秋月種実56【雷神死す!】
大友家臣・道雪と紹運の最強コンビと、筑後の問註所鑑景との戦いで鑑景は討ち取られました。
問註所の当主・統景は、大友への忠義を貫き、城を死守し続けたのですが、一族の鑑景が大友に見切りをつけて、秋月種実に内通したんです。
大友家は頑張り続ける問註所当主を、「同紋衆(大友家の家紋の使用を許可する)」にしました。
もともと大友家は直轄地が少なく、そのため分家よりも兵の動員能力が少なかったんです。
それが家運が衰退してしまったので、ますます苦しく・・だから援軍できない・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
でもって頑張る家臣に「新たに与える土地=恩賞」が捻出できなくて、せめて「名誉」を・・・って事なんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ
そして9月11日、高齢を押して筑後に出陣していた雷神・道雪が病没する。
享年73歳だった。。。。
道雪は若い頃の事故で下半身が不自由になり、輿に乗って戦場を往来していた。
バリアフリーなど一切無い戦国時代で、筑後と筑前(同じ福岡県内~旅程は当時で片道・2~3日弱)の戦場を行ったり来たりは余りにもハードスケジュール~><;アウチ☆
ついに陣中で病に倒れ、「ワシの遺骸は、柳川への方角に向けて戦場に埋めろ!破ったら祟るから!」
と、遺言するほどの根っからの軍人だった。
その時の感動のエピソードは既に「立花編」でガッツリ語ってるんで割愛させて頂いて、とにかく道雪が死んでからが大変だった。
立花家の家臣一同の嘆きは激しく、
「ワシは殉死する」「ワシも」「葬儀は頼んだ!ワシは一足先に行く!」てな感じでヒートアップ。
殉死志願者が殺到して、立花城で集団自決が始まりそうな勢いになった。
その時一人の家臣・原尻宮内が「ワシら全員死んだら、残った若殿はどうするんだ」
と言った言葉で、襟を寛げ今にも腹を切りそうだった家臣たちが「ハッ」と我に返り、危うく殉死を留まった逸話がある。
「若殿」とは、もちろん後の「名将:立花宗茂」だ^^
若いころの名乗り「統虎(むねとら)」って名前も若獅子みたいでカッコいいな*人 ̄▽)♪
立花宗茂は若干18歳、いくらなんでもまだ若く、悲嘆にくれ動揺する家臣を抑えることが出来なかった。
この時の「試練」を乗り越えて、宗茂は家中を掌握して行くようになるんです。
道雪の死で大友家も動揺した。「ち・・・筑前の守りが~~~∑( ̄◆ ̄;はぅ!!」
9月25日~大友から島津へ「ハァイ~うちと同盟して龍造寺と秋月を倒しませんか?(O ̄∀ ̄)ノ
もちろん島津にはスルーされました。^^;
この呼びかけは逆効果で島津側に「大友は焦ってるな」という判断材料になり、ますます「大友を倒す日は近い!p( ̄▽ ̄)qファイト♪」と薩摩っぽを燃えさせてしまう。
さらに道雪の領地・筑前の立花城は、宗茂・誾千代夫妻が留守番してたのだが、家臣の動揺の影響が速攻で出た。
筑前の国人領主・宗像氏貞(むなかた うじさだ)が、許斐岳(このみだけ)城を立花勢から奪還することに成功する。
宗像氏は、かつて毛利に従って大友と戦って、毛利が自己都合で撤退したので仕方なく大友に降伏した。
その時の「降伏の条件」に不満の家臣が、宗像の制止を振り切り道雪と戦になったの。
結局そのせいで宗像さんは不本意ながら(道雪が言い訳を認めず許してくれない・涙)大友と敵対関係になり、
それ以来ず~~と、道雪に占拠されていたのが宗像の支城・許斐岳城なんです。(目いっぱい省略してこの長さ^^;)
文字通り鬼・道雪が消えたので~~((((((((((っ´▽`)っ 僕のお城を返してもらうね~
10月2日~豊臣秀吉が島津へ書状を出す。
織田信長の生前の「置き土産」が「大友と島津の殆ど守られていない・豊薩同盟」です。
秀吉は信長路線を継承するとして「「同盟を破った罪」で島津を討伐することも考えていた。
従わなければ討たれる・・・九州の各地で動きが加速する。
島津に降伏していた龍造寺は、実質すべて仕切っていた鍋島が素早く秀吉に接触!
「島津配下」から「豊臣政権」に乗り換える事に成功する(* ̄・ ̄*)Vブイ
秋月種実が島津義久へ「進言」する
この肝心の「進言」の中身が、ど~~~~~~~しても解らなかった _| ̄|○ il||li がくぅ無念!
でもその後の秋月の行動を考えると、「豊臣政権が長期政権になる」とは思っていなかったようだ。
だから「あんな俄か政権なんか相手にできるか!」とも思ってただろうし、あと少しで念願の「打倒・大友」が達成できるので、ここで島津に退かれては困るから、p( ̄▽ ̄)qファイト♪~てな事じゃないかなぁ~と想像してます^^;;
10月18日~島津義弘が室町将軍・足利義昭から「義」の文字を拝領する。
それまでは忠平だったの~この時「義珍・よしたか」って名乗るけど、本人がピンと来なかったらしく、私たちが知ってる「義弘」に変えてます。
とにかく中央政権なんて出来たら天下人にカンバック出来なくて困る義昭さん。
義弘は当主じゃなく弟です。
それなのに名前の文字を・・・しかも「義」の方とは大判振る舞い。
最後の室町将軍からも「島津p( ̄▽ ̄)qファイト♪」入魂のエールと期待が籠ってます。
10月23日~紹運が筑後の戦陣から筑前の領地に撤退する。
道雪と紹運のコンビは親子ほど年齢が離れていたが、最高・最強のコンビネーションでした。
道雪が出陣するときは、紹運が筑前の領地を留守番してたりすることもありました。
ところが道雪の死で筑前の軍事バランスが崩れてしまい、へろへろ状態だった宗像さんが支城を奪い返し復活。
まだ若い宗茂では、それをフォローしきれなかったんです。
それに道雪が死んだとなると、島津軍北上のスピードが早まります。
領地を固め迎え撃つ準備をすべく筑前へ引き上げました。
島津軍の勢いは止まらず、ついに肥後も島津の制圧下となった!
秀吉の書状を無視した島津の明日はどっちだ? それは またの話