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秋月種実30【激突!龍造寺VS大友」

今山の戦い・・・半年近くに亘る龍造寺VS大友の戦いで、分岐点となった戦いだ。

1569年に毛利軍を外交戦による勝利で撤退させて、念願だった北九州の覇権を握った大友宗麟(おおとも そうりん)なのだが、肥前(現・佐賀県)の龍造寺が台頭し大友配下の国人領主たちに影響を及ぼし始めたので、これを討つために大動員をかけた。

豊後の王・大友家の力の前に、肥前の国人たちは殆ど大友に靡いてしまったので、大友軍は6万もの大軍となり、対する龍造寺軍は、わずか5000の兵力だった。
とはいえ5000の兵力ということは、この時期すでに龍造寺氏は10万石以上の実力があったことになる。

1570年4月22日、大友家臣・戸次道雪と高橋紹運が佐賀へ出兵し高尾山で龍造寺とバトル!
でもって、その翌日の4月23日に永禄から元亀に改元になる。
ちなみに改元ネームの候補には天正と元亀があって、元亀が採択されたの(*´艸`)

龍造寺氏は追い詰められ、佐賀城がピンチになるのだが粘り続けてなかなか落とせない。
苛立った宗麟は、弟(甥説もあり)の親貞を総大将に攻撃を命じた。
8月17日、大友親貞は今山に布陣し20日に総攻撃をかけることにした。

ここで歴史の明暗が分かれた・・・

大軍の驕りで油断した大友親貞は勝利の前祝の宴を始めてしまったんです。
その様子を偵察の報告で知った龍造寺氏の家臣・鍋島直茂は夜襲を提案した。

当主・龍造寺隆信は成功するか危ぶみ決定を迷ったのだが、隆信の生母であり、鍋島直茂の継母でもある慶誾尼(けいぎんに)が鍋島の夜襲案を全面的に支持した。

この慶誾尼という女性は、一族が謀殺され滅亡のピンチに陥った龍造寺家を支えた女性で、家臣・親族に大きな影響力を持っていました。

さらに彼女は鍋島家と竜造寺家の関係強化のために、家臣である鍋島(直茂の父)に再嫁するという離れ業をやってのけた女傑なんです。
がばい母・慶誾尼の飛ばした激に、心が怯んでいた龍造寺家臣は蘇った。

8月20日に鍋島直茂を中心として、夜襲は決行された。
そして、この「今山の戦い」は夜襲としては、完璧な勝利を収めたのです。

龍造寺の勝因1・襲ったのは夜ではなく20日の早朝にした~~
なにせ勝利の前祝の宴やったんです^^遊女を呼んで、飲めや歌えや遊べのドンチャン騒ぎ。
もう兵士全員・酒が抜けなくてグデングデンの状態だった。

勝因2・わざと龍造寺の旗印を持たずに襲った。
寝ぼけまなこの状態で、突然襲ってきた謎(大友軍から見て)の兵士たち・・・
「裏切りだ!!」と重大な過誤が発生し、大友軍は未曽有の大混乱に陥った。
混乱が混乱を呼び、軍としての機能がマヒ。
ついに大友軍は、総大将の大友親貞が討ち取られるという大敗北を喫した。

よく勘違いされるのは、これで大友家が滅びる・・・と、いうわけじゃないってことです。
実は今山の戦いには謎が多いのだが、最大の謎は「なぜ大友が龍造寺を滅ぼさなかったのか?」です。
そもそも総大将の大友親貞の個人履歴が謎です。
宗麟の弟だか甥だかハッキリしてません。

戦において総大将が討たれるという「完璧な勝利」というのは滅多にあるものではなく、そういう意味では確かに大友の大敗北なんだけど大友全体の総力から見れば、あくまで一部。

当主の宗麟⇒無傷
武勇を謳われた忠義の家臣たち⇒道雪も紹運もいるし、大友本軍は無事

巻き返しは十分可能な兵力を有してました。
ウィキペディアなんかでは、今山の大敗北に士気が落ちた・・とあるが、それだけじゃないと思う。
大友の撤退の最大の要因は兵站・・・補給だと思います。

大友は6万の大軍だったんです、戦が長引けば持参した兵糧は底をつきます。
お楽しみの乱捕り(らんどり=略奪)だって、対陣が伸びれば目ぼしいのは捕りつくしちゃう。
まぁ兵糧が無くなれば「現地調達」が日本の戦のセオリー^^b
でも調達するのは、前年度の備蓄米などだから、とうぜん限りがある。

それに奪われる農民だって、やられっぱなしじゃないです
わざと食料の一部を、見つけやすいとこに置いといて、好きに略奪させて本命は土中深く埋めて隠しちゃう。
古参兵なら掘り返した土の色の違いで [土中]スッ≡( ̄ー『+』ゝ見っけ~だが
新米兵士になら、まず見つからない~○ Oo━y( ̄Σ ̄*)ブハーッ農民の知恵袋~
てことで、だんだん食料が手に入りずらくなれば、当然やる気もダウン。

何よりも兵農分離が不完全な時代です。
配下の国人たちは、自分の領地(田畑)を長く離れるのを嫌がる。
さらに一般兵卒のなかには里心がついて自軍を勝手に離れて村に帰る者が出始める。

ちなみに雷神・道雪さまは「勝手に帰郷した兵士は、本人は元より家族も死罪」
という厳しい軍規を布いてまして、破った兵士にキッチリ実行してます( ̄人 ̄)☆彡~~
とにかく大友といえども、本国(大分県)を離れた長期遠征には限界がある、ってことです^^

粘り続けた龍造寺は大友宗麟に和睦(=降伏)を申し入れ、宗麟は承諾するしか無かった。
仕方ない。。。だが歴史を見ると、無理をしてでも龍造寺は完全に潰すべきだった。
「肥前の熊」と後に呼ばれて恐れられた龍造寺隆信は、一時の降伏で大人しくなるような男ではない。
再び勢力を盛り返し、野心の翼を広げ始める。

そして龍造寺と大友の争いの板挟みになり、国人領主である原田氏に再び悲劇が起きるのだが、それは またの話。
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【1503年/文亀3年】南九州限定・戦国年表

5月~8月日向に大旱魃、人民多数餓死

8/18~島津勝久⑭(忠昌3男)(初名忠謙)生まれる

・菊池武運+相良長毎VS宇土為光
 宇土為光が籠城し敗れ筑後で殺害or自害

9/27~日向に大霜が降り困窮

10/27~名和顕光(宇土為光の娘婿・宇土名和氏初代)
      宇土為光に合力していた為に菊池+相良の攻撃を受ける
      古麓城下で大敗北し一時八代を退去し失速


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【1503年/文亀3年】北九州限定・戦国年表

・大内義興、陶尾張守を派遣し大友+少弐と戦う

・菊池武運、肥後より肥前へ入り有馬へ加勢する「歴代鎮西志」

・石井常延(彦鶴姫の父)生まれる
 ※千葉興常が烏帽子親で偏諱


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秋月種実29【没落の始まり・・・】

河津隆家~詳しい略歴は不明~宗像氏貞(むなかた うじさだ)に忠実に仕える家臣。

河津は宗像領に住む国人たちの集団「西郷党」のリーダーだった。
宗像領の国人の結束が乱れることなく宗像家に忠実に仕えてきたのは、リーダーの河津の力によるものだった。

そして大友家の家臣・戸次 道雪(べっき どうせつ)は、降伏してきた宗像に対し、その河津の首を差し出すことを要求した。
若年のころから自分を支えてくれた河津を失うことは、氏貞にとって片腕をもがれるのと同じで、軍事力も大きく衰退してしまう。
懊悩しのたうちまわって煩悶した氏貞だったが、大友の力には抵抗できない。
非情の決断をした。

1570年の正月・・氏貞は、河津隆家を正月の祝いの宴を開くから~
と、蔦岳城に招き、帰途襲わせて殺してしまった。
さすがに良心の咎めた氏貞は、河津の遺児・男子二人を引き取り養育した。
後年になるが、河津の息子は死病の床についた氏貞を看取っている。

雷神さま・道雪の要求は更に過酷だった。。。。。
氏貞の、ただ一人の妹・色姫を58歳の道雪の側室(&人質)として差し出せと命じた。

宗像家を祟る6人女の怨霊ボス・山田局に憑依されるというホラーな過去を持つ女・色姫。
祟りを恐れられたのか、宗像家が波乱万丈で余裕なかったのか(多分こっちがメイン理由)
二十を済んでいるというのに色姫は、未だ独身だったんです^^
12・3で結婚するのが普通の当時、かなりの晩婚^^;

でもって雷神さま・道雪のキツイ要求は、まだ続く。
嫁いだ色姫の化粧料の名目で、宗像領内・300町の土地を要求した。
その土地というのが殺された河津をリーダーとする、西郷党の父祖伝来の土地だったんです><;アウチ☆
リーダーを殺された西郷党は、泣く泣く道雪の要求通りに土地を明け渡し若宮(現・宮若市)へと移住した。

西郷党の者たちが、宗像氏貞を主君として頼み難し・・
と思うのは当然だが、それよりも大友の力を背景に過酷な要求を下した戸次 道雪を逆恨みした。
道雪の出した降伏の条件を全て呑んだことから、宗像家の没落が始まる。


道雪も、これが仕事なわけで、個人的に宗像氏が嫌いな訳じゃないんだが、
暗い空気が流れる宗像家に更に秋月種実が絡んで、
もっと事態をコジらせちゃうので、宗像の没落に拍車がかかるんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

さて毛利VS大友を引き起こした張本人で、この話の主役・秋月種実は~と言うと、
奥方の父・・つまり舅のコネでチャッカリ生き残った *人 ̄▽)♪

だが秋月家の宗家(嫡流の本家)である原田氏は簡単にはいかなかった・・・
秋月の宗家・原田家は台頭してきた龍造寺家と大友家との板挟みになってたんです(涙目
原田領地が肥前(佐賀県)と筑前(福岡県)の間という位置も気の毒だった( ̄ー ̄A 汗フキフキ

もともと大内に仕えてた原田家だが大内が滅ぶと大友の圧迫が強くなり、やむなく降伏した。
その時に当主の原田了栄は、嫡男と3男を戦死させている。
で4男に家督を継がせて隠居した(了栄は隠居後の号です)。

大友VS毛利の最初の戦いの時は、原田家は動いてないのだが、それもそのはず某豪族と国境のことで揉めてたんです。
まずいことに某豪族のバックには、最近力をつけてきた龍造寺が付いてた。
大友にも逆らえないが、かといって龍造寺とも戦って勝てそうにない。
龍造寺家へ他家に養子に出してた二男の息子を、人質として出すことで決着を付けた。
それが5年前の1565年のことです。

なまじ了栄が有能で、自分の力で龍造寺と話をつけたのが不味かった・・・・
人質に出した少年は、龍造寺隆信から一字貰って元服した。
自分とこの子分だったはずの原田が、龍造寺との関係を深めるのを大友が面白いはずがない。

1570年3月・・・ついに大友家と龍造寺家が交戦状態に入る!

1570年は織田信長が徳川家康とともに浅井・朝倉連合軍と戦った年で、
石田三成の友人だった佐竹義宣が誕生した年でもあり、
年号が永禄から元亀へ改元した年でもある。

熱く激しい戦国は、ますますヒートアップするのだが それは またの話。

※西郷党が西郷隆盛と関係あるかどうかは、分かりませんでした^^

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【1502年/文亀2年】南九州限定・戦国年表

閏6/2~入来院重茂⑨没する

実は南九州年表は不完全な状態で投稿してます。
相良関連を盛り込んで無いから^^;
いつか編集します<(__)>


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【1502年/文亀2年】北九州限定・戦国年表

1/16~龍造寺家和、千葉興常の推挙で将軍・義尹へ御礼遂げる「北肥戦誌」

・少弐資元、千葉胤繁、胤治と共に綾部の渋川尹繁を攻め筑後へ逐う「千葉氏略年表」

・大友義鑑⑳生まれる

12/11~田尻治種、大友親匡(義長)より領地安堵される「田尻家文書」


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秋月種実28【撤退と降伏の条件】

1569年8月13日・・・毛利と大友が激突した、この年に戸次道雪57歳の一人娘・誾千代(ぎんちよ)が誕生した。
道雪さんってば、前年の11月28日に、仁志姫と再婚したばっかじゃないですか∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

1569年8月5日に毛利元就は、高橋鑑種(たかはしあきたね)に書状を送った。
内容は「万が一、毛利と大友が和睦することになったら、高橋の身柄は客分として毛利が預かる」だ。

高橋鑑種は元大友家臣で謀反を起こして、毛利側の傘下に入った人物だ。
8月時点では元就は大友と手打ちにするつもりは無かったのだが、高橋のほうが心配して元就に確約を求めたのだ。

結果からいって、高橋が「保険」をかけたのは正解だった。

関門海峡を突破されたことと尼子の御家再興運動にビビった毛利元就が、軍を撤退させたのは1569年の11月だ。
この毛利撤退で・大友側と毛利側の記録が真逆になってる( ̄ー ̄A 汗フキフキ

★毛利側の言い分~~~~~~~~~~~~~~~
篝火を炊いて軍がいるかのように偽装し、夜陰に紛れて全員が無事に退却。
あとから気づいた大友軍が「キーーーーーーークヤジィ」と地団駄踏んだ。

★大友側の言い分~~~~~~~~~~~~~~~
篝火の偽装を見破り、撤退する毛利軍に夜襲を仕掛けた。
最後尾にいた吉川元春軍が、わずか数十騎になるまでフルボッコに打ち取られ元春は命からがら逃げた。

。。。。。。どっちの表現も極端すぎる∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
この「記録」というのも同時代の文書ではなく江戸期に書かれた軍記物(小説みたいな感じ)で、資料と呼ぶには信憑性がかなり落ちます。
ただ誇張を除けば、退却する吉川軍と追いかける大友軍との間に交戦はあったようです。

この戦いの知名度が低いのは単に中央から見れば局地戦というだけでなく、
この戦いの後も毛利元就ジーちゃんは健在だし、
この戦いで大友家が滅んだわけじゃないからです。
だから郷土史のマニアみたいな人(=管理人)でないと、わざわざ調べないんですよ^^アハ

毛利VS大友の10年戦争を総括すると、
・直接激突は二度(門司城合戦・多々良川の戦い)。
・和睦は二度(室町将軍の足利義輝と足利義昭の仲介)。
・謀反を起こし毛利側に与した大友家臣(立花鑑載←敗れて自害と高橋鑑種←まだ粘ってます)。
・大友に反旗を翻した北九州の国人(秋月種実・原田氏・宗像氏・長野氏・千手氏・城井氏)

となります。
大友は毛利軍を撤退させるため、尼子を支援し大内再興の策謀を仕掛けました。
撤退した毛利元就は尼子に手こずり、さらに織田家が勃興してきたので、そのまま北九州には二度と侵攻しませんでした。
ですから10年戦争は「総合的にみて大友側の勝利」というのが今日的な評価です。

さて主役は秋月種実です~忘れないでね^^b
一族・家族の仇である大友を倒すため毛利VS大友を誘発した張本人なのですが、妻の舅・田原親宏(大友家臣で一番の実力者)のコネで降伏し、ちゃっかり生き残った。
降伏の条件も父祖伝来の領地は保障され、息子の一人を人質に出すだけでOK~*人 ̄▽)♪ラッキ~

ところが一方で、同じ降伏したのに、酷い目にあった人がいる。
例の6人女の祟り~~~~~の噂がある宗像氏貞(むなかた うじさだ)だ。

別段、呪いのせいではない。
原因は彼が宗像神社の大宮司の家系だったからだ。

筑前(福岡県)の神社仏閣の社人たちは、大友宗麟がキリシタンの布教許可を出したことに反発。
また大友家の寺社奉行であった奈多氏を嫌い、軍役に応じようとしなくなった。
反抗的な寺社に手を焼いていたのが、戸次道雪(べっき どうせつ)です。
道雪は寺社たちへの見せしめのために、同じ神社系武家である宗像家に厳しい条件を出した。

自分にも他人にも厳しい道雪が、宗像に出した降伏の条件とは、
1・まだ正室のいない氏貞が、大友側のしかるべき息女と結婚すること
2・氏貞の妹・色姫を道雪57歳の側室(人質兼ねる)として差し出すこと
3・宗像氏貞の無二の家臣・河津隆家の首を差し出すこと

氏貞「 げ( Д )  ゚  ゚  か。。。河津の首を出せだって~~~~~~~!!」
自分や妹はいい。。。戦国だ。。。降伏したときから覚悟は出来てる。
だが。。。河津は氏貞の幼少のころから補佐してきた忠義の者で氏貞が家督争い(大友の画策)で安芸・大島に亡命した時も、ずっと支えてくれた男なのだ。

文字通り、苦悩のあまりのた打ち回る宗像氏貞。。。
これが没落していく宗像氏の直接のキッカケとなるのだが それは またの話

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【1501年・明応10年/文亀元年】南九州限定・戦国年表

2/29~文亀へ改元

3/13~相良長祗⑭(義滋弟)が嫡子として生まれる(or6/25)

・宇土為光が謀反。隈府城が落ちる。

5/上旬~菊池武運、逆臣・隈部忠直の討伐に派兵するが敗北

5/ ~菊池武運と宇土為光が激突
    菊池武運は敗北し有馬の保護を受ける

6/2~入来院重豊⑩没する

7/ ~天草氏、領有した本砥・島子を巡って争乱
    菊池武運の仲介による天草諸氏談合で、天草氏が本砥・島子より撤収

・常盤(伊作島津善久の未亡人)、相州島津運久と再婚



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【1501年・明応10年/文亀元年】北九州限定・戦国年表

2/29~文亀へ改元

4/20~栗くらいの大きさの雹が降る「北肥戦誌」

閏6/23~大友義親(義長)、豊後・筑後・豊前守護となる
閏6/24~大友義親(義長)、足利義高より偏諱を受ける
閏6/24~少弐資元・大友親治、大内の豊前馬岳城を攻める
      城主・杉兵庫助弘隆が討死「歴代鎮西志」
      大内義興---前将軍・足利義材を立てる
      現将軍・足利義高が大内討伐をとする

・大友親治、義長、筑後へ兵を進める「柳川市史」

9/13~大内義興、周防深野興信に備前企牧郡、筑前御笠郡の土地を安堵する。「大内氏実録土代」


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秋月種実27【指令「関門海峡を突破せよ!」~立花城攻防2】

1569年(永禄12年)に起きた毛利と大友の激突~多々良川の戦い。
毛利と大友の交戦状態は6か月以上に及び、その間18回の戦闘があった。
だが、どの戦いでも相手に大打撃を与えるまでには至らなかった。

その中で5月28日に多々良川で起きた戦闘が最も激しかったので、
両者の半年以上に亘るニラみあいを総称して「多々良川の戦い」とも呼ばれている。

主役の秋月種実が撒いた火種によって、北九州へ侵攻してきた毛利軍4万。
大友軍と実力は互角で、力で追い落とすのは困難だった。

「。。。。ならば、毛利のほうに自領に戻らなければならない、事情を引き起こせば良い。。。」


大友家の家老に吉岡長増という者がおり、彼が凄まじい外交手腕を発揮した。
吉岡は毛利元就が滅ぼした尼子の旧臣が、御家再興運動をしていることに注目した。
吉岡は尼子の旧臣の扇動と、その中でも過激派の山中鹿介へ支援物資と軍資金を贈ることに成功する。
どうやって接触し、どういうルートで物資や金子を運んだのか、よくわかんなかった^^;あぅ~

大友・家老の吉岡「尼子の山中クンだけじゃ足りないなぁ。。。大内の御家再興もしちゃおう!」

毛利元就のかつての主家・大内氏は家臣の陶氏の謀反で滅んだのだが、
その血を引く男子が、大友氏の庇護の元で出家してたの^^b
吉岡は主君の大友宗麟の了解をもらって、男子を還俗させて「大内輝弘・おおうち てるひろ」と名乗らせた。

だが、一つ難題があった。

豊後(大分県)にいる大内輝弘が、毛利の領内(山口県)に入るためには関門海峡を突破しなければならない。
激しい潮流の関門海峡と最強と言われた村上水軍は、毛利家の海の守護者だった。


なんと大友・家老の吉岡は、村上水軍を裏切らせることに成功させたんです!!
村上水軍が何故、大友の求めに応じたか定かではないし裏切るといっても、ハッキリ態度にしたものではない。

どうもこの時期、村上水軍の長と毛利元就の間に不協和音があったらしい。
前年、立花城を巡って毛利が援軍を出す時にも、村上水軍は毛利元就の出陣要請に対して動くのを渋っている。

そして吉岡の要請に応じた村上水軍の一部が、大友の軍船が関門海峡を通過するのを「見て見ぬフリをした」
おそらく通過するときは関門海峡の潮流の変化を見極めるコツも、村上水軍から伝授されてただろう。

大友水軍を束ねるのは家臣の若林氏だ。
大友水軍・若林氏は見事、大任を果たし擁立した大内輝弘と兵を山口へ上陸させることに成功する。


大友から支援を受けた尼子勝久と山中鹿介が、新山城(島根県)を占拠する!
10月12日、大内輝弘が山口へ乱入!
毛利元就「はぅっ!?( Д )  ゚  ゚」目玉が飛び出るほど驚いた!!

尼子も大内の動きも、北九州で大友と激突してる真っ最中に起きたのだ。
二男・吉川元春も三男・小早川隆景も筑前(福岡県)に出兵してるんですΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ

10月25日、半月持たずに大内輝弘は敗れて自害した。
大友が期待したほど「大内ブランド」は、もはや通用しなかったということです。
大内輝弘は早々に倒せたが、尼子はしつこいぞ~~~粘る粘る!

大友・家老の吉岡の作戦は、慎重な毛利元就の肝を冷やすには十分以上の効果があった。
「関門海峡は、誰も通過できない。長門の守りは万全」
その自信があったから4万も大動員をかけたのだ。

一度、潮流のカンどころが掴めれば、次は村上水軍の手を借りずとも自力で突破できるだろう。
毛利元就「こ。。。これ以上、筑前に関わっている場合じゃない~~!!大勢を立て直し、足元を固めよう!!」
秋月種実が期待した毛利と大友の共倒れは起きなかった。。。毛利元就は撤退を決意する。


さて、毛利軍に占拠されていた立花城だが、穏便に交渉で大友軍に返還されることになった。

毛利家代表~~~~~~~~~大好きな吉見正頼 *人 ̄▽)♪
大友代表~~~~~~~~~~立花親続と田北鑑益(たぎた あきます)*人 ̄▽)♪

穏便にといっても交戦状態は完全に終わったわけでなく、
立花城から撤退する毛利軍を大友兵が殺そうとした。
大友代表である田北が、逸る大友兵を宥めて毛利兵を無事に撤退させたんです。

報告を聞いた清廉で誠実な毛利代表の吉見さんは、感謝の使者を田北の元へ派遣した。
田北は「なぁに、戦の習いでござるよ^-^ニコッ」と爽やかに答えた。
この立花城返還時の逸話の正確な時期が不明でしたm(_ _)mムネン

なにせ立花城は前年の立花鑑載の謀反から始まり、大友と毛利の間を行ったり来たりしてたもんで( ̄ー ̄A 汗フキフキ
ただ毛利軍の完全撤退の前なのはハッキリしてます。

なぜなら・・・^-^ニコっと爽やかな逸話を残した田北鑑益は
大友と毛利との間に起きた戦闘の一つで討死しているからです。。。。。゜゜(´□`。)°゜。
彼が長生きしていれば。。。後に起きる田北家の悲劇は防げたかもしれません。。。


管理人は大友宗麟を英雄だと思ってます。
キリシタンになったことを非難されるけど、江戸期にキリシタンが禁教になったマイナスイメージが大きいと感じてます。
大友家が大名として残っていれば、暴君ではなく英傑として称えられていたでしょう。

彼の致命的な欠点は「家臣(人間)不信」です。
複雑な生い立ちなので無理はありません。

さらに秋月種実という「打倒大友」を諦めない男が、宗麟の心に影を落とした。
宗麟は家臣が不審な動きをすると「秋月と通じている!」と疑ったのです。

大友という巨木は、その大きさゆえに自ら滅び行く運命になるだが
それは またの話 (* ̄∇ ̄*)

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【1500年・明応9年】南九州限定・戦国年表

6/14~相良為続⑫54歳死去

11/11~島津忠興(薩州④)島津忠福を加世田城に攻撃
      島津久逸(ひさやす伊作⑧)戦死
      羽州島津忠福に加勢し忠興(薩州④)に攻められ死亡


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【1500年・明応9年】北九州限定・戦国年表

1/ ~足利義尹、大内義興を頼る「佐賀市史」

3/ ~足利義尹、大内義興の山口神光寺に入る

4/ ~足利義尹、渋川刀彌丸らに忠節を求める
    足利義高⑪、大友親治、少弐資元に義尹討伐を命じる「千葉氏略年表」

3月~5月、降雨一切無し「北肥戦誌」

・龍造寺胤久⑰(家和⑮次男)生まれる

8/2~大風おびただしく、大水山林を洗う「北肥戦誌」
8/12~渋川右衛門佐尹繁、足利義尹より偏諱。九州探題となる。「歴代鎮西志」

・後藤職明(しきあき)、黒髪山法印頼憲・頼雄兄弟を射殺「藤山考略」

12/ ~黒髪山の上宮、焼失する「北肥戦誌」


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秋月種実26【高橋紹運登場!~立花城攻防1】

主役の秋月種実(あきづき たねざね)の同族に高橋家がある。
その高橋家の家老に北原鎮久(きたはら しげひさ)という人物がいた。

生年・父母の氏名など細かい経歴は一切不明ですが彼の名前の鎮は、大友宗麟(おおとも そうりん)から頂いた字です。
家老の身で、そのような栄誉を受けたことには事情がある。


高橋家は血筋が絶えて、一時滅亡の危機に立たされた。
家老の北原は思案して、大友宗麟に頼んで新当主を迎えて家名を存続させる道を選んだ。
もちろん宗麟は喜んで応じ、家臣の一万田家から鑑種(あきたね)を当主に選んで高橋の家督を継がせた。


大国である大友氏のバックアップを得て、高橋家の存続の目途がつき
未来はバラ色~~~~~\(≧▽≦)ノ
の、はずが高橋を継いだ鑑種が、秋月種実に誘われて謀反を起こしてしまう∑( ̄◆ ̄;ガーーン

このままでは古き名族の高橋家が、鑑種の個人的謀反の巻き添えで滅亡してしまう~><;アウチ☆
もちろん北原は謀反に反対し鑑種に何度も諫言したのだが、逆に鑑種に疎まれ不仲となり命の危険さえ感じるようになった。

困った北原は、当主をチェンジすることを思いついた。
もはや血筋が絶えた名家だ。
家名さえ存続できれば当主は誰であっても構わない。

再び宗麟に拝謁「かくかくしかじか謀反は高橋家の総意じゃないんです~~~」と訴え、
「高橋の家は大友に従うので、ワンモア当主~~( ̄人 ̄)☆彡~オネガイ」と頼み込み、
宗麟は快諾した。

目的は、高橋鑑種の謀反を終息させるために、高橋家を内部分裂させるためだ。
宗麟は高橋家の家督を鑑種から剥奪(したと宣言した)

もちろん鑑種が承知するはずもなく、
鑑種も宗麟に対抗するために「高橋姓」を名乗り続けたので、
高橋家は「一万田系・鑑種の実家」と「吉弘系・新当主の実家」の二つに別れてしまったんです。

新当主として宗麟が選んだのが、家臣の吉弘家の二男・鎮理(しげさと)です。
1569年3月~鎮理は高橋家の名乗りの字である「種」を付けて、鎮種(しげたね)と改名し高橋家を継ぎました。

この高橋家の新当主こそ、後にVS島津戦で壮絶な玉砕をする高橋紹運です。
紹運の息子で名将・立花宗茂が2歳の時の出来事でした。
北原も功績により宗麟から「鎮」の字を頂き、新生「高橋家」の筆頭家老になった。

だが清廉潔白・忠義一途の高橋鎮種と、御家大事の老練な北原と気性が合うはずもなく、
後に北原は己の才覚ゆえに自身の身が滅ぶこととなる。


高橋家の家督相続のあった時期の3月18日、室町将軍となった足利義昭の仲介で毛利と大友がプチ和睦をした。
前年、織田信長に推戴されて室町将軍となった足利義昭は、何かしたくて堪らないO(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク

誰が最初に言い出したのか分からなかったが、
とにかく足利義昭は両者を和睦させて「将軍の威光」に酔いしれた。

だが大友も毛利も本音はヤル気満々!
この和睦は戦いの準備を整えるための時間稼ぎだった。

そして秋月種実が撒いた「不和の種」がついに実を結んだ。
1569年4月15日、毛利軍4万が立花城を攻撃を開始、戸次道雪らが何とか死守する!
同年5月28日、多々良川で毛利軍と大友軍が激突!激しい戦闘だったが勝敗は付かなかった
同年閏5月3日、毛利軍が立花城を占拠することに成功する!

立花城は大友家の筑前支配における重要な拠点だ。
毛利に奪われたら、大友の筑前支配が大きく後退してしまう。
何としても取り戻さなくてはならない。


「父母と兄の仇。。。打倒大友!」が終生の悲願だった秋月種実の目的通り、
北九州の覇権を巡って激しくぶつかり合う大友氏と毛利氏。

大物同士の争いで戦線は否応なしに拡大した。
たくさんの武将が犠牲となり、種実の野望の巻き添えになった国人領主は悲劇に見舞われる。

夥しい血が流れる筑前(福岡県)の地で、種実は秋月家の版図を過去最大のものとするのだが
それは またの話 (* ̄∇ ̄*)

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【1499明応8年】南九州限定・戦国年表

九州はこの年から飢饉が続き餓死者多数出る「北肥戦誌」

3/19~豊福城落ちる
3/21~菊池武運(たけゆき)相良為続⑫を攻撃し八代を奪回

4/1~相良が牛山へ落去

・相良長毎⑬、父為続の隠居で家督継ぐ

・(天草)志岐武遠が元服

・島津忠昌、島津忠明(羽州家)を梅北より大口へ入れる「菱刈史」
・島津忠昌、島津忠明(羽州家)へ大口350町知行「本藩人物誌」

・島津忠明(羽州家)と菱刈重時次女・土用松と結婚

参考
菱刈重時・長女土用犬、阿蘇惟永と結婚
菱刈重時・三女土用毘沙、相良長皎と結婚
菱刈重時・四女土用満、比志島某と結婚

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【1499・明応8年】北九州限定・戦国年表

この年から飢饉が続き餓死者多数出る。「北肥戦誌」

4/9~田尻中務少輔種久、大友親治より怡土郡蔵持50町知行される。「田尻家文書8」
4/10~田尻遠江守治種、大友親治より偏諱「田尻家文書7」

6/16~紅日向守没する。

・渋川刀彌丸、大友義興の働きかけで元服後、九州探題に任命
(御教書がまだなので任命は非公式)

・龍造寺家兼。父から相続した水ヶ江館を城とする

・千葉興常、大内義興から偏諱を受けて興常となる「歴代鎮西誌」
 初名胤宗、千葉介、胤朝養子
 東千葉に千葉系図・妙見像、妙見太刀(三種の家宝)伝わる

・五島・宇久盛定・(平戸)弘定に助けを求め平戸に居る「五島編年誌」

11/22~足利義尹、近江で敗れ周防に亡命


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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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