秋月種実30【激突!龍造寺VS大友」
1569年に毛利軍を外交戦による勝利で撤退させて、念願だった北九州の覇権を握った大友宗麟(おおとも そうりん)なのだが、肥前(現・佐賀県)の龍造寺が台頭し大友配下の国人領主たちに影響を及ぼし始めたので、これを討つために大動員をかけた。
豊後の王・大友家の力の前に、肥前の国人たちは殆ど大友に靡いてしまったので、大友軍は6万もの大軍となり、対する龍造寺軍は、わずか5000の兵力だった。
とはいえ5000の兵力ということは、この時期すでに龍造寺氏は10万石以上の実力があったことになる。
1570年4月22日、大友家臣・戸次道雪と高橋紹運が佐賀へ出兵し高尾山で龍造寺とバトル!
でもって、その翌日の4月23日に永禄から元亀に改元になる。
ちなみに改元ネームの候補には天正と元亀があって、元亀が採択されたの(*´艸`)
龍造寺氏は追い詰められ、佐賀城がピンチになるのだが粘り続けてなかなか落とせない。
苛立った宗麟は、弟(甥説もあり)の親貞を総大将に攻撃を命じた。
8月17日、大友親貞は今山に布陣し20日に総攻撃をかけることにした。
ここで歴史の明暗が分かれた・・・
大軍の驕りで油断した大友親貞は勝利の前祝の宴を始めてしまったんです。
その様子を偵察の報告で知った龍造寺氏の家臣・鍋島直茂は夜襲を提案した。
当主・龍造寺隆信は成功するか危ぶみ決定を迷ったのだが、隆信の生母であり、鍋島直茂の継母でもある慶誾尼(けいぎんに)が鍋島の夜襲案を全面的に支持した。
この慶誾尼という女性は、一族が謀殺され滅亡のピンチに陥った龍造寺家を支えた女性で、家臣・親族に大きな影響力を持っていました。
さらに彼女は鍋島家と竜造寺家の関係強化のために、家臣である鍋島(直茂の父)に再嫁するという離れ業をやってのけた女傑なんです。
がばい母・慶誾尼の飛ばした激に、心が怯んでいた龍造寺家臣は蘇った。
8月20日に鍋島直茂を中心として、夜襲は決行された。
そして、この「今山の戦い」は夜襲としては、完璧な勝利を収めたのです。
龍造寺の勝因1・襲ったのは夜ではなく20日の早朝にした~~
なにせ勝利の前祝の宴やったんです^^遊女を呼んで、飲めや歌えや遊べのドンチャン騒ぎ。
もう兵士全員・酒が抜けなくてグデングデンの状態だった。
勝因2・わざと龍造寺の旗印を持たずに襲った。
寝ぼけまなこの状態で、突然襲ってきた謎(大友軍から見て)の兵士たち・・・
「裏切りだ!!」と重大な過誤が発生し、大友軍は未曽有の大混乱に陥った。
混乱が混乱を呼び、軍としての機能がマヒ。
ついに大友軍は、総大将の大友親貞が討ち取られるという大敗北を喫した。
よく勘違いされるのは、これで大友家が滅びる・・・と、いうわけじゃないってことです。
実は今山の戦いには謎が多いのだが、最大の謎は「なぜ大友が龍造寺を滅ぼさなかったのか?」です。
そもそも総大将の大友親貞の個人履歴が謎です。
宗麟の弟だか甥だかハッキリしてません。
戦において総大将が討たれるという「完璧な勝利」というのは滅多にあるものではなく、そういう意味では確かに大友の大敗北なんだけど大友全体の総力から見れば、あくまで一部。
当主の宗麟⇒無傷
武勇を謳われた忠義の家臣たち⇒道雪も紹運もいるし、大友本軍は無事
巻き返しは十分可能な兵力を有してました。
ウィキペディアなんかでは、今山の大敗北に士気が落ちた・・とあるが、それだけじゃないと思う。
大友の撤退の最大の要因は兵站・・・補給だと思います。
大友は6万の大軍だったんです、戦が長引けば持参した兵糧は底をつきます。
お楽しみの乱捕り(らんどり=略奪)だって、対陣が伸びれば目ぼしいのは捕りつくしちゃう。
まぁ兵糧が無くなれば「現地調達」が日本の戦のセオリー^^b
でも調達するのは、前年度の備蓄米などだから、とうぜん限りがある。
それに奪われる農民だって、やられっぱなしじゃないです
わざと食料の一部を、見つけやすいとこに置いといて、好きに略奪させて本命は土中深く埋めて隠しちゃう。
古参兵なら掘り返した土の色の違いで [土中]スッ≡( ̄ー『+』ゝ見っけ~だが
新米兵士になら、まず見つからない~○ Oo━y( ̄Σ ̄*)ブハーッ農民の知恵袋~
てことで、だんだん食料が手に入りずらくなれば、当然やる気もダウン。
何よりも兵農分離が不完全な時代です。
配下の国人たちは、自分の領地(田畑)を長く離れるのを嫌がる。
さらに一般兵卒のなかには里心がついて自軍を勝手に離れて村に帰る者が出始める。
ちなみに雷神・道雪さまは「勝手に帰郷した兵士は、本人は元より家族も死罪」
という厳しい軍規を布いてまして、破った兵士にキッチリ実行してます( ̄人 ̄)☆彡~~
とにかく大友といえども、本国(大分県)を離れた長期遠征には限界がある、ってことです^^
粘り続けた龍造寺は大友宗麟に和睦(=降伏)を申し入れ、宗麟は承諾するしか無かった。
仕方ない。。。だが歴史を見ると、無理をしてでも龍造寺は完全に潰すべきだった。
「肥前の熊」と後に呼ばれて恐れられた龍造寺隆信は、一時の降伏で大人しくなるような男ではない。
再び勢力を盛り返し、野心の翼を広げ始める。
そして龍造寺と大友の争いの板挟みになり、国人領主である原田氏に再び悲劇が起きるのだが、それは またの話。