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【1509/永正6年】南九州限定・戦国年表

6/2~福昌寺、僧・天祐が南岳山頂に鎮火祈願の鉾(真鍮)を立てた
※福昌寺、島津宗家菩提寺、最盛期は僧」1500人

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1509/永正6年】北九州限定・戦国年表

慶誾尼(胤家孫、胤和⑯娘)生まれる

秋月種時、美奈宣神社を建立

宗義盛、足利義尹より「屋形」号もらう「歴代鎮西志」
義の偏諱については鎮西要略が出典

夏~大友氏、菊池政隆討伐に朽網政親を派兵

8/ 大内義興、豊前、筑前で少弐資元の党を討つ「佐賀市史」

閏8/17 菊池政隆㉓(享年19歳)安国寺(南関町)で自刃
大友の加勢を受けた菊池武経(阿蘇惟長)に破れる

後藤純明、住吉城を構築し円応寺を建立(藤山考略)

税窓夫人(龍造寺康家室)死去

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秋月種実35【悪夢の日向侵攻~耳川の戦い2】

大友宗麟は日向(宮崎県)を「自分の国」と呼んだ。
宗麟の目指す「神の国」が完成していたら、救援を求めて豊後に来た伊東氏には、領地を僅かでも与えたのだろうか・・・?


キリシタンの信仰を受け入れない、正妻の奈多夫人を強制離婚して、宗麟は息子の姑(40代)と再婚した。
血が繋がってないとはいえ、息子の嫁の母と再婚するなど儒教の国の人が聞いたら卒倒するだろう。
宗麟の意気込みは並大抵ではなく、ついに念願だった洗礼を受ける。
家臣たちは、宗麟の日向侵攻を思いとどまらせることが出来なかった。

出陣の日、宗麟は柚須原神社へ参拝に行くと、宗麟「この社の神に、矢を進ぜよう!」そう言うと、弓を引いて矢を放った。
そして家臣達にも、同様のことを強要した。
やむなく家臣達も弓を放ったので、柚須原神社の社檀は沢山の矢でハリネズミのようになってしまった。
これからキリシタンの国を造ろうとする宗麟が、本気で神社を敬うはずがない。
「参拝」と称した、悪質なイタズラ。。キリシタン・宗麟から邪教の神に対する挑戦状だった。
宗麟の暴慢な振る舞いを見た人々は「大友の栄華は長くは無い」と囁いた。

いまさらだが、日本には神社仏閣が多い。
でもって九州には21世紀の今日でも、参拝者が訪れるメジャー級の神社がてんこ盛り^^;
宗麟にとって困るのは、戦国期の神社は社人が武家化or自衛のために神社そのものが武装化してた。
それらは縁戚関係があったり家臣たちも先祖代々お付き合いあったりで、宗麟といえども潰すのは容易ではなかった。
だが「新たに手に入れる国」ならば、縁故関係を気にせずに、やりたいことが出来る。

宗麟にとって日向侵攻とはキリスト教国建設のため、日向を宗教上の「更地」にすることだった。
大友軍の進軍するところ、神社仏閣は徹底して破壊されつくした。
大軍移動のための道路を造るために、壊した寺院の仏像を埋めて道を作ったとも言われている。
大友家臣だって、キリシタンばかりではない。
自分の領地なら、こんな徹底しては出来ないだろう。
他人の土地だから後ろめたさを感じつつも命令を実行できた。

戦国時代には○公会堂とか、○会議室とか、○ホール(以下略)なんてものは無い。
庶民が何か相談したり取決めするときは、神社や寺院に集まって行ってたんです。
神域で決めるからこそ、村の取決めは良く守られた。
神社仏閣は単に宗教上の施設というだけでなく、庶民にとっての公共施設の役割を果たしていた。
それを宗麟は「神の国」を作るために容赦なく破壊したんです。

さらに宗麟は豊後から「神の国・日向」へ本拠地を移すべく、「無鹿」と名付けた町も作った。
島津を追い出し自分の領地を取り戻すために、大友軍を信じて案内した伊東家の旧家臣は、変貌する日向の有り様に、心の中で絶望していたに違いない。

この宗麟の暴挙に真っ先に悲鳴を上げたのが、日向に住む国人(地侍)たちだった。
大友の大軍に従っていた国人たちが、島津に助けを求めたんです。
日向の人心が大友から離れた!それが島津義久をして大友との決戦を決意させた。
単純に兵力の比較なら島津は大友には及ばない。
でも人心が島津を求めているならイケる!!

一方の大友軍も内容は良かったわけではない。
まず大動員だったために、肥後など他国から徴収した兵が多い。
また、豊後を出発してから5か月以上に及ぶ遠征だったために、全軍に疲れが出始めてた。
宗麟は病院施設を造ったりなど、確かに「理想」は素晴らしかったと思う。
でもやることが乱暴すぎて、これでは宗教テロと変わらない~><;アウチ☆

無鹿町を本拠地にするぞ~^と宗麟と宣教師とキリシタン家臣はハッスルしてたが、キリシタンでない家臣や、他国の国人にとっては仏罰が当たりそうで早く終わって欲しい(;;)
さらに不味いことに、家臣同士が主導権を巡って対立していた。

大友軍の疲れを感じ取ったところで、島津軍が行動を起こした。
島津軍2~3万!熱狂的ファンが戦国最強と呼んでいる義久・義弘・歳久・家久の4兄弟が揃い踏みだ!
迎え撃つ大友軍は3~4万!総大将は田原親賢(宗麟の元妻・奈多夫人の実兄)

宗麟の不思議なことは妻とは離縁したくせに、その兄を重用する態度に変化が無かったことです。
大して有能でも無いって大友家臣から評判悪いのになぁ・・ほんとに人間不信で信頼できる人物に偏りあるんでしょうね・・・
1578年11月9日~12日にかけて、島津と大友が激突するのだが
それは またの話 
次回~大友の没落~それは秋月のチャンス *人 ̄▽)♪

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【1508/永正5年】南九州限定・戦国年表

1/ 足利義尹、大内義興の力を借りて帰洛を決意
これを聞いた九州の国人が供を申し出る
筑前の秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、筑後の星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、肥前の渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)
千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、肥後の菊池義国・相良義滋、薩摩の島津忠昌(名代は子の勝久)、日向の伊東祐秀、豊後の大友一族、豊前の城井長門、対馬の宗義盛らが集まった

2/ 足利義澄、大友義長と少弐資元ら鎮西の武将へ大内追撃を命じる

3/16~島津忠昌、突如として自害(または2/15)
辞世:ねがわくは花のもとにて春死なむ 其きさらぎの望月のころ

4/9~細川澄元が没落「歴代鎮西志」
4/16~足利義澄が没落「歴代鎮西志」

5/下旬~大内義興、上洛の出発(佐賀市史は前年11/25山口出発とある)

6/8~足利義尹、京へ到着「佐賀市史」

7/8~足利義尹、将軍に復活「佐賀市史」

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【1508/永正5年】北九州限定・戦国年表

1/ 足利義尹、大内義興の力を借りて帰洛を決意
これを聞いた九州の国人が供を申し出る
筑前の秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、筑後の星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、肥前の渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)
千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、肥後の菊池義国・相良義滋、薩摩の島津忠昌(名代は子の勝久)、日向の伊東祐秀、豊後の大友一族、豊前の城井長門、対馬の宗義盛らが集まった
(歴代鎮西志には家和のほかに胤家も入っている)

2/ 足利義澄、大友義長と少弐資元ら鎮西の武将へ大内追撃を命じる

4/9~細川澄元が没落「歴代鎮西志」
4/16~足利義澄が没落「歴代鎮西志」

5/下旬~大内義興、上洛の出発(佐賀市史は前年11/25山口出発とある)

6/8~足利義尹、京へ到着「佐賀市史」

7/8~足利義尹、将軍に復活「佐賀市史」

・龍造寺胤家、与賀城へ入る「佐賀市史543頁」

・菊池政隆、筑後へ侵入し再起を図る

・この年、筑前の年貢は大内と少弐の半納とした「北肥戦誌」

11/3~田尻種久、大友義長より筑後各地を賜る
(田尻12町、梅津66町、竹井33町、波江6町、岩津27町)

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秋月種実34【亡国の王・伊東氏~耳川の戦い1】

1573年5月21日~「長篠の戦い」で織田信長が武田軍を破る。

その1週間後の28日、還暦を済んでも男子に恵まれない戸次道雪に対し、主君の大友宗麟が、
「手元で引き取って育てた実甥に立花の家督を継がせなさい(O ̄∀ ̄)ノ」と言ったのだが、
実甥には実家の戸次家を継がせたかった道雪は、主君の申し出を蹴って一人娘の誾千代(ぎんちよ)に家督を譲った。
同年、6月18日に主君の大友氏も誾千代の家督相続を認め、ここに世にも珍しい「女城主」が誕生した。

さて、島津vs大友の「耳川の戦い」を語る前に、両軍が激突した日向(宮崎県)の説明がいる。
日向は大きく分けると、土持氏と伊東氏が覇権を争っていた。
土持氏は元々は、宇佐八幡の神官に仕えていて、日向の荘園を守っているうちに土着し武家化した。

だから鎌倉時代に伊豆の伊東家から分かれて、日向に来た伊東氏より古い勢力です。
本家・分家合わせて7家あって隆盛を誇った土持氏だが、戦国時代には3家までに減ってた。
3家のうち宮崎・土持家は、伊東家と婚姻を結んで家臣となり、財部・土持家は、伊東家によって滅ぼされた。
最後に残ったのが宗家であった縣(あがた)土持氏です。

伊東家に抵抗を続けた縣・土持家だが、追い詰められたために島津家を頼った。
島津家の日向侵攻の大義名分は、縣・土持家に応援要請を受けたからなの^^b
後年の話ですが、縣・土持家は正式に島津家臣となり、薩摩藩士として家名存続します。

1576年5月~毛利輝元は織田信長と断交することを家老に通達・7月に第一次木津川口の戦いで毛利水軍が、織田水軍を破る。
同じく1576年、この時点ではヘロヘロになりつつも独立した勢力だった縣・土持氏の案内で、島津軍が日向侵攻を開始した。
48支城と言われた伊東家の城が、島津の攻撃によって一つ、また一つと落城していったのだが、伊東氏は何も知らずに「わが世の春」を楽しんでいた。
絵に描いたような亡国の王だった伊東氏の周辺には、イエスマンしかいなかった。
彼らイエスマン家臣は自分達の地位を守るために、島津のことを伊東氏の耳に入れなかったんです。

1577年~日向北部からは縣・土持氏が、南と北西からは島津軍が本格的な攻撃を開始した。
この総攻撃に伊東家の縁戚までが、伊東を見限り島津に寝返ってしまう。
そこまでの状態になって、やっと伊東氏のもとに島津軍の情報が届いたが、もはや手の施しようがない。
伊東氏は城も日向も捨てて、逃げるしかなかった。
それが1577年12月のことで、伊東家の「豊後落ち」と呼ばれています。
そう・・・伊東家は豊後の大友宗麟を頼ったんです。

いっぽう、伊東氏が日向を去ったことで、一時的に勢力を盛り返した縣・土持氏。
今度は土持氏と敵対してた高千穂神社系の三田井氏が、大友氏に助けを求めた。
三田井氏「help~~~縣・土持を倒して!!」

1578年~三田井氏の要請を受けて大友軍が日向へ介入し、4月10日に縣・土持氏を滅ぼす。
(先に書いたように、土持の生き残りは島津に仕えました)
大友宗麟の日向介入の最初のキッカケは、縣・土持を滅ぼすことだったんです。
その間も「落ちぶれて豊後滞在中の伊東氏」は、島津を一掃して日向を回復することを、宗麟に( ̄人 ̄)☆彡~~お願い~~してた。
伊東の要請を受けるのは、国人たちの争いに介入するのと訳が違う。
島津軍とのガチ激突になる。

本格的な日向侵攻には、大友家中でも賛否両論が出た。
迷う宗麟の耳元に悪魔が囁いた。。。「日向にこそ理想の神の国が造れるではないか。。」

7月25日・・・宗麟はついにキリシタンの洗礼を受け、ドン・フランシスコとなる。
9月12日・・・毛利輝元が島津当主の義久へ日向出兵を促す。
祖父・元就の代から争っていた大友宗麟・・・それが島津と共倒れになってくれれば、毛利は背後の心配なく織田軍との戦いに集中できるのだ。
意外にしたたかな毛利輝元。

神の国構想にとりつかれた大友宗麟。
思慮深い島津義久は慎重に情勢を見極める。
耳川の戦いまで、あと3か月だ。
それは またの話

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【1507年/永正4年】南九州限定・戦国年表

・大河平左近将監隆充(隆屋嫡子)生まれる

3/ 将軍家より御内書「急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよ」
宛先:大内、少弐、菊池、伊東、島津、大友、渋川
大内⇔少弐、島津⇔伊東、渋川⇔少弐+千葉、それぞれ和睦した結果
大友義長→従四位
少弐資元→肥前守(肥前守護職)
菊池義国→肥後守
千葉興常→「屋形」号の呼称許可

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【1507年/永正4年】北九州限定・戦国年表

2/2 有馬純鑑(尚鑑)が横辺田で千葉勢に敗退

2/8~3/10 大地震止まず

3/19 大友義長⑲妙見城(福岡県うきは市)星野重泰を攻撃
10000余騎で筑後入り(歴代鎮西志では15000)
少弐資元、馬場、横岳、宗、出雲、江上、姉川が加勢
なかなか落ちないので謀略で落とす
※大友家臣竹尾が星野家臣として潜入し入浴中の星野を殺す
★星野重泰は「先祖が七代の間は謀反しません」と誓詞を出していたので
 大友に反抗する時に自分の葬儀を7回行った
★星野先祖は調助能(高倉院に仕えた笛の名手)だった
 子孫を絶やすのは不本意と大友氏が星野一族の親実を当主とする

3/ 将軍家より御内書「急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよ」
宛先:大内、少弐、菊池、伊東、島津、大友、渋川
大内⇔少弐、島津⇔伊東、渋川⇔少弐+千葉、それぞれ和睦した結果
大友義長→従四位
少弐資元→肥前守(肥前守護職)
菊池義国→肥後守
千葉興常→「屋形」号の呼称許可

・千葉喜興(興常次男)生まれる

・大村純治、有馬と渋江公勢の加勢で千葉勢を切り崩し本領へ戻る「北肥戦誌」
(武雄市史(渋江氏由来)では大村純尹となっている)

・少弐資元、大友政親娘と結婚「歴代鎮西志」

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秋月種実33【原田氏に悲劇・一族は敵味方】

心の安らぎを求めて、禅宗からキリシタンへと、宗教遍歴をした大友宗麟。
実父の愛情を知らずに育った彼のトラウマの一つに「人間不信」がある。
立花の家督を継ぎ、筑前の城督(=方面軍司令官)になった戸次道雪だが、元々は彼は大友家の大臣(大友用語で加判衆・かばんしゅう)だった。

だが宗麟は道雪ほどの忠義の家臣でさえ、権限が集中するのを恐れ大臣職を解任し兼務させなかった。
それも無理は無く、かつて大臣と地方長官を兼務(大友用語で「方分」)した家臣が、謀反を起こした(肥後の反乱)苦い経験があったからだ。
権限の及ぶ範囲が「筑前(福岡県)」だけに限定された戸次道雪。
そのために、道雪の晩年は苦難に満ちたものになる。


宗麟が隠居した1573年。
主役の秋月種実は、長女・竜子が産まれ二男一女(後に妹も産まれる)の子宝に恵まれた。
でもって、この年に種実の弟・種信が宗麟の命令で長野家へ養子に入り、豊前・馬岳城の城主となった。
長野家というと信濃の長野家の方が圧倒的に有名で、豊前の長野家は限りなく無名に近い^^;
実は信濃・長野と豊前・長野の関係もよく分からない。
とにかく記録が物凄く少なくて、他家の記録に出てくる長野家の消息から、ジグソーパズルのように時系列で埋めていくしかない、という研究者泣かせな家だ。
かなり古い家なのだが南北朝の争いですら、どっち側だったか不明ですil||li▄█▀█●il||li がくぅ
種実の弟が長野に行くにあたって、養家先のしきたりに従って改名してるはずだが、養子に行った後の名前不明・・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ 
候補は幾つかあるが未確定なんで、このまま「長野種信」で行きます(ム・・・ムネン)

毛利と大友の激突を演出した秋月種実だが、そのわりに降伏後は優遇されている。
それは種実の正室が、大友家の分家で最大の勢力を持つ田原親宏の娘だからだろう。
種実本来の資質+縁戚関係からの遠慮もあり、それなりに筑前で勢力を持ちつつある秋月家。
だが宗麟が良かれと判断して秋月にしたことは、後に大友を傷つける刃となって帰ってくる。

一方、筑前の責任者となった戸次道雪に席の温まる暇は無い。
筑前のお隣、肥前で龍造寺隆信が勢力拡大してきたからだ。
1574年・守護職の大友氏に断りなく(てゆぅか、知らない・爆)羽柴秀吉が「筑前守」を称しはじめる。

そして同年に戸次道雪が秋月家の宗家・原田了栄に猛抗議をした。
実は数年前に原田了栄は、大友家臣の臼杵氏と争いになり臼杵の一族を討ってしまっていた。
それを何年もたってから、道雪は話を蒸し返し抗議してきたのだ。
臼杵一族と争ったことに対する抗議は建前。
本音は「両属は認めない!龍造寺を切って、完全に大友の配下になれ!!」だった。


道雪の厳しい追及に、返答に窮した原田了栄。
その時、4男の親種(ちかたね)が父の苦悩を見かねて、城の櫓に上がり叫んだ。
4男・親種「臼杵の件、責任はワシがとる!道雪よ!我が首を父の代わりに持って行くがよい!!」
(※若干、意訳のため補筆しました)
そう叫ぶと家臣が止める間もなく、切腹し自ら首を切り落として果てた。。。。


自分の首を自分で落とせるのか?という物理的な疑問をさておき、原田家の無念さが伝わる逸話です。。。(;;)
原田了栄「あぁぁ!!長男と3男を大友との戦で失い、今度は4男のお前まで犠牲に~~~。゜゜(´□`。)°゜。
おのれ大友!おのれ鬼道雪~~~この恨みは末代まで忘れぬぞぉ~

実は了栄の息子・3男の死には別説があるのだが、管理人は長男と同様に大友との戦で死んだ説を採用しました。
4男・親種が死んだ時、もちろん大友への恨みを口に出したわけではなく管理人の想像です。
でも原田了栄が大友と戸次道雪を深く恨んで終生許さなかったのは、その後の行動で分かります。
息子たちを、ことごとく失った了栄だが古い名族なので一門・親戚はいます。
だが了栄は後継者を彼らから選ばず、他家に養子に出して一度相続から外した次男の息子を後継者に選んだ。

なぜなら、次男の息子(つまり了栄の孫)は龍造寺へ人質として預けられていたからです。
大友家の力を背景に、強圧的な態度で挑んだ道雪の行動は完全に裏目に出ました。
龍造寺に預けていた孫に家督を継がせることで、原田家は完全に龍造寺配下になったんです。
了栄の孫は家督を継ぐときに、龍造寺「隆信から信の文字を貰って「信種」と名乗り、信種の正室は龍造寺家臣の娘(龍造寺隆信の養女になってから)が選ばれた。

原田了栄の孫・信種が「輝姫様(落石伝説)」の父上です。
つまり輝姫様は原田了栄の曾孫~^^b
落石伝説は別記します^-^

そして龍造寺配下になった時が、宗家・原田氏と同族・秋月家の袂を分かつ瞬間となったのだが、それは またの話

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【1506年/永正3年】南九州限定・戦国年表

1/ 阿蘇惟乗が死亡

/ 島津忠良(日新斎)元服し伊作城主となる

3/3 阿蘇山御嶽が噴火・火石がある

/ 肝付兼久(大隅・高山)が反乱、島津忠久が出陣するが鎮圧に失敗する

9/11 伊東祐室(阿蘇惟乗娘)が死亡

9/ 大友義長、阿蘇惟長支援で軍勢送る
菊池政隆、山本郡内古閑城で挙兵、阿蘇は小国で敗れる

12/ 阿蘇惟長、菊池武経と改名する
阿蘇家督は弟に譲る

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【1506年/永正3年】北九州限定・戦国年表

1/ 阿蘇惟乗が死亡

3/3 阿蘇山御嶽が噴火・火石がある

/ 長島荘志田村の知行について渋江公直の書状あり「橘中村文書」

/ 少弐資元勢、大内義興勢と筑前勝野山において戦い、敗れて太宰府に逃れ更に肥前へ逃げる「宗像軍記」

8/7 横岳資誠、少弐資元より「資」の偏諱を受ける「横岳家文書」

10/7 筑紫満門+東尚盛が高田城を攻撃、翌日落城
※千葉胤繁は密かに脱出

閏11/3 渋川尹繁、三根郡光浄寺に禁制を授ける「佐賀市史」

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秋月種実32【宗麟の隠居】

豊後(大分県)を地盤とする名門・大友家。
その当主・大友宗麟(おおとも そうりん)は、病弱だったために実父に疎まれた。
さらに両親も不仲だっために、家庭のぬくもりを知らずに成長する。

宗麟が禅宗からキリシタンへと宗教遍歴を重ねるのは、現代の若者が「自分探しの旅」をするのに似ている。
自分を廃嫡しようとした亡き父が、生前ついに果たせなかったのが北九州を支配することだった。
宗麟にとって、北九州の覇権を握ることは、「父を超える」ことだった。


1572年・4月2日~龍造寺隆信が、大友配下だった筑紫広門の勝尾城を攻撃する。
今山の戦いの後、大友家と和睦した竜造寺隆信だったが、その後キッチリ勢力を盛り返す(* ̄・ ̄*)Vブイ
龍造寺軍の攻勢に堪え切れず、筑紫広門は降伏し龍造寺配下となった。

同年・5月4日~「木崎原の戦い」で島津義弘が伊東軍を撃破する。
猛将:島津義弘は、わずか300の兵力で、3000の伊東軍を破ったのです。
あまりにも鮮やかすぎる華麗な勝利に、兵力に数字の誇張があるのでは?と、今でも物議を醸し出してます。
だが数字に差異はあっても、伊東家が壊滅的な打撃を受けた事実は変わりません。

敗れた伊東軍の将たちには、各家の当主orその嫡男がいたからです。
現役指揮官と幹部候補生をゴッソリ失い、伊東家の没落に歯止めがかからなくなった。
そして、これは大友家にとっても重要なことでした。
今まで、島津が膨張してきても、大友との間には日向の伊東家があったからです。
その伊東家が衰退していけば、島津の脅威は目の前なんです。
この時点で宗麟が、すぐに手を打てば大友家の運命は違っていたかもしれません。

ちなみに、この年は信玄公VS徳川家康の「三方が原の戦い」があった年です。
でもって宇喜多秀家公が産まれたの\(////▽////)ノぽっ
さらに秋月編の主役・秋月種実に長女・竜子が産まれました\(≧▽≦)ノ
翌年の1573年に信玄公が53歳で死去。信長が室町将軍、足利義昭を京都から追放します。
同年:7月28日~年号が元亀から天正へ改元します

戦国時代は、天下統一に向けて大きく動き出していく年の5月。
立花宗茂の実父・高橋鎮種が出家して「紹運」と名乗ります。
出家といっても、寺に入って修行するわけではないんです。
俗世に身を置いたままで、頭を坊主にして墨染めの衣を着る「法体(ほったい)姿」になったということです。

あ、でも朝晩、読経するし写経もするし、戦が無いときは精進料理ですよ^^b
実のところ、紹運の出家の理由って謎なんですよね^^;
まぁでも、当主であることには変化無いから、家中に動揺があるわけでは無いです。
ただ数え7つの千熊丸(=宗茂の幼名)が ∑( ̄◆ ̄;<父上の姿が変わったでちゅ~
と、思ったかも(*´艸`)プププ

と、いうわけで紹運の出家は現役続行なので、さほど問題ではない。
問題は、大友宗麟が隠居してしまったことだ。

隠居したのは1573年の年末・12月28日です。
10年近く前に、禅宗にハマってて出家してた(紹運と同じで現役続行型)宗麟ですが、名実ともに北九州を手にした宗麟は「所願達成~燃え尽き症候群」になったっぽい∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
(豊前・筑前の守護職は、だいぶ前にゲットしてる)

龍造寺氏と島津が勢力拡大している事実から、目を逸らしていたように感じます。
もちろん家中の反対は無視です( ̄ー ̄A 汗フキフキ
嫡男の義統(よしむね)は、ダメ武将・不出来な息子として有名ですが、管理人の評価は「普通」です。
義統が気の毒だったのは、父・宗麟が偉大すぎた事です。
不幸だったのは、母・奈多夫人と父・宗麟の絶望的な不仲でした。

母親思いだった義統は、両親の争いの板挟みになり、気性の激しい奈多夫人に心情的に、かなり振り回されていたように思います。
泣けて来るのは、そんな義統を家臣が危ぶんで従わなかったことです。゜゜(´□`。)°゜。
義統の指示に対し、家臣は宗麟にも「お伺い」を立てるため、宗麟も助言せざるをえず、
怒った義統が家臣を廃そうとすると、またまた宗麟に家臣が嘆願するので、
仕方なく宗麟が取り成して、「一度出した義統の命令」を取り消すという事態が起きてしまい、
大友家は父・宗麟と嫡男・義統の2頭体制になってしまいました~><;アウチ☆

一度の決断が生死を分ける戦国時代で、隠居と現役の「二人の当主」がいるのは危険極まりない状態です。
北九州を支配し、絶頂期を迎えた大友家に早くも「滅びの序曲」が奏でられようとしていた。
ちなみに宗麟が隠居した、この年に毛利家の外交僧・安国寺恵瓊が、「信長はじき滅ぶだろう、藤吉郎(豊臣秀吉)は、さりとてはの者」と予言した報告をしたのだが

それは またの話 

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【1505年/永正2年】南九州限定・戦国年表

・上村長種(頼興弟)生まれる

・天草衆(宮地、長島、梅本、大矢野)が申し合わせにより
本砥を志岐氏へ島子を上津浦へ、それぞれ返還される

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【1505年/永正2年】北九州限定・戦国年表

3/ 龍造寺家兼、天亨長老を導師として、子孫繁栄を祈り法華経一万部を読誦する「北肥戦誌」

3/16~龍造寺康家、瑞應寺壺所の安堵を千葉某より受ける「龍造寺家文書」

・龍造寺康家、別館(水ヶ江御茶屋)を造り、この地に隠居する「佐賀市史」「歴代鎮西志」

・菊池義武(大友義鑑の弟)生まれる

・阿蘇惟長、菊池家の家督を狙う
菊池三家老(赤星、隈部、城)+家臣22人、惟長を当主とする誓詞を出す
菊池家臣団、前当主派と惟長派に分裂対立する



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秋月種実31【道雪の願ひ。。( ̄人 ̄)☆彡】

最近見たけど戦国BASARAって史実と全く違うんだね~でも意外とストーリー面白いな(*´艸`)

1571年6月14日~毛利元就が75歳で死亡。
同年・6月23日~島津家当主、貴久が58歳で死亡。
史実の北九州~大友宗麟にとって束の間の平和が訪れた。


実父が大友へ反旗を翻し敗れて自害した以降、何かと反抗的だった筑紫広門ちゃん16歳がいた。
大友宗麟は、広門を斉藤鎮実の娘と結婚させることで統制を強めた。
斉藤鎮実の娘の一人は高橋紹運と結婚してるので、これにより筑紫家と高橋家は縁戚関係となる。

主役の秋月種実が、かつて毛利に亡命してたとき、同じく実父とともに亡命していた筑紫広門チャンは2歳の幼児だった。
(最近は北九州で潜伏してた説が有力)
それから14年の歳月が流れ成長した筑紫広門は、後に秋月種実と深いつながりを持つようになる。


さらに同年の7月13日、宗麟は戸次道雪を立花城主として立花の家督を継がせた。
亡き毛利元就に何度も狙われた立花城・・・商都・博多を守り、筑前(福岡県)支配の要の城です。
道雪が城主になる前は、城番・立花親続がいたんだが彼のその後が分かんなかったです^^

城番なのに毛利に立花城を一時占拠されたから、道雪と交代で解任されたのでしょう。
立花家は七代目当主が大友宗麟に謀反を起こし、それが毛利軍が立花城を占拠するキッカケとなりました。
七代目当主は討たれたのだが、立花の家督は空位のままだった。

宗麟は立花の家督を復活するのに難色を示したのだが、立花城は立花家が代々領した城なので、新たな城主・戸次道雪に立花の家督を継がせ人心の安定を図ることとなった。
戸次道雪は、立花への遺恨を忘れない主君に遠慮して、生涯「立花姓」は名乗らなかった。

・・・と、言われているが、管理人は人から尋ねられた時の表向きの理由ではないか?と、推測してる。
道雪は男子に恵まれず、娘・誾千代(ぎんちよ)しかいなかった。
そのため立花の家督問題が、しばしばクローズアップされるのだが実は、そのさらに根っこには戸次家の家督問題があった。

今は、す~~かり大人しくなってネコっかぶりの秋月編の主役・秋月種実だが、かつて毛利元就の支援でブイブイに言わせて大友と戦ったことがある。
その戦で道雪は、実弟が4人も戦死しちゃったんです~><;アウチ☆

道雪は実弟の忘れ形見の男子・つまり実甥を引き取り手塩にかけて養育した。
普通に考えれば実甥を養子にして立花の家督を継がせるのだが、道雪はしなかった。

戸次家は道雪の家を含めて三家あり、戸次当主を迎えるのに問題は無かったが、道雪は親族から戸次の当主を迎えず、我が子同然に育てた実甥に戸次を継がせたかったんです。
そのために道雪は立花の家督を継いでからも、戸次を名乗り続けたのだと思います。


実甥に戸次を継がせるために、立花の家督は他家の嫡男を婿養子にするという、当時としては、かなり珍しいことを強引にやってます( ̄ー ̄A 汗フキフキ
婿養子の白羽の矢が立ったのが、管理人記事でお馴染みの名将:立花宗茂です(* ̄・ ̄*)Vブイ
戦死した実弟の供養のためにも、実甥に戸次の家を盛り立てて欲しい・・・( ̄人 ̄)☆彡~~願い事
(柳川市史では人質の意味があったと解説されてる)

だが、道雪の密かな願ひは歴史の大きな流れの中で打ち砕かれた。
なぜなら道雪亡き後に、婿養子の立花宗茂が豊臣秀吉によって一大名として独立したからです。
宗茂は戦国大名の常として、功績ある家臣に「立花姓」を与えた。
そのため「戸次姓」は「立花姓」となり柳川13万石の家臣団とし組み入れられてしまいます。

さらに道雪の育てた実甥は、隣国の加藤清正とトラブルになり責任とって自害してしまう。
実甥には、まずいことに子供がいなかった・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
養父の実甥の死を惜しんだ宗茂は、家老の子に名跡を継がせた。
でもって、実甥の名跡継いだ家老の子は「江上・八院合戦」で先鋒軍として玉砕してしまいます。
このあたりの話は、歴史記事「江上・八院合戦」のおさらいになりますネ^^

むろん親族はいるが、それはもう道雪の残したかった「戸次家」ではありません。。。。
江戸期・立花家柳川藩の藩祖(初代藩主のダディ)は道雪で、初代藩主はヒーロー立花宗茂です。
道雪の実家・戸次の家督という超デリケートな問題は、そのまま歴史の中に埋もれてしまいました。

立花家臣団の中で、管理人が一番大好きなのは薦野増時(こもの ますとき)です\(////▽////)ノぽっ
薦野村の国人領主で、道雪に見いだされ仕えたという経歴もツボ\(////▽////)ノぽっ←国人領主オタ
その薦野は、一時は立花家の婿候補でした。

お相手の道雪の養女(誾千代の異父姉)が早逝したのと、本人が遠慮したので沙汰やみになったのだが、薦野は婿候補だっただけに、道雪の実家・戸次家に対する思いを生前聞くか察していたでしょう。
関ヶ原の戦い以降、薦野が立花宗茂の下を離れ黒田長政に仕える形で故郷に戻り、晩年を「道雪の墓守」に徹したのは、「道雪の家風」から「宗茂の家風」に変化するのが辛かったのだと思う。
もっとも「家風の変化」といっても薦野だけが感じる違和感で、他の家臣は気にしてないだろぅな。
ほんとにデリケートな心理で、言葉に表現するのは難しいです。

人に付かず家(領地)につく。。。それが国人領主だ。
自由で自己主張が強く、性格もクセがある国人たちだが、そんな彼らが「この人こそは・・」
と、思い定めて仕えると、どんな忠犬よりも激しい忠誠心を出すことがある。
もう、そういう国人を見ると、管理人はたまりませ~~ん( ̄∀ ̄*)ポワ~ン~カッケ~!!

先週の予告で「国人の原田氏・・・」と言ってたのに、構想が拡大して話が変わるのは管理人には、よくあることです ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

ちなみに1571年は、2月に伊達政宗が疱瘡にかかり、独眼竜になった年で
さらに4月26日に歴史記事・薩摩初代藩主編で夫から精神的DVを受ける島津亀寿が誕生し
秋月編の主役・秋月種実に次男・元種が誕生した年でもあります^-^
大友家にとって比較的平穏な日々が続くなか、竜造寺と島津が着々と勢力拡大していくのだが

それは またの話

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【1504年/文亀4年/永正元年】南九州限定・戦国年表

2/5~相良長毎が八代を知行し名和顕忠は退散する

2/15~菊池能運(よしゆき23歳)急逝

2/24~日向にて大豆、小豆が降る珍事

・名和顕忠、為光娘婿の立場を利用し宇土城へ入る
(名和系宇土氏成立)

2/30~永正へ改元

3/21~都於郡城の屋形炎上(家伝、古書が多く焼失)

伊東尹祐と阿蘇惟東娘と結婚(男子生まれず)

東郷重朝⑭島津忠治に忠節を尽くし水引を拝領する
水引に東郷重信⑬の弟が入り東郷流高城氏初代となる

祁答院重武⑫生まれる

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【1504年/文亀4年/永正元年】北九州限定・戦国年表

・少弐資元(北肥戦誌から算定すると数え16)
 足利義高⑪(=義澄)の赦免で資元と名乗る
 大友親治、義親親子の援助で大内に反旗
 勢福寺城の江上興種を追放し勢福寺城を拠点とする

2/10~大内VS少弐勢、筑前怡土郡で争う
     龍造寺胤家、少弐・千葉の復活で肥前へ帰国
     家和に迎えられ大財端城へ入る

2/30~永正へ改元

・高木鑑房生まれる
・龍造寺胤家(隆信父)生まれる

・大村純尹、渋江公勢と伊勢詣で偶然出会い支援の約定受ける「渋江氏由来」
(渋江公勢は1504年より3年間京で大番役を務める)

         

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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