秋月種実64【島津軍・豊後侵攻す!~戸次 川合戦2】
1586年・月日不明~大友家の領地・豊前国で謀反が起きた。
領地と言っても衰退した大友家には、かつての威光は無く、隣国・筑前に島津軍が侵攻(8月24日に諦めて撤退)して来た余波で、豊前の国人領主たちが反抗し始めたんです。
その中で最も活発だったのが、城井家の一族・野仲氏と同盟関係の秋月種実の次男・高橋元種です。
大友義統の実叔父(ココ重要)で、豊前の要だった田原紹忍だけでは抑えきれず、大友家に救援を求めた。
立花宗茂とか、高橋紹運とか、他の忠義の家臣の籠城には「余力無いから」援軍を送らなかったのに常日頃、エコヒイキしている田原紹忍の救援要請には、主君・大友義統は即断をする。
これでは他の家臣のモチベーションが下がり、不満が募るのは無理もない。
豊臣秀吉が派遣した四国勢・先発軍は9月に豊後国首都・府内に到着していたのだが、10月上旬~大友義統は「豊前鎮圧」のために、先発軍を全て引き連れて自ら出陣し本国を空にしてしまう。
驚いたのは秀吉の命令で「筑前の援軍」に来ていた黒田如水だ。
∑( ̄◆ ̄;「島津軍が、いつ侵攻しても不思議じゃないのに、本国カラって馬鹿なの?!」
ただちに同じく救援に来ていた毛利軍(神田隊)と共に豊前入りし、高橋元種の小倉城を制圧する。
さらに黒田如水は秀吉家臣・宮城豊盛を毛利家に派遣し、吉川・小早川の両川の出馬を求める。
4月の段階で豊臣秀吉から「出陣準備」を命令されていたので、両川は10月中に豊前へ出陣できた。
10月17日~島津へのリベンジが一段落した立花宗茂が、豊前入りした黒田如水に援軍の御礼言上してます。
吉川・小早川軍は、11月には反抗する豊前の国人領主の城を落城させている。
11月15日に吉川元春が小倉城で病死したために、吉川・小早川軍も混乱したものの、
高橋元種の居城・香春岳(かわらだけ)城を孤立させ、おいたが過ぎた数え16歳の高橋元種は、黒田・小早川・吉川のフルボッコの攻撃を受ける\(≧O≦)ノキャン
抵抗すること20日あまり・・・12月上旬に高橋元種は降伏した。
高橋元種の降伏した時が「大友領地・豊前の謀反が鎮圧」された時であり、同時に「豊前が豊臣政権の制圧下」に入った時でした。
大友義統にではなく小倉城にいる如水の元に、豊前の国人たちが続々と人質を差出し(人質預かりは後に毛利家が担当する)毛利輝元も後にわずかな手勢で(安全確認済み)豊前入りして、後は豊臣秀吉、御大の豊前入りを待つばかり・・・露払いは完璧です。(* ̄・ ̄*)Vブイ
(秀吉の軍師~黒田如水~如水は隠居後の名前ですが、分かりやすさのため如水で統一します)
一方、豊後・府内がガラ空きになったのを知った島津軍が軍行動を開始する。
10月中旬~肥後口から島津義弘軍が、日向口からは島津家久軍が、それぞれ豊後へ侵攻!
島津家が「府内がカラ」という正確な情報をキャッチしたのは、大友内部で裏切り者が出たからです。
大友義統の実弟・田原親家、家臣の志賀家、入田家が島津へ内通し、大友の軍事情報を漏洩する。
これは大友義統だけの責任ではなく、「偉大な父・大友宗麟の今までの行動」に起因します。
宗麟の次男・親家は、兄の義統が大嫌いで「自分の方が当主に相応しい」と公言していました。
宗麟がハマった「キリシタンの洗礼」も受けていて、「キリシタン嫌い」の義統と宗教上でも反りが合わない^^;
家督争いを恐れた父・宗麟は、親家を田原家へと養子に送り込んだ。
(目障りな田原家を乗っ取る目的もある)
父・宗麟は次男の田原親家を加判衆(かばんしゅう・大臣のこと)に抜擢し地位・領地・名誉・・・と家臣としては最高クラスのものを御膳立てしたのだが、「当主の座」が欲しい親家は満足できず「大嫌いな兄を潰すため」に島津へ内通してしまったの。
家庭不和・家族仲の悪さは・・・やはり宗麟と奈多夫人の不仲に起因しているわけで・・・
家族間で「血を見る悲劇は無い」が、土壇場で裏切るという最悪の事態を迎える。
志賀家も宗麟のやり方に不満を持ち、北志賀家を残して一族殆どが島津へ内通。
入田家のほうは恨みつらみは、二十数年前まで遡る。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
宗麟が家督相続するときに政変が起きて、反対派だった入田家は処分された。
しかも宗麟は後始末の為に「先代(つまり宗麟ダディ)殺し」の汚名を着せて、入田を処刑したんです。( ̄ko ̄)チイサナコエデ
一族の者は連座を免れて大友家臣として残ったものの、その時受けた恥辱と屈辱を忘れることができず(当たり前)島津へ内通する。
なんというか・・・今まで先送りしてた問題が噴出してるような状態・・・_| ̄|○ il||li がくぅ
島津義弘軍が侵攻した肥後口は、志賀家で唯一裏切らず踏ん張り続けた志賀親次(北志賀家当主)が、
先鋒のロバート・デ・ニーロ・・・じゃなかった新納(にいろ)忠元を撃退した。
新納さんは名門の重臣らしく和歌も堪能ですが、何より別名「親指武蔵」と呼ばれる猛将でした。
何で親指かって言うと、島津の猛将を指折り数える時に、一番先(親指)に名前が挙がるからなのと。。。。。
実は・・・背が低かったからです・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
身長の事は此処だけの話ですよ~本人、かなり気にしてます・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
命が惜しい人はニーロさんに身長の事は、絶対に振っちゃダメですからね~~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
とにかく志賀親次の守る岡城がガンとして崩れず、さすがの猛将も思うような戦果を出せなくて、島津義弘軍に関しては、いいとこ無しでした^^;
島津家久軍が侵攻した日向口の方は、「耳川の戦い」の後1582年に島津への備えとして「朝日岳城」が築城されていたのだが、イザ本番~~となったら朝日岳城主・柴田氏は戦わずして家久軍に降伏しちゃう~><;アウチ☆
しかも城を明け渡すだけならまだしも、そのまま裏切り豊後国内への道案内した!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
家久軍はサクサク~~と豊後内部へ ラクチンラクチン((((((((((っ´▽`)っ 進軍し、11月下旬~島津家久軍は兵二万を持って、鶴ケ城に降伏勧告を出す!
え~~11月~~というと、叔父様を救援するために大友軍も四国先発軍も出払ってる時でして、不味いことに鶴ケ城・城主の利光宗魚も、主君・大友義統の命令で豊前入りしてて不在だった。
鶴ケ城が落ちたら、その先にあるのは・・・・・・・・・・・大友家の首都・府内だ!!
本軍が出陣し無防備に近い首都と、城主不在の鶴ケ城!
家臣だけでなく身内も裏切る大友家は、内部から崩壊しはじめる!
果たして忠義の家臣の踏ん張りだけで、島津の猛攻を防ぎきることが出来るのか?
内部崩壊は大友だけではない!
この豊後侵攻を境に仲良し兄弟だった島津義弘・家久の関係がギクシャクし始め、それが翌年の「九州征伐」まで尾を引くことになる。
戸次川の死闘まで、あと半月!
大友王国崩壊の舞台は、ついに幕が上がったのだが・・・それは またの話
次回・・・先発軍・仙石秀久出陣す!
領地と言っても衰退した大友家には、かつての威光は無く、隣国・筑前に島津軍が侵攻(8月24日に諦めて撤退)して来た余波で、豊前の国人領主たちが反抗し始めたんです。
その中で最も活発だったのが、城井家の一族・野仲氏と同盟関係の秋月種実の次男・高橋元種です。
大友義統の実叔父(ココ重要)で、豊前の要だった田原紹忍だけでは抑えきれず、大友家に救援を求めた。
立花宗茂とか、高橋紹運とか、他の忠義の家臣の籠城には「余力無いから」援軍を送らなかったのに常日頃、エコヒイキしている田原紹忍の救援要請には、主君・大友義統は即断をする。
これでは他の家臣のモチベーションが下がり、不満が募るのは無理もない。
豊臣秀吉が派遣した四国勢・先発軍は9月に豊後国首都・府内に到着していたのだが、10月上旬~大友義統は「豊前鎮圧」のために、先発軍を全て引き連れて自ら出陣し本国を空にしてしまう。
驚いたのは秀吉の命令で「筑前の援軍」に来ていた黒田如水だ。
∑( ̄◆ ̄;「島津軍が、いつ侵攻しても不思議じゃないのに、本国カラって馬鹿なの?!」
ただちに同じく救援に来ていた毛利軍(神田隊)と共に豊前入りし、高橋元種の小倉城を制圧する。
さらに黒田如水は秀吉家臣・宮城豊盛を毛利家に派遣し、吉川・小早川の両川の出馬を求める。
4月の段階で豊臣秀吉から「出陣準備」を命令されていたので、両川は10月中に豊前へ出陣できた。
10月17日~島津へのリベンジが一段落した立花宗茂が、豊前入りした黒田如水に援軍の御礼言上してます。
吉川・小早川軍は、11月には反抗する豊前の国人領主の城を落城させている。
11月15日に吉川元春が小倉城で病死したために、吉川・小早川軍も混乱したものの、
高橋元種の居城・香春岳(かわらだけ)城を孤立させ、おいたが過ぎた数え16歳の高橋元種は、黒田・小早川・吉川のフルボッコの攻撃を受ける\(≧O≦)ノキャン
抵抗すること20日あまり・・・12月上旬に高橋元種は降伏した。
高橋元種の降伏した時が「大友領地・豊前の謀反が鎮圧」された時であり、同時に「豊前が豊臣政権の制圧下」に入った時でした。
大友義統にではなく小倉城にいる如水の元に、豊前の国人たちが続々と人質を差出し(人質預かりは後に毛利家が担当する)毛利輝元も後にわずかな手勢で(安全確認済み)豊前入りして、後は豊臣秀吉、御大の豊前入りを待つばかり・・・露払いは完璧です。(* ̄・ ̄*)Vブイ
(秀吉の軍師~黒田如水~如水は隠居後の名前ですが、分かりやすさのため如水で統一します)
一方、豊後・府内がガラ空きになったのを知った島津軍が軍行動を開始する。
10月中旬~肥後口から島津義弘軍が、日向口からは島津家久軍が、それぞれ豊後へ侵攻!
島津家が「府内がカラ」という正確な情報をキャッチしたのは、大友内部で裏切り者が出たからです。
大友義統の実弟・田原親家、家臣の志賀家、入田家が島津へ内通し、大友の軍事情報を漏洩する。
これは大友義統だけの責任ではなく、「偉大な父・大友宗麟の今までの行動」に起因します。
宗麟の次男・親家は、兄の義統が大嫌いで「自分の方が当主に相応しい」と公言していました。
宗麟がハマった「キリシタンの洗礼」も受けていて、「キリシタン嫌い」の義統と宗教上でも反りが合わない^^;
家督争いを恐れた父・宗麟は、親家を田原家へと養子に送り込んだ。
(目障りな田原家を乗っ取る目的もある)
父・宗麟は次男の田原親家を加判衆(かばんしゅう・大臣のこと)に抜擢し地位・領地・名誉・・・と家臣としては最高クラスのものを御膳立てしたのだが、「当主の座」が欲しい親家は満足できず「大嫌いな兄を潰すため」に島津へ内通してしまったの。
家庭不和・家族仲の悪さは・・・やはり宗麟と奈多夫人の不仲に起因しているわけで・・・
家族間で「血を見る悲劇は無い」が、土壇場で裏切るという最悪の事態を迎える。
志賀家も宗麟のやり方に不満を持ち、北志賀家を残して一族殆どが島津へ内通。
入田家のほうは恨みつらみは、二十数年前まで遡る。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
宗麟が家督相続するときに政変が起きて、反対派だった入田家は処分された。
しかも宗麟は後始末の為に「先代(つまり宗麟ダディ)殺し」の汚名を着せて、入田を処刑したんです。( ̄ko ̄)チイサナコエデ
一族の者は連座を免れて大友家臣として残ったものの、その時受けた恥辱と屈辱を忘れることができず(当たり前)島津へ内通する。
なんというか・・・今まで先送りしてた問題が噴出してるような状態・・・_| ̄|○ il||li がくぅ
島津義弘軍が侵攻した肥後口は、志賀家で唯一裏切らず踏ん張り続けた志賀親次(北志賀家当主)が、
先鋒のロバート・デ・ニーロ・・・じゃなかった新納(にいろ)忠元を撃退した。
新納さんは名門の重臣らしく和歌も堪能ですが、何より別名「親指武蔵」と呼ばれる猛将でした。
何で親指かって言うと、島津の猛将を指折り数える時に、一番先(親指)に名前が挙がるからなのと。。。。。
実は・・・背が低かったからです・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
身長の事は此処だけの話ですよ~本人、かなり気にしてます・・・( ̄ko ̄)チイサナコエデ
命が惜しい人はニーロさんに身長の事は、絶対に振っちゃダメですからね~~∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
とにかく志賀親次の守る岡城がガンとして崩れず、さすがの猛将も思うような戦果を出せなくて、島津義弘軍に関しては、いいとこ無しでした^^;
島津家久軍が侵攻した日向口の方は、「耳川の戦い」の後1582年に島津への備えとして「朝日岳城」が築城されていたのだが、イザ本番~~となったら朝日岳城主・柴田氏は戦わずして家久軍に降伏しちゃう~><;アウチ☆
しかも城を明け渡すだけならまだしも、そのまま裏切り豊後国内への道案内した!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
家久軍はサクサク~~と豊後内部へ ラクチンラクチン((((((((((っ´▽`)っ 進軍し、11月下旬~島津家久軍は兵二万を持って、鶴ケ城に降伏勧告を出す!
え~~11月~~というと、叔父様を救援するために大友軍も四国先発軍も出払ってる時でして、不味いことに鶴ケ城・城主の利光宗魚も、主君・大友義統の命令で豊前入りしてて不在だった。
鶴ケ城が落ちたら、その先にあるのは・・・・・・・・・・・大友家の首都・府内だ!!
本軍が出陣し無防備に近い首都と、城主不在の鶴ケ城!
家臣だけでなく身内も裏切る大友家は、内部から崩壊しはじめる!
果たして忠義の家臣の踏ん張りだけで、島津の猛攻を防ぎきることが出来るのか?
内部崩壊は大友だけではない!
この豊後侵攻を境に仲良し兄弟だった島津義弘・家久の関係がギクシャクし始め、それが翌年の「九州征伐」まで尾を引くことになる。
戸次川の死闘まで、あと半月!
大友王国崩壊の舞台は、ついに幕が上がったのだが・・・それは またの話
次回・・・先発軍・仙石秀久出陣す!
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