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秋月種実42【英彦山焼き討ち!】

1581年(天正9年)8月2日、島津義久から大友との同盟が整ったのを祝して、太刀と馬が贈られた。
織田信長が何度も介入してくるので、島津義久は渋々、豊薩同盟に応じたんです。

同年の8月18日~大友家の内部固めが一段落したのを受けて、立花誾千代13歳と立花宗茂15歳が、めでたく華燭の典~タカサゴヤ~~~
一安心するのは、まだ早い。
島津は刻々と勢力を拡大していった。
同年、8月20日には相良氏が降伏し、長男と次男を人質に出した。
これで肥後方面に侵攻するにあたり、残る障害は阿蘇氏だけとなる。(細かく言うと色々あるが省略)
実は島津と龍造寺は「沖田畷の戦い・1584年」より前に、国境線を巡って対立したことがある。

これは郷土史家が調べたことで、まだ「史実」としては確定していないが、管理人は秋月関連サイトの記録と照らし合わせると、ほぼ事実ではないかと思ってます。
あまり、というか全く知られていないのは、両軍が睨み合うだけで戦闘が無かったからでしょう。
龍造寺隆信の方が大軍だったにも関わらず、島津を倒さなかったのは今となっては歴史の謎です。
考えられる理由としては、肥後の国人たちの帰趨がハッキリしてなくて戦闘に踏み切れなかった・・かなぁ^^;
とにかく両軍は菊池川を国境とすることで、話は終わり引き上げた。

この時、龍造寺と島津の和議を取り持ったのが、秋月種実だと言われているのです。
後年、島津と同盟を組む秋月種実が、公式に島津と接触したのは、この和議が最初でしょう。
大友から離れて龍造寺の配下となった秋月種実でしたが、単なる国人領主から、発言力を持った勢力に成長しているのが感じ取れます。

大友VS毛利の争いを誘発し、さまざま画策してきた秋月種実。
同盟を組んだのは、原田家・筑紫家・城井家・高橋家・長野家・英彦山。
次男・元種は高橋家(一万田系)を継ぎ、豊前・小倉城に入り、さらに大友から春香岳城を奪う。
実弟・種信は長野家へ養子に入り、秋月の心強い同盟相手の一つとなる。
長男・種長は英彦山座主の娘と結婚による同盟を結ぶ。

秋月家の本家嫡流の原田家は、大友と家臣の戸次道雪に遺恨があり、大友から龍造寺配下となった。
秋月種実の要請で原田家は、度々援軍を出している。
筑前・豊前と秋月が十数年かけて作り上げた人脈のネットワークは、龍造寺・島津も一目置くようになったんです。

大友氏にとっても秋月は「謀反起こした配下の国人領主」から「倒さねばならない明確な敵」となった。
大友氏は秋月の力を削ぐために、秋月と同盟を組んだ英彦山を攻撃する決断を下した。
1581年10月8日 一回目の英彦山焼き討ちが行われた。

英彦山は九州きっての修験道で、山伏の総本山のようなものです。
座主は世襲で武家との婚姻によって、世俗の権力を手にしていました。
実は大友氏は、北九州の神社・仏閣が大友の軍令に反抗的なのに手を焼いていました。
宗麟がキリシタンになったのは天正年間ですが、神社仏閣の不満・反発は以前からです。
宗麟がエコヒイキしてた奈多家が、大友家の寺社奉行でして彼が色々揉めてましてね・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
裁判とかでも奈多家に有利な裁定出したりなんかして、各寺院・神社からブーイングが・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ

大友が強いときは泣き寝入り、我慢してた神社・仏閣ですが、耳川の敗退で大友が衰退すると、いままでのウップン晴らすぞ~と言わんばかりに離反しはじめた。
だから英彦山焼き討ちは、宗麟がキリシタンだから行ったのではなく純粋に政治的な問題。
英彦山が大友の敵・秋月種実と同盟を組んだからで、反抗する神社・仏閣への見せしめでした。
その証拠に英彦山焼き討ちを命じたのは、宗麟じゃなくて息子の義統です(* ̄・ ̄*)b

大友軍が攻撃し堂宇には全て火が放たれるなかで、二人の山伏が現れた。
山伏「大友に七代までも祟りを為さん!!」と呪詛をかけると、
山伏は立ったまま腹を掻き切り、業火の中に消えた、と言われている。
また豊後(大分県)の人が、英彦山を訪れると恨みの涙雨が降る、という伝承もある。
焼き討ちしても英彦山は秋月との同盟を破棄するどころか、大友への抵抗を続けた。

同年、11月20日に二回目の英彦山焼き討ちが行われる。
同時期、大友宗麟の命令で田原親家(宗麟・二男)が宇佐神宮を攻撃する。
宇佐神宮への攻撃も、仕えてた武将(神宮での身分は宮司)3名が、秋月に内応したからです。
英彦山は、秋月との連携を更に深め、軍事的抵抗を続けた。

秋月の方でも援軍を英彦山に送っている。
結果として豊臣秀吉の「九州征伐」までの約7年間、英彦山は大友家と戦い続けた。
まぁ宗教関係と戦を始めたら、信長VS本願寺のように、たいていは泥沼化します。。。_| ̄|○ il||li がくぅ

さらに秋月は、この「英彦山焼き討ち」を利用した。
北九州の村々、神社仏閣、関係各所に「大友宗麟・無道10か条」というプロパガンダをバラ撒いたんです。
文書の内容がネット検索では入手できなかったのだが、ようするに宗麟は、酷い奴だ!!と書き連ねてあるもので、
「古来の伝統を無視し、異教に誑かされ、由緒ある神社・仏閣を破壊し云々・・・」
「家臣の妻を掠め取り、そのために無実の者を陥れ云々・・・」
「遊興にうつつを抜かし、京・大坂から遊芸者を呼び寄せ遊び狂い云々・・・」
てな感じに10か条~_φ( ̄ー ̄ )メモメモ これを一斉送信したから堪らない。

筑前担当の大友家臣・戸次道雪は対応で悲鳴を上げた。
何度、廃棄しても怪文書は、どこからか書写されて、人々に出回る。
それまで大人しかった寺院まで、大友の軍役や命令に対し、返事を濁して曖昧な態度をとるようになった。
宗麟の暴君説は、こうした敵側(主に秋月)が発信した、誹謗中傷の影響が大きいと思う。
戸次道雪にとって困るのは、宗麟がキリシタンに夢中なのも、神社・仏閣を破壊したのも事実なことです。
宗教に関して常識人だった道雪は、主君に「せめてこれ以上、神社・仏閣を破壊しないで下さい」
って頼んだけど、宗麟は「この際だから逆らわないように徹底的にやる!」と聞き入れてくれなかた。

宗像神社・大宮司の宗像氏貞(むなかた うじさだ)は、7人女の祟りか単に間が悪いのか、宗教関連の動向にイライラしてた雷神・戸次道雪の地雷を踏んで、怒りの雷撃をくらうのだが
それは またの話
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秋月種実41【陰謀・・・】

高橋家筆頭家老・北原鎮久(きたはら しげひさ)。
「筑前続風土記」曰く、「勇アリトモ智無ク、タダ貪欲無道ノ者」と、ボロクソな評価だが果たして本当にそうだったのだろうか?


高橋家は秋月家と同族で、大蔵系と呼ばれる古い国人領主だった。
だが戦国期に血統が絶えて、空き家状態となった。
御家存続のために家老・北原が、大友宗麟に願い出て名跡を継ぐ人物を斡旋してもらったのだ。

北原にとって誤算だったのは、一人目に迎えた当主は謀反を起こし、
それならば~~と、迎えた新当主・高橋紹運が没落する大友と運命を供にしようとしていることだった。

国人にとって家名を引き継ぎ先祖代々の土地を守るのが「正義」であり、最優先だ。
大友に従ったのは生き残るためで、いちいち操を立ててたら共倒れになる。
家老の北原の苦衷は、同じ国人領主の秋月には手に取るように分かっていた。

1580年8月、秋月は北原に接触し裏切りを唆した。
北原が風土記にあるような、単純な「無道の者」では無いと思う。
なぜなら北原は主君の高橋紹運を説得しようとしたからです。

北原「どうか大友のことは諦めて、高橋家が生き残る道を選んで下されm(_ _)m」
紹運「大友からは岩屋・宝満山の二城を任されるという大恩がある!たとえ山野に屍を晒そうとも、それこそが武士の本分!主家に二心は抱かぬ!!」

( ̄∀ ̄*)ポワ~ン・・・・・いやぁ紹運の潔さ忠節は、いつもながら惚れ惚れします。
北原にとっても紹運は魅力的な主で、できるものなら仕えていたかったのだろう。
だがキッパリと拒絶され説得は失敗、北原は高橋家で孤立してしまった。

やむなく北原は秋月の裏切りの誘いに乗り、その証として岩屋城の軍事機密を漏らしたと言われている。
9月に入ってから北原と秋月は裏切りの具体的な相談に入ったのだが使者として手紙を預けていた僧侶が、裏切りの片棒を担ぐのを憤り紹運に報告してしまった。

高橋紹運は自分を説得しようとした北原を怪しみ密かに様子を観察していたのだが、僧侶の証言と手紙という確かな物証を入手したことで、北原処分を決意する。

10月2日、「領内検地のことで相談したい」と呼び出され北原は誅殺された。
筆頭家老の北原は武勇の方も、なかなかの人物だったらしい。
高橋家の猛者・萩尾大学と内山田が二人がかりで、仕留めたそうだ。
大友家では謀反を起こした田原家の婿養子が鎮圧され、自害した頃です。

北原には嫡男がいた。
嫡男は何も父から知らされておらず、いきなり紹運に父が誅殺された事で紹運を恨んだ。
そんな北原の息子の元へ紹運から手紙が届いた。
手紙には丁寧な弔意とともに、殺すに至った事情が記されていた。
さらに父の謀反と息子は無関係だから、このまま家督を継いで高橋に仕えて欲しい、とあった。

若者には「生き残り優先の現実路線」より、「主家を支える忠義ロマン」の方が、耳に心地良い。
それに北原の息子が少年⇒成人に至る時期、高橋家は「国人領主」ではなく「大友家臣団の一つ」だ。
従って北原親子の父と子では、大友家に対する気持ちの温度が全く違う。
誅殺された北原が、裏切りを息子に相談しなかったのは単に巻き込みたくなかっただけでなく、大友に対する「気持ちの温度差」から、反対するだろうと思ったのかもです。
北原息子「父の仇は紹運ではない!父を唆した秋月種実が悪!!!」

だから国人は、自分が生き残るのが最優先だと何度も、、、、_| ̄|○ il||li がくぅ
自分の立ち位置を何処に置くかで、見方は全く違ったものになる。
息子の意識は「大友家に仕える高橋家の家臣」なんです。
そして秋月種実・・・かつて父と母・兄までも大友軍の攻撃で失い、「打倒大友」の為に、様々な画策をしてきた。
秋月の勢力が大きくなるにつれ、秋月の陰謀の犠牲者は必然的に増える。
父の仇をとるはずの秋月が、今度は自分が「父の仇」になってしまった。
もっとも秋月なら「それが戦国だ」と言いそう~○ Oo━y( ̄Σ ̄*)ブハーッやったことには悔い無し。

北原の息子は紹運に弔い合戦を申し出た。
10月18日、北原息子は自分が裏切ったように装い、秋月兵300を誘き出した。
秋月兵は待ち伏せしていた高橋紹運にフルボッコ~ボロボロに負けた。
兵を指揮してた秋月家臣・内田は、わずか30数名になり這う這うの体で引き揚げたのだった。
北原の息子は改めて高橋紹運へ忠義の誓紙を出し、領地安堵される。
その後は家老となって高橋家に良く仕え、岩屋城玉砕の時に紹運と共に散ったのだった。
北原鎮久が長命できたら秋月種実に仕えただろうし、北原息子が長命できたら立花宗茂に仕えただろうなぁ ( ̄  ̄)トオイメ。。 

当主が短い期間に入れ替わったため「寄り合い世帯」だった高橋家。
それをまとめていたのは紹運の統率力の賜物だったのだが、北原鎮久の誅殺と、それに伴う弔い合戦で高橋家の結束は不動のものとなる。
日本史全体でいえば、織田軍(指揮官は羽柴秀吉)の毛利攻めが佳境に入り、三木城が落城。
織田信長は石山本願寺との和睦に成功し、本願寺は紀伊・雑賀へ移動しました。

謀反が鎮圧され内部固めが一段落した大友家だが、このままでは治まらなかった。
今度は泥沼の「宗教戦争」に首を突っ込んでしまう。><;アウチ☆
次回「英彦山焼き討ち」 それは またの話 

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【1514/永正11年】南九州限定・戦国年表

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【1514/永正11年】北九州限定・戦国年表

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4/ 千葉胤勝、東尚盛を攻め城を奪い、家宰に鑰尼胤光を入れる。
  東尚盛は松浦へ逃げる「歴代鎮西志」「佐賀市史」

・千葉興常、中村三河守公集に杵島郡樋口分等を安堵する(橘中村家文書)

・由布氏(道雪生母)死亡

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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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