目も2度目も、謀反の具体的な理由は分かってはいない。
だが主君である大友宗麟(おおとも そうりん)は、立花鑑載を生涯許さず。
後年、立花の家名を継いだ戸次道雪(べっき どうせつ)は、立花の名乗りを遠慮したほどだ。
1568年4月24日、大友氏の命令で戸次道雪・臼杵氏・吉弘氏が、籠城した立花城を包囲する。
同年6月20日、同じく大友氏の命令で田原親賢(分家の当主で大友氏の親族)が兵6000で英彦山(ひこざん)を攻撃する。
英彦山とは筑前(現在の福岡県)にある修験道の総本山で、九州一円の山伏たちが集う霊場です。
主役の秋月種実の引き起こした「筑前騒乱=国人領主の一斉離反」で、
筑前の神社仏閣も、大友氏に反抗的な態度をとるようになったので、
みせしめとして英彦山を攻撃させました。
だが、これは逆効果だった。
強くなる大友氏からの圧迫に対抗するため、英彦山の方から秋月種実への接触を始めたからです。
同年7月4日、立花城・崖下の合戦が起きます。
この激しい戦いの時、立花兵が道雪を弓で射ようとしたのを家臣が盾となって身代わりになり討死しました。
力攻めでは兵士の損耗が大きくなるので、戸次道雪が内部工作をします。
内部工作により裏切った立花家臣は、大友側の兵士を城内に引き入れた。
7月23日、立花城が落城する。
再起を図ろうとした立花鑑載だったが、落城したため兵士が集まらず、追い詰められ自害した。
立花鑑載の妻と乳飲み子だった嫡男は、立花城を脱出した。
落城という非常事態に、母親の緊張と興奮が赤子に伝わったのだろう。
赤子が激しく泣き出した。
立花鑑載の妻「こ・・このままでは追手に見つかる・・お願い!泣き止んで。゜゜(´□`。)°゜。」
妻が必死に神仏に祈ると、赤子は泣き止み、無事に落ち延びることが出来たそうだ。
土地勘無いので場所が、はっきり分からなかったが、この逸話に由来した観音像があるらしい。
一方で自害した立花鑑載にも異変が起きた。
それは首実検の時だった。
運ばれた立花鑑載の首の前に、かつての主君・宗麟が立つと・・・・・
生首がガタガタガタガタ・・・と動きだし、生首の目がカっと開き宗麟を睨みつけた!!
宗麟は少しも慌てず、和歌を一首詠んだ。
宗麟の和歌「立花は昔をとこなりにけり うひかふり(初冠)する 心地こそすれ」
(こうしていると元服の時を思い出すなぁ。昔は、お前もいい男だったじゃないか)
意訳の方は、かなり適当です^^;
でもって宗麟の和歌は名門らしく古歌を踏まえて詠んだらしいけど管理人に基礎知識が無くて、その辺の解説が出来ず申し訳ありません~~^^;;
宗麟の和歌を聞くと、生首は再びガタガタガタガタ・・と動き、目を閉じるて大人しくなったそうだ。
主君の大友宗麟と家臣の立花鑑載との間に、一体どんな因縁があったのだろう・・・
怪異を起こすほどの恨みとは何なのか・・・肝心の理由は今も分かってはいない。
宗麟の命令で立花城の城番に立花親続が入る。
8月7日、毛利援軍・清水氏が立花城を奪うことに失敗し、そのまま長門へ引き上げちゃった!!
毛利の支援が無ければ、余力のある大友軍に国人領主たちは各個撃破されてしまう!
8月19日、秋月種実は大友軍に降伏した。種実の生涯で二度目の降伏です。
筑前騒乱を引き起こした張本人である種実が許されたのは、舅である田原親宏(たばら ちかひろ)の取り成しがあったからです。
田原親宏は大友氏の親族で、大友氏以上の兵力を持つので、宗麟は退けることが出来なかった。
秋月降伏の条件
1・種実の亡父である文種の旧領に復すこと、
2・二男の元種を人質に出す
秋月種実が本城である古処山城を取り戻した時期に諸説あって
その一つに「1567年の筑前騒乱の時に取り戻した説」がある根拠は、翌年1568年の降伏時の条件らしい
(管理人が記事に採用したのは1559年説^-^b)
でもって降伏条件の2だが「二男・元種」は、まだ産まれてない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
おそらく最初は種実の弟が人質になり、後年・元種に人質をチェンジしたのでしょう。
首謀者である秋月が降伏したので、城井氏、長野氏、千手氏、宗像氏も降伏する。
高橋鑑種(たかはしあきたね)だけは宝満山城に籠った。
これには降伏説と籠城説の二説あってハッキリしていない。
まぁ、のらりくらりと時間稼ぎをしていたらしい。
およそ一年に渡った「筑前騒乱」は終息した・・・だが秋月種実の撒いた火種は残った。
同年11月、毛利元就は立花城を諦めきれず、水軍を動員し立花城を偵察させている。
打倒大友のために、毛利氏と大友氏の決戦こそが秋月種実の目的だ!
そして二大勢力の激突は近づきつつあった。
同年11月28日、戸次道雪が58歳で仁志姫(門柱所氏)と再婚です^-^
同年・・1587年は、織田信長が最後の室町将軍・足利義昭を奉じて上洛した年です。
そして後に筑前を領する黒田長政が、12月3日に誕生している。
歴史は大きくうねりを上げて動き出し、数年後に秋月種実の身辺にも波及するのだが
それは またの話(* ̄∇ ̄*)
1565年5月に一度目の謀反を起こし、その時は許されて大友家臣に戻った。
ところが「筑前騒乱」を引き起こした秋月種実(あきづき たねざね)の工作により1568年2月に再び謀反を起こす。
1度目も2度目も、謀反の具体的な理由は分かってはいない。
だが主君である大友宗麟(おおとも そうりん)は、立花鑑載を生涯許さず。
後年、立花の家名を継いだ戸次道雪(べっき どうせつ)は、立花の名乗りを遠慮したほどだ。
1568年4月24日、大友氏の命令で戸次道雪・臼杵氏・吉弘氏が、籠城した立花城を包囲する。
同年6月20日、同じく大友氏の命令で田原親賢(分家の当主で大友氏の親族)が兵6000で英彦山(ひこざん)を攻撃する。
英彦山とは筑前(現在の福岡県)にある修験道の総本山で、九州一円の山伏たちが集う霊場です。
主役の秋月種実の引き起こした「筑前騒乱=国人領主の一斉離反」で、
筑前の神社仏閣も、大友氏に反抗的な態度をとるようになったので、
みせしめとして英彦山を攻撃させました。
だが、これは逆効果だった。
強くなる大友氏からの圧迫に対抗するため、英彦山の方から秋月種実への接触を始めたからです。
同年7月4日、立花城・崖下の合戦が起きます。
この激しい戦いの時、立花兵が道雪を弓で射ようとしたのを家臣が盾となって身代わりになり討死しました。
力攻めでは兵士の損耗が大きくなるので、戸次道雪が内部工作をします。
内部工作により裏切った立花家臣は、大友側の兵士を城内に引き入れた。
7月23日、立花城が落城する。
再起を図ろうとした立花鑑載だったが、落城したため兵士が集まらず、追い詰められ自害した。
立花鑑載の妻と乳飲み子だった嫡男は、立花城を脱出した。
落城という非常事態に、母親の緊張と興奮が赤子に伝わったのだろう。
赤子が激しく泣き出した。
立花鑑載の妻「こ・・このままでは追手に見つかる・・お願い!泣き止んで。゜゜(´□`。)°゜。」
妻が必死に神仏に祈ると、赤子は泣き止み、無事に落ち延びることが出来たそうだ。
土地勘無いので場所が、はっきり分からなかったが、この逸話に由来した観音像があるらしい。
一方で自害した立花鑑載にも異変が起きた。
それは首実検の時だった。
運ばれた立花鑑載の首の前に、かつての主君・宗麟が立つと・・・・・
生首がガタガタガタガタ・・・と動きだし、生首の目がカっと開き宗麟を睨みつけた!!
宗麟は少しも慌てず、和歌を一首詠んだ。
宗麟の和歌「立花は昔をとこなりにけり うひかふり(初冠)する 心地こそすれ」
(こうしていると元服の時を思い出すなぁ。昔は、お前もいい男だったじゃないか)
意訳の方は、かなり適当です^^;
でもって宗麟の和歌は名門らしく古歌を踏まえて詠んだらしいけど管理人に基礎知識が無くて、その辺の解説が出来ず申し訳ありません~~^^;;
宗麟の和歌を聞くと、生首は再びガタガタガタガタ・・と動き、目を閉じるて大人しくなったそうだ。
主君の大友宗麟と家臣の立花鑑載との間に、一体どんな因縁があったのだろう・・・
怪異を起こすほどの恨みとは何なのか・・・肝心の理由は今も分かってはいない。
宗麟の命令で立花城の城番に立花親続が入る。
8月7日、毛利援軍・清水氏が立花城を奪うことに失敗し、そのまま長門へ引き上げちゃった!!
毛利の支援が無ければ、余力のある大友軍に国人領主たちは各個撃破されてしまう!
8月19日、秋月種実は大友軍に降伏した。種実の生涯で二度目の降伏です。
筑前騒乱を引き起こした張本人である種実が許されたのは、舅である田原親宏(たばら ちかひろ)の取り成しがあったからです。
田原親宏は大友氏の親族で、大友氏以上の兵力を持つので、宗麟は退けることが出来なかった。
秋月降伏の条件
1・種実の亡父である文種の旧領に復すこと、
2・二男の元種を人質に出す
秋月種実が本城である古処山城を取り戻した時期に諸説あって
その一つに「1567年の筑前騒乱の時に取り戻した説」がある根拠は、翌年1568年の降伏時の条件らしい
(管理人が記事に採用したのは1559年説^-^b)
でもって降伏条件の2だが「二男・元種」は、まだ産まれてない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
おそらく最初は種実の弟が人質になり、後年・元種に人質をチェンジしたのでしょう。
首謀者である秋月が降伏したので、城井氏、長野氏、千手氏、宗像氏も降伏する。
高橋鑑種(たかはしあきたね)だけは宝満山城に籠った。
これには降伏説と籠城説の二説あってハッキリしていない。
まぁ、のらりくらりと時間稼ぎをしていたらしい。
およそ一年に渡った「筑前騒乱」は終息した・・・だが秋月種実の撒いた火種は残った。
同年11月、毛利元就は立花城を諦めきれず、水軍を動員し立花城を偵察させている。
打倒大友のために、毛利氏と大友氏の決戦こそが秋月種実の目的だ!
そして二大勢力の激突は近づきつつあった。
同年11月28日、戸次道雪が58歳で仁志姫(門柱所氏)と再婚です^-^
同年・・1587年は、織田信長が最後の室町将軍・足利義昭を奉じて上洛した年です。
そして後に筑前を領する黒田長政が、12月3日に誕生している。
歴史は大きくうねりを上げて動き出し、数年後に秋月種実の身辺にも波及するのだが
それは またの話(* ̄∇ ̄*)
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