fc2ブログ

秋月種実59【玉砕の裏・前篇】

1585年10月2日に秀吉から書状が来て以来、島津は配下の国人を使うことはあっても、本軍そのものの出陣は慎重だった。
その島津軍を動かしたのがダークな主役・秋月種実です。(陰謀家の本領発揮~

1586年2月~豊臣政権の下で大友家と毛利家が正式に和睦、これにより大友家は秀吉に従うことを表明したことになります。
同じく2月~秋月と同盟&島津配下だった筑紫広門が寝返り、自分の娘と大友家臣・高橋紹運の次男とを同盟結婚させます。
この情報を入手した秋月種実は、ただちに島津家へ知らせ、これが島津に出陣を決意させました。

島津の目的は「配下で不都合あった筑紫を成敗する」というのを口実に、そのまま筑前の大友領地を奪うことです。
秋月の目的は薩摩の島津軍を筑前まで誘い出し、めちゃくちゃ邪魔な高橋紹運を始末することでして、自分の手を汚さず「他人の褌で相撲を取る」とこは相変わらずですわ~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

ん?^-^島津が自分のホームベースの筑前に居座ったら困らないか?ですか?
いいんですよ~いずれ島津は豊薩同盟を破った罪でで秀吉(実質は配下になった大友)とガチンコになるんですから、両者が争ってボロボロになったとこで、秋月が美味しいとこを頂くのよ~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ

3月23日~当主の島津義久は弟・義弘に筑紫成敗のための出陣準備を命じる。
4月6日~大友宗麟が大坂城で秀吉に拝謁し臣下となる。同時に宗麟は「島津討伐」を願いでる。

4月10日~秀吉は小早川・吉川・大友へ九州征伐の準備を命じる。
かつて「大友VS毛利」を画策して成功させたように、今度は「秀吉&大友VS島津」という壮大な絵を描こうとした秋月種実。
ここまで彼の思惑通りに進行していたのだが、現実の歴史は少しづつ歯車が狂い始めて行った。

6月27日~島津軍10万が出陣~筑後三井郡に入る。
7月6日~筑紫広門の勝尾城を島津家久率いる2万が攻撃~筑紫は城を捨てて逃走~
文証が無いから管理人の想像だけど、島津軍はワザと城の囲みの一部を緩めて、筑紫が逃げられるようにしたと思う。

沖田畷で島津に敗れて没落した龍造寺は、家老の鍋島が密かに秀吉に接触に成功してますが、秀吉本軍が来るまで表面上は(自分の安全のために)「島津配下」を装っていました。
原田・宗像も島津配下の国人領主だし、肥後も既に島津に制圧されてるし、筑後各地は侵攻してきた島津の大軍でごったがえしてる。
秋月との長年の同盟を破ったのは筑紫の方だから、いまさら秋月を頼ることは出来ない。
城を捨てて逃げた筑紫広門の行先は、娘の嫁ぎ先である高橋紹運の岩屋城しかありません。
筑紫を紹運の元へ逃がすことこそが島津の狙い(* ̄ー ̄*)ニヤリ
筑紫を口実に、そもまま筑前へレッツGO!侵略するぉ!\(≧▽≦)ノヒャッハァ~

一方、大坂の豊臣秀吉は徳川家康に粘られている真っ最中!∑( ̄◆ ̄;
秀吉の脳内構想では、いまごろは九州征伐のための大軍を率いて、田舎侍を華麗に圧倒しているはずだったんです~><;アウチ☆

7月10日~秀吉は(とりあえず)立花宗茂に籠城の激励(だけ)する~(O ̄∀ ̄)ノ自力でガンバ!
主家である大友家は、もともと分家より兵力が少なかったくらいだから、とてもじゃないけど豊後の国境を守るだけで(@@)涙目状態~筑前への援軍は不可能。
孤立した高橋紹運・立花宗茂はメチャクチャ苦労する羽目になる。
このとき・・・秀吉から援軍が来なかったことを、宗茂はただの一度も愚痴ったことはない。
ほんと宗茂はパーフェクト・・・なみの人格者じゃないなぁ( ̄  ̄)トオイメ。。 

7月14日~島津軍6万が高橋紹運・筑紫広門が籠る岩屋城の攻撃を開始する。
秋月種実は、この時の島津からの「岩屋城攻撃のための援軍要請」を拒否した。
名目だけは「大友への牽制があるから」といって秋月本隊を温存し、申し訳程度の派兵のみに留まったんです。
高橋紹運と秋月種実は同い年の39歳。

長年戦い続けたライバルなだけに、種実は紹運の人柄は誰よりも知っている。
島津に寝返ることなど天地がひっくり返っても有りえないし、戦わずして降伏することも無い。
紹運と実子の立花宗茂は「主君の命令で撤退」することはあっても、
「自ら降伏した」ことは一度もありません<( ̄^ ̄)/ビシ★

え?^-^「宗茂は江上・八院で降伏してるって?」
真の立花ファンは「訳あり江上・八院での降伏」をカウントしては成りませぬ~( ̄人 ̄)☆彡~ムン~
とにかくガチで本気の紹運が籠城している岩屋城を攻撃するなど、兵を無駄死にさせに行くようなものですわ。
それに島津軍と行動を共にすれば秋月も討伐の対象になってしまう。
秋月が欲しいのは「島津と大友が争った後に残る美味しい肉」+「自分は無傷な状態」なんです。

岩屋城攻撃前・・・・そのときまでは秋月が援軍を出さないことを島津軍は気にしてなかった。
だって6万の大軍だもん。
山城で多少の籠城されたって楽勝~~~ヾ(  ̄▽)ゞオホホホホホ と余裕かましてたんです。
ところがフタを空けたら、二週間も粘られたあげくに、戦死者3000人怪我人1500人以上~
というトンデモナイ大損害が出てしまった!!

一緒に籠城してた筑紫広門も奮戦し、息子が島津兵に一騎打ちを挑んで戦死しました。
その時の一騎打ちの相手が、「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信の首を討ち取った川上忠堅です。
一騎打ちに勝利した川上も、この時に受けた傷がもとで29歳の若さで亡くなります。
岩屋城は城主の紹運以下763名が誰一人脱落することなく全員が見事な奮戦・玉砕をしました。
戦の口実である筑紫広門は降伏し、紹運の家族(つまり宗茂の弟夫妻と生母)も人質にすることは出来たものの、死屍累々・死山血河の凄まじい籠城戦で、さすがの島津軍も疲れ果ててしまった。

で・・・戦が終わった島津家では「秋月に対する怒り」がムカムカと込み上げて来た・・( ̄ー ̄A 汗フキフキ
もとはと言えば「筑紫の裏切り」を知らせたのは秋月だろ!それが自分は兵を出さないってどういうこと!?
秋月は筑前で長年にわたり紹運と戦ってたんだぞ!紹運の人柄や武勇は秋月が一番知ってたはずだ!!
秋月は我ら島津と紹運を戦わせて、自分だけ無傷でいようとした卑怯者だ!
秋月は信用できない!!島津は二度と秋月とは行動を共にしない!!!

紹運の主家に対する忠義と、圧倒的な兵力差にもかかわらず最後の最後まで死力を尽くした武勇の見事さは、敵である島津家でも語り草となり、誰もが褒め称えただけに、「漁夫の利」を狙った「秋月の汚さ」に、島津家は身震いするほど軽蔑した。

何としても主家・大友を守る!という紹運の執念が勝ったのだろう・・岩屋城攻撃を境に秋月と島津家の友好関係は完全に破綻した。
のちにやってくる秀吉の大軍に、秋月と島津はバラバラに対応することになる。
歴史にIFは禁物なのだが、もし秋月と島津がガッチリ同盟組んで戦っていれば「九州征伐」、ひいては「日本の歴史」が違ったのかもしれないのだが、それは またの話 

次回「玉砕の裏・後編」苦労してるのは宗茂だけではないのです~国人領主たちも大変です( ̄人 ̄)☆彡~~ムン~
スポンサーサイト



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1532/享禄5年/天文元年】南九州限定・戦国年表

6/13~天津+志岐+植木+長島+大矢野が上津浦を攻撃
6/16~相良義滋が上津浦を援軍
7/1~相良が大勝する

7/29~天文へ改元

・深水長智(頼金長男)生まれる

・入来院重朝⑫平佐城を攻略

・北郷+北原+豊州③忠朝が三俣院高城を攻撃
11/27~北郷+北原+豊州③忠朝が野々美谷城攻撃
 城は持ちこたえるが野戦で伊東方730余人討死

12/22~肝付兼続、西俣城を攻めとる

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1532/享禄5年/天文元年】北九州限定・戦国年表

・大友+少弐+西千葉が杉興運のいる太宰府を攻撃
 大内義隆が陶興房の長門・周防の兵を派遣したので退散

・杉興運・興房VS少弐、多々良浜で戦う
 少弐は立花城へ逃げる
 杉興運の息子・隆連が少弐を追って博多・菅崎へ入る
 隆運の元へ原田隆種、青山の留守氏、鏡の草野氏が馳せ参じる

・大内勢、博多から那須に入る
 粥田庄の秋月を打ち通る

・陶興房を少弐の宗、横岳、馬場、出雲、筑紫が待ち伏せ攻撃
 陶は不意を突かれて敗走した。仁保ら600人が討死

・大友義鑑、豊後へ帰るが少弐への援軍は残す

7/4~大友義鑑、従四位に任官

7/29~天文へ改元

・千葉胤頼(少弐資元次男)生まれる

8/ 大友義鑑、配下の将に豊前、筑前への出陣を命じる
8/11~大友勢出陣の報が渋川氏に届く
8/20~大友勢出陣の報が大内義隆に届く

9/2~大内義隆、諸将へ豊前、筑前への出陣命じる
9/19~筑前宗像郡で合戦
 大友・立花親貞、宗像氏延VS大内・飯盛山城主・河津隆業
9/24~豊前・佐田朝景が大友の誘いを拒否して大内に通じる

10/ 大友義鑑、大内任命の宇佐郡代・佐田朝景の菩提寺城を攻撃
 佐田朝景は妙見岳へ逃げる

11/14~大友義鑑、妙見岳を攻撃するが失敗する
11/15~大内義隆、大友・少弐を討つために陶興房を出兵させる
11/21~大内義隆、山口から防府まで出陣

12/ 国東郡・姫島沖に大内方の船が襲来
 大友義鑑、富来氏に防衛命じる

12/ 大友方、是松ら志摩衆が怡土郡へ向けて出陣

 

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

秋月種実58【惣無事】

現代での研究では「令」としての「惣無事令」はなかった説が主流になりつつある。
だが惣無事という言葉はあった。

他ならぬ織田信長が使い、織田路線を継承した秀吉が用いた。
惣無事とは織田政権が確立したエリアを指す。
関東は一時、惣無事の状態になってのだが織田信長の死によって瓦解した。

織田政権を継承した秀吉は逆らうものを討伐すると同時に、惣無事の状態になってたエリアを戻さなければならない。
それが秀吉が織田信長の路線を継承した証になる。

九州における信長が残した惣無事が大友と島津の同盟、豊薩(ぶんさつ)同盟だ。
晩年まで外交的センスが衰えてなかった大友宗麟は秀吉に助けを求めた。
島津が織田信長の残した惣無事を犯していると。

秀吉は島津討伐が、そのまま九州討ち入りの大義名分になると判断した。
九州へ大軍・物資を移動するには、中国地方が豊臣政権の支配下なのが必須条件です。
ちなみに四国は、当時の中央の人間にとっては異世界です∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
毛利家が秀吉に従うことで、その条件はクリアできました。
だから島津へ秀吉が書状を出したのは、毛利との正式和睦の後なんです。

さあ、九州へって時に徳川家康に粘られた^^;
1586年5月~徳川家康45歳と秀吉の妹・旭姫44歳が再婚する。
それでも家康は上洛しなかった。
秀吉の義弟という位置を手に入れても、さらに家康は粘り続け、秀吉は生母を人質に出すところまで妥協する。
10月27日~徳川家康が大坂城で秀吉に臣従を誓う。
秀吉と家康は直ちに九州征伐に関する入念な打ち合わせを行う。

その間にも九州の情勢は目まぐるしく変化を続けていました。
10月18日~秀吉と家康が対面する直前・・・秋月種実の次男・元種が黒田・吉川・小早川の軍に攻撃を受ける!
九州征伐の半年前に既に秋月と毛利勢が交戦状態に突入です!
岩屋城玉砕の悲劇の裏で秋月に何があったのか?それは またの話

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1531/享禄4年】南九州限定・戦国年表

1/15~島津尚久(伊作⑩忠良3男、忠長父)

7/11~伊東家中、若衆方と守護方が分裂し内紛となる

11/11~相良長定⑮、甥・義滋⑯が「人吉の復帰願う」とウソを言い、やってきた長定と息子を殺害

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1531/享禄4年】北九州限定・戦国年表

・筑紫惟門生まれる

2/13~菊池武包、島原で没

・秋月種時42歳没、文種が継ぐ

・大友義鑑、星野親忠の妙見城を3年目の攻略中
 星野に菊池義国(義武)が肩入れ、大内義隆へ助力を求める

・大内義隆、杉興運を派兵

3/14~少弐資元、大友に与力するため多久を出発
 少弐資元、上筑前に入るころに龍造寺家兼、高木右京大夫が合流
 少弐資元、岩門へ着、松浦の相知、広瀬が加わり300騎に増える

4/27~龍造寺胤家93歳与賀館で没する「佐賀市史」

閏4月~少弐、岩門から三笠郡を通って上筑後・生葉(星野エリア)着

・少弐資元と大友義鑑が対面

・大友義鑑、管領・細川高国を通じて星野討伐の御教書ゲット

・松浦親(ちかし・宗家)、少弐資元の尽力で旧領復活(松浦家世伝)

夏~松浦親(ちかし・宗家)、少弐資元の息子を養子にする

閏5月~龍造寺胤久、千葉興常より走りなど覚悟を褒められる「龍造寺家文書」

8月~大友義鑑と大内義隆が義絶「歴代鎮西要略」









続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

秋月種実57【裏切り・・・】

1585年からなかなか離れられない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
この年に足利将軍から「義」の文字を貰って「義弘」と名乗りを改めた島津義弘。
義弘にとって、気持ちが改まる出来事が、もう一つあった。
二人の息子、久保と忠恒が元服したんです~~\(≧▽≦)ノオメデトウ!

義弘の兄で、現当主の義久が烏帽子親、義弘の弟の家久が理髪役です。^-^
二人の叔父に見守られ少年は大人の仲間入り・・・戦場で戦う武将人生のスタートです。
プライドの高い忠恒は、兄貴と一緒の元服でイヤだったかもです。∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

豊臣政権が島津へ書状を出した1585年~このギリギリの段階で島津家は肥後を攻略する。
肥後は阿蘇神社の阿蘇家が島津に対し抵抗を続けていた。
だが阿蘇家を支え続けていた重臣の甲斐宗運が死亡し(毒殺説あり)ついに力尽きて降伏した。
阿蘇家と同盟関係だった三田井家が、阿蘇家の降伏で自軍だけでは支えきれず島津に降伏。
三田井家は日向に残る最後の島津抵抗勢力でした。

伊東家を滅ぼして「三州統一(薩摩・大隅・日向)した」と言われる島津家だけど、実際に日向全土が完全に島津のものになるのは、この三田井家降伏の1585年です。
阿蘇と三田井の付き合いは「神社系武士団( ̄▽)人(▽ ̄)仲間♪」
阿蘇は名前のまんま「阿蘇神社」嫡流で、三田井は「高千穂神社」嫡流なんです^^
どっちも神社も社格高いし、島津が薩摩に来た前からいる土着の武家です。
戦国時代なんで最初から( ̄▽)人(▽ ̄)友達♪だったわけでは無いが、戦国後期になると島津に対抗するために協力関係が深くなり、三田井家の筆頭家老は、阿蘇の重臣・甲斐宗運の息子(庶子)です。
三田井は島津に滅ぼされた伊東家とも協力関係(敵だった時もある)で、伊東家が日向を亡命するときも一時、匿ってました。

三田井の領地は殆ど山~しかも天嶮^^;
山岳地帯を態々攻める物好きも少ないために、自領が侵略されることは殆ど無かったの^^;
同年12月~降伏した三田井家が「島津の命令(ココ重要)」で、国境に駐留していた大友派遣軍を破る。
全国的な知名度はレア・コアな三田井家ですが、高千穂・・・つまり不便な山岳地帯に住んでるために、めちゃくちゃ足腰強くって、ものすご~~~~~~~~~い強兵なんです。
だからアッという間に、大友軍をo( ̄ー ̄θ★ケリッ 蹴散らしてしまいました。
これが12月です・・・秀吉書状を出したのは10月です。
「はい、これで島津は豊薩同盟を破り惣無事違反確定です」

12月25日~豊臣秀吉は関白から太政大臣となり「位人臣を極める」トップ高~
明けて1586年1月11日~島津義久が雅の友・細川幽斎に秀吉への取り成しを頼む。
中身は「ウチは豊薩同盟(大友との同盟)を守ってますから改易しないで」です。

確かに「豊後(大分県)」には直接侵攻はしていないから、ギリギリセーフ?とコジツケできないことはない。
なぁに家老の2~3人が腹を切れば誤魔化せるぉ○ Oo━y( ̄Σ ̄*)ブハーッ
そんなことで誤魔化せる段階ではない^^;
もちろん島津も、それを分かった上での時間稼ぎです。(* ̄ー ̄*)ニヤリ

1月23日~島津が阿蘇家の高森城を落とし、肥後を完全に征服する。
2月~大友家と毛利家が和睦する。
いまさら?って思うかもですが、この和睦には意味がある。
戦したり撤退したり和睦したり敵対したりと、忙しい大友と毛利の関係だったけど、これまでの「和睦」は「足利将軍家の調停」による和睦です。
「今回の和睦」は「豊臣政権に従う」ことを形として現したことになるんです。
この「和睦」により大友家は豊臣政権に幕下に入り、長年のストレスだった「毛利からの脅威」から解放されます。

4月6日~病弱な宗麟が無理をして旅立ち、大坂城で秀吉に拝謁(つまり臣従)し、「島津征伐」を願い出る。

いっぽう秋月種実の周辺でも動きがあった。
2月に大友家臣・紹運の次男・高橋統増と筑紫広門の娘・加弥姫が同盟結婚したんです。
広門は長年の秋月の同盟者でした・・・それが土壇場で裏切られた!
筑紫広門と秋月種実は父親の代からの同盟関係で、互いの父が大友に討たれるという似たような境遇で「打倒・大友」のために手を携えていた。
戦国の同盟なんてアテにはならないが、少なくとも宿願の「打倒・大友」達成までは両者の蜜月は続くものと秋月は考えていたんです。
でも筑紫も考えに考えて「このままじゃ島津の仲間として討たれてしまう」と、「打倒・大友」より「生き残り優先」の筑紫らしい判断を下した。
戦の始まる前に豊臣に従う大友と同盟関係になれば、筑紫家の領地は秀吉に安堵されます。
でも昨日までガチ敵対関係の相手と同盟結婚するのは容易なことではありません。

秋月にも竜子という娘がいて高橋紹運の次男に嫁がせる構想は秋月にもあったらしい。
で、サイトで拾った話だと、すでに水面下で結婚オファーの話も出ていたそうです。
秋月の場合は二つに別れた高橋家を一つに統合し、秋月の血族で固めたいという野心があった。
高橋家は大蔵さんちの末っ子の子孫。
秋月は大蔵さんちの次男の子孫で、両者は同族関係だ。
高橋の血統は絶えていて血縁は無いが、武家だから「家督・領地」が残ってる。
大友との戦いで政治的理由で二つに別れた「高橋家の家督」のうち、一つは秋月種実が次男を送り込んで手に入れたので、残るは「紹運の高橋家の家督」だ。

秋月は高橋紹運の筆頭家老を調略し、新たな当主を立てさせようと画策しているところを見ると、(失敗して紹運に裏切り者は誅殺されている)「高橋家の家督」を完全に手に入れて「大蔵系氏族」の頂点に立とうと考えていたと思う。
嫡流は「大蔵さんちの長男の子孫・原田氏」なのだが、実力的に上位になることで、あわよくば、宗家・分家の立場を逆転させようとしたのだろう。
「分家が宗家の座を狙う」というのは島津でも大友でもあるくらい「よくある話」で、どこの宗家も「君主の覇権」を確立するために苦労をしている。

野望の一つを潰され、しかもそれが信頼していた筑紫の裏切りによるものだと知り秋月は激怒した。
さっそく「筑紫の裏切り(筑紫は島津配下でもあったので)を島津家に報告(自分で手を下さないないところが陰謀気質・爆)。
3月23日~島津義久が筑紫討伐のための出陣準備を島津義弘に命じる。
筑後の国人・筑紫の裏切りの影響で「風雲急を告げる事態」が筑前に来ようとしていた。
道雪亡きあと、筑前を死守する紹運・宗茂親子に島津の大軍が津波のようにやって来る。
だが、それを誘発させた秋月のもとにも「九州征伐」という大嵐が近づいていた。

4月10日~豊臣秀吉が小早川隆景・吉川元春+元長親子・大友家へ九州征伐の準備命令を出す。
九州征伐まで残すところ一年。
秋月・原田・宗像・筑紫・・・生き残る国人は誰だ?それは またの話 

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1530/享禄3年】南九州限定・戦国年表

・相良晴広、義滋の養子になる

3/ 犬童長広、上村長種(頼興弟)に討たれる
 相良義滋、長定⑮を謀反人とし加担した犬童一族を退治する
 犬童頼安(10歳)、当時4歳ということで出家を条件に助命

7/27~菱刈重州⑭+相良義滋(援軍)が大口城を攻撃
 大口城主・羽州島津③忠明(別名大口殿)
 攻撃側は諏訪神社の祭礼参拝者に紛れ込み城に火をかけた
 島津忠明自害、大口城落城「菱刈史」
※羽州家は男系が絶えたため、島津義久の命で孫「羽州娘の男子」が継ぎ大島家として残る
※島津貴久が忠明を祭神とする西原神社と息子・明久を祀る「若宮神社」を建立

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

【1530/享禄3年】北九州限定・戦国年表

1/ 有馬晴純、塚崎攻略のため白木住吉城を攻める
 奇襲により後藤純明の勝利(戦勝祝いが荒踊りとして残る)
 後藤純明、有馬晴純孫娘と婚姻により和睦

春 大内義隆、少弐退治の許可を将軍から得る

4/下旬 筑前守護代・杉興運(おきかず)討ち入る
 少弐側:筑紫尚門、朝日頼貫、横岳資貞が大内へ降り寝返る
 千葉胤勝(西)、実父・横岳同様大内に付く

7/15~龍造寺胤久、千葉胤勝より与賀庄1000町6郷を安堵「龍造寺家文書」

8/15~田手畷の戦い
 鍋島清久(直茂祖父)配下・野田清孝率いる赤熊隊100騎奇襲
 龍造寺家兼(盛家も従軍)馬場頼周も奮戦
 杉興運は敗走、討たれた首級80余、筑紫、朝日、横岳討死
 龍造寺家兼、功を賞し家純娘を清久次男・清房へ嫁がせる
 婚姻の引き出物として佐賀郡本庄80町を与える
(「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」は鍋島清久父・清直を少弐教頼の子としている)
(清久人為、質直孝順、而慈悲仁護也「歴代鎮西要略」)

・大友義鎮㉑生まれる

・赤星統家生まれる

続きを読む

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
378位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
83位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR