秋月種実50【決着!(沖田畷の戦い6】
場所:九州~島原半島
対戦相手:龍造寺軍推定25000VS島津軍3000+有馬軍5000
総大将:龍造寺竜造寺側~龍造寺隆信・・・島津側~4兄弟末弟・島津家久
「沖田畷の戦い」は、九州の戦国史に大きな足跡を残す戦いなのだが、ちょうど同じ時期に羽柴秀吉と徳川家康が、小牧・長久手で戦いを繰り広げていた。
生き残るために必死で戦う九州の人たちに、天下の趨勢が決定しようとしていることは知る由もない。
島津軍得意の囮作戦~通称「釣り野伏せ」によって、狭い畦道が続く「沖田畷」に誘い出された龍造寺軍。
龍造寺軍は大軍の利点を生かすことができず、はじめに鉄砲隊・弓隊の猛攻撃を受ける。
退路が断たれ、有馬・島津連合軍に狭い地域で囲い込まれた。
逃げ場が無い!・・・それが龍造寺軍にパニックをもたらした。
各隊の連携が分断され各々が戦場を必死で駆け回る状態のなか、島津軍・抜刀隊の斬り込みが開始される。
重臣が討たれ、総大将を護っていた旗本も壊滅、龍造寺四天王も激闘の果てに討ち取られていく。
そしてついに総大将、龍造寺隆信にも島津軍・川上隊の鉄砲隊が撃ちかけた。
肥満のため馬の乗れなかった龍造寺隆信は、輿に乗り小姓に担がせていたのだが、その小姓たちも全員討たれて、総大将がポツンと一人。
まるで、その部分の空気だけ切り取られたように、一人っきりで戦場に放り出された。
大軍に自信があり油断していた龍造寺隆信は、自軍の混乱が大きすぎて事態が理解できていなかった。
だから島津軍川上隊の川上忠堅が、目の前に現れた時に、最初は自分を助けに来た龍造寺兵だと勘違いした。
だが、それが錯覚だと気づくと自軍の壊滅状態を認識し、己の命運を悟った。
龍造寺隆信は島津兵の川上忠堅に言葉をかけた。
龍造寺「汝、大将の首をとるに、礼を知らずや」
龍造寺の言葉を聞くと、川上は一礼し言葉を返した。
川上「島津軍・川上忠堅と申す。総大将とお見受け致した。御首級を頂戴仕る」
川上の応答に満足した龍造寺隆信は首を差し出した、と言われる。
また別の逸話だと、会話の内容が違う。
龍造寺「汝、大将の首を如何にして切るか知るや?」
川上「如何なるか、これ剣刃の上のこと」
(意訳:オレに一刀両断されたら、貴様はどうする?)
龍造寺「紅炉上一点の雪」
(意訳:真っ赤に起きた炭火の上に、一点の雪が振り落されたようなものだ、雪は一瞬に消え跡形も無くなる)
(さらに意味:振り下ろされる刃の下で生と死もない。生への執着もなく、死への恐れも微塵も無い)
※剣刃~紅炉上~の会話の応答は「禅問答」に出てくるテンプレートだそうです。
川上の応答に満足した龍造寺隆信は首を差し出した、と言われる。
どっちの逸話にしてもコテコテの佐賀弁と鹿児島弁で、こんな会話が成立したか疑問~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
ちなみに逸話の出典は陽肥軍記なので史実としての評価は低いです。
島津側の史料だと
隆信の最期に関する記録は島津方で川上忠堅の被官だった万膳仲兵衛尉の覚え書きというもののようです。
だから島津側の記録が一次史料に近いですね。
実は隆信を実質討ち取ったのは忠堅に近侍したこの万膳仲兵衛尉であるそうでして、万膳によると索敵中だった万膳隊が混乱の中で隆信が6名に担がれた輿に乗っているのを発見。
「伝令!」と呼ばわりながらそれへ近付いて、素早く6名を撫で斬りにすると、
「南無阿弥陀仏」と唱えながら這いずり回る隆信の首を一刀の元に切り落としたという
ことのようです。
一方、龍造寺四天王たちは、味方を逃がすための退路を切り開くために、戦場に留まり戦い続けた。
龍造寺軍の損害は2000だったが、おかげで2万ほどが戦場を離脱し、
後に佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂も、佐賀へ生還することが出来た。
だが、総大将が討ち取られたのだ。
戦死した2000の内訳は、総大将の周囲にいた重臣、旗本衆であり、さらに現役の最前線指揮官たちや龍造寺四天王全員が討ち取られ、「軍」としては壊滅的な打撃を受ける。
龍造寺四天王の一人・江里口は、総大将が討ち取られたのを知ると、単身で島津兵に成りすまして陣中深く潜入した。
通常の戦では自軍と敵軍の判別のために、合言葉や目印などを決めているはずなのだが、なにしろ四天王と呼ばれた男だ。
うまくすり抜けた江里口は、島津軍・総大将の島津家久の前まで辿り着く。
島津本陣の兵たちが「??あいつ誰?」って気づいた時には、江里口は島津家久に斬りかかっていた!
馬上の家久も島津の総大将だ、飾りの人形ではない。
咄嗟に剣で斬り防いだために、江里口の剣先は家久の足を傷つけるだけに留まった。
江里口は異変に駆け付けた島津兵達に、なぶり殺しにされてしまったそうだ・・・(;;)あぅぅ~
後に島津軍は敵陣に潜り込んだ江里口の武勇を褒め称え、家久も「叶うものなら遺族を召し抱えたい」とまで言ったそうだ。
午前8時から始まった戦の全ての決着がついたのは午後2時ころ。
龍造寺圧勝の予想を覆し、島津+有馬軍の大勝利に終わった。
総大将・島津家久は「豊久っ!豊久はおるか?!」と、その嫡男の名前を呼んだ。
家久の嫡男・豊久は弱冠15歳だった。
元服がまだだったので、本来なら本国で留守番だったのだが、周囲と父の反対を押し切り従軍していた。
出陣の朝、父は豊久の兜の忍び緒を切り、自分では兜を脱げないようにすると、
「そなたの兜は、父が脱がせてやる。だから必ず生きて我が元へ戻るのだ」
そう言って戦場に送り出した豊久が、戦は勝利だと言うのに戻ってこない。
家久にとっては、とてつもなく長く感じた待ち時間だったろう。
ほどなく「父上!ただいま戻りました~~~!!(ノ ̄∀ ̄)ノ」と元気一杯で豊久が来た。
豊久の手には敵将の首を携えていた。
父に最初の手柄を見てもらうために、仕度に手間取っていたらしい。(その辺は初陣なんで手馴れていない)
家久は戦の勝利の喜びの他に、嫡男が初陣で手柄を立てるという、二重の喜びを手にしたのだ。
家久は誇らしげな顔の息子の兜を外し労った。
翌月の4月14日、島津豊久15歳は島津家中の祝福の中で「元服の儀」を終えて、晴れて武家社会の大人入りを果たす。
理髪役と加冠役は誰かなぁ~~元服の日は分かったけど、そこまで調べられなかったのよね~*人 ̄▽)♪
管理人の脳内妄想では鎧親は義弘叔父さんです~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
さて、この戦いは北九州の秋月種実にも大きな影響を与えました。
それは またの話