秋月種実51【大将の首】
秋月50に島津側の史料を加筆しました。
1584年3月24日・・・佐賀の龍造寺隆信は沖田畷の戦いで島津+有馬連合軍に敗れた。
龍造寺隆信は死後、日本の戦の伝統にならい首を斬り落とされる。
敗者の首は勝者の大将の元へ運ばれ「首実検」が行われる。
いわば勝利のデモンストレーションで、それが終われば「首」自体には用は無くなる。
だから「首実検」の後は、首は概ね遺族(つまり今まで戦ってた敵)に返還されていたようだ。
「龍造寺隆信の首」には逸話・異説が多い。
なぜなら遺族である龍造寺家が、島津家から返還された「大将の首」の受け取りを拒否したからです。
逸話パターン1(* ̄・ ̄*)b
龍造寺隆信の首・・・長いから以下「大将の首」を島津軍が、島津当主・義久に首実検して頂こうと、薩摩に持ち去ろうとしたときの事だ。
島津と龍造寺の国境であった菊池川を越えようとしたら、首が突然重くなり何としても運ぶことが出来なくなった。
島津軍は薩摩に持ち帰るのを諦め、「大将の首」を丁重に弔った・・・という話がある。
この話が本当か、どうかは別にして龍造寺隆信の「首塚」が現地にあるそうだ。
(場所はド忘れしちゃったぁ~興味あったら根性で検索してね^^)
逸話パターン2(* ̄・ ̄*)V
首実検が無事終わった後のこと、島津家は「大将の首」を赤星家に下げ渡した。
赤星家は「大将の首」を二度も三度もo( ̄ー ̄θ★ケリッっと蹴り上げて、龍造寺隆信に対する恨みを晴らした。
戦死者を敵味方無く丁重に扱うことで定評のある島津家は、後日このことを知り「赤星は死者への礼を知らぬ」と怒り、赤星に対する態度を硬化させた。
え~~と逸話パターン2には、予備知識が必要です。
(細かい歴史の流れと政治的背景はゴッソリ省略)赤星家は肥後(熊本県)の有力国人領主です。
龍造寺家が勢力拡大してきたので帰属し、証として娘と息子を人質に差し出していました。
でも誤解から「島津に寝返った」と龍造寺隆信に疑われてしまい、何の弁解も許されないまま人質として龍造寺家にいた二人の子供を殺されてしまったの。
残忍・残虐な龍造寺隆信は、まだティーンエイジャーの少年、少女を見せしめに磔(はりつけ)にしたんです。
子供たちは泣かずに恐怖に耐え、健気な最期でした・・・m(_ _)m
言葉にできないほど激怒した赤星家は、本当に龍造寺から島津に寝返りました。
6話も使って熱く語った「沖田畷の戦い」で赤星家は、島津軍の先鋒の中に編成されて従軍してます。
赤星家が島津家に「我が子の仇を討ちたいから、何としても従軍したい!」と頼み込んだんです。
だけど「沖田畷の戦いが長引き各地に飛び火した時」に備えるため、肥後の領地を空にすることは出来ない。
だから赤星家では「精鋭50人」を選抜して従軍させました。
彼らは互いの目印として、甲冑の上から同じ色で染めた襷(たすき)をかけていました。
精鋭50人の「赤星襷隊」は、島津軍の先鋒の中で、最も活躍したと伝えられています。
でもって逸話の中で「大将の首」を二度も三度もo( ̄ー ̄θ★ケリッってしたのは、磔にされて無残に殺された子供二人の母親です。
ただ死者に丁重な島津家が、龍造寺を恨みぬいてる赤星家に「大将の首」を下げ渡す・・とは考えにくいので、この「逸話」は龍造寺隆信が、いかに人心を失っていたか・・ってことを伝えたかったのだと思います。
逸話パターン3(b* ̄・ ̄*V)
無事に首実検が終わり、龍造寺家から首を受け取りに某家臣がやってきた。
いならぶ島津のお歴々重臣たちの前で、某家臣は「大将の首」に一礼し受け取ると、
某家臣「こんなん いるかぁ ゴルァァァ(ノ ̄Д  ̄)ノ 彡【首】ポイ!!」って投げた。
某家臣「貴方様は今までは大事な主でした!でも家臣が必至で止めたのに戦を始めて大敗して、龍造寺家はメチャクチャです!!こうなった元凶である貴方様は仇も同然です!!首なんぞいりません!!」
某家臣「ですが、貴方様も、このままでは浮かばれないでしょう。 待っててください!必ずや弔い合戦をして、ここに雁首そろえている島津の奴らの首を貴方様に捧げます!!<( ̄^ ̄)/ビシ★」
と、自分の言いたいことだけ言うと、スタコラ去ってしまったそうだ。
あまりの想定外の出来事に、島津家は茫然 (゚ Д゚ )ポカァーンと見送ってしまった。
ちなみにここで話は終わるので、首のその後は定かではない。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
とにかく鋳造時家&鍋島家が「大将の首」を受け取り拒否した公式月日は3月27日です。
断られて始末に困った島津家では、もう一か所に引き渡しを申し出たのだけど、そこにも断られた∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
もう一か所が、どこかド忘れしちゃったぁ~ちと息切れしてきたんで調べるのは御勘弁~~~
菊池川で首が急に重くなるのは、この後だったかも~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ
つまり、何が言いたいかって言うと、
龍造寺&鍋島は「毅然とした態度」を貫くことによって、島津に舐められないようにしたんです~~^^;
島津家では龍造寺&鍋島の戦闘意欲が衰えていないことを知り、これ以上の戦闘継続・戦線拡大を諦めたんです。
肥前(佐賀県)を攻撃するには、薩摩との間に肥後(熊本県)があります。
肥後は島津に対し阿蘇氏が抵抗を続けており、島津が完全に肥後を平定するのは「沖田畷の戦いの」約2年後です。
肥後を飛び越えて肥前・龍造寺の本拠地を攻めるのはリスキーなので控えた・・というのもあります。
さて、沖田畷の戦いで九州の勢力分布図が大きく変化したため、大友家・・・そして主役の秋月種実も、駆け引きの外交戦に突入するのですが、それは またの話。
1584年3月24日・・・佐賀の龍造寺隆信は沖田畷の戦いで島津+有馬連合軍に敗れた。
龍造寺隆信は死後、日本の戦の伝統にならい首を斬り落とされる。
敗者の首は勝者の大将の元へ運ばれ「首実検」が行われる。
いわば勝利のデモンストレーションで、それが終われば「首」自体には用は無くなる。
だから「首実検」の後は、首は概ね遺族(つまり今まで戦ってた敵)に返還されていたようだ。
「龍造寺隆信の首」には逸話・異説が多い。
なぜなら遺族である龍造寺家が、島津家から返還された「大将の首」の受け取りを拒否したからです。
逸話パターン1(* ̄・ ̄*)b
龍造寺隆信の首・・・長いから以下「大将の首」を島津軍が、島津当主・義久に首実検して頂こうと、薩摩に持ち去ろうとしたときの事だ。
島津と龍造寺の国境であった菊池川を越えようとしたら、首が突然重くなり何としても運ぶことが出来なくなった。
島津軍は薩摩に持ち帰るのを諦め、「大将の首」を丁重に弔った・・・という話がある。
この話が本当か、どうかは別にして龍造寺隆信の「首塚」が現地にあるそうだ。
(場所はド忘れしちゃったぁ~興味あったら根性で検索してね^^)
逸話パターン2(* ̄・ ̄*)V
首実検が無事終わった後のこと、島津家は「大将の首」を赤星家に下げ渡した。
赤星家は「大将の首」を二度も三度もo( ̄ー ̄θ★ケリッっと蹴り上げて、龍造寺隆信に対する恨みを晴らした。
戦死者を敵味方無く丁重に扱うことで定評のある島津家は、後日このことを知り「赤星は死者への礼を知らぬ」と怒り、赤星に対する態度を硬化させた。
え~~と逸話パターン2には、予備知識が必要です。
(細かい歴史の流れと政治的背景はゴッソリ省略)赤星家は肥後(熊本県)の有力国人領主です。
龍造寺家が勢力拡大してきたので帰属し、証として娘と息子を人質に差し出していました。
でも誤解から「島津に寝返った」と龍造寺隆信に疑われてしまい、何の弁解も許されないまま人質として龍造寺家にいた二人の子供を殺されてしまったの。
残忍・残虐な龍造寺隆信は、まだティーンエイジャーの少年、少女を見せしめに磔(はりつけ)にしたんです。
子供たちは泣かずに恐怖に耐え、健気な最期でした・・・m(_ _)m
言葉にできないほど激怒した赤星家は、本当に龍造寺から島津に寝返りました。
6話も使って熱く語った「沖田畷の戦い」で赤星家は、島津軍の先鋒の中に編成されて従軍してます。
赤星家が島津家に「我が子の仇を討ちたいから、何としても従軍したい!」と頼み込んだんです。
だけど「沖田畷の戦いが長引き各地に飛び火した時」に備えるため、肥後の領地を空にすることは出来ない。
だから赤星家では「精鋭50人」を選抜して従軍させました。
彼らは互いの目印として、甲冑の上から同じ色で染めた襷(たすき)をかけていました。
精鋭50人の「赤星襷隊」は、島津軍の先鋒の中で、最も活躍したと伝えられています。
でもって逸話の中で「大将の首」を二度も三度もo( ̄ー ̄θ★ケリッってしたのは、磔にされて無残に殺された子供二人の母親です。
ただ死者に丁重な島津家が、龍造寺を恨みぬいてる赤星家に「大将の首」を下げ渡す・・とは考えにくいので、この「逸話」は龍造寺隆信が、いかに人心を失っていたか・・ってことを伝えたかったのだと思います。
逸話パターン3(b* ̄・ ̄*V)
無事に首実検が終わり、龍造寺家から首を受け取りに某家臣がやってきた。
いならぶ島津のお歴々重臣たちの前で、某家臣は「大将の首」に一礼し受け取ると、
某家臣「こんなん いるかぁ ゴルァァァ(ノ ̄Д  ̄)ノ 彡【首】ポイ!!」って投げた。
某家臣「貴方様は今までは大事な主でした!でも家臣が必至で止めたのに戦を始めて大敗して、龍造寺家はメチャクチャです!!こうなった元凶である貴方様は仇も同然です!!首なんぞいりません!!」
某家臣「ですが、貴方様も、このままでは浮かばれないでしょう。 待っててください!必ずや弔い合戦をして、ここに雁首そろえている島津の奴らの首を貴方様に捧げます!!<( ̄^ ̄)/ビシ★」
と、自分の言いたいことだけ言うと、スタコラ去ってしまったそうだ。
あまりの想定外の出来事に、島津家は茫然 (゚ Д゚ )ポカァーンと見送ってしまった。
ちなみにここで話は終わるので、首のその後は定かではない。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
とにかく鋳造時家&鍋島家が「大将の首」を受け取り拒否した公式月日は3月27日です。
断られて始末に困った島津家では、もう一か所に引き渡しを申し出たのだけど、そこにも断られた∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
もう一か所が、どこかド忘れしちゃったぁ~ちと息切れしてきたんで調べるのは御勘弁~~~
菊池川で首が急に重くなるのは、この後だったかも~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ
つまり、何が言いたいかって言うと、
龍造寺&鍋島は「毅然とした態度」を貫くことによって、島津に舐められないようにしたんです~~^^;
島津家では龍造寺&鍋島の戦闘意欲が衰えていないことを知り、これ以上の戦闘継続・戦線拡大を諦めたんです。
肥前(佐賀県)を攻撃するには、薩摩との間に肥後(熊本県)があります。
肥後は島津に対し阿蘇氏が抵抗を続けており、島津が完全に肥後を平定するのは「沖田畷の戦いの」約2年後です。
肥後を飛び越えて肥前・龍造寺の本拠地を攻めるのはリスキーなので控えた・・というのもあります。
さて、沖田畷の戦いで九州の勢力分布図が大きく変化したため、大友家・・・そして主役の秋月種実も、駆け引きの外交戦に突入するのですが、それは またの話。
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