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秋月種実50【決着!(沖田畷の戦い6】

1584年3月24日・・・沖田畷の戦い
場所:九州~島原半島
対戦相手:龍造寺軍推定25000VS島津軍3000+有馬軍5000
総大将:龍造寺竜造寺側~龍造寺隆信・・・島津側~4兄弟末弟・島津家久

「沖田畷の戦い」は、九州の戦国史に大きな足跡を残す戦いなのだが、ちょうど同じ時期に羽柴秀吉と徳川家康が、小牧・長久手で戦いを繰り広げていた。
生き残るために必死で戦う九州の人たちに、天下の趨勢が決定しようとしていることは知る由もない。

島津軍得意の囮作戦~通称「釣り野伏せ」によって、狭い畦道が続く「沖田畷」に誘い出された龍造寺軍。
龍造寺軍は大軍の利点を生かすことができず、はじめに鉄砲隊・弓隊の猛攻撃を受ける。
退路が断たれ、有馬・島津連合軍に狭い地域で囲い込まれた。
逃げ場が無い!・・・それが龍造寺軍にパニックをもたらした。

各隊の連携が分断され各々が戦場を必死で駆け回る状態のなか、島津軍・抜刀隊の斬り込みが開始される。
重臣が討たれ、総大将を護っていた旗本も壊滅、龍造寺四天王も激闘の果てに討ち取られていく。
そしてついに総大将、龍造寺隆信にも島津軍・川上隊の鉄砲隊が撃ちかけた。

肥満のため馬の乗れなかった龍造寺隆信は、輿に乗り小姓に担がせていたのだが、その小姓たちも全員討たれて、総大将がポツンと一人。
まるで、その部分の空気だけ切り取られたように、一人っきりで戦場に放り出された。
大軍に自信があり油断していた龍造寺隆信は、自軍の混乱が大きすぎて事態が理解できていなかった。
だから島津軍川上隊の川上忠堅が、目の前に現れた時に、最初は自分を助けに来た龍造寺兵だと勘違いした。
だが、それが錯覚だと気づくと自軍の壊滅状態を認識し、己の命運を悟った。
龍造寺隆信は島津兵の川上忠堅に言葉をかけた。

龍造寺「汝、大将の首をとるに、礼を知らずや」
龍造寺の言葉を聞くと、川上は一礼し言葉を返した。
川上「島津軍・川上忠堅と申す。総大将とお見受け致した。御首級を頂戴仕る」
川上の応答に満足した龍造寺隆信は首を差し出した、と言われる。

また別の逸話だと、会話の内容が違う。

龍造寺「汝、大将の首を如何にして切るか知るや?」
川上「如何なるか、これ剣刃の上のこと」
(意訳:オレに一刀両断されたら、貴様はどうする?)
龍造寺「紅炉上一点の雪」
(意訳:真っ赤に起きた炭火の上に、一点の雪が振り落されたようなものだ、雪は一瞬に消え跡形も無くなる)
(さらに意味:振り下ろされる刃の下で生と死もない。生への執着もなく、死への恐れも微塵も無い)

※剣刃~紅炉上~の会話の応答は「禅問答」に出てくるテンプレートだそうです。
川上の応答に満足した龍造寺隆信は首を差し出した、と言われる。
どっちの逸話にしてもコテコテの佐賀弁と鹿児島弁で、こんな会話が成立したか疑問~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
ちなみに逸話の出典は陽肥軍記なので史実としての評価は低いです。

島津側の史料だと
隆信の最期に関する記録は島津方で川上忠堅の被官だった万膳仲兵衛尉の覚え書きというもののようです。
だから島津側の記録が一次史料に近いですね。

実は隆信を実質討ち取ったのは忠堅に近侍したこの万膳仲兵衛尉であるそうでして、万膳によると索敵中だった万膳隊が混乱の中で隆信が6名に担がれた輿に乗っているのを発見。
「伝令!」と呼ばわりながらそれへ近付いて、素早く6名を撫で斬りにすると、
「南無阿弥陀仏」と唱えながら這いずり回る隆信の首を一刀の元に切り落としたという
ことのようです。

一方、龍造寺四天王たちは、味方を逃がすための退路を切り開くために、戦場に留まり戦い続けた。
龍造寺軍の損害は2000だったが、おかげで2万ほどが戦場を離脱し、
後に佐賀藩の藩祖となる鍋島直茂も、佐賀へ生還することが出来た。
だが、総大将が討ち取られたのだ。
戦死した2000の内訳は、総大将の周囲にいた重臣、旗本衆であり、さらに現役の最前線指揮官たちや龍造寺四天王全員が討ち取られ、「軍」としては壊滅的な打撃を受ける。

龍造寺四天王の一人・江里口は、総大将が討ち取られたのを知ると、単身で島津兵に成りすまして陣中深く潜入した。
通常の戦では自軍と敵軍の判別のために、合言葉や目印などを決めているはずなのだが、なにしろ四天王と呼ばれた男だ。
うまくすり抜けた江里口は、島津軍・総大将の島津家久の前まで辿り着く。
島津本陣の兵たちが「??あいつ誰?」って気づいた時には、江里口は島津家久に斬りかかっていた!
馬上の家久も島津の総大将だ、飾りの人形ではない。
咄嗟に剣で斬り防いだために、江里口の剣先は家久の足を傷つけるだけに留まった。
江里口は異変に駆け付けた島津兵達に、なぶり殺しにされてしまったそうだ・・・(;;)あぅぅ~
後に島津軍は敵陣に潜り込んだ江里口の武勇を褒め称え、家久も「叶うものなら遺族を召し抱えたい」とまで言ったそうだ。

午前8時から始まった戦の全ての決着がついたのは午後2時ころ。
龍造寺圧勝の予想を覆し、島津+有馬軍の大勝利に終わった。
総大将・島津家久は「豊久っ!豊久はおるか?!」と、その嫡男の名前を呼んだ。
家久の嫡男・豊久は弱冠15歳だった。
元服がまだだったので、本来なら本国で留守番だったのだが、周囲と父の反対を押し切り従軍していた。

出陣の朝、父は豊久の兜の忍び緒を切り、自分では兜を脱げないようにすると、
「そなたの兜は、父が脱がせてやる。だから必ず生きて我が元へ戻るのだ」
そう言って戦場に送り出した豊久が、戦は勝利だと言うのに戻ってこない。
家久にとっては、とてつもなく長く感じた待ち時間だったろう。
ほどなく「父上!ただいま戻りました~~~!!(ノ ̄∀ ̄)ノ」と元気一杯で豊久が来た。
豊久の手には敵将の首を携えていた。
父に最初の手柄を見てもらうために、仕度に手間取っていたらしい。(その辺は初陣なんで手馴れていない)
家久は戦の勝利の喜びの他に、嫡男が初陣で手柄を立てるという、二重の喜びを手にしたのだ。
家久は誇らしげな顔の息子の兜を外し労った。

翌月の4月14日、島津豊久15歳は島津家中の祝福の中で「元服の儀」を終えて、晴れて武家社会の大人入りを果たす。
理髪役と加冠役は誰かなぁ~~元服の日は分かったけど、そこまで調べられなかったのよね~*人 ̄▽)♪
管理人の脳内妄想では鎧親は義弘叔父さんです~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

さて、この戦いは北九州の秋月種実にも大きな影響を与えました。
それは またの話
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【1523/大永3年】南九州限定・戦国年表

菊池武包(旧当主)挙兵、大友氏が阿蘇・甲斐を派遣して討伐
菊池は敗れて肥前高来へ亡命し天文元年(1532年)肥前で没する

阿蘇惟前挙兵、堅志田城GET

肝付兼久死亡、義興が15代目となる

11月18日~伊東尹祐+北郷連合軍、庄内野々美城を攻撃
城主北郷尚久死亡
伊東尹祐、陣中床几の上より頓死(島津側史料に北郷による射殺説あり)

12月10日~伊東祐梁(尹祐の弟)も急死
戦どころではなくなり、引き上げる

※動員能力、伊東16000、北郷10000余、新納8000

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【1523/大永3年】北九州限定・戦国年表

3月~千葉興常、小城郡松尾山光勝寺に杵島郡内の地24町寄進「佐賀市史」

閏3月27日~筑紫満門、神崎郡櫛田社を修造し遷宮を行う

4月~足利義植⑫58歳、将軍職を追われ阿波で没する

・筑紫満門と少弐資元が和睦する「歴代鎮西志」

12月8日~深堀善時、西郷尚善(烏帽子親)より偏諱を受けて元服する「深堀家文書」

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秋月種実49【血戦!(沖田畷の戦い5】

「沖田畷の戦い」に至るまでの状況を、現代風に語ってみよう。(イメージはスターウォーズのオープニングで)ジャーーーン!(効果音)
帝国から独立しようとしたアリマ自治区を、帝王リューゾージ・タカノブが攻撃した。
アリマ自治区解放軍の抵抗は一年に及んだが、数で勝る帝国軍に敗北するのは時間の問題だった。
そこにシーマンズ国が、アリマ自治区を支援するという名目で軍事介入を始める。
さらに帝国に差し出した人質(娘と息子)を、帝王に殺されたアカボシ自治区が、我が子の仇を討ちたいとシーマンズ軍に従軍を申し出る。
アリマ自治区を戦場に、アリマ・シーマンズ連合軍と帝国軍の決戦が始まろうとしていた。
「帝国の逆襲編」はありません ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

さて、戦国モードに変換~~~
1584年3月24日が「沖田畷の戦い」の日だ。
連合軍は島津3000+有馬5000=8000
帝国・・・じゃなかった龍造寺軍は推定25000
総大将の龍造寺隆信は、連合軍の少なさに油断し戦の直前に陣立て(=軍編成)を変更してしまう。
それでも一応3つ(山側・海側・中央)と分けたが、数で圧倒して踏み潰すつもり満々の総大将は、中央に自分の位置を決めた。

最初は中央は龍造寺の覇業を支えた忠臣・鍋島信生(後の直茂)だったのだが、龍造寺は酒色に溺れる主君に諫言する鍋島を疎んじていた。
中央を鍋島でなく「自分が中央に行く」と龍造寺は更に配置を変えてしまう。
中央が鍋島のままであれば、そもそも沖田畷は戦場にならなかったかもしれない。
なぜなら迎え撃つ連合軍は、「戦法・釣り野伏せ(大軍の移動が困難な沖田畷に誘い出す作戦)」を立てていたからだ。

決戦は午前8時ころから始まった。
最初は数で勝る龍造寺軍に連合軍は押され気味だった。
連合軍は島津軍の総大将・島津家久の指示で「沖田畷」方面へ退き始める。
勢いに乗った龍造寺軍は、そのまま沖田畷方面へ突き進んだ。

驚くのは、龍造寺側は斥候(せっこう=偵察)を放って周辺地形を調べることすら怠っていたことだ。
地形さえ調べていれば、沖田畷へ誘い出されていることに気づき、深追いを避けただろう。
畷(なわて)とは湿地や沼地にある畦道で、大人が1~2人が通るほどの道幅しか無いんです。
沖田にあるから沖田畷ね。^^

沖田畷に差し掛かる道の入り口には、連合軍側が設けた柵があったそうだ。
龍造寺軍「??」と不気味に思いつつも前進した。
実は龍造寺軍には「許可無しに後ろへ退いた者は死罪」という厳しい軍規があったんです。
気持ち悪くても、何も起きてないうちから勝手に後ろへ下がったら処刑されてしまう。
龍造寺兵たちは、その先が地獄であっても進むしかなかった。

2万以上の兵士が1~2人しか通れない、歩きづらい畦道を通過するので進軍ペースは亀の歩みだ。
ある程度、沖田畷に龍造寺軍が入ったところで、待ち伏せしていた連合軍の弓隊&鉄砲隊の一斉射撃が始まった。
龍造寺軍は狭い畦道で攻撃を受けて、たちまちパニックになった。

総大将・龍造寺隆信は「沖田畷」に入ったために進軍ペースが急に落ちたのに苛立った。
そこに聞こえてきた鉄砲の音。
自軍の勝利を疑わない龍造寺は、最初「味方同士がケンカした」と、勘違いした。
そこで側にいた小姓に様子を見に行かせた。
そして本当の悲劇は、ここから先に始まる。
主君の命令で前方の様子を見に行った小姓は、戦でテンパってしまっていたらしい。

龍造寺の小姓「何をグズグズしておられる!?」と、大声で訊ねてしまった∑( ̄◆ ̄; バ・・・バカっ
その小姓の不用意な「質問」が、最前線に伝わるころには
「主君は前進しろ!と言われているぞ!」「はぁ?!畷に入った兵士は攻撃されてんだぞ!主君は我らに死ね、と仰せか?!」「もういい!どうせ退いたら死刑なんだ!我らが臆病でないことを見せてくれよう!!」
逆切れした龍造寺兵は、どんどん畷へと突き進んだ。

畦道に足をとられ味方の死体を踏み越えて進み、その間にも連合軍の容赦ない射撃が続く。
龍造寺軍の混乱状態を十分に確かめた後に、島津軍の抜刀隊の斬りこみが始まった。
龍造寺軍は狭い沖田畷で攻撃を受けたので、各隊の連携は断たれ軍隊としての機能を失っている。
ここから先は屠殺と変わらない。

龍造寺隆信が異変に気付いた時には、すでに退路は遮断されて袋のネズミ・・・いや熊だった。
龍造寺家の旗本にあたる石井党全滅。
秋月と同族の江上衆全滅。(大蔵系・江上の血統がぁぁ。゜゜(´□`。)°゜。)
重臣・小河信俊戦死。
5人いるけど龍造寺四天王も全員討死。(百武さまぁぁ。゜゜(´□`。)°゜。)
戦死者2000以上という凄まじい被害が出た。

江上衆は壊滅したが、龍造寺の息子で江上の当主は江上衆の犠牲のお蔭で何とか生き延びる。
鍋島信生(=直茂)は海路で島原を脱出し柳川城まで何とか逃げる。
実は・・・鍋島さまは船酔い体質でして・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ・・・船がお嫌いでしたの・・・
でも非常時だから好き嫌い言ってられないですもんね(*´艸`)

龍造寺四天王が戦死した時期、つまり主君の前か後かは諸説あります。
とにかく彼らの活躍のお蔭で戦死者が2000に留まったんです。

5人いるけど龍造寺四天王~百武・成松・江里口・円城寺・木下は、退路が断たれていることを知ると自分たちの生還は諦め一人でも島津+有馬兵士を倒すことで、味方の戦場脱出のための血路を切り開いた(;;)
そのお蔭で25000のうち2万近くが、戦場を脱出することが出来ました。

そこで死んだ2000の中身が問題になるわけです。
伊東家の木崎原の戦い、大友の耳川の戦い、のように前線指揮官=兜首が討たれて、龍造寺は回復するまで数年以上を要する、つまり「軍」としては壊滅的な打撃を受けます。
総大将・龍造寺隆信には島津軍・川上隊が鉄砲で射撃した。
多淫酒色に溺れ肥満した竜造寺隆信は馬に乗ることが出来なかったので、小姓が担ぐ輿に乗っていました。
混乱した戦場の中で輿を担いでいた小姓は、発砲を受けて逃げ出してしまった。
踏みとどまって守ろうとした小姓がいなかった事に、龍造寺隆信が人心を失っていたことが見てとれる。

目の前に現れた島津軍・川上忠堅を、龍造寺は最初味方だと思った。
(つまり、そこまで自軍が崩壊しているとは思ってなかった。)
だが、それが島津兵だと認識した時に己の命運を悟り、島津兵の川上に声かけたのだが

それは またの話 
次回「結末」~龍造寺隆信の死亡時には様々な逸話があるので次回たっぷり紹介します^-^期待シテネ

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【1522/大永2年】南九州限定・戦国年表

稲留長蔵(上村頼興4男・岡本城主生まれる

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【1522/大永2年】北九州限定・戦国年表

11月~大友親安、豊饒美作守鑑述を筑後守護代とする「歴代鎮西志」

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秋月種実48【出陣!(沖田畷の戦い4】

筑前の国人領主から36万石の戦国大名にまで勢力を拡大した秋月種実(主役・36歳)。
だが、それでも父母と兄の仇、大友家を倒すには至らなかった。
何故なら、筑前にいる大友家臣・道雪(立花氏)&紹運(高橋氏)が、どうしても倒せなかったからです。

秋月が「漁夫の利」を得て更に飛躍するためには、薩摩の島津と肥前の龍造寺が拮抗し消耗しあう状態が望ましかった。
1581年・秋月の仲介で肥後の菊池川を境に、龍造寺と島津の国境線が定められた。
1583年10月中旬・再び秋月の仲介で龍造寺と島津が和睦した。
だがこの時すでに龍造寺から離反し島津に寝返った有馬氏が、龍造寺と交戦状態に入っており導火線に火がついていた。

1584年3月・秋月が望まぬ龍造寺VS島津の火ぶたが切って落とされた。
有馬氏から救援依頼が来たとき、島津家でも賛否両論が出た。
だが当主・義久の「わが家を慕って来たものを見捨てるわけにはいかぬ。」この一言で援軍が決定。

3月13日・総大将、島津家久が兵3000を率いて海路より島原・安徳城に入る
同日、森岳城(後の島原城)にいる有馬軍5000と合流した
後世、竜造寺VS島津~と持て囃される「沖田畷の戦い」だが、島津は援軍なんで兵力は有馬軍の方が多かったんです。^^b

島津軍・総大将は当主・義久の末弟、島津家久。
脇将は島津忠長(義久・家久の従兄弟)・新納忠元(にいろ ただもと・人呼んで親指武蔵)・伊集院忠棟・川上忠堅。
「島津」軍だが、援軍で大事な島津本軍を投入できない、1578年「耳川の戦い」以降に島津に帰属した日向兵が召集された。
戦場は土地勘のない島原半島で、率いる兵は多国籍連合軍、しかも敵軍は味方の倍。
「沖田畷の戦い」は当初から難戦が予想されていた。

当主・義久が「戦になるとテンション上がり大将なのに本陣を離れて敵に突撃するクセ」がある弟・義弘を、
今回の人選で大将に選ばなかったのは、当然です。( ̄ー ̄A 汗フキフキ~アブナッカシイ~~~

島津家久は、有馬氏との作戦会議で周辺の地形を頭に叩き込むと、森岳城の側にある「沖田畷」で、島津得意の戦法「釣り野伏せ」を仕掛けることに決定した。
戦法「釣り野伏せ」とは、囮軍が退却すると見せかけて敵軍を所定の位置に誘き出し、待ち伏せしていた伏兵が、敵軍を包囲し退路を断って殲滅するという作戦です。

畷は「なわて」と読み、沖田にあるから「沖田畷」です。^-^
日本には畷と呼ばれる土地はいくつもあって、「○○畷の戦い」って呼ばれる戦は他にもあります。
で、畷とは沼地・湿地帯にある小径(こみち)のことですが、道と言っても戦国時代です。
大人が一人二人通るのがやっとの畦道(あぜみち)で、とても大軍の移動など出来ません。

3月18日・島津軍の動きを知った龍造寺軍が佐賀城を出発。
海路で島原半島北部に上陸、現在の雲仙市から島原市へと進軍した龍造寺軍ですが、動員兵力は18000~60000と、記録によってメチャクチャ開きがあります。
ただ、後年の江上・八院合戦で動員された佐賀兵が32000なので、2万~3万といった線が妥当でしょう。
色んなサイトを見たら25000説が多かったので、管理人記事もそれに倣います。^-^

「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信は、最初は兵力を割いて浜側から攻撃をするつもりでした。
もし最初の作戦通りであれば、島津・有馬連合軍は負けていたかもしれません。

ところが龍造寺は物見(ものみ=偵察兵)の報告で、島津・有馬連合軍の兵数の少なさを嘲笑い、決戦当日の早朝に作戦中止、力攻めで押しつぶそうと陣立てを変更してしまったんです。
当日に陣立て(=部隊編成)を変えるなど、敵を侮るにもほどがあります。
だが暴君の龍造寺隆信に、その危険性を説くことの出来る家臣はおらず、説いても龍造寺は取り合わなかったことでしょう。

「数の驕りで油断した大軍」・・・それこそ「釣り野伏せ」の絶好の餌食だったのだが、
それは またの話 
次回「血戦!」~いよいよ両軍激突です~(*´艸`)

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【1521/永正18年/大永元年】南九州限定・戦国年表

8月23日~大永に改元

・犬童頼安生まれる

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【1521/永正18年/大永元年】北九州限定・戦国年表

1月11日~龍造寺胤久、千葉胤勝の推挙で「民部大輔」となる「龍造寺家文書」

8月23日~大永に改元

・横岳資誠生まれる(千葉胤勝実兄、妻・少弐冬尚娘)(異説あり)

・有馬義貞生まれる

・筑紫満門、宝満の上宮を建立する(永正15炎上の為)「北肥戦誌」

11月1日~大友親敦(義鑑)田尻治種に「遠江守」を許し本領を安堵する「田尻家文書」

12月25日~足利義晴将軍就任




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秋月種実47【父と子(沖田畷の戦い3】

残忍・冷酷で「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信にも、人並みに子供はいる。

養女・秀の前~夫を義父の龍造寺隆信の殺され、放心状態のとこで再婚させられ、まさに政略の駒扱い。
実娘・玉鶴姫~夫と、その一族を実父の龍造寺隆信に殺され、父を恨みつつ夫の後を追い無念の自害。
特に玉鶴姫の夫・・・蒲池一族の抹殺は、家臣や配下の国人たちの人心を失い、有馬氏が島津家へ離反するキッカケとなった。

男子は3人で、弟二人は他家へ養子に出した。
目的は養子先の家督を乗っ取るためと、将来の家督争いを避けるためで、どこの大名でも行っている。
ところが肝心の嫡男が病弱、さらに精神的にも脆弱で、当主の任に耐えられる器量では無かった。
誰が見てもダメっ子の嫡男だが、龍造寺隆信は廃嫡していない。
冷酷な男でも嫡男は可愛かったのか、単純に家督争いを恐れたのかは分からない。

裏切った有馬氏を討つための龍造寺軍・総大将は、本当は嫡男の予定だった。
龍造寺隆信は既に家督を嫡男に譲っており、頼りない息子に実績を作らせたかったのだろう。
実は嫡男の正室は有馬氏の妹だった。
妻の実家を討つ・・・父の事だから当然皆殺しを要求する。
これから降りかかるであろう妻の不幸と総大将のプレッシャーで、嫡男は普段以上に挙動不審~~~(@@)キャン
怒った龍造寺隆信が「もういい!ワシが行く」と切れた。
家臣が「御自身が行くなど軽挙すぎます」と必死で止めたが龍造寺隆信は増々意地になり、そうなると誰も主君を止められない。
1584年3月~兵を率いて佐賀城を出発した。

一方、有馬氏は龍造寺の動きを知って、島津家に助けを求めた。
島津軍の総大将に4兄弟・末弟の家久が選ばれたまでは、前回語った。
兵力で龍造寺に劣る有馬・島津連合軍は、弓隊、鉄砲隊などの飛び道具を集めることに重点を置いたと言われている。

戦の準備で余念が無い中、家久には個人的な心配があった。
嫡男の豊久が、父の了解を得ずに勝手に従軍してきたのだ。
後に「関ヶ原の戦い」における壮絶な退却戦で歴史に名前を残した島津豊久。
この時は、まだ15歳の少年で元服もまだの未成年だった。
15で元服してないって少し遅いんだけど、父・家久や叔父様たちが戦続きで、諸儀式を整えられず伸び伸びになったんだと思う。(名門だから儀式はキチンとやるんです)

家久「なに勝手に来たんだ~まだ未成年のクセに~帰れ!」と、帰れ!帰らない!の押し問答~親子喧嘩(*´艸`)
豊久「父の危難と聞いて、馳せ参じました!このままおめおめと帰れません!!!」
結局、ダディ家久は息子に押し切られ、しぶしぶ従軍を許すことになった。

そうなんです!
島津豊久は「沖田畷の戦い」が初陣で、元服より先に戦場デヴューしたんです~\(////▽////)ノキュン
ちなみに元服前より初陣が先だった有名武将~他には前田犬千代(利家)クンがいます。(*´艸`)

龍造寺側にも沖田畷が初陣の(地方クラスの)有名武将がいたんだが、いまド忘れして思い出せん~><;アウチ☆
島津家久にしてみれば、沖田畷の戦いを息子の初陣にしたくなかったのだろう。
龍造寺軍は有馬・島津連合軍の数倍で、初陣の少年には過酷すぎる戦いだ。
総大将の自分すら生きて帰れるか分からない大戦に、初陣&たった一人の男子を連れて行くのは心配だった。
だが豊久と同年代の少年は次々初陣を飾っているのだ。
いつまでも子供のままではいられない。

3月18日・・・運命の決戦の日の朝・・・「誰か、豊久を呼んでまいれ」
と、総大将の島津家久が、嫡男の豊久を本陣に呼び寄せた。

豊久「父上、なんでしょうか?」
家久の目の前には初陣の興奮と緊張で頬を紅潮させた、凛々しい武者姿の我が子がいた。
家久「うむ。兜の結び方が島津の結びと違うな。これへ・・・ワシが結び直してやろう。」
そういって豊久の兜の緒を結び直すと、さらに小刀を取り出し、豊久の兜の緒の端を切ってしまった。
豊久「??ち・・父上?」
家久「これで自分で兜を脱ぐことはできないだろう。そなたが万が一にも討死した時に、龍造寺軍の者が見れば「島津の若者は、兜を脱がぬ・・・死を覚悟して戦に及んだ。天晴だ」と、そなたの心意気を褒めるであろう。
生きて戻ることがあれば、ワシの元へ真っ直ぐ来るのだ、この兜はワシが脱がしてやる。よいな!必ず生きて戻るのだぞ!!」
豊久「はい!必ず父上の元へ戻ります!」
一礼すると弾むような足取りで、少年は持ち場へと駆け出した。

戦場の厳しさを未だ知らず、少年が「死」を恐れるには溢れるばかりの「若さ」があった。
総大将・島津家久は天を仰いで、息子の武運を祈っただろう。。。。

実は豊久には弟7歳がいて、この子も沖田畷が初陣。
無論、戦場には出ないだろうけど。
だから勝手に豊久が付いて来たという逸話は後世の脚色でしょう。

次回「沖田畷の戦い・激突」それは またの話 

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【1520/永正17年】南九州限定・戦国年表

3月~菊池義国(義武=大友重治)菊池家当主となる(五条文書)

・島津忠将(相州④=忠良次男)生まれる

・阿蘇惟将⑳(惟豊の子)生まれる

7月1日~伊東尹裕、荒武藤兵衛尉に対し北郷氏の三俣勝岡城攻めを命じる








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【1520/永正17年】北九州限定・戦国年表

・大内輝弘(政弘⑭次男の子)生まれる

・臼杵鑑連(豊後三老・筑前方分)生まれる

・蒲池鑑盛(宗雪)生まれる

3月~菊池義国(義武)当主となる(五条文書)

8月~龍造寺胤和(家和次男・慶誾尼祖父)死亡「佐賀市史」
※弟・胤久が継ぐ「佐賀市史」


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秋月種実46【釣り野伏せ!(沖田畷の戦い2】

沖田畷の戦いで、島津軍の総大将を選ぶ時に候補は二人いた。
4兄弟の次男・義弘と末っ子の家久です。

長男で当主の義久は、どっちにしようか迷い、家臣の新納忠元(にいろ ただもと)に尋ねた。
新納「そりゃ、家久様でしょ~」と即答。
義久「why?」
新納「義弘さまは、すぐ一か八かで突撃かますからダメです。家久様なら例え負け戦でも必ず生きて帰る作戦を立てます。だから今回は家久様です。」

二人の会話は名門・島津家の教養人らしく、難しい漢詩とか織り交ぜた禅問答みたいで、覚えきれなかったので(爆)、超意訳・要約しました。
次男・義弘は、家久が選ばれたのと上記二人の会話を知り、しばらく不貞腐れてたのだが、戦の経過・結果を聞いて納得したそうです。(*´艸`)
病弱だが人格で国を統治していた。と、言われる長男の義久。
彼は、猛将タイプの義弘と天才肌の家久を、時と場合によって大将として選び分けていた。
だから義弘と家久は、自然と功を競う良きライバル関係だったんです。

さて島津軍といえば「釣り野伏せ」という作戦が有名だ。
囮軍が退却すると見せかけて敵を所定の位置に誘きだし、待ち伏せしていた島津兵が退路を断って包囲し殲滅する。
作戦そのものに目新しさは無く、古今東西で用いられている。
野戦指揮官として天才と謳われた島津家久は、この「釣り野伏せ」の成功率が100%だったと言われている。

戦場勘豊かな島津家久は、囮軍の退却するタイミングが絶妙だったのだろう。
ところがこのコード名「釣り野伏せ」だが、いわゆる一次資料に名称が出てこない。
後世の軍記物に出て持て囃されるようになったコード名です。
だから、たまたま「釣り野伏せ」の形になって敵を倒した時と、意識して囮作戦を使った時がゴチャゴチャで区別つかない。^^;;
そういうわけで、「家久の成功率100%」には偶然の産物が混じったり、後世の脚色はあると思う。

総大将・島津家久は「沖田畷の戦い」では、島津+有馬連合軍の数倍を有する龍造寺軍を相手にするので、最初から「釣り野伏せ(囮作戦)」を意識した軍令を出している。

一・一番槍、一番首の功を用いず、ひたすらに敵将目がけて突き進むべし。
二・わが隊将の首、敵に委ねるべからず、その仇を報ぜぬ時は一隊ことごとく討死せよ。
三・最初の持ち場から前進していれば良し、左右に避けたり後退しても目前の敵を撃破すれば良し、それ以外の場合は隊将も士卒も全て死罪。

一に関しては、味方の方が少数の時に、いちいち敵の首をとってたら囲まれてしまいます。
二に関しては、島津の名誉を重んじると同時に、士卒に決戦の覚悟を促しているのでしょう。
三が「釣り野伏せ」を意識したものと、管理人は解釈してます。

というのも囮軍が誘き寄せるのを、待ち伏せ包囲殲滅するので、各隊の位置が重要だったらしいんです。
島津軍の囮作戦(釣り野伏せ)の成功率が高いのにも理由があって、島津では囮となる隊には「囮だよ~」って教えないんです。
囮軍は味方が待ち伏せしているのは知らされないまま、本気で逃げるので敵は釣り込まれて深追いしてしまうんです。
しかもギリギリまで引きつけてから、退却命令を出すので囮部隊が殲滅したことさえあります。
(どの戦か失念^^;)

だから、よくある囮作戦なのですが、島津の囮軍は生還率がメチャクチャ低い~><;アウチ☆
「肉を切らせて骨を断つ」が徹底してて、いかにも島津らしいです。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
実は・・・大きな声では言えないのですが・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
この囮軍は次男・三男で編成されるんです・・・・・・・・・・・・・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
何度も言うようにギリギリまで敵を引き付けるから、生還率がメチャ低い島津囮軍。
それに各家の大事な当主や嫡男を使えません。。。次男以下で編成されます。。。
だから囮軍に編成された兵たちは、作戦の内容を知らなくてもメンバー構成見れば薄々察していたと思います。
何というか。。島津軍には現代のブラック企業を彷彿とさせる厳しさを感じます。^^;

さて、決戦に向けて士気を上げる島津軍だが、総大将の島津家久には個人的な悩みがあった。
実は嫡男・豊久のことなのだが それは またの話 
次回 沖田畷の戦い3「父と子」です~~

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【1519/永正16年】南九州限定・戦国年表

4月14日~島津忠隆⑬23歳で死亡
※三男・忠兼(勝久)が後継となる

・肝付兼演、勝久の命令で伊集院尾張(曽於郡代)を討つ

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【1519/永正16年】北九州限定・戦国年表

・吉弘鑑理生まれる
(立花宗茂祖父・豊後三老の一人・妻は大友義鑑の娘)

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秋月種実45【発端!(沖田畷の戦い1】

最盛期の所領・36万石となった主役・秋月種実だが、筑前の全てが彼の物だったわけでは無い。
大友家臣として崩れない戸次道雪(べっき どうせつ)と高橋紹運(たかはし じょううん)が博多の側に構え、
さらに大友配下の国人領主として宗像氏貞(むなかた うじさだ)がいたからだ。
秋月が筑前の全てを手に入れるためには、道雪+紹運と同様に宗像も邪魔な存在だった。

もっとも宗像も好きで大友配下になったわけではない。
もともとは陶氏のバックアップで宗像当主になり、陶が滅んでからは毛利配下だったのだ。
毛利軍が北九州から撤退したために、大友に降伏する羽目になったんです。

1578年に島津軍に敗れて以降は衰退した大友家。
沈みゆくタイタニック・大友から他の乗客(国人領主)たちは、次々と秋月や龍造寺に乗り換えているというのに、宗像はパーサー・道雪が隣でニラんでいるので、逃げるに逃げられない涙目の状態。
秋月は最初は宗像を取り込もうと、手紙を送ったりしていたのだが、宗像は最愛の妹・色姫を人質として道雪に差し出していた(降伏時の条件)ので態度をハッキリさせなかった。

「打倒・大友」のためなら他者を顧みないダークな主役・秋月種実。
1581年に宗像の家臣(西郷党)と道雪がトラブルとなり戦(小金原の戦い)になると、秋月は、それを利用し宗像と道雪の同盟関係を破綻させることに成功する。
(秋月が煽ったので)宗像への道雪の怒りは凄まじく、宗像の謝罪には聞く耳を持たないし、家老たちが宗像に同情し止めるのも聞かず、1583年には宗像の支城・許斐岳(このみだけ)城を攻め奪ってしまう。
宗像の妹・色姫は両者の関係悪化に心を痛め、「このまま自分が道雪のもとに人質としていれば、兄の足手まといになる」
1584年・3月24日に覚悟の自殺をしてしまった。。゜゜(´□`。)°゜。

もはや道雪との関係改善は不可能で、大友配下には戻れなくなった宗像氏貞。
だからといって、この流れで秋月に頭を下げれば、いずれは秋月家臣団として組み入れられてしまうだろう。
自分を散々振り回し、色姫自害の遠因である秋月の家臣になるのだけは承知できない!
宗像氏貞が独立した国人領主であるためには、秋月と同等か以上の強力な後ろ盾が必要だった。
そして宗像が選んだのが「沖田畷の戦い」で肥前・龍造寺を破った薩摩の島津家だった。

「沖田畷の戦い」は有名だが、そこが島原半島にあるのを知ってる人は少ない。
なぜ島原半島が戦場になったかというと、関連武将として肥前・有馬氏が出てくる。
でもって有馬氏の本拠地が島原半島だって知ってる人も、やっぱり少ない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
「島原の乱」で有名な原城も、もともとは有馬氏の支城です。(* ̄・ ̄*)b

有馬氏のルーツは平安時代の中期~末期くらいに出てくる。
鎌倉時代に有馬荘の地頭になったくらいで、鎌倉~南北朝時代に目立った動きは無い。
飛躍するのは室町時代、他郷を切り従え島原・5郡を領するようになる。

話は飛ぶが関ヶ原では、最初は西軍だったが途中から東軍に乗り換え、小西行長の宇土城攻撃に参加して生き残る。
でも江戸初期に失った旧領地を取り戻そうと、今でいう贈収賄事件を起こして取り潰しの上、切腹!><;アウチ☆
(他にも長男が、やらかしてるが省略)
有馬氏の歴史の面白さは、実はここからです^^
キリシタン大名だった有馬氏は、次男が同じくキリシタンの小西行長の娘と結婚していた。
だが徳川への忠誠のため次男を離婚させて、徳川家康の曾孫・国姫様(バツイチ)と再婚させていた。
この国姫様・・・血筋が凄い!

父方の祖父⇒本多忠勝~徳川四天王!Σ( ̄O ̄ノ)ノおお~
母方の祖父⇒松平信康~家康の長男!Σ( ̄O ̄ノ)ノおお~
母方の祖母⇒織田信長の娘!Σ( ̄O ̄ノ)ノおお~~

この類まれな血統ゆえか、国姫は男顔負けの武勇で、別名・百合姫と呼ばれるほどの美貌の持ち主で、なぜかイタリア男のように立派な胸毛があったそうだ。(ホルモン異常かな?)
と、有馬家の記録にある。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

初夜の時にビックリしたと思うが、夫婦関係は良好で仲睦まじかったです。
胸毛はともかく有馬家がラッキーだったのは、贈収賄事件を起こしたのが家康存命中だったことだ。
家康は数ある曾孫の中で国姫が一番のお気に入りだった。(国姫・生母の熊姫様も一番お気に入りの孫)
家康は可愛い曾孫のために、夫の有馬氏・次男を事件の翌年に日向・高鍋藩で復活させるんです。
その後は越前(福井県)丸岡藩5万石に転封なのだが、家康の曾孫が嫁いでいた、ってことで、幕府に運動して外様から譜代へクラスチェンジ(願い譜代)に成功する。
こういう落ちぶれてから盛り返して、家名存続に成功する武家は管理人のツボです∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!


話は戦国に戻る。
室町時代は幕府相伴衆にまでなった有馬氏だが、大友と竜造寺に領地をガンガン奪われて、沖田畷のころには、島原5郡から高来郡一つだけ、、と、国人領主レベルにまで失墜する。
止む無く龍造寺配下になったものの、心中は穏やかではなかった。
龍造寺氏は残虐・冷酷で、さらに酒色に溺れて諫言する家臣は遠ざけと、絵に描いたような暴君だった。
まずいことに龍造寺の嫡男は、病弱で当主としての資質にも問題があり、次世代にも希望が持てない。
有馬氏は「龍造寺はヤバイ」と、島津氏に寝返った。

裏切りを知った龍造寺は怒り心頭!
有馬討伐のため兵を出すことを決め、それを知った有馬氏は島津氏に援軍を求めた。
戦国の島原半島が風雲急を告げる・・・それは またの話 

次回「沖田畷の戦い・激突」~モチ逸話ベース~(*´艸`)あぁ戦国ロマン~~それはまたの話

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【1518/永正15年】南九州限定・戦国年表

5月11日~相良長毎⑭50歳で没

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【1518/永正15年】北九州限定・戦国年表

3/6~田尻治種、大友親安(義鑑)より上妻郡薬丸12町を預け置く「田尻家文書」

・朽網親満、大友義長の討伐軍に敗れる(死亡か?)

8月~大内義興、東より周防に帰国「北肥戦誌」「歴代鎮西志」

8月~大内義長死亡
※大友義鑑定は若年の為、大永4(1524)まで祖父の補佐を受ける
大友覚書条々
二、筑後星野氏に対する誓戒
三、肥後対策、特に阿蘇惟長への対策
(もし惟長が肥後を就望すれば筑後も意のままにならなくなる)

10月~龍造寺胤家、日政上人を開山として本行寺を開基する「佐賀市史」

・千葉胤勝、佐治・鶴田を攻める「佐賀市史」
※龍造寺胤家、盛家が出陣、筑前攻めでは先鋒となる「歴代鎮西志」
※両名の専攻とある「歴代鎮西要略」
※永正11~15、西千葉の勝利は胤家と盛家の武功による「佐賀市史」

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秋月種実44【天下鳴動・本能寺の変!】

大友家の家臣で謀反を起こした高橋鑑種(たかはし あきたね)は企み敗れて毛利家の保護下で豊前・小倉城で病死した。(1579年)
その高橋は大友へのリベンジに備え、秋月種実の次男・元種を養子に迎えた。
嫡流本家の原田氏を通じて、龍造寺家と友好関係だった秋月種実だが、次男・元種を通じて毛利家とのパイプも維持していた。

1581年、その秋月の次男・元種の支城の一つ、松山城が長野氏の攻撃を受けた。
長野氏は秋月の実弟が養子に行って、同盟関係だったのだが攻撃したのは同姓の別系統の長野氏です。
で、別系統の長野氏は毛利輝元の配下だったので、その争いは毛利輝元に報告された。
高橋元種(秋月次男)も長野氏も毛利と友好関係なので毛利から見れば、いわば同士討ちです。
驚いた毛利輝元は、吉川叔父様推薦の後見人・吉見に手紙を書き送った。

毛利輝元「別家・長野が秋月次男・元種を攻撃ってどういうことなんだぉ?元種は個人的に恨みを買ってたの?。輝は困るぉ」
(管理人の脳内イメージで毛利輝元は、お坊ちゃまキャラ^^b)
そんなこと聞かれても、吉見にだってワカリマセン∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
数えで12歳(異説あり)の元種が、恨みを買うとは思えないので、家臣がトラぶったか養父が生前何かやらかしてたんでしょうな ○ Oo━y( ̄Σ ̄*)ブハーッ

1578年に日向侵攻⇒島津軍に高城・耳川で大敗北して以来、大友家の衰退は留まるところを知らなかった。
最盛期「豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後」と6国治めていた大友家だったが、
3年後の1581年には本拠地・豊後を守るだけで精一杯になった。

豊前・筑前・筑後一部は秋月種実が奪い、36万石を領して秋月家の最盛期を迎える。
肥前・筑後は龍造寺隆信が奪い、5州太守(+2島)と本人が自慢する龍造寺家の最盛期を迎える。
肥後にいたっては、菊池川を挟んで北が龍造寺・南が島津と分け取られる始末で。
しかも肥後で島津と龍造寺の間を取り持ったのが秋月種実~という大友にとって踏んだり蹴ったりの状態だった。

豊後(大分県)に領地を持つ大友家臣は、まだいい。
だが他国に領地を持つ大友家臣は、横の連携が断たれて敵地に孤立した状態になった。
そのため孤軍になるのを恐れた家臣が、次々裏切りを始める。
各家の当主が踏ん張っていても、一族から裏切りが出るなどして、家臣団の結束はガタガタだった。

筑前・立花城の城督だった戸次道雪。
大友家における筑前・方面軍司令官だったのだが、もはやそれは名ばかりとなった。
だって筑前は主役の秋月種実が支配しちゃったんですもの ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ ~~~

筑前の道雪は、いわば大友家の飛び地のような形で孤立していた。
そんな四面楚歌の道雪が潰れずにすんだのは、基本スペック&武勇は道雪と同レベル、志操堅固・忠義一筋・一意専心・以下略~若さでは道雪に勝る高橋紹運という頼もしい味方がいたお蔭。(* ̄・ ̄*)Vブイ
博多のそばにある立花城と、そこから南に位置する紹運の岩屋城・宝満山城が、ガッチリ軍事連携を組んで崩れなかった。
ちなみに高橋紹運と秋月種実は同い年~~(* ̄∇ ̄*)

秋月にすれば、領内に残る大友家臣・道雪と紹運が目障り!邪魔!
秋月「あいつらさえ倒せば、筑前は全て(ちと誇張)ワシの支配下なのに~~ブ~~」
それに秋月にとって道雪は、大友軍の攻撃で自害した亡き父母・兄の直接の仇でもある。
秋月は紹運の城の西南に領地を持つ筑紫広門と同盟を組み、道雪と紹運を倒すことに執着した。


さて明けて1582年、織田軍による武田家攻撃が始まった。
織田信長の長男・信忠を総大将に甲斐・信濃へ侵攻!
3月11日に武田勝頼が自害し、武田家は滅亡する。
ちなみに武田勝頼は、黒田如水と同い年~(* ̄∇ ̄*)
生きていれば関ヶ原の時に、リベンジできたかもだなぁ・・・( ̄  ̄)トオイメ。。 

とにかく1週間後の3月17日には信長が武田勝頼の首実検を行っています。
織田軍の甲斐・信濃侵攻は、それはそれは惨たらしいものでした。(;;)
地ならしとばかりに、村単位で女子供も容赦なく数千・数百の単位で殺戮の限りを尽くしたんです。
織田信長・人生の絶頂期~~~そして絶頂と失墜はカードの裏表。

1582年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれる!
1582年6月13日、山崎の戦いで、今度は明智光秀が羽柴秀吉に討たれる。

この驚天動地の情報を宗麟が、いつ知ったかは分からないが、6月中にはキャッチしてるんじゃないかなぁ。
豊薩同盟・・・それは亡き織田信長に宗麟が頼んで介入してもらい、渋る島津と大友が結んだ同盟だった。
もちろん島津は、ぜん~ぜん守ってません。∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
だが、それでも同盟は同盟だ。
織田信長が生きていれば、島津を倒すための大義名分になるはずで、近い将来には援軍も期待できた。
それが「本能寺の変」で台無し~~~~~_| ̄|○ il||li がくぅ
宗麟得意の外交術を使おうにも、中央の誰に接触したら良いか分からない~~><;アウチ☆
秀吉に頼めばいいじゃん。
と、思うのは史実を知ってるから言えることで、この時期では、誰が天下の覇権を握るか予測は困難だった。
とにかく、[壁]・ ̄*)じぃっ。。。って観察して、タイミングを待つしかありません。
宗麟の面白いとこは、外交となると柔軟性があるとこなんだよなぁ。

同年10月3日~天下の動きに関係なく、秋月種実が行動を起こした。
打倒大友!
・・・・・・の手始めに道雪!!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・を倒す前に邪魔な紹運を攻撃だぁ~~!
秋月軍が紹運の支城である宝満山城の砦を占拠!!\(≧▽≦)ノワーイ
すぐ、紹運に奪還されました・・・・・・・・・・・・・・・・・・・_| ̄|○ il||li がくぅ
大友を倒したいのに道雪が・・・道雪倒したいのに紹運が邪魔するぅ・・・・(pq)クスン
同い年だけに余計、紹運にムカつく秋月だった!!o( ̄ー ̄θ★ケリッ

同年11月18日~宗麟は戸次道雪に「立花姓」を名乗ることを許した。
道雪の婿養子・立花宗茂が「立花姓」になるのは、この時からになります。(それまでは戸次姓)
立花鑑載(あきとし)が謀反を起こし討たれて、それで道雪が家督を継いだんだけど、
数年間、宗麟は立花の名前も聞きたくなかったようで、道雪は家督は継いだが苗字は戸次のままだった。
もっとも道雪は、実家の戸次の家督が気がかりで、その後も立花を名乗らなかったけどね。
それにしても、亡き立花鑑載(あきとし)の謀反の理由も不明なのだが、
恨みを忘れなかった宗麟も、しつこい~~~。
外交では晩年まで冴えが衰えない宗麟だが、このへんのギャップは謎。^^
天下は慌ただしく、そして九州の戦国も動きが加速する。
次回「沖田畷の戦い」それは またの話

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【1517/永正14年】南九州限定・戦国年表

・上村頼孝⑰(相良晴広弟・頼興次男)生まれる

・阿蘇惟豊、甲斐の支援で当主復活
※惟長、惟前親子は相良を頼り八代へ亡命

・島津忠孝、松尾吉田地を落とす
(吉田位清は落ち延びる途中で死亡)

7月~相良長毎、大友義長のすすめで名和氏と和睦
(相良長毎は入道し加清となる)

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【1517/永正14年】北九州限定・戦国年表

春~千葉胤勝、松浦表に出陣する「歴代鎮西志」

・少弐資元、太宰少弐に任命される

11月~朽網親満に同意した蒲池、黒木、川崎ら筑後国衆が蜂起

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秋月種実43【宗像氏の受難】

1581年・11月、英彦山焼き討ちの前後に、名将・立花宗茂は初陣(戦場デヴュー)を果たした。
敵はモチ秋月軍です^^

「穂波の戦い」と呼ばれる戦で、宗茂は初陣とは思えぬ活躍をする。
秋月軍は、道雪・紹運の連合軍にリベンジの追撃を行った。
それが11月6日の「石坂の戦い」で、それにちなんだ「坂の下」という地名が現在も残るほど激しい戦いでした。
道雪の伏兵に秋月側が敗走、双方で1000人の戦死者が出て、慰霊の千人塚があります。
宗茂は150騎の軽兵で秋月軍を攪乱し戦を勝利に導いています。
立花宗茂の若年時代の敵は秋月軍で、戦いの中で名将としての資質が磨かれます。
秋月種実は、まるで毎回ヒーローに倒される悪の組織みたいですわぁ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

宗茂初陣の戦は、大友家臣・問註所氏の救援要請に応じたものでした。
問註所氏は一族が、秋月に内通してしまったんです。
その中で一人、問註所統景だけが大友への忠義を貫き、城を守り通した。
大友氏は彼の忠義に対し、大友の家紋の使用を許し、同紋衆の一人に加えました。
名誉なことです、、、ですが本来でれば恩賞は無形ではなく、領地という有形でなければなりません。
だが衰退しゆく大友氏には、忠義の者に報いてやるための「新たな領地」は既に無かった・・・。


穂波や石坂での敗北にメゲない秋月種実34歳。
同月のうちに今度は大友氏の鷹取城を攻撃しようと包囲した。
鷹取城は豊前と筑前の国境沿いにある城で、後に黒田長政が筑前六端城に再利用したことで知られています。

1581年は凶作の年で、近在の村では餓死者が出るほど酷い状態でした。
そのため鷹取城主は、籠城のための食料支援を、筑前方面の責任者・戸次道雪に求めました。
道雪は当然、承諾。
速攻で準備に入ったのだが、一つ懸念材料があった。
食料輸送のために宗像氏貞(むなかた うじさだ)の領地・若宮を通過しなければならなかったからです。


宗像氏貞は毛利配下でしたが、毛利氏が大友の外交戦略に敗れ北九州から軍を引き上げてしまったので、やむなく大友氏に降伏しました。
筑前担当の戸次道雪が出した「降伏の条件」は苛烈でした。

1・まだ正室がいなかった宗像が、大友家臣の娘を妻に迎えること
2・宗像の妹・色姫を道雪の側室(=人質)に差し出すこと
3・宗像の勢力を削ぐために、忠臣・河津隆家の首を差し出すこと
4・河津隆家の本拠地・西郷の領地を色姫の化粧料の名目で戸次氏に明け渡すこと

大友・・ひいては戸次道雪の圧迫に屈し、全ての条件を呑んだことから、宗像氏の没落が始まった。
外交で、一度妥協するとズルズルなし崩しになる見本のような没落ぶりです^^;;
降伏の条件4にある西郷というのは、宗像領地で東郷の西にあるから、西郷というネーミング。
西郷には国人たちが協力して治めており、西郷党と呼ばれた彼らのリーダーが河津でした。
それが道雪の要求でリーダーを殺され、父祖伝来の土地を奪われたんです。
主君・宗像氏貞が不甲斐無いのは言うまでも無いが、それ以上に道雪が憎い!!

道雪を恨む西郷党の代替地として与えられた領地が若宮で、そこを道雪の荷駄が、食糧支援のために通過する。(急ぐから迂回出来ない)
道雪は宗像氏貞に「領内・若宮を通過」することへの許可と安全を求めた。
宗像氏貞は密かに秋月とも文を交わしていたのだが、妹が人質だったので大友に反旗を翻すつもりは毛頭無く、道雪に【OK】の返事を出した。
だが、道雪への恨みを晴らすチャンスを、西郷党が見逃すはずがない。
食料強奪の計画を立て、荷駄を急襲し争いとなった。
報告を聞いた宗像は驚き、西郷党を説得したのだが、西郷党は拒否 o( ̄ー ̄θ★ケリッ

11月13日、小金原(福岡県宮若市)で道雪軍と西郷党が戦となった。
この揉め事を鷹取城を囲んでいた秋月がキャッチ![壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝ

秋月「粗略にしないって手紙で約束したから、援軍おくるね。なに遠慮はいらないよ~HAHAHAHA(O ̄∀ ̄)ノ
宗像「はぅっ秋月!( Д )  ゚  ゚いらいない!ヤメテ!拗れるから来ないで~~
宗像の願い虚しく、秋月の旗印を見た道雪側は「西郷党は秋月と通じてたな!」と判断した。

小金原での戦闘は朝から夕方までのロングランで、道雪軍の猛者である小野・薦野・雪下らも、さすがにバテバテになりつつも互いに励まし合って戦った。
ベテラン戦功者揃いの道雪軍は、常に太陽に背を向けて戦ったそうだ。
そのため猛者の西郷党も逆光で実力が発揮できず、やがて先にスタミナが切れて敗北した。
(勝手に)援軍に来た秋月軍は、西郷党の敗色が濃厚になると、さっさと引き上げましたとさ。

雷神・道雪の怒りは凄まじかった・・・( ̄人 ̄)☆彡

家老・雪下「宗像の本意ではなく、西郷党を止めようとしてましたから、今回は許しては?」
次席家老・小野「そうですよ~宗像は筑前における最後の大友側の領主ですし~~」
道雪「いんや許さん~~~~~~~~!!」

道雪は二人の意見を振り払い、宗像へ報復の攻撃を行った。
「こっちの言い分、聞いてくれねぇ!!」宗像氏貞は涙目で、何とか道雪の猛攻撃を凌いだ。
一方、道雪は宗像が攻撃を防いだことで腹の虫が収まらず、
人質&側室として預かっていた宗像の妹・色姫に八つ当たりした。

戦場で雷神・鬼と恐れられる道雪が、本気で怒って兄・宗像の不誠実・不履行を非難したのだ。
色姫は恐ろしさで、言い返すどころか息すら止まりそうになっただろう。
1583年に怒りの治まらない道雪は、再び宗像氏貞を攻撃して支城を占拠してしまった。

色姫「自分が人質になってるから、兄は反撃できない。。。わたくしは足手まとい。。。」
彼女は怨霊に憑りつかれた伝説のある女性だが、それだけに感じやすい繊細な性格だったと思う。
「宗像に降りかかる災禍は、怨霊の祟りだ。」と、色姫は思いつめノイローゼになってしまった。

色姫「わたくしの命を捧げて怨霊に静まっていただこう。。。さすれば、宗像は昔のように戻るに違いない」
自分の命を生贄として捧げる決意をした色姫は1584年、怨霊の祥月命日の3月24日・怨霊を鎮めるために建立された山田地蔵堂の前で喉を突いて自害する。
これが決定打となった。。。。

妹の自害の場所、日にち、、、それを聞いた兄・氏貞は妹が道雪の元で、どれほど精神的に追い詰められたか容易に察しがついただろう。
道雪に罵られ、攻撃されても受け身で耐えていたのは、最愛の妹・色姫が人質だったからだ。
たった一人、同腹の妹の不幸な死を知り、宗像氏貞は本当に大友から離反してしまったんです。

道雪は根っからの軍人で、政治家向きでは無かったようだ。
政治的な曖昧さを許さず、常に黒か白かハッキリさせたがる。
原田氏のときだって同じだった。
大友か龍造寺かハッキリしろ!って攻めたてて、そのため追い詰められて原田氏の息子が自害するという悲劇が起きた。
道雪と大友を恨んだ原田氏は、龍造寺に寝返ってしまうという事態を引き起こしています。
大友が最盛期の時は、どれほど惨い要求でも無茶を言っても相手は従った。
だが衰退している大友の家臣が強圧的な態度に出ても、誰も従いはしない。



そして誰もいなくなった。。。。。。。
筑前・豊前・肥前の主だった国人領主は全て大友から離反した。
代わって秋月種実が筑前・豊前・筑後一部に勢力拡大。
最盛期36万石の「戦国大名」となったのだが それは またの話 

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【1516/永正13年】南九州限定・戦国年表

・島津忠隆⑬、琉球支配のため三宅国秀を討つ

12/13~相良長毎、豊福を知行する

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【1516/永正13年】北九州限定・戦国年表

4月~室町幕府、大内義興に対明貿易の独占権を認める

5月~千葉胤勝、東尚盛に逆襲され敗北「佐賀市史」
(歴代鎮西要略では5月3日)

8月~元加判衆・朽網親満の謀反
 義鑑を廃し13代目の6男・大聖院宗心を立てようとして失敗
 ちなみに擁立されようとした本人はその気無し
 蒲池民部少輔、乱に呼応する「田尻家文書」

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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