秋月種実59【玉砕の裏・前篇】
1585年10月2日に秀吉から書状が来て以来、島津は配下の国人を使うことはあっても、本軍そのものの出陣は慎重だった。
その島津軍を動かしたのがダークな主役・秋月種実です。(陰謀家の本領発揮~
1586年2月~豊臣政権の下で大友家と毛利家が正式に和睦、これにより大友家は秀吉に従うことを表明したことになります。
同じく2月~秋月と同盟&島津配下だった筑紫広門が寝返り、自分の娘と大友家臣・高橋紹運の次男とを同盟結婚させます。
この情報を入手した秋月種実は、ただちに島津家へ知らせ、これが島津に出陣を決意させました。
島津の目的は「配下で不都合あった筑紫を成敗する」というのを口実に、そのまま筑前の大友領地を奪うことです。
秋月の目的は薩摩の島津軍を筑前まで誘い出し、めちゃくちゃ邪魔な高橋紹運を始末することでして、自分の手を汚さず「他人の褌で相撲を取る」とこは相変わらずですわ~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
ん?^-^島津が自分のホームベースの筑前に居座ったら困らないか?ですか?
いいんですよ~いずれ島津は豊薩同盟を破った罪でで秀吉(実質は配下になった大友)とガチンコになるんですから、両者が争ってボロボロになったとこで、秋月が美味しいとこを頂くのよ~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ
3月23日~当主の島津義久は弟・義弘に筑紫成敗のための出陣準備を命じる。
4月6日~大友宗麟が大坂城で秀吉に拝謁し臣下となる。同時に宗麟は「島津討伐」を願いでる。
4月10日~秀吉は小早川・吉川・大友へ九州征伐の準備を命じる。
かつて「大友VS毛利」を画策して成功させたように、今度は「秀吉&大友VS島津」という壮大な絵を描こうとした秋月種実。
ここまで彼の思惑通りに進行していたのだが、現実の歴史は少しづつ歯車が狂い始めて行った。
6月27日~島津軍10万が出陣~筑後三井郡に入る。
7月6日~筑紫広門の勝尾城を島津家久率いる2万が攻撃~筑紫は城を捨てて逃走~
文証が無いから管理人の想像だけど、島津軍はワザと城の囲みの一部を緩めて、筑紫が逃げられるようにしたと思う。
沖田畷で島津に敗れて没落した龍造寺は、家老の鍋島が密かに秀吉に接触に成功してますが、秀吉本軍が来るまで表面上は(自分の安全のために)「島津配下」を装っていました。
原田・宗像も島津配下の国人領主だし、肥後も既に島津に制圧されてるし、筑後各地は侵攻してきた島津の大軍でごったがえしてる。
秋月との長年の同盟を破ったのは筑紫の方だから、いまさら秋月を頼ることは出来ない。
城を捨てて逃げた筑紫広門の行先は、娘の嫁ぎ先である高橋紹運の岩屋城しかありません。
筑紫を紹運の元へ逃がすことこそが島津の狙い(* ̄ー ̄*)ニヤリ
筑紫を口実に、そもまま筑前へレッツGO!侵略するぉ!\(≧▽≦)ノヒャッハァ~
一方、大坂の豊臣秀吉は徳川家康に粘られている真っ最中!∑( ̄◆ ̄;
秀吉の脳内構想では、いまごろは九州征伐のための大軍を率いて、田舎侍を華麗に圧倒しているはずだったんです~><;アウチ☆
7月10日~秀吉は(とりあえず)立花宗茂に籠城の激励(だけ)する~(O ̄∀ ̄)ノ自力でガンバ!
主家である大友家は、もともと分家より兵力が少なかったくらいだから、とてもじゃないけど豊後の国境を守るだけで(@@)涙目状態~筑前への援軍は不可能。
孤立した高橋紹運・立花宗茂はメチャクチャ苦労する羽目になる。
このとき・・・秀吉から援軍が来なかったことを、宗茂はただの一度も愚痴ったことはない。
ほんと宗茂はパーフェクト・・・なみの人格者じゃないなぁ( ̄  ̄)トオイメ。。
7月14日~島津軍6万が高橋紹運・筑紫広門が籠る岩屋城の攻撃を開始する。
秋月種実は、この時の島津からの「岩屋城攻撃のための援軍要請」を拒否した。
名目だけは「大友への牽制があるから」といって秋月本隊を温存し、申し訳程度の派兵のみに留まったんです。
高橋紹運と秋月種実は同い年の39歳。
長年戦い続けたライバルなだけに、種実は紹運の人柄は誰よりも知っている。
島津に寝返ることなど天地がひっくり返っても有りえないし、戦わずして降伏することも無い。
紹運と実子の立花宗茂は「主君の命令で撤退」することはあっても、
「自ら降伏した」ことは一度もありません<( ̄^ ̄)/ビシ★
え?^-^「宗茂は江上・八院で降伏してるって?」
真の立花ファンは「訳あり江上・八院での降伏」をカウントしては成りませぬ~( ̄人 ̄)☆彡~ムン~
とにかくガチで本気の紹運が籠城している岩屋城を攻撃するなど、兵を無駄死にさせに行くようなものですわ。
それに島津軍と行動を共にすれば秋月も討伐の対象になってしまう。
秋月が欲しいのは「島津と大友が争った後に残る美味しい肉」+「自分は無傷な状態」なんです。
岩屋城攻撃前・・・・そのときまでは秋月が援軍を出さないことを島津軍は気にしてなかった。
だって6万の大軍だもん。
山城で多少の籠城されたって楽勝~~~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ と余裕かましてたんです。
ところがフタを空けたら、二週間も粘られたあげくに、戦死者3000人怪我人1500人以上~
というトンデモナイ大損害が出てしまった!!
一緒に籠城してた筑紫広門も奮戦し、息子が島津兵に一騎打ちを挑んで戦死しました。
その時の一騎打ちの相手が、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信の首を討ち取った川上忠堅です。
一騎打ちに勝利した川上も、この時に受けた傷がもとで29歳の若さで亡くなります。
岩屋城は城主の紹運以下763名が誰一人脱落することなく全員が見事な奮戦・玉砕をしました。
戦の口実である筑紫広門は降伏し、紹運の家族(つまり宗茂の弟夫妻と生母)も人質にすることは出来たものの、死屍累々・死山血河の凄まじい籠城戦で、さすがの島津軍も疲れ果ててしまった。
で・・・戦が終わった島津家では「秋月に対する怒り」がムカムカと込み上げて来た・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
もとはと言えば「筑紫の裏切り」を知らせたのは秋月だろ!それが自分は兵を出さないってどういうこと!?
秋月は筑前で長年にわたり紹運と戦ってたんだぞ!紹運の人柄や武勇は秋月が一番知ってたはずだ!!
秋月は我ら島津と紹運を戦わせて、自分だけ無傷でいようとした卑怯者だ!
秋月は信用できない!!島津は二度と秋月とは行動を共にしない!!!
紹運の主家に対する忠義と、圧倒的な兵力差にもかかわらず最後の最後まで死力を尽くした武勇の見事さは、敵である島津家でも語り草となり、誰もが褒め称えただけに、「漁夫の利」を狙った「秋月の汚さ」に、島津家は身震いするほど軽蔑した。
何としても主家・大友を守る!という紹運の執念が勝ったのだろう・・岩屋城攻撃を境に秋月と島津家の友好関係は完全に破綻した。
のちにやってくる秀吉の大軍に、秋月と島津はバラバラに対応することになる。
歴史にIFは禁物なのだが、もし秋月と島津がガッチリ同盟組んで戦っていれば「九州征伐」、ひいては「日本の歴史」が違ったのかもしれないのだが、それは またの話
次回「玉砕の裏・後編」苦労してるのは宗茂だけではないのです~国人領主たちも大変です( ̄人 ̄)☆彡~~ムン~
その島津軍を動かしたのがダークな主役・秋月種実です。(陰謀家の本領発揮~
1586年2月~豊臣政権の下で大友家と毛利家が正式に和睦、これにより大友家は秀吉に従うことを表明したことになります。
同じく2月~秋月と同盟&島津配下だった筑紫広門が寝返り、自分の娘と大友家臣・高橋紹運の次男とを同盟結婚させます。
この情報を入手した秋月種実は、ただちに島津家へ知らせ、これが島津に出陣を決意させました。
島津の目的は「配下で不都合あった筑紫を成敗する」というのを口実に、そのまま筑前の大友領地を奪うことです。
秋月の目的は薩摩の島津軍を筑前まで誘い出し、めちゃくちゃ邪魔な高橋紹運を始末することでして、自分の手を汚さず「他人の褌で相撲を取る」とこは相変わらずですわ~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
ん?^-^島津が自分のホームベースの筑前に居座ったら困らないか?ですか?
いいんですよ~いずれ島津は豊薩同盟を破った罪でで秀吉(実質は配下になった大友)とガチンコになるんですから、両者が争ってボロボロになったとこで、秋月が美味しいとこを頂くのよ~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ
3月23日~当主の島津義久は弟・義弘に筑紫成敗のための出陣準備を命じる。
4月6日~大友宗麟が大坂城で秀吉に拝謁し臣下となる。同時に宗麟は「島津討伐」を願いでる。
4月10日~秀吉は小早川・吉川・大友へ九州征伐の準備を命じる。
かつて「大友VS毛利」を画策して成功させたように、今度は「秀吉&大友VS島津」という壮大な絵を描こうとした秋月種実。
ここまで彼の思惑通りに進行していたのだが、現実の歴史は少しづつ歯車が狂い始めて行った。
6月27日~島津軍10万が出陣~筑後三井郡に入る。
7月6日~筑紫広門の勝尾城を島津家久率いる2万が攻撃~筑紫は城を捨てて逃走~
文証が無いから管理人の想像だけど、島津軍はワザと城の囲みの一部を緩めて、筑紫が逃げられるようにしたと思う。
沖田畷で島津に敗れて没落した龍造寺は、家老の鍋島が密かに秀吉に接触に成功してますが、秀吉本軍が来るまで表面上は(自分の安全のために)「島津配下」を装っていました。
原田・宗像も島津配下の国人領主だし、肥後も既に島津に制圧されてるし、筑後各地は侵攻してきた島津の大軍でごったがえしてる。
秋月との長年の同盟を破ったのは筑紫の方だから、いまさら秋月を頼ることは出来ない。
城を捨てて逃げた筑紫広門の行先は、娘の嫁ぎ先である高橋紹運の岩屋城しかありません。
筑紫を紹運の元へ逃がすことこそが島津の狙い(* ̄ー ̄*)ニヤリ
筑紫を口実に、そもまま筑前へレッツGO!侵略するぉ!\(≧▽≦)ノヒャッハァ~
一方、大坂の豊臣秀吉は徳川家康に粘られている真っ最中!∑( ̄◆ ̄;
秀吉の脳内構想では、いまごろは九州征伐のための大軍を率いて、田舎侍を華麗に圧倒しているはずだったんです~><;アウチ☆
7月10日~秀吉は(とりあえず)立花宗茂に籠城の激励(だけ)する~(O ̄∀ ̄)ノ自力でガンバ!
主家である大友家は、もともと分家より兵力が少なかったくらいだから、とてもじゃないけど豊後の国境を守るだけで(@@)涙目状態~筑前への援軍は不可能。
孤立した高橋紹運・立花宗茂はメチャクチャ苦労する羽目になる。
このとき・・・秀吉から援軍が来なかったことを、宗茂はただの一度も愚痴ったことはない。
ほんと宗茂はパーフェクト・・・なみの人格者じゃないなぁ( ̄  ̄)トオイメ。。
7月14日~島津軍6万が高橋紹運・筑紫広門が籠る岩屋城の攻撃を開始する。
秋月種実は、この時の島津からの「岩屋城攻撃のための援軍要請」を拒否した。
名目だけは「大友への牽制があるから」といって秋月本隊を温存し、申し訳程度の派兵のみに留まったんです。
高橋紹運と秋月種実は同い年の39歳。
長年戦い続けたライバルなだけに、種実は紹運の人柄は誰よりも知っている。
島津に寝返ることなど天地がひっくり返っても有りえないし、戦わずして降伏することも無い。
紹運と実子の立花宗茂は「主君の命令で撤退」することはあっても、
「自ら降伏した」ことは一度もありません<( ̄^ ̄)/ビシ★
え?^-^「宗茂は江上・八院で降伏してるって?」
真の立花ファンは「訳あり江上・八院での降伏」をカウントしては成りませぬ~( ̄人 ̄)☆彡~ムン~
とにかくガチで本気の紹運が籠城している岩屋城を攻撃するなど、兵を無駄死にさせに行くようなものですわ。
それに島津軍と行動を共にすれば秋月も討伐の対象になってしまう。
秋月が欲しいのは「島津と大友が争った後に残る美味しい肉」+「自分は無傷な状態」なんです。
岩屋城攻撃前・・・・そのときまでは秋月が援軍を出さないことを島津軍は気にしてなかった。
だって6万の大軍だもん。
山城で多少の籠城されたって楽勝~~~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ と余裕かましてたんです。
ところがフタを空けたら、二週間も粘られたあげくに、戦死者3000人怪我人1500人以上~
というトンデモナイ大損害が出てしまった!!
一緒に籠城してた筑紫広門も奮戦し、息子が島津兵に一騎打ちを挑んで戦死しました。
その時の一騎打ちの相手が、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信の首を討ち取った川上忠堅です。
一騎打ちに勝利した川上も、この時に受けた傷がもとで29歳の若さで亡くなります。
岩屋城は城主の紹運以下763名が誰一人脱落することなく全員が見事な奮戦・玉砕をしました。
戦の口実である筑紫広門は降伏し、紹運の家族(つまり宗茂の弟夫妻と生母)も人質にすることは出来たものの、死屍累々・死山血河の凄まじい籠城戦で、さすがの島津軍も疲れ果ててしまった。
で・・・戦が終わった島津家では「秋月に対する怒り」がムカムカと込み上げて来た・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
もとはと言えば「筑紫の裏切り」を知らせたのは秋月だろ!それが自分は兵を出さないってどういうこと!?
秋月は筑前で長年にわたり紹運と戦ってたんだぞ!紹運の人柄や武勇は秋月が一番知ってたはずだ!!
秋月は我ら島津と紹運を戦わせて、自分だけ無傷でいようとした卑怯者だ!
秋月は信用できない!!島津は二度と秋月とは行動を共にしない!!!
紹運の主家に対する忠義と、圧倒的な兵力差にもかかわらず最後の最後まで死力を尽くした武勇の見事さは、敵である島津家でも語り草となり、誰もが褒め称えただけに、「漁夫の利」を狙った「秋月の汚さ」に、島津家は身震いするほど軽蔑した。
何としても主家・大友を守る!という紹運の執念が勝ったのだろう・・岩屋城攻撃を境に秋月と島津家の友好関係は完全に破綻した。
のちにやってくる秀吉の大軍に、秋月と島津はバラバラに対応することになる。
歴史にIFは禁物なのだが、もし秋月と島津がガッチリ同盟組んで戦っていれば「九州征伐」、ひいては「日本の歴史」が違ったのかもしれないのだが、それは またの話
次回「玉砕の裏・後編」苦労してるのは宗茂だけではないのです~国人領主たちも大変です( ̄人 ̄)☆彡~~ムン~
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