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秋月種実40【謀反がいっぱい~田原家乗っ取り】

大友家の支族で最大の勢力が田原家で、本家と分家(武蔵田原)がある。
武蔵田原の当主は、大友宗麟がキリシタンにハマって強制離婚した奈多夫人の実兄だ。
田原本家を警戒する宗麟は武蔵田原を厚遇することで対抗し、それは奈多夫人離婚後も変わらない。
田原本家は宗家の座を狙い、謀反する機会を狙ってる。
過去(南北朝まで遡る)の諍いがあるために、「田原謀反」は宗麟にとって約束された未来だった。

島津軍に大敗北(高城耳川の戦い)し家運が衰退した宗麟は、「今こそ田原本家を乗っ取らなければ、自分(大友家)が田原本家に滅ぼされる。」と、恐れた。
だが管理人から見れば宗麟の警戒心が病的で、自分の影に怯える子供と何ら変わらない。
なぜなら田原本家には子供が娘ばかりで、しかも3人しかいなかったからだ。
田原本家の家督を無事に継承する方が最優先で、大友に対し謀反など考えるような状態ではない。
だが、それでも宗麟は警戒し田原本家に冷たい態度を続けて追い詰めて行った。
田原本家は宗麟の乗っ取りの企みに懊悩しながら、病で亡くなった。

亡き田原本家は秋月種実の実甥を婿養子に迎えていたのだが、まずいことに相続に関する遺言が無かったために、田原婿養子が動揺した。
田原婿養子「このままでは、宗麟の二男に家督を乗っ取られてしまう。もしかしたら亡き義父上が、すでに家督を宗麟の二男に譲ることを約束させられているかもしれない(滝汗MAX)
1579年12月、ホントに謀反を決意した田原婿養子だったが、海から攻撃しようと準備してたのを、時化で失敗~~謀反の企てがバレた!><;アウチ☆

1580年の大友家は年頭から田原謀反の知らせに、討伐のための動員がかけられた。
だが、なかなか足並みが揃わなかった。
加判衆(かばんしゅう・大臣のこと)や、他の家臣たちも、田原本家に同情していたからだ。
宗麟の乗っ取りが強引すぎて、あそこまで追い詰めたら自領を守るために蜂起せざるを得ない。
それに田原本家に対抗するために、宗麟がエコヒイキした武蔵田原への不満もある。

1580年2月中旬、田原討伐の動員を拒んで、田北紹鉄(たぎた じょうてつ)が、勝手に自領に帰ってしまう!
同時期に大友家臣で筑前(福岡)方面担当の戸次道雪(べっき どうせつ)が、大友家臣団の団結と奮起を促す檄文を出す。
内容は素人検索では入手できなかったが大友家臣たちは、この檄文で一時期、立ち直ったと言われている。
自領に帰った田北は、すれ違いで「道雪の檄文」を見ておらず、間に合えば帰還を思いとどまったかもしれない。

同年4月13日、田北紹鉄は謀反の罪で討たれる。
罪状は「秋月への内応」「宣教師殺害の罪」で、動員命令拒否が理由ではない。
これらの罪状は全て真偽不明で、「武蔵田原が宗麟へ讒言した」というのが有力な説だ。
討たれたのは田北紹鉄だけで、田北一族は罪を不問とすることで、大人しくさせた。

これが宗麟の「いつものやり方」で、目的の人物を討ったら他を許すことで取り込んで行くんです。
田北家の家督を継いだのは、まだ12歳の少年で宗麟の思う通りに動かせるだろう。
逆らう田北を押さえたら、次は念願の田原討伐だ。
これでやっと宗麟は「安心」できる。

同年6月、田原家の鞍掛城が大友軍によって包囲される。
7月には田原家の安岐城を宗麟の次男が攻撃する。
宗麟が田原本家乗っ取りのために、送り込もうとしていた次男に攻撃させたんです。

勝てば、いま攻めてる城も田原家督も自分のもの大張り切りの次男さんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ
宗麟の次男は粗野で乱暴と言われ、「自分のほうが兄(義統)より大友当主に相応しい」と自惚れていた。
このへんは、宗麟が家庭内暴君だったことに起因していると思う。

同年8月、田原を救援に来た毛利水軍を大友水軍(若林氏)が撃退する。
かつて戦国最強と謳われた毛利水軍だったが、1576年に織田水軍に敗れてから以前より衰えていたかもです。

大友が謀反・謀反で アタヘ( ̄△ ̄)ノ=ヽ(; ̄▽ ̄)ノフタ 大忙しの時に織田信長が動いた!
この年の3月、石山本願寺との和睦(本願寺の実質敗退)が成立。
毛利水軍と大友水軍がガチンコしてる間・・8月に、島津と再び交渉を再開した。
え?取次の近衛さん?遊び気分の公家なんぞ使えるか!o( ̄ー ̄θ★ケリッ 
織田と島津の直接交渉です(* ̄・ ̄*)Vブイ

9月、織田信長は島津義久に「大友との和睦(豊薩同盟)」を承諾させることに成功する。
衰退する大友家の起死回生の外交戦術は間に合ったんです!!
この「豊薩同盟」は外交上の交渉テーブルのカードに使われただけで同盟の実態は供わないのだが、豊臣秀吉が、そのカードを拾い「自分の持ち札」にしたお蔭で、大友を救う切り札になった。

10月6日、宗麟次男が田原の安岐城を落城させる。
10月9日、田原婿養子(親貫・秋月実甥)が自害した。

田原本家の家督は、宗麟の次男・親家が継ぎ、田原本家乗っ取りに遂に成功する。
いつか田原が謀反を起こす・・・そう恐れ続けた宗麟は、やっと胸を撫で下ろしたことだろう。
だが「兄が大嫌い」な次男が田原本家を継いだことは、やっぱり大友衰退の一因となった。
揺れ動く大友家。
秋月種実が、かつて仰ぎ見た巨木は内側から腐りはじめ、ゆっくりと傾きつつあったのだ。
そして、この謀反騒ぎの最中、秋月種実の陰謀が蠢きだすのだが、
それは またの話 次回~秋月の陰謀
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テーマ : 歴史
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【1513/永正10年】南九州限定・戦国年表

・阿蘇惟長、島津支援で矢部を攻撃
 当主・惟豊は日向へ亡命し甲斐親宣(宗運父)の支援受ける
 阿蘇惟長、息子・惟前に家督を継がせ実権を握る

・樺山善久(妻忠良妹、娘家久正室)生まれる

9/15~相良晴広⑰(上村頼興長男)生まれる

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【1513/永正10年】北九州限定・戦国年表

・原田隆種(了栄)生まれる
・鍋島清房(直茂父)生まれる
3/17戸次鑑連(立花道雪)生まれる

・大友義長、筑後星野氏の謀反鎮圧

・松浦興信、鹿町の深江城主・純忠を授けて直谷城を攻める(松浦家世伝)

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秋月種実39【交渉】

織田信長と大友宗麟の接触した時期が分からなかったけど、たぶん仲介したのは堺の商人だと思う。
(商人はフットワーク軽い+失敗しても織田の対面に傷が付かない)

そして織田信長が島津義久と接触するにあたって、一人の公家を選んだ。
織田信長の鷹狩り仲間にして、島津義久の古今伝授の師匠~関白・近衛前久です。

破竹の勢いで日向へ併呑していく島津、配下の国人たちは次々離反し、大友に残された時間は少なかった。
頼みは「織田信長による政治的介入」・・・果たして毛利の時のように間に合うか?


筑前(福岡県)で現在業界?売出し中の主役・秋月種実には、むろん織田と大友の接触など知りようが無い。
彼は彼で「打倒大友」せっせと働いてた。
1579年3月~秋月+筑紫連合軍が高橋紹運と二日市口で激突!⇒秋月・筑紫の敗走^^;

同年・4月7日、関白・近衛前久が織田信長の取次として、島津義久に接触!
織田に従う証として、日向鷹の献上を促す。
九州の最南端の島津家だが付き合いが無かっただけで、むろん織田信長は知っている。
中国地方・最大の勢力である毛利家と交戦中だし、織田家臣の細川家は島津義久・雅の友だし、織田軍が武田勝頼を破った時に、弟・歳久に京都へ情報入手に向かわせている。
(この時は、信長が不在で会えなかった)
そして、この時期に接触したことに、大友の影を感じた島津義久は、近衛の申し出をスルーした。

同年・4月29日、秋月と同盟組んでた高橋鑑種が豊前・小倉城で死去。
同盟の証として高橋の養子になった秋月次男・元種が家督を継ぐ。

同年・6月16日・今度は足利義昭が島津義久に接触!
織田信長に京都を追放されて、毛利家の保護を受けつつ、さまざま画策してた最後の室町将軍。
いったい、織田と島津の交渉を、誰から仕入れたのだろう(@@)??
元・室町幕臣の細川幽斎に仲介させて「日向鷹をワシに献上せよ」と言って来た。
鷹を足利義昭に献上すれば、織田と即決裂してしまう。
島津義久は、こっちもスルーした。

同年・8月14日、「生松原の戦い」秋月の宗家・原田氏と道雪が激突する。
原田氏は佐賀・龍造寺と大友領の福岡県の、ど真ん中が領地だったの。
博多湾の側に道雪の立花城、ちょい下に紹運の岩屋城、川を挟んで佐賀県側に、原田の本城・高祖城(現在の糸島市)があります。
道雪の強圧的な態度のために息子を犠牲にされた原田氏は怒って竜造寺に寝返ってしまったので、いっきに原田領までが龍造寺勢力圏になってしまったんです。

この戦は・・・よく分かんない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
道雪側は「こっちが勝った~勝鬨だ~~」と記録し
原田側は「こっちが勝った~~勝鬨だ~~」と記録してるからです。^^あぅ~
つまるところ、決定的な勝敗は付かなかったらしい。

同年・9月、秋月+筑紫の連合軍が、道雪と大宰府で激突!⇒また秋月・筑紫の敗走。
頑張ってるんだけど、紹運か道雪の、どっちかにo( ̄ー ̄θ★ケリッと追い出される秋月です。

同年・9月13日、関白・近衛が織田信長の取次で、再び義久に接触・大鷹献上を催促する。
あ・接触って言っても、手紙です^^
宗麟の願いとは裏腹に交渉は、遅々として進まない~~><;アウチ☆
この年の7月~9月にかけて織田信長は、徳川家康の正妻と長男を「武田内通の罪」で処刑を求めてた頃で、ピリピリしてて九州に本腰入れる状態では無かったの。
だから、あくまで取次を介しての、もどかしい状態が続いてた。

さらに仲介した人物にも問題が・・・・・・・・・・・・

9月16日に近衛は「詠歌」の本を島津に送付しつつ、信長への鷹献上を催促するんだが、
近衛「ねぇねぇ!信長に鷹を献上するときに、麿の分も送ってちょうだい!*人 ̄▽)♪ルンルン」とやってた。
こんな遊び気分の取次では、まとまる話も失敗するだろう。
かなり気分を害した(らしい)島津義久は、この年は織田信長への返事を完全スルーしてしまう。
大友起死回生の外交交渉が、一時ストップ!宗麟、涙目です!!。゜゜(´□`。)°゜。

同年・9月16日、大友宗麟が謀反を(勝手に)警戒し続けた田原本家が病死する。
領地を宗麟の命令で奪われた田原本家。
返す代わりに、宗麟の二男に家督を譲れ!とゴリ押しの要求に、悩みダウンしてしまった。
背中にできた腫瘍が悪化し、激痛による悶死と伝えられている。

田原本家は娘ばかりだったので、婿養子(秋月の実甥)を迎えていたのだが、よほどの重病だったらしく宗麟の要求に対する答え・遺言を残さずに絶命してしまいました。
田原本家では「婿養子が家督そのまま継ぐの?」「宗麟と亡き殿が密約してたんじゃね?」
と、大揉めに揉めてしまう。
でもって当の田原婿養子本人が、宗麟の次男に家督を奪われてなるものかぁぁぁとブチ切れた。

同年・12月、大友の首都・府内を海から攻撃しようとした田原婿養子だが、折悪しく時化で失敗!謀反がバレタぁぁぁぁアタヘ( ̄△ ̄ノミヽ(; ̄▽ ̄)ノフタ
この謀反に豊前の国人・城井氏が加担して騒ぎが大きくなる!!
島津軍は着々と勢力拡大するし、謀反は起きるし、頼みの織田と島津の交渉も、なかなかまとまらない!!
衰退が止まらない大友家の更なる悩みの種・・・種と言ったら秋月種実だぁぁ

筑前(福岡県)は、再び秋月が活発に動くために、道雪と紹運は大忙しになるのだが
それは またの話 次回~あいつもこいつも謀反謀反!!!

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【1512/永正9年】南九州限定・戦国年表

・伊東祐清(義祐)生まれる

・島津忠親(北郷⑨→豊州⑤)生まれる
(姪が島津義弘の最初の妻で、義弘を婿養子にした人物)

6/ 島津忠良、伊作家の家督を継ぐ

12/10 相良長毎、高田今泉へ隠居、息子・長祗が家督を継ぐ

12/23 伊東尹祐娘と島津忠治が結婚

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【1512/永正9年】北九州限定・戦国年表

・秋月文種生まれる

・宗像氏男生まれる

・宗盛長、朝鮮と「永正条約」を結ぶ

・松浦(宗家)、平戸松浦弘定が大内に同行し京へ上洛中に蜂起
・松浦宗家と平戸松浦が龍造寺安房守の仲介で和睦
(松浦家世伝では龍造寺家兼になっている)

・渋江公勢、この年より日鼓山に要害を構え在城する(波佐見渋江家文書)

閏4/15 筑前守護代・杉興長、太宰府天満宮満盛院に侍島の土地を還付する(満盛院文書)

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秋月種実38【謀反パニック!】

大友家の分家で最大の勢力を誇る田原家。
大分県国東半島の地頭職として頭角を現す。
本家と分家のギクシャクの歴史は、南北朝の争いまで遡るほど古い因縁だ。
「謀反を企む御家」と呼ばれるように、かつて田原家は大友家の宗家の位置を狙い、様々に暗躍・画策した歴史がある。
そのため、大友宗麟は常に「田原家の謀反」を警戒し続けた。

そもそも大友宗麟が奈多家から正室を迎えたのは、田原家対策のためだった。
奈多夫人の実兄は養子に出ていたのだが、その家というのが田原家の分家・武蔵田原家だったんです。
田原本家を抑えるために、宗麟は武蔵田原を出世させた。
(普通の人は混乱するので苗字だけで、名前省略ね^^)

武蔵田原に権力を与え、ついには大友の内政の殆どを任せるまでになる。
大友家臣の戸次道雪は「いかなる理由でもエコヒイキは良くない!!」とガッツリ意見したのだが、田原本家を抑えることを優先した宗麟は諫言に聞く耳を持たなかった。
武蔵田原は奈多夫人の実兄だけにキリシタンが大嫌いで宣教師を迫害しているのだが、それでも宗麟は、武蔵田原を重用し続けたので、よほど田原本家を警戒してたのだろう。

実力ではなく、宗麟の警戒心から出世したために、大友家中から全く人望が無かった武蔵田原だが、ご本人が討死するまで没落する大友家と運命を供にしているので、武蔵田原なりに忠誠心はあったらしい。
だから、やっぱ、この場合、大友家臣離反の一因が宗麟の情実人事だったわけで・・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ


その田原本家は、子供は娘ばかりの三姉妹で、男子がいなかった。
でもって娘の一人が、宗麟の命令で本物語主役の秋月種実に嫁いだ。
ところが、秋月は「打倒・大友」に燃えて、何度も離反⇒降伏を繰り返すものだから、自分で進めた結婚なのに田原本家が秋月と組んで謀反するんじゃないか?と、ますます疑心暗鬼になる。
ちょうど宗麟がキリシタンに傾倒する時期なんで、なにやら警戒心に病的なものを感じます。^^;

じゃ田原本家は?というと、実は謀反なんて起こすつもりはカケラも無い人柄だった。
秋月が謀反したときも娘への情に流されることなく、大友側で従軍している。
宗麟の命令に従い、軍役も忠実に果たしていた。
にもかかわらず、宗麟は田原本家を信用せず、疑い警戒し続けた ><;アウチ☆
尽くしても、尽くしても、宗麟からは労いの言葉すら与えられることは無かった。
こうなると家臣への手前もあるから、田原本家も心を閉ざしてしまう。

毛利軍が北九州から撤退したときにヤンチャしてた秋月も降伏したのだが、許されたのは舅の田原本家が取り成したからです。
宗麟の冷たい態度に、田原本家は秋月種実との関係を強化しました。
娘しかいなかった田原本家は婿養子を迎えたのだけど、それが秋月種実の実甥だったんです。
婿養子は長野家から来たのですが、その養子の実父が秋月種実の実弟です。
秋月種実の実弟は長野家に養子に行ってて、その子供が田原本家の婿養子なの。
ただ長野氏は系図・親子関係が一部不明で、種実の実甥が婿養子だと後日つじつまが合わなくなるんだが、まぁとりあえず通説に従います。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

そして田原本家を警戒するあまり、宗麟は決定的なことをしてしまう。
田原本家が先祖代々受け継いだ国東・安岐の領地を召し上げ、武蔵田原に与えてしまった!
宗麟の冷たい態度に耐え続けた田原本家は、ついに我慢の限界を超えた。
本家が本貫の地を分家に奪われるなど、これ以上の屈辱は無い。

1578年・12月中旬、田原本家は臼杵から居城の鞍掛城に無断帰国した。
田原が謀反のために居城へ帰国した!!
臼杵の街では、このような噂が飛び交いパニックが起きた。
戦を避けるために食料・家財を運びだし避難する者が出始め、宗麟本人も滅亡を(勝手に)覚悟して祈り始める( ̄人 ̄)☆彡~~
耳川の大敗北から、まだ一か月しか経過しておらず人心が不安定だったためもあるが、大友宗麟が「田原はいつか謀反するぞ、するぞ」と警戒し続けてたために、噂を煽ってしまったんです。
つまり、これも日頃の宗麟が悪いわけで・・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ

この事態に大友家の大臣たち(大友用語で加判衆(かばんしゅう)は憂慮した。
誰もが宗麟のやり方が酷すぎると、本貫の地を奪われ面目を潰された田原本家に同情した。

同年12月26日・加判衆(大友家の大臣たち)の志賀氏・一万田氏・朽網氏・木付氏が連盟で田原本家に手紙を出す。
円満解決のため宗麟が田原本家から取り上げ、武蔵田原に与えた国東・安岐の領地返還を取り成すことを提案した。
宗麟の長男・義統は領地返還には反対したのだが、宗麟がOKした。

翌年の1579年1月11日に加判衆(かばんしゅう)は、田原本家へ領地返還に成功したよ~と通達した。
前年の家臣大反対なのに強行された4月からの日向侵攻⇒11月・耳川の大敗北⇒12月・田原本家帰国騒動。
と、大友家中は年末年始どころでは無かっただろう。
でも、これで落ち着くよね~と安心するのは早かった・・・

なんと宗麟は(勝手に取り上げた)領地を返還する代わりに、田原本家の家督を要求した!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
繰り返すが田原本家には子供は姫ばかりの三姉妹。
だからこそ婿養子を長野氏から迎えているのに、宗麟は自分の二男に田原本家を継がせろ!と言ってきたの。
宗麟は自分の二男を送り込むことで、田原本家乗っ取りを画策した。
領地は取り戻したい・・・でも、田原本家の家督を乗っ取られるのは困る!!
田原本家は苦悩煩悶し、ついに病に倒れた!

衰退しているくせに、内輪で揉めてどうするの?って思うだろうが、宗麟には勝算があった。
戦より外交上手の宗麟は、織田信長に接触してたからです。
島津を戦で倒すことが出来なかった宗麟は、かつて毛利家にしたように外交で島津に勝とうとした。

長篠の戦いで武田軍に勝利し、上杉謙信死去で織田軍を取り巻く情勢が大きく変化した。
さらに毛利家自慢の水軍すら破って、運気上昇トップ高の織田信長が、ついに九州・3強の争いに介入する!

大友の衰退に乗じて、勢力拡大しつつあった秋月種実。
だが彼の知らない間に織田・大友・島津を巡る政治的駆け引きが行われようとしていたのだが、
それは またの話 

次回・大友起死回生~幻の豊薩同盟~戦は現場で起きるんだ!!

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秋月種実37【始動!秋月種実!】

幼き日・・・父と母、そして兄を大友軍の攻撃で失った秋月種実(あきづき たねざね・30歳)。
反乱と降伏を繰り返してきたが、「打倒・大友」の旗印を、堂々掲げる時が来た!
1578年11月12日・耳川の戦いで島津軍に大敗した大友家に対し、秋月は再び反旗を翻した!

元・大友家の家臣で、秋月と同盟を組んでいた高橋鑑種 (たかはし あきたね)という男がいる。
同盟の証として秋月の弟・種冬を養子に迎えていたのだが、種冬は病弱で死んでしまった(没年不明)。
さらに頼りの毛利家は北九州から撤退し、秋月は早々に降伏しちゃったので高橋は孤立してしまう。
でも心配ない~~高橋は万が一に備えて「保険」を掛けていた。(* ̄・ ̄*)Vブイ
「毛利が北九州から撤退するときは、高橋を見捨てないよ。身柄は毛利が預かるね」
と、陰謀家の毛利元就から一筆_φ( ̄ー ̄ ) もらうことに成功してたんです。

元就は既に死亡しているが、毛利家では元就生前の約束を守って高橋を豊前・小倉城主に迎えて保護した。
そのため謀反を起こした元家臣なのだが、高橋は大友家の報復を免れた。
怒った大友宗麟は殺す代わりに高橋家の家督を奪って、吉弘家の紹運に高橋を継がせたの。
大友家が、耳川の大敗北で衰退すると、高橋と秋月は再び( ̄▽)人(▽ ̄)同盟を組んだ。
死んだ秋月の弟の変わりに、今度は次男・元種7歳を養子に迎えた。

実は元種の年齢に関しては諸説あるのだが、一応ウィキペディアに従います。
でもって、元種は大友家に人質として預けられていたはずなので、耳川での大敗北で混乱している隙に、秋月が人質だった次男を奪い返したのだと思います。
さらに古い話で恐縮ですが、みなさま香春岳(かわらだけ)城を覚えてますか?( ̄ー ̄A 汗フキフキ
毛利VS大友の10年戦争~その最初の激突が門司城合戦でして、その門司城合戦のキッカケになったのが、大友軍による香春岳城攻撃でした。
(門司と軍事的にリンクしてた城だったので狙われた)

毛利との最初の和睦(10年戦争の間に、和睦は二回あった)で、大友は門司を軍事的に孤立させるために、香春岳城の破却を要求してたんですが、その後、歴史が アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタしてて、結局は大友配下の城として壊されることなく、そのまま存続してたんです。

香春岳城の城主は秋月の母方の伯父でしたが、大友の攻撃で一族全員自害・・・ではなく、
たった一人、城主の弟(つまり秋月の伯父の一人)原田貞種が、たまたま出雲に滞在してて難を逃れました。
大友宗麟は、この生き残った貞種を香春岳城の城主とし、原田(庶流)の家督も継がせた。

秋月種実と叔父・原田貞種の宗家・原田了栄は、大友のために息子たちを失ったことを恨んで、龍造寺サイドになってしまったのですが(1574年)、庶流の原田貞種は(多分、城の位置関係の都合)そのまま大友配下でした。

はぁ宗家・庶流・分家が、龍造寺・大友・反大友と敵味方に分かれた複雑な状態になってます。
もっとも、この時期の北九州の国人たちは、だいたいこんな感じで入り乱れてます。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

この大叔父が守る香春岳城を高橋鑑種の養子になった高橋元種が攻撃した!
公式通説だと1571年生まれで、数えでも7歳の元種ちゃまです^^;
だから年齢に異説あるんですよ~~とにかく通説通りなら、これが元種の初陣(戦場デヴュー)になります。
ほんとに7歳なら、前線には出ないで飾りの大将だったと思います。

原田貞種は、高橋の攻撃の前に敗れ自害、香春岳神社・大宮司の家系は本当に滅亡しました。
長々説明しちゃったけど、早い話・秋月+高橋が大友側の香春岳城を手に入れたってことです。

原田側の記録だと、高橋元種が香春岳城に入ったとありますが、通説年齢だと幼いので「実父・秋月の手元にいた」という説もあり、次男・元種はミステリアスな存在です (*´艸`)

さらに秋月は筑紫広門(つくし ひろかど)と同盟を組んだ!
筑紫家と秋月家は、互いに父の代から同盟を組んで、大友と戦った盟友の家で、種実と広門は「大友の攻撃によって父が自害する」という共通の過去があったんです。
1572年に龍造寺軍の攻撃を受けて、降伏してた筑紫広門ですが、反大友のための同盟ならば、龍造寺から文句なんて来ません。^^

1578年12月3日~「柴田川の合戦」筑紫・秋月連合軍VS高橋紹運が激突する。
「耳川の戦い」から、わずか半月ちょいの出来事で、いかに秋月の行動が早かったか分かります。
この戦いでは武勇優れた高橋紹運の前に、秋月・筑紫連合軍は敗退します。

今までなら、すぐ秋月も筑紫も大友に降伏して、詫びを入れて生き延びて来ました。
でも、もはや、そんな必要はありません(* ̄ー ̄*)ニヤリ
耳川の大敗北で、大友には秋月や筑紫を追撃する余力が無いからです。
紹運・道雪と言えども、やってくる火の粉を振り払うだけで、精一杯でした。

1578年~ちなみに上杉謙信が死去・上杉で「御館の乱」、尼子氏滅亡、毛利水軍が織田水軍によって壊滅と、耳川の戦いの年は、中央政界も目まぐるしく動いてます。

そして、この年の暮れも押し迫ったころ。。。
日向から本拠地の豊後・府内に戻った大友家では、年末気分がブッ飛ぶ「大事件」が起きるのだが、
それは、またの話 

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秋月種実36【大友軍・壊滅!~耳川の戦い3】

日向侵攻だが、最新の研究では息子の義統が主導で行われたのでは?とも言われている。
と、いうのも隠居してからの宗麟は、領内統治に関心を持たず祈りに専念していたからだ。
だが父に反発してキリシタン嫌いだった義統が、日向の神社仏閣を破壊するというのも釈然としない。
神の国の第一歩「無鹿町」を作ったのは宗麟なので、やはりある程度は関わったと思う。

そのくせ祈り三昧の宗麟は、島津家との本格的な戦にまで発展するとは予想して無かったようで、耳川の戦いの時には本拠地の豊後を離れて、宣教師と共に日向の牟志賀(=無鹿町)まで来ていた。
往年の英邁だったころの宗麟には考えられない緩さで、やはり精神のどこかが病んでいたのかもしれない。

耳川の戦いは1578年11月9日から12日にかけて行われた。
でも実は主戦場は高城川原で行われ、「耳川の戦い」というのは通称なんです。
最初は数で大友軍が圧倒し、緒戦では島津軍は北郷久盛が討死する。
だが、やがて両軍が拮抗した状態になったところで島津以久が東から突入、さらに高城の篭城兵も西から突入したため戦況が決定的になる。
敗色が濃厚になった大友軍は撤退しようとし、ここで悲劇が起きた。

不思議なことに天運に見放される家は、気象の巡り合わせも不運が重なる。
数日来の大雨で耳川が増水し、退却する大友軍は急流に足を取られてしまったんです。><;アウチ☆
ある者は溺死し、ある者は渡河しようとしたところを島津軍に打ち取られ3000人近い人数が戦死し、大友軍は壊滅的な打撃を受けた。
大友軍は3~4万の兵力だったと言われ、そのうちの3000人なら数字的には大したことないと思われるかもしれないが、その戦死者の中身が問題だった。
大友軍を支える同紋衆(一門・譜代)と他姓衆(新参の家臣)の当主たちが死亡したからです。

【大友軍・戦死者リスト】
田北家・末弟の鎮周が死亡
肥後の実力者・蒲池鑑盛が死亡
佐伯家・惟教が死亡、ウィキペディアには記載されていないが、惟教の息子も死亡
大友軍の軍師だった角隈石宗が死亡
吉弘家・嫡男の鎮信が死亡~高橋紹運の実兄です
斎藤家・鎮実が死亡~紹運の妻の父・つまり立花宗茂の母方の祖父です
臼杵家・部隊が島津の攻撃により壊滅、嫡流の血筋が絶え庶流(弟の血統)が、かろうじて残る

他にも拾いきれないほど、各家の男子が戦死しました。
大友軍の痛手の大きさは、家督を継いだ子供の年齢を見ると分かります。

【家督相続とは無関係だが、後年活躍する武将の年齢】
志賀親次18歳、田北統員10歳、立花宗茂11歳、立花誾千代9歳
(誾千代は7歳で立花家を相続済みです)

【耳川での当主死亡で家督を継いだ子供たち】
佐伯惟定10歳、吉岡統増10歳、吉弘統幸14歳
吉弘チャン、はるか後年、九州の関ヶ原「石垣原の戦い」で如水混成軍と戦い壮絶な戦死をしますが、このときは若干14歳の少年で、宗茂と誾千代は結婚すらしていない。

次世代の年齢を見ると、古い言い方だと「大戦中の学徒動員」アニメだと「機動戦士ガンダム」状態で、大友軍が元通りの陣容を取り戻すには、彼ら少年たちが一人前になるまでの数年間を待たねばならない。

戦国時代。。。その数年間が命取りになった。

大友が衰退した隙に龍造寺と島津が拡大し、取り返しがつかなくなる。
耳川の戦いの後に、大友に領地を奪われた日向の土持氏が正式に島津家臣となり、土持氏の領地だった日向・縣(現在の宮崎県・延岡市)地方は島津の領地となった。
これにより島津は、念願だった三州(日向・薩摩・大隅)統一に乗り出すことになります。

日向の無鹿にいた宗麟は豊後に向けて避難したのだが、それは惨めなものだったらしい。
島津との戦を、さほど気に留めてなかったので、大敗の報告に大慌てで脱出することになったからだ。
財宝・什器を運ぶことが出来ず、かろうじて十字架(サイズ不明)だけは持ち出した。
さらに困ったのは道中、泊まるとこが無い。
そりゃそうだ、宿泊施設になりそうな寺院・仏閣は、自分で破壊しちゃってる∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

かろうじて難を逃れて残った寺院も、宗麟が泊まるのを拒否した(宣教師が同行してたからかも)
野宿したかまでは分からないが、かなり苦労して豊後に帰ったそうだ。
豊後と日向の国境には、家族の安否を心配した大友家臣の妻子たちが集まっていた。

そこには、当主の義統もいた。
義統には寵愛している家臣がいた。
その家臣の無事を聞き義統は思わず、「あぁ!お前さえ無事なら、他の誰が戦死しても気にしない!何よりも嬉しい~*人 ̄▽)♪」
と・・・・やってしまった・・・・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ

義統の、この言葉は夫や息子のが心配で集まってた家臣の妻子達に丸聞こえ・・il||li▄█▀█●il||li がくぅ
大友家臣全員がドン引きしてしまい、離反に拍車がかかる。
こういう逸話が残ってるので、義統ダメ息子の烙印を押されているのだが、実は「空気読まずに自分のいいたいことブチかます」のは父の宗麟も同じです。
ただ宗麟は、大友家の最盛期(没落もだが)を作った人物なので目立たないだけです。(* ̄・ ̄*)b
さて、次回は、ダメ息子の烙印を押された義統の話。

それは またの話

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【1511/永正8年】南九州限定・戦国年表

・肝付兼続生まれる

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【1511/永正8年】北九州限定・戦国年表

2/ 千葉喜胤、渋谷氏と戦い杵島藤津の地を奪う「佐賀市史」「歴代鎮西要略」

・神代勝利生まれる「三瀬村史」

・菊池武経(阿蘇惟長)大友の傀儡が嫌になり矢部へ帰る
(既に弟が当主ねので居場所が無くて島津を頼る)
(菊池家臣、庶流・菊池武包を迎える)
(義宗=菊法師丸が成長するまでの繋ぎ)

8/14 足利義澄ん、近江で没33歳

9/25 千葉胤繁(西千葉③)18歳で死亡(歴代鎮西誌は9/29)

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【1510/永正7年】南九州限定・戦国年表

・島津家久生まれる

・大河平左近将監隆充(隆次パパ)生まれる

・入来院重聡⑪(島津4兄弟のうち三人の祖父)島津忠治より隈之城を与えられる

・伊作島津忠良と薩州島津重久娘(御東/寛庭夫人)と結婚

9/1~ 「綾の乱」長倉若狭守、稲津越前守が綾城に立て籠もる

9/13~伊東祐充⑧(義祐兄)生まれる

・伊東尹祐、北原の加勢を得て攻略

10/17~長倉、稲津が切腹し「綾の乱」が終息



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【1510/永正7年】北九州限定・戦国年表

3/13~千葉胤治が興常親子、東尚盛共に攻撃され高田城で討死
「千葉氏略年表」「日付は歴代鎮西誌より」

3/21~龍造寺康家死亡「佐賀市史」「歴代鎮西志」

・三浦の乱~宗盛弘の応援で釜山を攻略

4/4~宗義盛、宗盛弘二人相談の上、朝鮮を攻めるべく渡海
(嘉吉年間から数十度渡海)
(宗盛弘は釜山浦で討死)

6/ 宗盛弘の亡霊が出たので宗義盛が対馬高崎大明神として祀った

千布頃幡守宗利(神代勝利)の同母弟生まれる

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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