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秋月種実56【雷神死す!】

四国征伐があった1585年の4月18日、祇園原(現在の久留米市)で戦があった。
大友家臣・道雪と紹運の最強コンビと、筑後の問註所鑑景との戦いで鑑景は討ち取られました。
問註所の当主・統景は、大友への忠義を貫き、城を死守し続けたのですが、一族の鑑景が大友に見切りをつけて、秋月種実に内通したんです。

大友家は頑張り続ける問註所当主を、「同紋衆(大友家の家紋の使用を許可する)」にしました。
もともと大友家は直轄地が少なく、そのため分家よりも兵の動員能力が少なかったんです。
それが家運が衰退してしまったので、ますます苦しく・・だから援軍できない・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
でもって頑張る家臣に「新たに与える土地=恩賞」が捻出できなくて、せめて「名誉」を・・・って事なんです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

そして9月11日、高齢を押して筑後に出陣していた雷神・道雪が病没する。
享年73歳だった。。。。
道雪は若い頃の事故で下半身が不自由になり、輿に乗って戦場を往来していた。
バリアフリーなど一切無い戦国時代で、筑後と筑前(同じ福岡県内~旅程は当時で片道・2~3日弱)の戦場を行ったり来たりは余りにもハードスケジュール~><;アウチ☆
ついに陣中で病に倒れ、「ワシの遺骸は、柳川への方角に向けて戦場に埋めろ!破ったら祟るから!」
と、遺言するほどの根っからの軍人だった。
その時の感動のエピソードは既に「立花編」でガッツリ語ってるんで割愛させて頂いて、とにかく道雪が死んでからが大変だった。

立花家の家臣一同の嘆きは激しく、
「ワシは殉死する」「ワシも」「葬儀は頼んだ!ワシは一足先に行く!」てな感じでヒートアップ。
殉死志願者が殺到して、立花城で集団自決が始まりそうな勢いになった。
その時一人の家臣・原尻宮内が「ワシら全員死んだら、残った若殿はどうするんだ」
と言った言葉で、襟を寛げ今にも腹を切りそうだった家臣たちが「ハッ」と我に返り、危うく殉死を留まった逸話がある。

「若殿」とは、もちろん後の「名将:立花宗茂」だ^^
若いころの名乗り「統虎(むねとら)」って名前も若獅子みたいでカッコいいな*人 ̄▽)♪
立花宗茂は若干18歳、いくらなんでもまだ若く、悲嘆にくれ動揺する家臣を抑えることが出来なかった。
この時の「試練」を乗り越えて、宗茂は家中を掌握して行くようになるんです。

道雪の死で大友家も動揺した。「ち・・・筑前の守りが~~~∑( ̄◆ ̄;はぅ!!」
9月25日~大友から島津へ「ハァイ~うちと同盟して龍造寺と秋月を倒しませんか?(O ̄∀ ̄)ノ
もちろん島津にはスルーされました。^^;
この呼びかけは逆効果で島津側に「大友は焦ってるな」という判断材料になり、ますます「大友を倒す日は近い!p( ̄▽ ̄)qファイト♪」と薩摩っぽを燃えさせてしまう。

さらに道雪の領地・筑前の立花城は、宗茂・誾千代夫妻が留守番してたのだが、家臣の動揺の影響が速攻で出た。
筑前の国人領主・宗像氏貞(むなかた うじさだ)が、許斐岳(このみだけ)城を立花勢から奪還することに成功する。
宗像氏は、かつて毛利に従って大友と戦って、毛利が自己都合で撤退したので仕方なく大友に降伏した。
その時の「降伏の条件」に不満の家臣が、宗像の制止を振り切り道雪と戦になったの。
結局そのせいで宗像さんは不本意ながら(道雪が言い訳を認めず許してくれない・涙)大友と敵対関係になり、
それ以来ず~~と、道雪に占拠されていたのが宗像の支城・許斐岳城なんです。(目いっぱい省略してこの長さ^^;)
文字通り鬼・道雪が消えたので~~((((((((((っ´▽`)っ 僕のお城を返してもらうね~

10月2日~豊臣秀吉が島津へ書状を出す。
織田信長の生前の「置き土産」が「大友と島津の殆ど守られていない・豊薩同盟」です。
秀吉は信長路線を継承するとして「「同盟を破った罪」で島津を討伐することも考えていた。
従わなければ討たれる・・・九州の各地で動きが加速する。

島津に降伏していた龍造寺は、実質すべて仕切っていた鍋島が素早く秀吉に接触!
「島津配下」から「豊臣政権」に乗り換える事に成功する(* ̄・ ̄*)Vブイ
秋月種実が島津義久へ「進言」する
この肝心の「進言」の中身が、ど~~~~~~~しても解らなかった _| ̄|○ il||li がくぅ無念!

でもその後の秋月の行動を考えると、「豊臣政権が長期政権になる」とは思っていなかったようだ。
だから「あんな俄か政権なんか相手にできるか!」とも思ってただろうし、あと少しで念願の「打倒・大友」が達成できるので、ここで島津に退かれては困るから、p( ̄▽ ̄)qファイト♪~てな事じゃないかなぁ~と想像してます^^;;

10月18日~島津義弘が室町将軍・足利義昭から「義」の文字を拝領する。
それまでは忠平だったの~この時「義珍・よしたか」って名乗るけど、本人がピンと来なかったらしく、私たちが知ってる「義弘」に変えてます。

とにかく中央政権なんて出来たら天下人にカンバック出来なくて困る義昭さん。
義弘は当主じゃなく弟です。
それなのに名前の文字を・・・しかも「義」の方とは大判振る舞い。
最後の室町将軍からも「島津p( ̄▽ ̄)qファイト♪」入魂のエールと期待が籠ってます。

10月23日~紹運が筑後の戦陣から筑前の領地に撤退する。
道雪と紹運のコンビは親子ほど年齢が離れていたが、最高・最強のコンビネーションでした。
道雪が出陣するときは、紹運が筑前の領地を留守番してたりすることもありました。
ところが道雪の死で筑前の軍事バランスが崩れてしまい、へろへろ状態だった宗像さんが支城を奪い返し復活。

まだ若い宗茂では、それをフォローしきれなかったんです。
それに道雪が死んだとなると、島津軍北上のスピードが早まります。
領地を固め迎え撃つ準備をすべく筑前へ引き上げました。
島津軍の勢いは止まらず、ついに肥後も島津の制圧下となった!
秀吉の書状を無視した島津の明日はどっちだ?  それは またの話 
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【1529/享禄2年】南九州限定・戦国年表

・祁答院重武⑫帖佐本城、山田城を攻略し姶良進出を果たす

・島津勝久、再び国政を執ろうと図る
 島津忠朝(豊州③)、新納忠勝、禰寝清年⑮、肝付兼演、本田薫親、樺山幸久、島津運久、島津秀久(薩州国久次男)、阿多忠雄、諫めを聞かない勝久に立腹してそれぞれ帰還

・入来院重聡、島津実久と戦い百次、山田以西の城村を攻略

・肝付兼演、加治木を攻めとる

9/3~島津次郎四郎明久、羽島大島にて鷹狩中、菱刈氏に襲われ戦死「菱刈史」

・(高城)重兼(⑪の次男)没

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【1529/享禄2年】北九州限定・戦国年表

2/15~龍造寺隆信生まれる「佐賀市史」

・少弐冬尚生まれる?

・鍋島信房(直茂兄)生まれる

・(平戸)松浦隆信生まれる

・神代新次郎(勝利)免許皆伝となる

春~田尻親種、鷹尾を本城とし江浦、津留、濱田、堀切に支城を置く「北肥戦誌」

5/ 神代刑部少輔勝利、家督を継ぐ
 神代勝利、千布氏娘と結婚し山内26山の統領となる

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秋月種実55【関白宣言!】

1585年正月・・・秋月種実は嫡男の種長に家督を譲った。
もちろん実権は全て種実のもので、いわば長男の跡目教育のために、名目上だけ譲ったんです。
実のところ長男の種長の逸話は、ネット検索では全くHITしなかった^^;;
父の種実が凄すぎて、長男は完全に霞んでます^^トホホ

2月8日~毛利家と秀吉の正式和睦が整ったので、人質だった毛利秀包の帰国が決定する。
2月14日~徳川家康の次男・秀康が人質として秀吉の元へ行く。
4月7日~秀吉は紀州征伐を決意し、仙石秀久と蜂須賀正勝へ南征軍の出陣準備命令が下る。

南紀・・和歌山県にある根来寺は秀吉軍の焼き討ちにあい、わずかな堂宇を残し全焼した。

6月~四国征伐始まる!
実は秀吉は四国の英雄・長曽我部元親(ちょうそがべ もとちか)を討つために、二年前の1583年に既に四国に兵を入れている。
本格攻撃が1585年の四国征伐で、一連の動きには三好笑岩(みよし しょうがん)が深く関係している。
三好家は阿波小笠原家の庶流で、四国の三好というところにいたので「三好姓」を名乗る。
そして室町幕府の実質トップ・細川家に仕えていた。

ちなみに戦国武将の細川幽斎・忠興親子は、この細川家の庶流なので、(庶流でも)ぶっちぎりの名門です。
主家の細川家が衰えると、家臣の三好家が自由に采配を振るい、一時は三好家が天下人のような勢いだった。
が、それも長続きせず三好家は織田信長に敗れ、降伏した三好笑岩は信長の家臣となる。
三好家の更なる不幸は、本拠地の阿波の領地が、長宗我部元親に侵略されてしまったことです。

長宗我部元親と信長は同盟関係だったのだが、元親が自身の「天下統一」の邪魔になると解ると手のひら返し、三好家の「御家再興」をプッシュし始める。
信長が「本能寺の変」で死んだため「四国征伐」は一時頓挫するのだが、三好笑岩が秀吉に仕えたことから復活する。
なぜなら三好笑岩は、羽柴秀吉の甥・秀次(後の関白・秀次)を養子にしていたからです。
三好家の阿波領が復活することは、秀吉の利益に叶うことでした。

御家再興のためとはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ秀吉の血縁を養子にするのは断腸の決意だったろう。
三好笑岩の正確な没年は不明で、この1585年に亡くなってるのでは無いか?と、言われている。
長宗我部元親は秀吉の大軍の前に降伏し、四国征伐が終わってフタを開けて見れば、「三好家の阿波」は、蜂須賀家政(正勝の子)に恩賞として与えられています。
せめて笑岩の死後の決定なら良いんですけど。。。生前に聞いてたなら死因は憤死かも。。。
そして降伏した長宗我部元親も、8月に土佐一国を安堵されます。

7月11日~ついに秀吉が関白職を拝命!!
関白に任命されるのは公家の5摂家と決められてします。
秀吉は関白になるために、元関白の近衛前久(このえ さきひさ)の養子になったんです。

近衛前久は亡き織田信長の鷹狩り友達で、信長に頼まれて島津と大友の同盟の仲介役をしています。
(ただし遊び気分だったので、顔つなぎ以外の役には立ってません∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!)
その近衛さん・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ「本能寺の変黒幕」と噂されて京都・公家社会から追放されちゃうの。
政治的ピンチになった近衛は、和歌の弟子の島津義久へ手紙を書いています。

近衛「麿が信長を殺したなんて噂はウソ!デタラメ!誰かの陰謀に嵌められたの!麿の無実を信じてぇぇ~~ついでに薩摩に匿って *人 ̄▽)♪
と、相変わらず自分の都合ばかり言ってます。∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
ただ実際、信長という後ろ盾を亡くした後の近衛の困りぶりを見ると、近衛黒幕説は無さそうだ。
結果として近衛は薩摩へ亡命することなく、秀吉の庇護を受けて京都へ帰ることができた。
だが、その代償として払ったのが、「秀吉を養子にする」ということだった。
あんがい、秀吉が「近衛黒幕説」を流したのかもです。

近衛の家に秀吉を・・・躊躇い渋る近衛を秀吉は説得した。
「関白になるのは、ワシ一代だから。ね!ワシの代だけ目をつむって!」
この言葉が真っ赤なウソで、近衛が騙されたことに気づくのに時間はかからなかった。

9月9日~秀吉「豊臣姓」を賜る!
本姓と名字の区別が現代人には解りづらいですが、簡単に言うと「本姓は先祖は誰?」ってことです。
だから源平藤橘のいずれかになります。
徳川家康は「ウチの本姓は源氏!」って言い張って幕府を開きましたが、正規の武家でない秀吉には本姓なんてありません。
つまり先祖が「源平藤橘のどれか?」が判らないんです。
秀吉の出自が悪いのは有名すぎて、いまさら家系図をでっちあげるわけにも行かず、それなら源平藤橘以外に「新しい姓」を作ればいいじゃない?

と考えつき、朝廷のOKを得て賜ったのが「新姓・豊臣姓」なんです。
だから豊臣家の子孫が続いていれば「うちは名字は羽柴だけど、先祖は豊臣なんだ」と言えたのです。
ホントの意味での譜代家臣のいない秀吉は、「豊臣姓」「羽柴姓」を各大名にバラ撒き与えていますが、普段名乗る名字「羽柴姓」より、本姓である「豊臣姓」を貰う方がランクは上になります。
関白になれる家柄・5摂家に豊臣姓がプラスされ、秀吉は将来にわたり子孫が関白職を継げます!
関白職の世襲化成功をもって、「豊臣政権誕生!」です
続かなければ「政権」とは言い難いですからね^^

九州の人々は驚いた!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
わずか数か月で、あれよあれよと言う間に「中央政府」が出来ちゃった!
九州征伐まで残すところ、あと二年!
そんな激動の1585年・・・ついに力尽きた「雷神・道雪」が死んでしまう!
衰退する大友家は、道雪抜きで踏ん張り続けることが出来るだろうか!?

それは またの話

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【1528/大永8年/享禄元年】南九州限定・戦国年表

8/28~享禄へ改元

・菱刈重福、牛屎院の内青木長尾村を島津勝久から与えられる

≪南九州:肥後・日向・薩摩・大隅≫
【参照サイト】
 さがの歴史・文化お宝帳
 戦国島津女系図(相互リンク) http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/
 しいまんづ雑記旧録
 千葉一族HP
 武家家伝
 城郭放浪記
 天下統一期年譜
※大きな出来事・改元は、北九州・南九州で記述が被ります 
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
 島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
 伊東関連「日向記」
 相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」「相良家文書」「菱刈史」
 肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)」「鎮西要略」「多久市史」「武雄市史」「歴代鎮西志」「田尻家文書」「隆信公御年譜」
 筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」の一部

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【1528/大永8年/享禄元年】北九州限定・戦国年表

3/20~龍造寺家和⑮死亡、胤久が家督を継ぐ「佐賀市史」

夏 少弐資元、細川高国に恃み松法師丸を元服させ興経(時尚→冬尚)と名乗らせる
 大宰少弐として屋形号を与え勢福寺城に入れ馬場と江上を後見とする「北肥戦誌」

・少弐資元、上松浦へ兵を進める
 獅子・日割の両城他、松浦党を従える
 更に太宰府を取り戻そうと西筑前へ出陣

・西郷尚善、上洛し三条西実隆より連歌の指導を受ける
 (有馬純久、晴純弟が西郷氏の養子となり家督を継ぐ)

6/ 大内義興、少弐退治を足利義晴⑫に願い出るが不許可「北肥戦誌」
↑月は歴代鎮西要略より

7/10~引付衆・大館晴光より大友は安心するよう書状くる「歴代鎮西要略」

8/28~享禄へ改元

9/9~大友義鑑、田尻親種に中牟田の内神崎分5町5段を預け置く「田尻家文書」

閏9/9~少弐松法師丸、横岳資誠に三根郡代職を安堵「横岳家文書」

12/20~大内義興52歳没
 大内義隆22歳が家督を継ぎ7ヶ国守護となる
(周防、長府、石見、豊前、筑前、備後、安芸)

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秋月種実54【和睦】

1584年(天正12年)に九州・島原半島で「沖田畷の戦い」が起きた時は、秀吉VS徳川家康の小牧・長久手の戦いの真っ最中だった。
タイムスケジュールで言うと、
3月17日~(尾張)羽黒の戦い
3月24日~沖田畷の戦い
3月28日~小牧の役~家康が小牧山に出陣する
4月9日~長久手の役

羽柴秀吉は、家康との長期戦を避けて、家康と同盟してた織田信雄を調略することに成功する。
家康は単独で秀吉の大軍を相手にする愚を避けた。
9月6日~羽柴秀吉と織田信雄+徳川家康と和睦する。
中央での動きに焦ったのが、最後の室町将軍・足利義昭です。
織田信長に京都をo( ̄ー ̄θ★ケリッ追放された後は、毛利家の保護を受けて侘しく田舎暮らしをしていたのだが、リベンジを諦めてはいなかった。
だが中央で新たな政権が誕生しようものなら、足利義昭が「天下人」として返り咲くことは不可能になる。

そこでまだ秀吉の力が届いてなくて、自分のいる鞆(とも)からも接触しやすい「九州」に介入した。
足利義昭の脳内妄想~大友家⇒親・織田系大名⇒親・羽柴秀吉系大名に認定!

同じく9月に足利義昭は島津義久へ手紙を出す。
「義昭の帰京の障害となっている大友家(実際は何もしてません)を倒すことが、将軍に対する忠義だ!
「このことは、毛利輝元・小早川隆景・吉川元春も同意しておるぞ!(勝手に名前を使わないで下さい~by毛利家一同)
最後の一文は義昭の謀略というより「希望で願望」です∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

島津家と大友家は亡き織田信長の介入で(宗麟が頼んだ)1581年に同盟を結んでいる。
当時、日の出の勢いだった信長のゴリ押しに、島津家が根負けし結んだ同盟で、信長が本能寺で死んだ以上はチャラ~とシラバックレることも出来るが、それでも同盟は同盟なわけで、周辺を切り取る程度なら良いが(大友的には良くない)直接対決となると、同盟破棄の大義名分が一応欲しい。
落ちぶれても「まだ将軍」なんで、「この【手紙】使えるよね」と島津家では判断していた。

10月~「沖田畷の戦い」で援軍してもらった御礼に~って有馬さんから島津さんへ「南蛮犬」が献上された。
献上されたワンコは、何とかハウンドって感じの名前で、ガチ狩猟犬&超大型犬。
島津家では飼い方が判らず困惑し、一番若手だった家老上井に飼うことを押し付けた^^;

10月3日~道雪&紹運の最強コンビが主君の命令で筑後へ出陣~むろん足利義昭と島津家の思惑を知る由もない。
12月26日~毛利家と羽柴秀吉が正式に和睦する。
天正12年の「本能寺の変」の後に「停戦」して約2年~~条件が折り合わず交渉が難航していたのだが、やっと正式に両軍は和睦しました。

同盟の証として羽柴秀勝(秀吉の甥で養子)と、お江(浅井三姉妹の次女で毛利輝元の養女)が結婚し、二人の結婚記念日が和睦記念日です
大河の主役・お江が毛利輝元の養女になったことは、どちらのウィキペディアにも記載されていない。
というのも、ほんとに同盟の名目上の養子縁組なだけで、二人に交流が無かったからです。
それどころか、毛利輝元は羽柴秀吉に会ってもいません!

羽柴秀吉が「天下人」になる・・・と分かってるのは、歴史を知る我々だけです。
毛利家では、秀吉がマジでテッペンまで登り詰めるか、慎重に見極めていました。
今の段階で秀吉と毛利輝元が会えば「どっちが上か?」という、ややこしい問題が発生します。
また外交オンチの輝元坊ちゃんが秀吉に籠絡されたら、毛利家は身動きが取れなくなります。
両川の叔父様たちは、あくまでも、どこまでも慎重でした。(だって輝元には、まだ跡継ぎいないんだもん)

毛利輝元が上洛し秀吉に初対面して「家臣の礼」をとるのは、家康よりも・九州征伐よりも後の1588年なんです。
その時の秀吉の接待は物凄くって、2か月に渡る連日パーティや観光旅行・大和路の旅等々・・・
輝元は感激・興奮しまくり~~予想を裏切らず見事に籠絡された _| ̄|○ il||li がくぅ

秀吉は関白になった後も、一向に「臣下の礼」をとらない毛利輝元に対して、表面^-^ニコニコだが内心は決して愉快ではなかっただろう。
両川の叔父様たちは、そんな秀吉の機嫌を損ねないように、軍の動員に関しては秀吉の要求に応じているし、九州征伐で兵糧が不足している軍には、無償で譲り渡したりと気遣いしている。

話を戻して、とにかく家康と和睦(=停戦しただけで政治的には対峙したまま)したし、毛利家とも和睦したことだし、さぁ九州への道中には障害は無くなりました~~~\(≧▽≦)ノワーイ
でも、四国征伐が先なのです。(O ̄∀ ̄)ノ

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【1527/大永7年】南九州限定・戦国年表

3/29~相良長定⑮、八代を退去

4/24~相良方が豊福を下城、以後名和方の皆吉武真が在城

4/ 肝付兼演、忠良より帖佐のうち、辺川、加治木、木ノ内、中ノ州を押領

4/29~島津忠兼(勝久)が剃髪・隠居、忠良も倣い出家「日新斎」と号す
 島津貴久14歳、15代目として清水城に入る

5 帖佐地頭・島津昌久、加治木城主・伊地知周防介が実久につく

6/11~日新斎、加治木、帖佐を落とす
  船で帰る途中で勝久の裏切りを知る

6/15~島津貴久、実久の攻撃で園田実明らと共に清水城脱出

6/21~島津勝久、実久の勧めで清水城入城し守護職復帰
 忠兼から勝久へ改名

7/23~日新斎、勝久へ譲っていた伊作城を奪い返す

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【1527/大永7年】北九州限定・戦国年表

1/7~千葉胤勝、加世で千葉興常と戦うも大敗
 300余人討死し胤勝は筑前へ浪人する「北肥戦誌」

1/16~龍造寺胤久、千葉興常より小城と佐賀内に計146町安堵受ける「龍造寺家文書」

3/ 渋江公勢、公政(次男)日皷山城で次男乳母に殺される
(乳母は三男を狙ったのに毒入り水を上記2名が先に飲んでしまった)(渋江家由来)

・渋江公親13歳当主になる

・後藤純明、渋江家の混乱に乗じて長島荘ゲット

・由布惟信生まれる

11/25~佐伯惟治、菊池義宗と通じて謀反を起こす
 臼杵長景に攻められ自害

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秋月種実53【筑後のピンチ】

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩
九つの州(国)があるから「九州」なのです。(O ̄∀ ̄)ノ
ちなみに○前・○後、とあるのは京都に近い方が前・・・という意味です。

筑後国が成立したのは七世紀ごろです。
そこから後を大胆に省略して、筑後の守護職は大友宗麟(おおとも そうりん)でした。
戦国時代に入ると、守護職~守護代の室町時代の支配体制は既に崩れています。
でも江戸時代のような、中央集権体制は固まっていない、いわば過渡期でした。
だから筑後の守護職といっても、宗麟が直接統治していたわけではありません。
筑後には「筑後15城」と呼ばれた有力国人領主が、それぞれ自領を支配していました。
彼らは石高で言うと、2~3万石・大名クラスの領土を持っていました。
筑後15城は守護職である「宗麟の配下になる」という、宗麟から見ると「間接統治」になります。

筑後15城のうち「問註所氏」が、大友家の家臣となりました。
で蒲池氏が、筑後15城をまとめあげていた実力者でした。^-^
1578年の「高城・耳川の戦い」で、大友氏が島津氏にボロ負けするんですが、
この蒲池氏が戦死しちゃうんです~~~~~~~∑( ̄◆ ̄;ガァァン

家督を継いだ嫡男は、戦死した父と違い大友家への忠義心は微塵も無くて、ささ~と龍造寺に寝返ってしまいます。
で、蒲池が寝返ったのでオセロのように他の「筑後15城」のメンバーもパタパタ~と龍造寺側になる。
最盛期の龍造寺氏は「5州太守」と自称してますが、その中には「筑後」もしっかりカウントされてます。
もちろん筑後守護職である大友氏の許しなんて得てません∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

大友家臣である問註所氏は、筑前の道雪のように孤立しました。_| ̄|○ il||li がくぅ
道雪には紹運という頼もしい相棒がいましたが、問註所さんはホントに孤立してた。
衰退した大友家からは援軍は来ません。(これは道雪も一緒)
現在のサラリーマンで言うと、「給料が出なくて貯金を切り崩して会社の為に働いている」状態です。

当主の統景は、それでも大友家への忠義を貫き続け、城を死守し続けました。
でも、問註所の一族の方が、「無報酬&孤立無援の恐怖」に耐えきれず、秋月に内通してしまいます。
(人間の本能としては、こっちの反応の方が「普通」です。
  それぞれ生活があるんだから、「忠義を貫く」なんて出来る人は万人に一人です。)

秋月が絡んだら雷神・道雪&紹運の出番なのです。(O ̄∀ ̄)ノ
問註所統景の依頼で秋月と戦闘になります。
これが1581年の「穂波&石坂の戦い」で、まぁダークキャラの秋月が敗走するのはいつものことです。(爆
この戦いで、名将・立花宗茂が華麗に初陣(=戦場デヴュー)を果たします。^-^

龍造寺に寝返った蒲池氏が、その龍造寺隆信に謀殺されてしまったため、筑後の国人たちがドン引きし、とどめが1584年の「沖田畷の戦い」で、龍造寺隆信が討ち取られ、今度は龍造寺が没落します。
でも筑後の大友家臣・問註所氏に「安息の日」は来ません。
筑後15城の国人たちが、今度は島津に寝返ったからです。(;;)あぅ~~
龍造寺家が「沖田畷の戦い」で敗れたのを知ると、大友家も龍造寺を取り込むために接触しようとしました。
でもダークな主役・秋月種実に先を越され、龍造寺は「秋月の仲介」で島津配下になってしまいます。

1584年5月28日~大友義統は島津義久へ沖田畷の戦勝祝いとして「定家直筆の新古今和歌集」をプレゼントします。
同年7月~プレゼントを贈る一方で、筑後における島津配下の黒木氏の城を道雪+紹運が攻撃し、落城させます。
表面ではニコニコ外交し、裏では領土争いが行われる、虚虚実実の駆け引きが始まりました。
そして島津と大友の「領土争いの場」となったのが「筑後」なんです。(筑後の農民が悲惨)

大友家にすれば龍造寺に奪われた領地を取り戻すのは当然だし、筑後に派兵することは、孤立無援で頑張る問註所氏の負担を軽くすることにもなる。
ところが筑前には「打倒・大友」に燃える秋月種実がいる。
いかに主君の命令とはいえ、道雪も紹運も長期間は筑前の領地を離れることが出来ない。
筑後と筑前を行ったり来たりのハードスケジュールが、70を超えた道雪の寿命を縮めたことは間違いないだろう。
また「筑後に駐留」できないために、せっかく城を落としても戦果を広げることが出来ない。
「膨張する島津」の勢いの方が強すぎるんです。
筑後の戦況は一進一退・・・道雪が出れば勝つが、道雪が筑前に戻れば、島津側が息を吹き返してしまう。
完全に空回りの悪循環・・・_| ̄|○ il||li がくぅ・・・
それでも道雪は「主君の願い」を叶えるために、老骨にムチ打って戦い続けた・・・( ̄  ̄)トオイメ。。 

主家の大友家が衰退したのは、島津に高城・耳川で負けたのもあるが、父と子の2頭体制が破たんしてたこともある。
この時期に息子・義統は、父・宗麟に手紙を書いている。
義統「父上は家督を自分に譲ったくせに、政治に口出ししすぎ!!もうこれ以上、何もしないで!!」
親子の不仲は決定的で回復は不可能だった。
宗麟はキリシタンの洗礼を受けるために、義統の生母である奈多夫人を強制離婚している。
さらに宗麟は再婚しているのだが、その相手は奈多夫人の侍女頭というだけでなく、義統の弟の妻の生母だった。

(宗麟の)息子の妻の母と結婚するなど、人道上・宗教上も「ヤバくね?」って感じで、義統がキリシタンを理解できなかったのも無理はない。
絶望した奈多夫人は自殺しようとしたので、この時期は娘と親族の監視下に置かれている。
両親がケンカした場合、たいていの子供は「母親の味方」をする。
拗れまくった家族関係と家庭不和の状態で、「2頭体制」が上手く機能するはずがなく、大友の衰退の一因になった。

同年9月~九州に政治情勢に、今度は室町将軍・足利義昭が介入を始める。
義昭は島津家に対し「将軍への忠義のために大友家を討て!」と命じる。
織田信長に京都を追放され、毛利家の保護を受けている足利義昭だが、「腐っても鯛」で将軍は将軍だ。
島津家では、「大友との開戦」のために、足利義昭の言葉(公式発言)を「大義名分」にしようと考えていた。
刻一刻と追い詰められて行く大友氏・・・だが、かすかな希望の光はあった。
それは羽柴秀吉の中央政権が誕生する「兆し」があったからなのだが、それは またの話

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【1526/大永6年】南九州限定・戦国年表

・祁答院良重生まれる
・新納忠元生まれる

5/11~相良長隆(⑭の庶兄)僧兵を集めて長定⑮へリベンジ
長定⑮は人吉から追放されて八代へ
長隆は還俗して家督を継ごうとしたが家臣が反対
理由①僧侶なのに兵馬を用いた
理由②戦火が相良家の菩提寺願成寺に延焼した

5/14~相良長隆、人吉城より上村永里城へ退去

5/16~相良義滋が永里城を攻撃、相良長隆35歳自害
※実際に攻撃したのは上村頼興

7/14~日向北原氏、相良・人吉城を包囲(大岩瀬合戦)
※北原氏は一向宗門徒を扇動した
※後に相良は一向宗を禁ずる

10/26~南郷城主・桑波田栄景、島津勝久の命令で島津忠良に属する

11/ 島津勝久、忠良へ永吉、日置を割譲
※忠良=相模守、樺山信久=安芸守、肝付兼演=越前守

11/18~島津貴久13歳、忠兼(勝久)の養子になり宗家を継ぐ

12/7~島津忠良、辺川忠直(実久家臣、帖佐城主)を攻撃
島津安久、実久の命令で辺川救援に行き討死
12/ 辺川忠直討たれる

・島津忠良、帖佐のうち、辺川・加治木・木ノ内・中ノ州を制圧
・島津忠勝(勝久)、忠良に伊集院を進呈

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【1526/大永6年】北九州限定・戦国年表

4/ 戸次道雪14歳で戸次家督を相続する「立花関連年表」

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秋月種実52【新・九州3強?】

(ナレーションイメージは市原悦子でヨロシク*爆)

むかぁし、むかしのその昔、大蔵さんには4人の息子がおったとさ。

長男は原田さまの先祖に。
次男は秋月さまの先祖に。
三男は江上さまの先祖に。
四男は高橋さまの先祖に、それぞれ分かれたのじゃった。



四男・高橋さまは血筋が絶えただけでなく、御家が二つに別れてしもぉた。

一つは、大友家家臣・高橋紹運さまの御家に、

いま一つは、秋月種実の次男・元種さまの御家になった。

三男の江上さまは、肥前の龍造寺に御家を乗っ取られてしもぅてのぉ・・・

沖田畷の大戦で江上衆も命令で出陣し、全員討死して血筋は絶えたそぅな・・・。。(ω・`))

原田さまと秋月さまは、どちらも身内を大友家に殺されておってのぉ。

同じ大蔵の流れを汲むので、VS大友関連では仲良く協力しておった。

じゃが原田さまは、秋月さまが、どれほど力を付けても、決して頭は下げんかった。

なぜなら原田さまは大蔵の長男の直系子孫・・・お武家様風に言うと嫡流の御家だからじゃった。



ちなみに秋月種実の次男が高橋の家督を継いだ件では、先代の養子になった時期が曖昧で、どさくさ紛れで乗っとった・・・という噂がある。
とにかく主役の秋月種実は男盛りの36歳で(* ̄・ ̄*)Vブイ~脂が乗ってる時期です。
人生絶頂の36万石を領し「戦国大名」の仲間入りを果たしてはいたのだが、筑前の全てを支配していたわけではない。
大友家臣の戸次道雪(べっき どうせつ)と高橋紹運(たかはし じょううん)が博多付近で踏ん張り続けていたからです。
商都・博多の交易は大友家の収入源でもあったので、その博多を守護している道雪と紹運の最強コンビを、何としても倒さなければならなかった。
さらに秋月種実が「戦国大名」から江戸期の「近世大名」にクラスチェンジするためには、筑前領内にいる国人領主・宗像氏と原田氏を、滅ぼすor家臣団に組み入れなければならない。

その一つの宗像氏は色々あって大友配下だった、ところが色々あって戸次道雪とトラブルになり、そのトラブルを秋月が利用したために、大友配下でいることが出来なくなってしまう。
「色々あった」部分は秋月編で語って来たが、宗像氏の没落は秋月種実が暴れる度に巻き添えを食う部分が大きい。
秋月の「計算」では、大友から離れた宗像氏が「秋月を頼る」予定だったのだが、今まで散々振り回されたので(怒!)となった宗像さんは、島津配下になってしまう。(秋月・ちっ)

そして昔話の原田さんは、大蔵嫡流のプライドで「秋月の配下」になるのだけは「NO!」。
恨み重なる大友に対しての援軍には協力するが、あくまで目上である態度は崩さない。
龍造寺が「沖田畷の戦い」で衰退すると、さっさと島津配下に納まってしまう。(秋月・ちっ)
秋月が今以上に飛躍するためには、やっぱり道雪&紹運のツートップを倒し大友勢力を駆逐して、「筑前の覇者」であることをアピールしなければならなかった。

秋月種実の「知名度の低さ」は、秋月の「これ以上の勢力拡大」を阻んだ「道雪&紹運の凄さ」でもある。
秋月種実の真の不運は、道雪ではなく高橋紹運の存在だろう。
70代の道雪が、いかほど武勇優れていても「寿命勝ち」できる。
だが紹運は同い年の上に、彼の実子は「名将・立花宗茂」でして・・・これが若いのに強い!
秋月にすれば切っても切っても再生する爬虫類なようなもので、大友勢力を筑前から追い出すことが遂に出来なかった。
もっとも道雪から見れば、秋月は叩いても叩いても出てくるゴキブ・・・失礼∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!


さて解説は終わって「沖田畷の戦い」で勢力分布図が大きく変化した。
1584年4月8日~龍造寺家一門が「鍋島直茂の命令に従う」と、起請文を差し出す。
実のところ、龍造寺親族全てが無能だったわけではない。
病弱な当主を支えて切り盛り出来そうな人物はいる。(諫早さんはガチ)
だが「沖田畷の戦い」で、余りにも人材が戦死しすぎた。
行政実務の執行者「いわゆる重臣クラス」が戦死していたんです。
龍造寺親族は「会社役員」みたいなもので、日常業務となると(@@)チンプンカンプン~~
最終結果の報告しか受けない親族では、年貢台帳や水利訴訟関係の書類が何処にあるかすら知らないだろう。
龍造寺カンパニーの「財政諸表」の数字を押さえていて、かつ世間に対しても「押しが効く」、
でもって「軍事面も通暁している」となると、「鍋島直茂」を置いて他にはいないのです。(* ̄・ ̄*)Vブイ

秋月種実は龍造寺家内部の力関係を熟知していた。
1581年~秋月の仲介で「龍造寺と島津は菊池川(肥後)を国境」に定めた。
1583年~秋月の仲介で「龍造寺と島津が和睦」している。
「漁夫の利」が欲しい秋月には、両者が拮抗しつつ互いに消耗するのがベストだったのだが、世の中、思う通りには行かず竜造寺と島津は沖田畷で激突する。

戦の結果を知った秋月種実の行動は素早かった。
過去2回、島津との仲介で龍造寺とも人脈を築いていたので、速攻で鍋島直茂に接触。
秋月の仲介で島津と龍造寺を交渉させた。
「大将の首」を拒否する。
という龍造寺(決めたのは鍋島さま)の剛毅な態度に感心していた島津側に否応もなく、龍造寺家は自家に不利にならないように、島津家に降伏した

実は、このあたりが勘違いしやすい。
龍造寺隆信の死後の「龍造寺家」は、芸の「二人羽織」状態で、
見えている「顔と身体」は龍造寺なのだが、出ている「両手」は後ろで隠れている鍋島直茂なのだ。
この二重体制が分かりづらいのと、鍋島さまの交渉と秋月の仲介の手際が見事すぎて、龍造寺が「沖田畷以降」は「島津配下」に落ちぶれているのを、うっかり見逃している人が多い。
同じ大敗北でも大友宗麟が厳然といる大友家と、トップが討ち取られた龍造寺家とでは、受けたダメージに天地雲泥の差があるんです。

沖田畷の戦い敗北した龍造寺家が島津配下になったので、期間限定だが「戦国九州三傑」は島津・大友・秋月の三強になる。
「豊臣秀吉」の九州征伐まで残すところ、あと三年。
戦国九州史、果たして生き残りに成功する国人は誰だ? それは またの話

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【1525/大永5年】南九州限定・戦国年表

1/6~相良長袛⑭出水より水俣城へ入る
1/8~相良長袛⑭、長定⑮が水俣城の甥を自害に追い込む

・内城(相良義陽の母)生まれる

10/5~島津忠興(薩州④)没

10/10~常盤(忠良生母)没

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【1525/大永5年】北九州限定・戦国年表

3/2~千葉興常、光勝寺に小城郡内の土地を寄進「佐賀市史」

3/ 神代新次郎(勝利)東千葉家臣・奥常之に弟子入り

・大友義鑑、田北を大将に筑後へ討伐軍を入れる
(星野親忠、黒木、上妻らが先陣)

・星野正美、大内義興を頼り豊前に領地を貰う(糸の星野氏)

・千葉喜胤、横辺田で有馬に敗れ大内の援けで小城に帰る「千葉氏略系図」

・平井氏、横辺田の戦いで有馬へ属す「歴代鎮西志」

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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