秋月種実68【大友・首都陥落】
大友義統にダメ武将の烙印を押したのは豊臣秀吉なのだが、それは以下の義統の行動に起因している。
仙石も逃げたが、大友義統も逃げた。
その逃げ方のカッコ悪さは仙石以上かもしれない。
戸次川合戦が敗北と知ると、後詰めの大友義統も退却するのは、まだ分かるが義統は忠義の家臣が踏みとどまって戦っているにも拘わらず、首都・府内も捨てて高崎城まで逃げてしまった。
府内を守るために「残すは本丸だけ」の状態で戦っていた鶴ケ城も、援軍が負けて逃げたのでは、どうしようもなく島津軍に降伏。
島津家久軍は、そのまま首都・府内を攻略し・・・・略奪パーティが始まった。
大友義統が持ち出せず残した累代の家宝・什器は獲りたい放題、城下は焼かれ・・・これ以上は言うに忍びない(;;)
一方、高崎城でホッとブレイクしてた大友義統は、お気に入りの愛妾を府内に置き去りにしてた事に気づいた。
義統「誰か!府内まで行って、我が愛妾を助け出してくれ!」
主君の言葉に臼杵刑部(うすきね ぎょうぶ)という豪傑が走った。
島津軍で充満する府内を自身も深手を二か所負いながら、義統の愛妾を助け出し高崎城まで連れてきた。
喜んだ義統「よくやった!褒美をとらす」と自らの脇差を与えようとすると、
臼杵「馬鹿か!あんたは!!」と主君に罵声を飛ばした。
臼杵「死にもの狂いで働く忠義の家臣にはロクな恩賞を与えず、戦に役立たない愛妾一人を助けただけのワシに恩賞だなんて、そんなトンチンカンだから家臣に見放されて今日の屈辱になったのではないか!」
臼杵「これを限りに君臣の関係は終わりです!」と言い捨てて大友家を退散してしまった。
義統「(* ̄O ̄*)ぽかぁぁ~ん」と見送るばかりだったそうだ。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
大友義統だって頑張る家臣に領地を与えたかった・・・でも衰退する大友家には無理。
だから、せめて目の前の臼杵に感謝の気持ちを伝えたかったんです・・・
家運が傾くと、やること全て空回りしてしまう・・・義統だって頑張ってるのに _| ̄|○ il||li がくぅ
(ちなみに臼杵が次に仕えたのは毛利家です・・・苦労したと思います( ̄ko ̄)チイサナコエデ)
一度、敵に背を向けて逃げると心は「恐怖」に支配されてしまう。
臼杵の報告で府内が島津兵で溢れてるのを知り、高崎に留まるのも怖くなった大友義統は、さらに逃げて豊後を出てしまい豊前の大友家臣で実叔父である田原紹忍のとこまで逃げちゃった><;アウチ☆
豊前は12月には豊臣政権の制圧下に入っているので、島津軍の追手は来ない「安全地帯」だからです。
それと・・・これは(* ̄∇ ̄*)かんりにんの推測だけど・・・
大友義統は父・宗麟ではなく、叔父の田原紹忍に「父性」を抱いていたのではないでしょうか?
親からDVを受けて育った人は、自分の子供にもDVしちゃう確率が高いそうです。
父・宗麟もまた、「父から愛されない子供」で、戦国時代だから命の危険にまで及びました。
そのせいか義統に対する態度は「気まぐれ」「感情剥き出し」の時が多々あった。
でも宗麟は宗麟なりに嫡男の義統を愛し、期待してたと思います。
口では「嫌い!馬鹿!役立たず(しかも家臣の前で)」と言ってるけど、廃嫡せずに家督を譲ってますからね。
でも精神的にアンバランスな宗麟は、息子の義統に「ほんとは大事だよ」って伝えられなかったのでしょう。
そんな大友ファミリーの鎹(かすがい~板と板を繋ぐための金具でホチキス針のような形状をしてる)だったのが田原紹忍です。
人間不信だった宗麟も田原紹忍だけは信頼し、夫がアテにならない義統ママン・奈多夫人も実兄の田原紹忍に何かと相談してました。
家庭不和・夫婦不和のため、ママンに味方しマザコン気味だった義統にとって、ママンが信頼し何かと相談する田原の方が義統に近い存在であり、「大友宗麟の嫡男」に生まれた義統の苦悩・苦衷を理解し受け止めてくれる存在でした。
だが田原紹忍は「ひたすら忠実=イエスマン」で義統のために諫言する人物じゃなかった。
でもって、この時の「大友義統の失敗」は、隠居しないで当主の地位に居座り続けたことです。
義統の嫡男・義乗は数えで12歳、若いけど家督を継ぐ例はあります。
やって来る豊臣秀吉の心象を少しでも良くするために、頭を丸めて隠居すれば良かったんですけどね(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ
「イエスマン・田原紹忍」は、そんな諫言しなかったでしょう。
案の定、豊臣秀吉は大友義統に呆れ「ダメ武将」の印象が脳内にインプットされてしまうのです。
さて、府内を占拠した島津軍は更に戦果を拡大すべく、大友宗麟のいる臼杵城を攻略しようとした。
この臼杵城、実は島に築城された城でして、宗麟は城から「フランキ砲(別名国崩し)」と呼ばれた大砲を、ぶっ放すために、さしもの島津軍も城に近づけず諦めるしか無かった。
さらに佐伯惟定が守る栂牟礼(とがむれ)城を攻略しようとしたのだが、若干18歳の佐伯惟定(さえき これさだ)が堅田合戦で島津軍を撃破する。
耳川の戦いで祖父・父が戦死し、わずか10歳で家督を継いだ惟定少年が、立派な若武者と成長して島津軍に祖父・父のリベンジを果たし、城を死守して主家の盾となったのです!
島津軍の豊後侵攻で宗麟の臼杵城・志賀親次の岡城・佐伯惟定の栂牟礼城だけは落城せず、島津の侵攻を食い止めたのです。
明けて1587年1月下旬・秀吉本軍の第一陣が出陣する。
秀吉本軍が動くのを知った島津家久軍は、豊後制圧を諦め本国薩摩に帰還した・・・
のは良いが、この時島津家久は、何故か兄・義弘軍に知らせず、自軍だけ豊後から撤退したんです><;アウチ☆
島津義弘が「置いてけぼり」食らったのを何時、知ったのかまでは解らなかったが、行きは良い良い帰りは・・・で、孤軍になった義弘軍は涙目の苦労をして薩摩に辿り着いた。
もともと「援軍を寄越せ!」「やだ!」で、揉めていた兄弟だったのだが、この撤退時の「置いてけぼり」が兄弟仲を完全に破たんさせてしまい、二人は宴席で会っても、挨拶すらしないほど不仲になってしまう。
さらに島津4兄弟の3番目・歳久が病に倒れる!
暗雲垂れ込める島津家だが、秋月編の主役・秋月種実に話を戻したい それは またの話
仙石も逃げたが、大友義統も逃げた。
その逃げ方のカッコ悪さは仙石以上かもしれない。
戸次川合戦が敗北と知ると、後詰めの大友義統も退却するのは、まだ分かるが義統は忠義の家臣が踏みとどまって戦っているにも拘わらず、首都・府内も捨てて高崎城まで逃げてしまった。
府内を守るために「残すは本丸だけ」の状態で戦っていた鶴ケ城も、援軍が負けて逃げたのでは、どうしようもなく島津軍に降伏。
島津家久軍は、そのまま首都・府内を攻略し・・・・略奪パーティが始まった。
大友義統が持ち出せず残した累代の家宝・什器は獲りたい放題、城下は焼かれ・・・これ以上は言うに忍びない(;;)
一方、高崎城でホッとブレイクしてた大友義統は、お気に入りの愛妾を府内に置き去りにしてた事に気づいた。
義統「誰か!府内まで行って、我が愛妾を助け出してくれ!」
主君の言葉に臼杵刑部(うすきね ぎょうぶ)という豪傑が走った。
島津軍で充満する府内を自身も深手を二か所負いながら、義統の愛妾を助け出し高崎城まで連れてきた。
喜んだ義統「よくやった!褒美をとらす」と自らの脇差を与えようとすると、
臼杵「馬鹿か!あんたは!!」と主君に罵声を飛ばした。
臼杵「死にもの狂いで働く忠義の家臣にはロクな恩賞を与えず、戦に役立たない愛妾一人を助けただけのワシに恩賞だなんて、そんなトンチンカンだから家臣に見放されて今日の屈辱になったのではないか!」
臼杵「これを限りに君臣の関係は終わりです!」と言い捨てて大友家を退散してしまった。
義統「(* ̄O ̄*)ぽかぁぁ~ん」と見送るばかりだったそうだ。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
大友義統だって頑張る家臣に領地を与えたかった・・・でも衰退する大友家には無理。
だから、せめて目の前の臼杵に感謝の気持ちを伝えたかったんです・・・
家運が傾くと、やること全て空回りしてしまう・・・義統だって頑張ってるのに _| ̄|○ il||li がくぅ
(ちなみに臼杵が次に仕えたのは毛利家です・・・苦労したと思います( ̄ko ̄)チイサナコエデ)
一度、敵に背を向けて逃げると心は「恐怖」に支配されてしまう。
臼杵の報告で府内が島津兵で溢れてるのを知り、高崎に留まるのも怖くなった大友義統は、さらに逃げて豊後を出てしまい豊前の大友家臣で実叔父である田原紹忍のとこまで逃げちゃった><;アウチ☆
豊前は12月には豊臣政権の制圧下に入っているので、島津軍の追手は来ない「安全地帯」だからです。
それと・・・これは(* ̄∇ ̄*)かんりにんの推測だけど・・・
大友義統は父・宗麟ではなく、叔父の田原紹忍に「父性」を抱いていたのではないでしょうか?
親からDVを受けて育った人は、自分の子供にもDVしちゃう確率が高いそうです。
父・宗麟もまた、「父から愛されない子供」で、戦国時代だから命の危険にまで及びました。
そのせいか義統に対する態度は「気まぐれ」「感情剥き出し」の時が多々あった。
でも宗麟は宗麟なりに嫡男の義統を愛し、期待してたと思います。
口では「嫌い!馬鹿!役立たず(しかも家臣の前で)」と言ってるけど、廃嫡せずに家督を譲ってますからね。
でも精神的にアンバランスな宗麟は、息子の義統に「ほんとは大事だよ」って伝えられなかったのでしょう。
そんな大友ファミリーの鎹(かすがい~板と板を繋ぐための金具でホチキス針のような形状をしてる)だったのが田原紹忍です。
人間不信だった宗麟も田原紹忍だけは信頼し、夫がアテにならない義統ママン・奈多夫人も実兄の田原紹忍に何かと相談してました。
家庭不和・夫婦不和のため、ママンに味方しマザコン気味だった義統にとって、ママンが信頼し何かと相談する田原の方が義統に近い存在であり、「大友宗麟の嫡男」に生まれた義統の苦悩・苦衷を理解し受け止めてくれる存在でした。
だが田原紹忍は「ひたすら忠実=イエスマン」で義統のために諫言する人物じゃなかった。
でもって、この時の「大友義統の失敗」は、隠居しないで当主の地位に居座り続けたことです。
義統の嫡男・義乗は数えで12歳、若いけど家督を継ぐ例はあります。
やって来る豊臣秀吉の心象を少しでも良くするために、頭を丸めて隠居すれば良かったんですけどね(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ
「イエスマン・田原紹忍」は、そんな諫言しなかったでしょう。
案の定、豊臣秀吉は大友義統に呆れ「ダメ武将」の印象が脳内にインプットされてしまうのです。
さて、府内を占拠した島津軍は更に戦果を拡大すべく、大友宗麟のいる臼杵城を攻略しようとした。
この臼杵城、実は島に築城された城でして、宗麟は城から「フランキ砲(別名国崩し)」と呼ばれた大砲を、ぶっ放すために、さしもの島津軍も城に近づけず諦めるしか無かった。
さらに佐伯惟定が守る栂牟礼(とがむれ)城を攻略しようとしたのだが、若干18歳の佐伯惟定(さえき これさだ)が堅田合戦で島津軍を撃破する。
耳川の戦いで祖父・父が戦死し、わずか10歳で家督を継いだ惟定少年が、立派な若武者と成長して島津軍に祖父・父のリベンジを果たし、城を死守して主家の盾となったのです!
島津軍の豊後侵攻で宗麟の臼杵城・志賀親次の岡城・佐伯惟定の栂牟礼城だけは落城せず、島津の侵攻を食い止めたのです。
明けて1587年1月下旬・秀吉本軍の第一陣が出陣する。
秀吉本軍が動くのを知った島津家久軍は、豊後制圧を諦め本国薩摩に帰還した・・・
のは良いが、この時島津家久は、何故か兄・義弘軍に知らせず、自軍だけ豊後から撤退したんです><;アウチ☆
島津義弘が「置いてけぼり」食らったのを何時、知ったのかまでは解らなかったが、行きは良い良い帰りは・・・で、孤軍になった義弘軍は涙目の苦労をして薩摩に辿り着いた。
もともと「援軍を寄越せ!」「やだ!」で、揉めていた兄弟だったのだが、この撤退時の「置いてけぼり」が兄弟仲を完全に破たんさせてしまい、二人は宴席で会っても、挨拶すらしないほど不仲になってしまう。
さらに島津4兄弟の3番目・歳久が病に倒れる!
暗雲垂れ込める島津家だが、秋月編の主役・秋月種実に話を戻したい それは またの話
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