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秋月種実61【玉砕の裏・後編】

今回は文証が残っているわけではないので、管理人的的推測を書いちゃいます^^

1586年2月~筑紫広門が島津を裏切り、大友家臣の高橋紹運と同盟しました(息子と娘が結婚する)。
筑紫は秋月種実の「打倒・大友」の長年の盟友でもありました。
秋月は、この「筑紫の裏切り」を島津家に知らせることで「島津軍を北上」させることに成功します。

7月に筑紫広門と高橋紹運の城を攻撃し、筑紫は島津軍に捕えられ、紹運は玉砕しました。
ところが秋月は「報告した」だけで、島津軍の派兵要請に対し、義理程度の兵力しか出していません。
動き出した島津軍の勢いは止まらず、秋月だけに関わるわけには行かない。
紹運の実子が守る立花城を囲みますが、若き名将・立花宗茂に散々振り回されて思うように行かず、そのうち「秀吉の討伐軍が来る」という情報で、筑前から撤退してしまいました。

龍造寺は家臣の鍋島が、すでに秀吉に接触し生き残りに成功しています。
蒲池・黒木・門司は・・・とにかく色々あって没落しました。
立花・高橋・筑紫・問註所が「島津からの攻撃を受けた被害者」で大友側です。
宗像・原田・長野・城井・星野が島津配下として兵を動かしてます。
秋月は島津への派兵を「言い逃れできる」程度の最小限度に抑え、中立的立場をキープしています。
この時点で秀吉の討伐軍が来れば、秋月以外の島津配下の国人領主は潰されますし実際の歴史でもそうなりました。

筑前に島津の大軍が来襲したので、筑前の秋月領も少なからず飛び火して「被害」があったでしょう。
秋月はやって来る秀吉に「自分も島津に脅された」と言い、島津配下の国人領主を攻撃するために出陣すれば、その「功績」で筑前一国を手に入れるのも夢ではない・・・(* ̄ー ̄*)ニヤリ

策士、策に溺れる・・・陰謀家の秋月には珍しく予想が外れた。
外れたこと列挙~~~

1)紹運の玉砕があまりにも見事だったために、派兵を最小限に抑えた「秋月の本音」が島津にバレバレになった。

2)紹運に粘られたために、島津軍はタイムアウト~紹運の息子・立花宗茂の立花城を落とすとこまで至らなかった。

(漁夫の利を得たかった秋月にしてみれば、筑前で踏ん張る目障りな大友家臣を全て島津に片付けて欲しかっただろう)

3)「秀吉が来るぞ~」と噂が流れて、島津軍は撤退したのだが、肝心の秀吉軍が来なかった。

秀吉は狸・徳川家康との交渉が難航し、大坂から動けなかった~~_| ̄|○ il||li がくぅ
この年の4月に秀吉は小早川・吉川・大友に九州征伐の準備を命じていましたが、「秀吉が来るぞ~」の噂は、彼らの準備行動に尾ひれがついたものだったんです。
タイミングを完全に外した秋月種実。
島津には「紹運を攻撃するときに派兵しなかった」せいで友好関係が破たんしてしまったし、
かといって「今、大友に味方」しても、島津軍の攻撃の矛先が秋月に向くだけで、秀吉が来てないのに、大友のために踏ん張る理由が秋月にない。
てか、大友のほうだって、もう秋月を信用しないでしょ~^^;
【大友】あれれ~・・ヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(; ̄▽ ̄)ノえっと、どっちに行けば・・【島津】
(名前が種実だけに)自分で撒いた種なんだが、さすがの秋月も去就を決めかねた。
期間にすれば一か月ちょいなんだが、このわずかな期間に「自分の立ち位置」をハッキリさせなかったことが、秋月の運命を決める。

そうこうしているうちに「名将・立花宗茂」の反撃が始まった。
8月25日~立花宗茂は島津配下の国人・星野ブラザーズの守る高鳥居城を落城させる。
星野家は、かつて雷神・道雪が倒した黒木氏と同族です。
宗茂は雷神・道雪の婿養子だったので、星野ブラザーズは立花が攻撃してきたことで逆にハッスルしてしまった。
ちなみに星野・兄が当主です。(* ̄・ ̄*)b
星野ブラザーズは、それは見事に玉砕したのだが、知名度では7月に玉砕した紹運に完全に食われてて、地元でも知ってる人は少なさそうだ~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
だって島津の配下だけど家臣じゃないから、意地を張らずに降伏したって構わないわけだし、降伏してれば星野家は没落せずにすんだし、(庶流が鍋島家臣で残る)
島津6万を2週間も足止めするという戦略的価値が高い紹運に比べて、星野ブラザーズの玉砕は気の毒だけど大勢に影響が無いんだもん~
(星野ブラザースの玉砕=無駄死に状態)

立花のほうで、この時の逸話が残ってます。
立花の家老・小野和泉(オノ・ヨーコの先祖)の家臣(同族かも)に小野理右衛門という者がいた。
彼は星野ブラザーズの高鳥居城に侵入すると、あちこちに放火しまくり城内を混乱させて、落城に大いに貢献した。
ところが放火に夢中になってるうちに星野兵に見つかり、追いかけられて堀端まで追い詰められた。
万事休すの小野理右衛門は、なんと堀からヒラリっと飛び降りた∑( ̄◆ ̄;
昔の城だから堀の高さがさほどでも無かったのか、全くの無傷だったそうだ。
ちなみに小野理右衛門は、岩屋城を取り戻すときも「放火大作戦」を決行し、宗茂から感状を貰っているそうだ。
そんなにアチコチ放火してたら、手に入れても「施設」として再利用するのは手間だったろうなぁ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

大坂にいた秀吉も何もしなかったわけではない。
準備命令のほかに先発軍を出す事を考えていた。
次回・・露払い~いよいよ戸次川の戦いです・・・それは またの話
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ジャンル : 学問・文化・芸術

秋月種実60【玉砕の裏・中編】

散り際の見事さは大河以上!
戦略的効果は世界戦史級~~
そんな岩屋城・籠城戦の裏側には、実に色んなドラマが隠されていたのです。
前篇では岩屋城・紹運を倒すために画策した秋月種実を紹介しましたが、
今回は島津配下として岩屋城攻撃に参加した宗像家を語ります^-^

宗像さんとこの事情は、いままでも熱弁を振るってたんだけど、しばらく間が空いたので、ざっとおさらいしますね^^b

当主の宗像氏貞(むなかた うじさだ)は、本来なら家督に縁のない庶子でした。
運命が変わるのは古い話で、中国地方の覇者・大内家が滅んだことからです。
宗像前当主は大内氏に従い大寧寺で戦死してしまいます。
宗像の家督相続に介入したのが、大内に対し謀反を起こした陶晴賢(すえ はるかた)です。
宗像氏貞の生母は陶一族の出身だったの・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ

陶が反対派の家臣全員、そして氏貞の生母が前当主の正妻と娘と侍女を含めて6人を殺してしまう。
当時まだ年少だった氏貞は、大人の汚い事情を知らぬまま当主になった。
でもって陶晴賢が毛利家によって滅ぶと、宗像家は毛利家の配下となった。
宗像家の「不幸」は、その地理的位置にある。

大友家臣の中でも他国にまで知られた武将・道雪の隣だったからです。
そのため毛利配下の宗像家は、常に大友家(つまり道雪)の軍事的圧力の脅威にさらされていました。
それでも毛利が北九州に熱い思いを注いでいる時は、まだ良かった。
その毛利が、大友宗麟の外交戦に敗れて、完全撤退してしまう。Σ( ̄O ̄ノ)ノがぁぁん!
周辺はみんな大友配下、タイミングを外して一人だけ取り残された宗像は、遅ればせながら道雪に降伏する。
それまでず~っと毛利配下で、大友家にコネが無かったために「降伏の条件」が他より過酷になった。_| ̄|○ il||li がくぅ

降伏の条件~「宗像の実妹・色姫を人質として道雪に預ける」「宗像家臣・河津の首を差し出す」
宗像は・・・ごく普通レベルの国人だった・・・( ̄  ̄)トオイメ。。 
だから「自分が生き残るため」に「降伏の条件」全てを呑んだ。
特に「河津の首」に関しては、河津本人を呼び出して騙し討ちにしたんです。
さすがに良心が咎めた宗像は、河津の遺児を引き取り育ててました。。。(ω・`))シュン

宗像が「さらに不幸」だったのは、主役を張れるほどダークな秋月種実の御近所だったことです。
秋月が「打倒・大友」に燃えて悪巧みをするたびに、宗像は巻き添えをくらった。(@@)ヒィィ
さらに亡き河津の郎党が道雪を逆恨みして、主君の宗像の制止をガン無視して、道雪と戦を始めてしまう。
その揉め事を秋月が素早く、[壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝ情報キャッチ!、
河津の郎党と自分(秋月)が、裏でやり取りしていたかのように装ったので、道雪の怒りが倍増。
宗像は大友配下から切り捨てられてしまい、お怒りの雷神様・道雪の攻撃を受けてしまう。
人質だった宗像最愛の妹・色姫は、このトラブルを嘆き「自分が足手まといになる」のを恐れて自害した。

秋月の予定では、大友から見捨てられた宗像が「秋月を頼る」はずだったのだが、
↑のような陰謀する秋月を宗像が選ぶはずもなく、宗像は島津配下となります。
でもそれで楽になるわけじゃなく、道雪と秋月の両方からの圧迫に必死で領地を守る、神経が磨り減る毎日が続いた。

中央では あれよあれよという間に「豊臣政権」が誕生した。
いち国人領主の身では、天下の大きな流れに、どうしてよいのか分からない~><;アウチ☆

そして恐れていた事態発生~島津軍が北上!ギャァ( Д )  ゚  ゚筑後から筑前へ大軍が来たァァァァ!!
島津「岩屋城を攻撃するから、宗像も兵を出しなさい」<( ̄^ ̄)/ビシ★
あぁあぁぁ~~~アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(; ̄▽ ̄)ノフタ ど・・どうぢよう・・・
島津に逆らうなんて無理なのぉぉ。 ゜゜(´□`。)°゜。

緊張の連続で宗像氏貞が、ついにダウン!
最初は軽い風邪だった・・・ところが心労のあまり体力消耗していたため、肺炎を併発。
あっ・・・という間に瀕死の重傷になり、そのまま回復することなく死亡!
最期を看取ったのは、宗像が殺した河津の遺児だったそうです。。。(ω・`))シンミリ

宗像が「超・不幸」だったのは、子供が娘しかいなかったことです。
九州征伐直前に、宗像家は当主不在な件~~~∑( ̄◆ ̄;
さらに天正~慶長年間は、北九州で何度か飢饉が起きていて、宗像領付近でも餓死者が出ていた。
相次ぐ「不幸の連鎖」に人々は「これは昔、家督争いで殺された6人女(前当主の正妻+娘+侍女たち)の祟りに違いない。
と噂して、これに尾ひれがついて、オカルト伝説が派生する。

「地理的位置」+「周囲の人物(特に秋月)」という不幸に、
「領地内での飢饉」「豊臣政権誕生」「島津軍北上」と言う政治事情が重なり、
もはや「普通ていどの武将」が、どうにかできる状態では無かった。

さらに肝心の時に「本人が風邪をこじらせポックリ病死」+「子供が娘だけで当主不在」です。
ここまで「不幸の連鎖」が重なると「祟りのせい」と、後ろ向きにストレス発散したくなるのも無理無いですわぁ^^;
宗像家では、為すすべもなく島津家に要求されるまま「岩屋城攻撃のため」に派兵しました。
このことが、宗像家の運命を決定しました・・・

もともと豊臣秀吉は、全ての「宗教勢力」から武力を奪うつもりでしたので、宗像の派兵は絶好の口実になったんです。
宗像家では姫君に婿を迎えて、何とか「家名存続」だけでも~~と必死に嘆願しましたが、
豊臣秀吉は、それすら許さず「武家としての宗像家」は「御家断絶」となったのです。
(姫君の女系の子孫は残っているそうです。)

国人領主というのは「大企業の下請けをする地方の中小企業」のようなもので、大勢力の都合で「大海に浮かぶ木の葉」のように激しく揺れ動きます。
祟りなどではなく、一つの判断ミス・ボタンの掛け違いが、大きな岐路になるんです。
毛利VS大友との戦い(1568年)・・・この時に「降伏の条件」全てを呑んだ時から、少しづつ宗像の家運は傾いて行ったのでした。。。。
国人領主から描いた北九州の戦国史・・・岩屋城攻撃がキッカケとなって宗像家が没落です。

次回「玉砕の裏・後編」策士、策に溺れた秋月の運命は?・・・・それは またの話

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ワクチン接種しました。

自治体だからファイザーです。
9月に2回接種。
土曜日に接種し日曜日にダウン^^;

他は実家の用事で忙しくバタバタと日にちが経過し
ようやく落ち着いたところです^^;

不定期更新にならないように精進します<(__)>
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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