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秋月種実68【大友・首都陥落】

大友義統にダメ武将の烙印を押したのは豊臣秀吉なのだが、それは以下の義統の行動に起因している。

仙石も逃げたが、大友義統も逃げた。
その逃げ方のカッコ悪さは仙石以上かもしれない。
戸次川合戦が敗北と知ると、後詰めの大友義統も退却するのは、まだ分かるが義統は忠義の家臣が踏みとどまって戦っているにも拘わらず、首都・府内も捨てて高崎城まで逃げてしまった。

府内を守るために「残すは本丸だけ」の状態で戦っていた鶴ケ城も、援軍が負けて逃げたのでは、どうしようもなく島津軍に降伏。
島津家久軍は、そのまま首都・府内を攻略し・・・・略奪パーティが始まった。
大友義統が持ち出せず残した累代の家宝・什器は獲りたい放題、城下は焼かれ・・・これ以上は言うに忍びない(;;)

一方、高崎城でホッとブレイクしてた大友義統は、お気に入りの愛妾を府内に置き去りにしてた事に気づいた。
義統「誰か!府内まで行って、我が愛妾を助け出してくれ!」
主君の言葉に臼杵刑部(うすきね ぎょうぶ)という豪傑が走った。
島津軍で充満する府内を自身も深手を二か所負いながら、義統の愛妾を助け出し高崎城まで連れてきた。
喜んだ義統「よくやった!褒美をとらす」と自らの脇差を与えようとすると、
臼杵「馬鹿か!あんたは!!」と主君に罵声を飛ばした。

臼杵「死にもの狂いで働く忠義の家臣にはロクな恩賞を与えず、戦に役立たない愛妾一人を助けただけのワシに恩賞だなんて、そんなトンチンカンだから家臣に見放されて今日の屈辱になったのではないか!」
臼杵「これを限りに君臣の関係は終わりです!」と言い捨てて大友家を退散してしまった。
義統「(* ̄O ̄*)ぽかぁぁ~ん」と見送るばかりだったそうだ。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

大友義統だって頑張る家臣に領地を与えたかった・・・でも衰退する大友家には無理。
だから、せめて目の前の臼杵に感謝の気持ちを伝えたかったんです・・・
家運が傾くと、やること全て空回りしてしまう・・・義統だって頑張ってるのに _| ̄|○ il||li がくぅ
(ちなみに臼杵が次に仕えたのは毛利家です・・・苦労したと思います( ̄ko ̄)チイサナコエデ)

一度、敵に背を向けて逃げると心は「恐怖」に支配されてしまう。
臼杵の報告で府内が島津兵で溢れてるのを知り、高崎に留まるのも怖くなった大友義統は、さらに逃げて豊後を出てしまい豊前の大友家臣で実叔父である田原紹忍のとこまで逃げちゃった><;アウチ☆
豊前は12月には豊臣政権の制圧下に入っているので、島津軍の追手は来ない「安全地帯」だからです。
それと・・・これは(* ̄∇ ̄*)かんりにんの推測だけど・・・

大友義統は父・宗麟ではなく、叔父の田原紹忍に「父性」を抱いていたのではないでしょうか?
親からDVを受けて育った人は、自分の子供にもDVしちゃう確率が高いそうです。
父・宗麟もまた、「父から愛されない子供」で、戦国時代だから命の危険にまで及びました。
そのせいか義統に対する態度は「気まぐれ」「感情剥き出し」の時が多々あった。

でも宗麟は宗麟なりに嫡男の義統を愛し、期待してたと思います。
口では「嫌い!馬鹿!役立たず(しかも家臣の前で)」と言ってるけど、廃嫡せずに家督を譲ってますからね。
でも精神的にアンバランスな宗麟は、息子の義統に「ほんとは大事だよ」って伝えられなかったのでしょう。
そんな大友ファミリーの鎹(かすがい~板と板を繋ぐための金具でホチキス針のような形状をしてる)だったのが田原紹忍です。

人間不信だった宗麟も田原紹忍だけは信頼し、夫がアテにならない義統ママン・奈多夫人も実兄の田原紹忍に何かと相談してました。
家庭不和・夫婦不和のため、ママンに味方しマザコン気味だった義統にとって、ママンが信頼し何かと相談する田原の方が義統に近い存在であり、「大友宗麟の嫡男」に生まれた義統の苦悩・苦衷を理解し受け止めてくれる存在でした。

だが田原紹忍は「ひたすら忠実=イエスマン」で義統のために諫言する人物じゃなかった。
でもって、この時の「大友義統の失敗」は、隠居しないで当主の地位に居座り続けたことです。
義統の嫡男・義乗は数えで12歳、若いけど家督を継ぐ例はあります。
やって来る豊臣秀吉の心象を少しでも良くするために、頭を丸めて隠居すれば良かったんですけどね(; ̄ ・ ̄)=3 フゥ
「イエスマン・田原紹忍」は、そんな諫言しなかったでしょう。
案の定、豊臣秀吉は大友義統に呆れ「ダメ武将」の印象が脳内にインプットされてしまうのです。

さて、府内を占拠した島津軍は更に戦果を拡大すべく、大友宗麟のいる臼杵城を攻略しようとした。
この臼杵城、実は島に築城された城でして、宗麟は城から「フランキ砲(別名国崩し)」と呼ばれた大砲を、ぶっ放すために、さしもの島津軍も城に近づけず諦めるしか無かった。
さらに佐伯惟定が守る栂牟礼(とがむれ)城を攻略しようとしたのだが、若干18歳の佐伯惟定(さえき これさだ)が堅田合戦で島津軍を撃破する。
耳川の戦いで祖父・父が戦死し、わずか10歳で家督を継いだ惟定少年が、立派な若武者と成長して島津軍に祖父・父のリベンジを果たし、城を死守して主家の盾となったのです!
島津軍の豊後侵攻で宗麟の臼杵城・志賀親次の岡城・佐伯惟定の栂牟礼城だけは落城せず、島津の侵攻を食い止めたのです。

明けて1587年1月下旬・秀吉本軍の第一陣が出陣する。
秀吉本軍が動くのを知った島津家久軍は、豊後制圧を諦め本国薩摩に帰還した・・・
のは良いが、この時島津家久は、何故か兄・義弘軍に知らせず、自軍だけ豊後から撤退したんです><;アウチ☆
島津義弘が「置いてけぼり」食らったのを何時、知ったのかまでは解らなかったが、行きは良い良い帰りは・・・で、孤軍になった義弘軍は涙目の苦労をして薩摩に辿り着いた。

もともと「援軍を寄越せ!」「やだ!」で、揉めていた兄弟だったのだが、この撤退時の「置いてけぼり」が兄弟仲を完全に破たんさせてしまい、二人は宴席で会っても、挨拶すらしないほど不仲になってしまう。

さらに島津4兄弟の3番目・歳久が病に倒れる!
暗雲垂れ込める島津家だが、秋月編の主役・秋月種実に話を戻したい それは またの話 
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秋月種実67【奇襲するのは我にあり~戸次 川合戦5】

戸次・・・名字だと「べっき」と読み、地名だと「へつぎ」と読ませる。
日本語って難しい^^;

先発軍・総大将の仙石秀久の出陣は、一見無謀なのだが、大友義統・仙石・四国勢が一致団結していれば勝機はある戦だった。
何故なら島津家久軍は、侵攻直後のベストの状態では無かったからです。
10月半ば、最初2万余で豊後へ侵攻したのだが、12月12日の合戦時には半分以下に兵力が減っていた。

理由1:侵攻が順調すぎて、各支城をサクサク落としたために、抑えの兵を配置した分の減少。
理由2:鶴ケ城での抵抗が激しく3000名ほどの死傷者が出て減少。
理由3:略奪\(≧▽≦)ノワッショイに夢中になりすぎて、本軍からはぐれた迷子隊が若干発生。

略奪は武将から下っ端までの貴重な副収入のお楽しみで、これをコントロールするのは難しい。
下手に止めると、へそ曲げて薩摩に帰りかねないので、島津家久も放置するしか無かったんです。
そんなこんなで目減りした分を、寝返りした元大友家臣で補充して、兵13000まで回復した。
寄せ集め・にわか編成~と、言う点では仙石たち先発軍と内容は変わらない。
だから大友義統の旗が陣頭に掲げられたら、違った結果になったかもなんです。

だが大友義統は島津軍の中に裏切り者が多数いるのを知って。。(ω・`))シュン戦意喪失。
「万が一に備える」という名目で前線には出ないで、後詰めに配置してしまった。(惜しい!)
そして仙石のハッスルは四国勢にとっても、迷惑な話だった。
元々、全盛期の大友家は四国に版図を広げようと、何度か兵を入れていて失敗してまして、四国にとって、大友家は「危険な隣人」だったんです。
それが島津との争いで衰退してくれるのは、四国にとってラッキー(* ̄・ ̄*)Vブイ。
それなのに豊臣政権が出来たせいで、大友家を助ける羽目になる。(アホらしい)
組んだメンバーも、同じ四国出身とはいえ、ついこの間まで敵対関係だった連中でチームワーク最悪。
秀吉が気前の良いことを知ってる仙石は、恩賞に胸も鼻も膨らませてハッスルしてるが、この手の遠征軍に初参加の四国勢にとっては、何やら雲をつかむような話で当てにはできない。
だから秀吉本軍が来るまで、自軍の損耗は極力避けたかったんです。

ところが仙石は12月(現在の暦だと真冬・1月)に戸次川を渡河すると言うΣ( ̄O ̄ノ)ノええっ
順番に話すと島津軍は、四国勢が豊前から府内に戻り「出陣の気配がある」と察知すると、それに備えるために、鶴ケ城の囲みを解いて後方に陣を移し始めたんです。
敵陣が動くときは攻撃のチャンスでもあります。
猛将の仙石はGOサインを出した。
真冬に渡河なんてアンビリバボーと、四国勢は不満ぶーぶーだったが、総大将の仙石の隊が率先して渡河し始めたので従わないわけには行かない。

四国勢にとって困るのは、仙石が総大将だけでなく、軍監も兼務していたことだ。
軍監とは、諸将がキチンと命令に従ったか、誰が活躍したか主君(この場合は秀吉)に報告するのが任務で、仙石に逆らったら秀吉に何を告げ口されるか分からない、という恐怖が四国勢を命令に従わせていた。
信頼関係ゼロの寄せ集めの先発軍・・・12月12日午前10時ころから渡河が始まった。

この戦で島津家久は得意の戦法「釣り野伏せ」を使ったと巷間言われているが、どうも最初から狙ったのではなく、四国勢が渡河して深追いしたために、たまたま釣り野伏せの形になった・・・というのが真相のようだ。
大友軍・戸次統常(べっき むねつね・道雪の血縁)を案内に渡河が終わったのが夕刻近く、渡河が終わった四国勢を島津軍第一陣が襲った!
島津家久は軍を3つに分けていて、第三陣が家久本軍だった。
渡河直後で身体が冷え切ったとこを襲ったのだが、四国勢の戦闘力は衰えず、島津第一陣はo( ̄ー ̄θ★ケリッ と、やられて崩れてしまう。

第一陣の崩れに島津家久は焦ると同時に、ふがいなさに激怒したという。
そこに、どこからともなく現れた小隊が、四国勢の右手に奇襲をかけた!
その小隊はメチャクチャ、パネェ強い!!まるでドリルで穴を開けるように四国勢の中を切り開いていく!
第一陣を撃退してホッとしたとこに奇襲をかけられて、四国勢が浮き足だった
島津家久、四国勢の乱れを見逃さず、すかさず第二陣を投入!
これが戦の流れを変えた・・・!

この時、四国勢へ奇襲を仕掛けた小隊こそ、高千穂系嫡流・三田井政親の部隊です!
歴史は郷土史まで掘り下げると、知名度皆無の武家が活躍していることがある。
でも三田井が島津の第一陣・第二陣のどっちに所属してたかまでは、解らなかった。。無念_| ̄|○ il||li がくぅ

第二陣に続いて第三陣・家久本軍も攻撃に加わる。
元々が倍近く兵力差があるので、深追いした四国勢はアッと言う間に包囲されて殲滅されていった。
退却しようにも後ろは戸次川で、否応なしの「背水の陣」状態。
行くときは戸次勢の道案内があったが、混乱した状態では右も左も解らない><;アウチ☆
それに総大将の仙石隊も完全に崩れて、めいめいがバラバラに逃げる始末だ。
仙石は、秀吉に引き立てられて出世した「俄か大名」だったため、率いている家臣も俄かに徴募された兵だ。
仙石に対する忠誠心が乏しく「負けた」となると、踏みとどまるどころか雪崩のように崩れ、
その崩れに四国勢も巻き込まれ、隊伍を整えるなど不可能だった。

四国勢の第三陣にいた長宗我部元親隊が、かろうじて脱出できたが他は次々島津軍に倒された。
戦闘は約2時間で決着がつき、道案内してた戸次統常は22歳の若さで討死、元親の嫡男・長宗我部信親、十河らも戦死、四国勢は2000名以上の死者が出る大敗北だった
この敗戦は何度も言うが仙石だけの責任ではありません。
仙石は先発軍の総大将ですが、大友軍の指揮権は大友義統にあるから「全軍」を思った通りに動かせたわけでは無いのです。
そもそもの原因だって
1・本国を空にして大友義統が豊前へ援軍に行き、
2・呆れた家臣が大量離反し島津へ内通し、
3・島津軍が留守を狙って豊後へ侵攻した。

戦のほうも・・・島津軍もベストの状態ではなかったが、

1・仙石は猛将で場数は踏んでるが、数千単位の大軍を動かしたことはなく、元々キャリア不足。
2・大友義統が家臣の裏切りに凹んで、戦意喪失して仙石に非協力的だった。

敵が、こんな状態だったので、勝てました(* ̄・ ̄*)Vブイ by島津家久。
大友の旗印が前線に無かったので、裏切った大友家臣も四国勢相手なら遠慮なく戦えたのもある。
仙石が後世まで非難されたのは、負けた、となると、まず自分が真っ先に速攻で逃げたことだろう。
もちろん自軍をまとめるなんてことも放棄。
逃げっぷりも素晴らしく、自分の領地の四国・讃岐まで帰った。( ̄ー ̄A 汗フキフキ
この状態から「人生のリベンジ」に成功するのだから、仙石の図太さは凄い^^;

そして「仙石に責任がある」と強調したのは、仙石を選んだ豊臣秀吉本人です。
豊臣政権は出来たばかりで、まだまだ土台は固まっていません。
関東以北に手を付けるのは、これからです。
そのため、我の強い武将たちに「利」をチラつかせつつ、上手に同じ方向に向くように手綱をコントロールしなければならない。
この負け戦の原因の半分は、大友義統にもあります。
ですが、それを言うのを秀吉は堪えました。
もし口にしたら、四国勢は大友義統を恨みます。
武将同士の争いが再燃しては天下統一が遠のく。

叱責して絶望した大友義統が島津に降伏するような事態になれば、九州征伐の土台が崩れてしまう。
元々は大友が助けを求めたのに、秀吉が応えられないとなれば、中央政権の役割を担えないと人臣が離れてしまいます。
九州征伐が終わるまでは、そのキッカケとなった大友家に保護を加えなければならない。
だから大友義統の一連の行動を、秀吉は不快さと怒りを覚えつつ我慢しました。
我慢し続けた秀吉が、ついに大友義統を見限るのは「朝鮮の役」の時です。

さて、仙石に勝るとも劣らない逃げっぷりをした大友義統ですが、仙石に対するような処罰が無いために、後世で知る人は少ない・・・それは またの話

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秋月種実66【死出の出陣・戸次 川合戦4】

戦というものは、勝たなければ意味が無い。
たった一度の敗戦で全てを失うのは、普通にあることなのだ。
「負けて勝つ」という事が出来るのは、政治的駆け引きが可能な材料がある時だけだ。
だから、戦に臨んだら迷いは捨てる。
目的は「勝つこと」だけに絞り、ブレてはいけない。
だが「戸次川(へつぎがわ)合戦」での大友義統(おおとも よしむね)の行動は、極めて中途半端だった。

大友義統が、援軍に出向いた豊前から本国(豊後)首都・府内(ふない)についたのは12月11日。
戸次川合戦は12月12日で、丸一日あるかないかしか間が無い。
軍装を解いて休む時間などあるはずもなく、すぐに軍議⇒小休止⇒出陣だ。
四国勢・先発軍の大将、仙石秀久(せんごくひでひさ)の「打って出るべし!」の主戦論を否定することもできず、やむなく出陣・・・助けてもらう立場でありながら、後詰めの控えに位置した。

そもそも大友義統が「四国勢を連れて豊前へ援軍に行った」ために島津軍侵攻を誘発し今回のピンチを迎えてしまったので、仙石に強く出ることが出来ない。
しかも大友義統は、島津軍が兵13000と聞いて、(__|||)ドヨ~ン ますます厭戦気分~~~
もし大友義統が「本気で戦って」いれば、戸次川合戦の行方は予想がつかなくなる。
この戦は「本貫の地である豊後と首都・府内を守るための戦」だ。
大友義統が激を飛ばせば家臣の士気は全く違うだろうし、四国勢もテンションが上がる。
離反した家臣も「昨日までの主君に、直接弓を引く」のは躊躇うはずです。
そして島津に勝つのは無理でも負けないでいれば、秀吉本軍が来るんです。

歴史で言えば、秀吉本軍・第一陣の出発は1587年の1月下旬。
秀吉本軍が来れば、島津軍は撤退するだろう(現実にそうなった)。
だが大友義統は戦う前から「島津軍の勢い」に「気持ちで負けて」しまっている _| ̄|○ il||li がくぅ
とにかく大友義統がテンション低いので、陣中の雰囲気が暗い~~~( ̄ー ̄A 汗フキフキ

実は大友義統が生き残るためには「違う道」が、もう一つある。
思い切って首都・府内を捨てて、臼杵(うすきね)で再起を図るんです。
もちろん、その時には「籠城し府内の盾となって戦ってる鶴ケ城」に対して「島津へ降伏してもOKだよ~」と、連絡するのを忘れてはいけません。(O ̄∀ ̄)ノ

臼杵という地は、大友家の「第二首都」のようなものでした。
若き日の大友宗麟(おおともそうりん・義統パパ)も、家臣の離反で府内が危険になった時に一時期、府内から臼杵に政庁を移していました。
そして現在、臼杵には隠居した宗麟が住んでいます。
宗麟の手元には「国崩し」の異名をとった「フランキ砲」という大砲があり秀吉本軍が来るまで、十分に持ちこたえることが出来ます。
でも・・・大友義統が、それをしなかったのは・・・やはり大嫌いな父を頼ったり、父と協力し合うのが嫌だったのでしょう。。(ω・`))シュン
大友宗麟という人物は、「英雄の匂い」がする英傑ですが、家庭人・父としては問題ありでして「もし宗麟が実父だったら」「どんな名将でも才能を潰されるんじゃない」かってくらいヤバイ親です。
宗麟は病弱なのと生い立ちのせいで、精神面でアンバランスなところがあり、心の安らぎを求めて「宗教遍歴(最初・禅宗⇒キリシタン)」して、それで夫婦仲もグチャグチャ。
かなり気分屋なとこもあって、息子の義統を振り回し続けた。
大友義統は、家督を継いでも何一つ思うようにならない苛立ちから、深酒で憂さを晴らしてました。
大友家が衰退しても主家を見捨てなかった家臣たちは、義統の苦悩を見聞きして「主君を放り出すこと」が出来なかったのかもしれません。

さて出陣した大友家臣の中に、戸次統常(べっき むねつね)という若武者がいました。
戸次(べっき)という名前から、気づいた方もいると思いますが、雷神と武勇と称えられた戸次道雪(べっきどうせつ)の血縁で、戸次本家の若者です。
戸次統常の父・戸次本家当主が、道雪の実甥にあたります^-^
でもって戦場となった戸次(へつぎ)川は、戸次家の領地「戸次庄」にあります。
(若干地理に不安な管理人)
だから戸次統常は、地理不案内な四国勢の道案内を務めたのです。

戸次統常は、この戦で死ぬつもりでした。覚悟の出陣だったんです(;;)
それというのも、戸次統常の父(つまり道雪の実甥)が、今回の「島津の豊後侵攻」で主家を裏切り大友に寝返ったからです。Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
道雪の実家でも、大友から離反って、あるんだな・・( ̄  ̄)トオイメ。
戸次統常の母(妹説あり)は、怒りと嘆きで息子に訴えた。
「あなたの父は正義が何たるかを見失いました!こたびの戦で何としても戸次の名誉を取り戻し、主家を守るのです!」
統常の母は、そう言うと息子の「後顧の憂い」を断つために、幼い我が子を殺し自分も自害した。
そして統常も、家伝の書や手紙を燃やし身辺を整理して此度の戦に挑んだ。
後詰めとして前線から後方の大友軍ではなく、道案内のために四国勢と行動を共にしている戸次統常。
覚悟の通り戸次川が三途の川となるのだが それは またの話

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秋月種実65【先発軍・仙石秀久出陣す!~戸次 川合戦3】

田原紹忍(宗麟の正室の実兄)をエコヒイキしていたのは、大友義統だけでなく父・宗麟の二代に亘る。
情緒不安定で人間不信という点で「似たもの親子」だった義統・宗麟親子にとって、田原が有能か、無能かは関係なくて「ひたすら忠実」で安心出来るから全てを任せていた。

主君の「田原への厚遇」には、新参の家臣より累代仕えた家臣の方に大ブーイングだった。
二十数年もの不満が積もり積もったところで、ついに決定的なことが起きる。
1586年10月・・・当主・義統自らが首都をカラにして、豊前の田原の元へ援軍に出向いたからだ。

家臣たちの不満はヒートアップ!怒りは沸騰していく!
「筑前(立花家や玉砕した紹運)や筑後(門註所家)とか援軍なんて無かったよ!」
「それなのに「一度の要請」だけで、豊前の田原を助けに行くんだ!大事な大事な実叔父だもんね!!(怒」
「島津が来たら「田原を助けるために」主君が留守の豊後を、ワシらが捨石になって戦うんだ!へ~~~そりゃ大変!(爆怒」
我慢の限界を超えた家臣たちが、「島津の裏切りの誘い」の乗った!

島津に内通したのは「兄嫌いの実弟・親家」「一門の志賀家は一族のほとんど」「実父を宗麟に処刑(政変で敗れた)された入田氏」「譜代家臣の田北家からも裏切りが出る」「道雪の実甥・戸次家当主も裏切り」「さらに国境の朝日岳城を預かっていた柴田親子」もです。
彼らは島津家へ大友家の軍事情報を漏らし、豊後の地形や支城の位置を詳しく教えたために、島津軍は楽々と国境を突破する。
柴田親子にいたっては、島津軍の陣頭にたって道案内まで務めた。
後日ですが柴田親子は「自分の行為を恥じて」再び大友に戻ろうとするが、島津軍に察知されて殺されています。

1586年10月中旬・・・豊後の地は島津軍に蹂躙された・・・
これほど裏切り者が出たのだ。
首都・府内を楽々攻略できると思いきや、島津軍にとって思いがけない「抵抗」が出来(しゅったい)する。
肥後口からの進軍を阻んだのは「岡城・城主 志賀親次(しが ちかつぐ)」だ。
志賀家は一族の殆どが裏切り、志賀親次の実父までもが島津に内通した。
志賀親次は父と親子の縁を切り、主家を守るために岡城で決死の防衛線を繰り広げる。

島津軍の先鋒は猛将・新納忠元(にいろ ただもと)。
まだ若干20歳の志賀親次が歴戦の猛将を撃退した!
その余りの采配の見事さに、先鋒の新納は「まるで天正の楠木正成だ」と激賞したほどだ。
が褒めてばかりもいられない。「らち明かないから岡城はスルーじゃ!」と思ったが、今度は背後を岡城の志賀兵に脅かされて、思うような軍行動がとれない~><;アウチ☆

島津義弘「なんかジリ貧やべ~ちょぉ日向口の方の家久さぁ~こっちへ援軍寄越してたもっせ~
弟の家久「はぁ援軍?こっちも今、テンパってごわす~自分で何とかしてつかぁさぃ!
島津義弘「怒!
え~~~この豊後侵攻の後に当主・義久の元には「家久と義弘の双方から」互いの悪口報告が寄せられる( ̄ー ̄A 汗フキフキ
当主で長兄の義久は、弟二人を上手に配置して良きライバルとして功を競わせていたのだが、豊後侵攻が思うように行かなかったために「二人が不仲になる」というマイナス要素が発生したんです。

一方、日向口から侵攻した島津家久軍を阻んだのが「鶴ケ城」です。
ここを突破すれば「首都・府内」への障害物・支城はありません。
不味いことに城主の利光宗魚は、主君・義統に従って豊前へ出陣してて留守だった。

11月下旬~島津軍は鶴ケ城へ降伏勧告をする⇒鶴ケ城の返事はNO!
でもって報告を聞いて ( Д )  ゚  ゚ 目が飛び出るほど驚いた利光宗魚が、猛ダッシュで豊前から豊後へ退き返し、ギリギリセーフで鶴ケ城へ戻る。

12月5日~島津家久軍の総攻撃が始まった!

12月7日~城主・利光宗魚が鉄砲で撃たれて戦死するが、城は死守する。

利光の妻は気丈な女性で、夫の死を隠して島津家久軍への抵抗を続けた。
だが、この状態をいつまでも続けることは出来ない。
利光の妻は「主家と先発軍・総大将の仙石」に援軍要請を出した。

12月11日~島津軍侵攻の報告に豊前から退き返した大友義統と四国勢・先発軍が府内へ帰還する。

一刻の猶予もならなかった。
大友義統が不在だった首都・府内では籠城の体制が整っておらず、城下はパニック状態だった。
繰り返すが鶴ケ城は府内を守る最後の砦だ。
突破されたら島津家久軍を遮るものがない。
何としても鶴ケ城のラインで食い止めなければならないのだ


秀吉から派遣された先発軍の総大将・仙石秀久も、ぐずぐず考えている時間は無い。
秀吉からは「自分が行くまで軍行動をとるな!」と命令されていたが、大友義統が「首都をカラにする」という愚かな行為に「自分も望まれるまま便乗」したせいで、待ったなしの大ピンチ~~Σ( ̄O ̄ノ)ノひぃぃ!

このまま「命令通りにジッとしてて」「府内が陥落するようなことになったら」「どんな処罰が下るか分からない」
その間も鶴ケ城からは「も~ダメ!早く援軍プリーズ!!」の急使が来る。
仙石秀久は、元来が「猛将タイプ」だったので「発想がポジティブ&アグレッシブ」だった。
仙石は約2万の島津家久軍に一か八かの攻撃を仕掛ける決意をした。
(尤もらしい理由)だって~~黙って待ってたら大友家の首都が陥落しちゃうもの~~~~

猛将タイプの仙石に「ここは一度引いて大勢を立て直す」という発想は浮かばなかった。
戦略的には、それでも十分立て直せるので黒田如水は自重を薦めてたが、仙石の性格がスルーさせた。
豊前まで援軍に出向いて此度のピンチになったのに、目の前の鶴ケ城を見捨てたら家臣の離反に歯止めがかからなくなる!(これは義統の自業自得)

戸次川の戦いは「大友義統と仙石秀久の共同責任」で起きたのだが、それは またの話

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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