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高橋元種4「俺の物は俺の物・お前の物は俺の物」

初めに・・・今シリーズは、地方史の、さらに逸話ベースですので、史実かどうかの検証はされていないことを予めご了承下さい。

高橋元種17歳・・・陰謀家・秋月種実の次男にして、日向縣5万石(大友宗麟に滅ぼされた土持家の領地)若き大名となった。
九州の役で秀吉に敗れ、本貫地・筑前(福岡県)は秋月(古処山城)を失って傷心の父と兄と違い、元種の胸中は新たな未来に胸を弾ませていた。

もともと次男の元種は家督に縁が無く、幼少時は大友家へ人質として大友館(大分県)に差し出され、少年期は高橋家へと養子に出されている(ただし養家には行かず父・種実の手元で育つ)ので、父と兄に比べれば17歳という若さも手伝い、気持ちの切り替えは早かっただろう。

それどころか地方の国人領主で終わるはずの人生が、豊臣政権の思惑で小なりとも正規に大名となったのだ。
ゆくゆくは任官し、畏れ多くも「御簾の向こうにいる帝」の御前で参内する身分となれる。
豊臣政権から渡された「領地宛行状」と「土地台帳(正式名ド忘れ」は、末代に至るまでの大切な宝だ。

「これがワシの新領地・・・O(▽ ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク・・・」改めて書面を開きシゲシゲと眺める元種
・・・?・・・( ̄。 ̄)じぃー??ひぃ、ふぅ、みぃ・・・ナニコレ???土地が足りない??
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~★?▲▽(涙・激・汗)?????~~~~
土地台帳を何度見直しても、何度足し直しても、合計して5万石にならないΣ( ̄▲ ̄ノ)ノひぃぃ~~
島津家臣(上井さんね)に粘られ城に入れず、その騒ぎが治まりやっとお国入りしたと思ったらトンデモハプニング発生。

欠け地があるううううううううううううううううううう!誰か!急ぎ調べよ!!
元種の命令で慌てて家臣が調べると・・「殿!高千穂が記載されておりません!!」
家臣も涙目だ、事と次第によっては自分達に分配される領地にも関わる。

それは豊臣政権・奉行衆のウッカリ記載ミスでした・・・九州の役という大規模な大名・領主の入れ替えの混乱が招いたアンビリバボーな失敗。
「ど・・どうすれば・・・」下手に奉行にドヤ顔でミスを指摘して逆切れされたら藪蛇にならないとも限らない。
元種は困惑した。



このことに希望を持ったのが「もともとの高千穂領主・三田井氏」だ。
三田井氏は高千穂神社系氏族の嫡流で、平安時代くらいから続く古い名家です。
大友や伊東とも友誼があったんだけど、田舎ゆえの情報不足と山奥ゆえの純朴さで時代の流れに乗り遅れ、成り行きで島津に味方して、しかも戦で活躍しちゃった(結果は島津の敗北だが緒戦で三田井が活躍してたの)ので、改易処分を食らったんです。
不安な日々を送ってた三田井家だが、いつまでたっても新領主派遣の役人が来ないので不思議に思い、家臣が調べて騒ぎを知った。

三田井「島津だって本貫地が安堵されたんだ・・・うちだって許されていいはず・・!
とはいうものの豊臣政権にツテもコネもない。
かつてのボス・島津は三田井どころではないし、殿中政治に不慣れな三田井は交流のある大友や伊東に頼るという発想も浮かばなかったらしい。
為す術が無いまま焦る三田井のもとに、高橋元種から使者が来た。

高橋家臣「主君の口上を伝えます」
「このような仕儀にあいなり、自分も困惑しております。
 それに関白殿下の元で世が平らになった以上は、三田井家と争うことは殿下の意にも沿わないと存じます。
 差支えなければ自分が大坂に伺候して「三田井家存続・高千穂安堵」を言上しましょう。」
三田井氏は他に妙案も浮かばないので「宜しくお願い仕るm(_ _)m」と頭を下げるほか無かった。


三田井家の了解を得て、元種は一路大坂へ((((((((((っ´▽`)っ さっそく秀吉に拝謁した。
秀吉「おお~はるばる日向から、よく参った。そちには後で紹介したい者がおるゆえ楽しみにしておれ^-^ニコニコ」
元種(紹介?誰であろう?)「殿下、本日参ったのは高千穂の三田井家のことで申し上げたき議があるからでございますm(_ _)m」
秀吉「三田井?確か島津に従っていた罪で改易したはずじゃな」
元種は予め取次に三田井の名を告げていたので、秀吉の方も下調べさせたのであろう、反応が早かった。
元種「実は三田井は殿下の仕置きを恨んで謀反を企んでいることが発覚しました!(O ̄∀ ̄)ノ

やったね元種クン∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
さすが秋月の息子~~~( ̄▽ ̄)ノ_彡☆バンバン 
高千穂を手に入れるために親切顔で三田井を騙し、関白・秀吉に大嘘を報告しました(* ̄・ ̄*)Vブイ

秀吉「それは許せん!元種よ、そのような不埒なる者は直ちに成敗せよ!
元種「ははっ元種、殿下への忠義のため謀反人を討ち果たして参ります(計算通り(* ̄ー ̄*)ニヤリ)」
神社系氏族・・・宗教勢力と密着した武家など秀吉にとっては邪魔でしかない。
秀吉は「これは完全に潰すチャンス到来」と判断し、元種の報告のみで裁断を下した。

一方、「謀反の罪」を着せられているなど夢にも知らない三田井家は、高橋元種からの吉報を信じて待っていた。
勿論戦の準備などしているはずもない。
攻める側の高橋元種から見ると、高千穂は山奥で攻めづらく、兵も足腰が強靱なツワモノ揃い。
まともなガチンコになれば長引いて、ひいては自分のウソがバレてしまうかもしれない。
早くカタをつけるために「裏切り工作」をすることにし、交渉する相手として三田井の筆頭家老・甲斐宗摂に目をつけた。

筆頭家老に裏切り交渉?というと不思議に思うかもだが、実は甲斐宗摂は高千穂出身者ではなかった。
彼は肥後・阿蘇家の家老で知ってる人は知ってる忠義一途の甲斐宗運の庶子です。
阿蘇家と三田井家の同盟の証として、宗運の庶子が筆頭家老として送り込まれた今風に言うと「外部取締役」。
その甲斐宗運は既に亡くなり、庶子・宗摂の元々の主家である阿蘇家も「九州の役」の処罰を受け、大名としての権限は一切剥奪されて、わずかな領地で細々と続いている状態。

従って阿蘇と三田井の同盟関係は既に霧散しており、宗摂は「実家は嫡流が途絶え」「主家没落」でシガラミが一切なく「自分の保身優先」できる身軽な立場だったんです。
だが宗摂が筆頭家老の職責を放棄して、元種の交渉に応じたのには「元種の知らない内部事情」があった。

高千穂神社嫡流で山奥の三田井家には「娘を神に生贄として捧げる秘儀・秘祭」があったんです
生贄を選ぶ方法は、神官が弓矢を放ち「矢が落ちた家の娘」です。
そして不幸なことに、その年の矢が甲斐家に刺さり、宗摂の愛娘が生贄に選ばれてしまった。
山奥の迷信深い土地において秘儀は絶対で、筆頭家老だろうが余所者だろうが選ばれたら容赦なしで逃れようがない。
その土地の人間なら当たり前のことで、内心はともかく「選ばれたのは名誉」として娘を差し出すのだが、
阿蘇から来た宗摂には、花の盛りの愛娘を「犠牲」にするのが何としても耐えられなかった・・・
更に厳しかった実父も死に、過去の同盟を含めて阿蘇家への遠慮がいらない、ということが宗摂の理性の掛け金を外した・・・
武将の誇りを捨て、筆頭家老の地位を捨て、娘を守りたいと願う一人の父親がそこにいた。

三田井家・筆頭家老・甲斐宗摂は、高橋元種の裏切りの誘いに応じて「城への抜け道」を教えた。
1591年9月・・・甲斐の内通で準備を整えた高橋兵が、高千穂を攻撃したのだが それは またの話
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高橋元種3【揉める日向着任】

さて、1587年の「九州の役」で降伏した秋月種実と息子たち。
種実は長年追い求めた宿敵・大友宗麟が病死したことに対する落胆のダブルパンチで、関白・秀吉に恭順の意味もあり、正式に隠居して嫡男・種長に全てを託した。

でもって、九州全ての国分けが決定したのが、同年の6月13日で日向国は細かく分散した。
佐土原が島津豊久の家督相続が認められて、島津分家として入り、財部(現在の高鍋市)に秋月種長3万石。
縣(現在の延岡市)に秋月の次男・高橋元種が5万石で入った。
真の主役・高橋元種17歳の登場です(* ̄・ ̄*)Vブイ

御子孫曰く「高橋元種は実は次男ではなくて、秋月種実の実弟で年齢も推定+17or19歳だ」と異説を唱えている。
「高橋家に養子に入る時に、一度・兄である種実の養子に入ったから、公式文書では種実・次男になっているのだ」と御子孫は推理してる。
確かに秋月家の家系図は一部不明で、種実には次男・高橋元種と同名の「元種という弟」がいたことになっており、御子孫は「種実の弟・元種」と「種実の次男・元種」の同一人物説をとっているんです。
御子孫は「嫡男の種長より次男の元種がの領知が多いのは、実は種長の叔父で優秀だからだ~~」ナンダッテーな説

管理人はそれほど単純には考えていません。
確かに通説年齢だと、豊前の春香岳城で籠城した時には数えで16歳となってしまう。
その若さで吉川・黒田・小早川・毛利援軍一部を相手に、半月近く耐えたのだとすると凄すぎるが、春香岳城は元々要害の攻めづらい城で、有能な家臣の補佐があれば立花宗茂の例もあるのだから不可能なことではない。
だから管理人は通説年齢で行きます。

元種の少ない逸話を、掻き集めると「秀吉が高橋元種を可愛がっていた」のは確かなようだ。
でもって元種クン・春香岳城で籠城中の時には、立花宗茂の立花城の裏切り工作までしている。
もちろん失敗に終わるのだが、後日・報告を聞いた秀吉は高橋元種の「父譲りの才覚」を高評価し、それが国分けに現れた。

俗に「姉妹・兄弟でも、カマドが別になれば違う」と言うが、次男を独立した大名に、しかも石高は兄より多くすることによって一族の結束が強かった秋月の離間工作をも測ったのだろう。
逆らった秋月を本貫地から引き離す代わりに、兄弟2家を立て日向に領地を授け「豊臣の恩」を施す。
狙いとしては良いのだが、結果として兄弟(子孫同士も交流あり)は不仲にはなってないし、関ヶ原で「豊臣の恩」も思い出してはいないようだ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
生き残るのが優先の国人クオリティは息子の代も健在(* ̄・ ̄*)Vブイ

さて、戦後処理も終わって慌ただしく引っ越しした秋月家臣団と高橋家臣団一行だが、高橋家に問題が起きた・・・宮崎城に入城できないというハプニングが発生!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ

日向・宮崎城には島津家臣にして、城主の上井覚兼(うわい かくけん)が動かなかったからです。
宮崎城は元々伊東家48支城の一つで、島津が日向を併呑した時に奪ったのを、上井さんが城代として任されたの。
でもって上井さんも勝手な行動してたわけではありません。
主君の島津義久に「そのまま粘って~交渉で日向も取り戻すから!」って言われて居座ってたのです。
城に入れない高橋元種は、豊後に滞在してる羽柴秀長に泣きついた。
宮崎城で交渉成功の報告を待って粘る上井さんに降りかかった受難が「唐犬献上騒動」です。

上井さんは唐から献上された唐犬を預かっていたのだが、それを秀吉が聞きつけ欲しいと言い出した。
お兄ちゃん関白のためなら、豊臣政権のダークな部分を引き受ける有能な弟・秀長です(* ̄ー ̄*)ニヤリ

最初に羽柴秀長が「関白所望」と唐犬献上・色指定を要求したのが、6月15日。
オプション白野牛追加で催促したのが、7月20日。
ちょうど上井さんが宮崎城で粘ってた時期と符号します。

島津家文書には、秀長からの要求しか記載されてないところを見ると、ワンコは献上できなかったのでしょう。
(最初から所持してなかったのか、オプションが無理だったかも不明)

関白の要求が叶えられないとなれば、宮崎城に留まるのは政治的に厳しく、時期不明ながら静かに城を退去した。
さらに自分の行動で主君へ累が及ばないように、そのまま上井さんは隠棲生活に入る。
高名な一級資料「上井覚兼日記」は、すでに筆を置き執筆を止めているので、その複雑な心境は解らない。
その後の上井さんは歴史の表舞台に出ることなく、義久の風雅の友として仕えつつ、2年後に没した。

一方、上井さんの主君・島津義久も日向を交渉で取り返すどころでは無くなった。
島津家には関白から大量の人質上洛要求が来て アタヘ( ̄△ ̄:)ノミヽ(: ̄▽ ̄)ノフタテンテコマイ~~だったからです。
義久の末娘・亀寿が人質として指名され、義久自身の上洛も要求。
義弘の嫡男・久保が人質となり、義弘自身の上洛も要求。
家老級・分家も家臣を差し出すことを要求(一体何人になるんだ島津人質団)され、各家は人質の人選に顔面蒼白。

あ、考える必要無いって方々もいます。
家老の北郷氏・伊集院忠棟・分家の島津忠長~その方らは余人を人質に出す事あいならん!自身が人質として上洛せよ( ̄▲ ̄)/ビシ★
と厳しい御達しが出たのです( ̄ー ̄A 汗フキフキ

さて島津のことはさておき、やっと自分の領地にあづましく(=北海道弁で落ち着いて)入った高橋元種クン17歳。
やれやれ~と思った矢先に、またまた違うトラブルが発生した><;アウチ☆
いつになったら落ち着くんだ波乱の日向着任~それは またの話

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高橋元種2【腹は減っても戦は止めぬ!】

「島津に勝ち目があったか?」というと、微妙なところだと思う。
なぜなら島津家には、予想される援軍が無いからだ。

「新装開店の豊臣政権」は、島津が粘り続ければが自壊した可能性は高いが、援軍の可能性無しで粘り続けるには、前記事のような「島津内部がグダグダ状態」ではなく、「関ヶ原直後の島津家」のように派閥・分家・宗家を超えた「挙国一致体制」であることが必須だ。

では、だからといって豊臣政権内部が上手く行ってたか?というと逆で実は勢いだけのムード任せ。
秀吉軍は本軍も秀長軍も深刻な食糧不足で、これ以上の戦闘行為は政権の危機につながりかねなかったのだ。

そもそも「九州の役」で秀吉は、石田・長束など優秀なブレーンに鬼計算させて、大量の(ゴメン数字忘れた・汗)米穀を用意していたのが、何せ最終動員が20万の兵力なんで、あっという間に使い果たして足りなくなった。( ̄ー ̄A 汗フキフキ

日本の武士が出陣するときは、自腹・自弁で携帯は2~3日程度、後は「現地調達」というのは何度か触れた。
それを変えたのが織田信長で、彼は商人・農民から米を買い付けて食料を一気に集め、大軍の移動を可能にした。

こう書くと画期的で「さすが革命児」と褒めそやされるだろうが、
実は「織田式食料調達」には致命的な欠陥があり、毎回成功していたわけではないのです。
織田式(もちろん秀吉や旧織田家臣も継承した)が、成功するには「一定の条件」が満たされることが必要だった。

1) 貨幣がキチンと流通し、その価値や供給が安定していること
ここでまずアウト><;アウチ☆・室町期~戦国期は、貨幣流通が不安定で、物価も各地でバラバラです。

2) こっちがもっと肝心~作付けが鈴なりで豊作~つまり売れるだけの余剰米があること
織田式が通用するのは、商経済が発達し物成りも豊かな近畿圏のみの話なんです。

だから信長晩年の「甲斐侵攻」でも、織田軍は基本、兵糧不足に悩まされていました。
一方、九州は?というと慢性的な不作が続いていて、特に北九州では天正から慶長年間にかけて、後の「寛永大飢饉」の予兆となる小規模な飢饉が頻発していたのだ。
さらに島津の薩摩・大隅は、もともと米が育たず調達するものが無い^^;;
隣の日向には「伊東家の栄華」を支えた肥沃な穀倉地帯があったのだが、数年に渡る「大友の日向侵攻+島津の豊後侵攻(日向が通り道)」で、田畑が荒廃しきっていた。
九州では「現地調達ほぼ不可能」で、またたく間に全軍が慢性的飢餓状態となった。

日向口の大将である秀吉の異父弟・羽柴秀長は、このことに悩み私財を投じて米を掻き集め・・・・・









それを自軍の諸将に売りつけた ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
この非常時に「商売っ気」を出した秀長に対し、当然のごとく諸将から避難轟々ブーイングの嵐。

あ、でも秀長さんは自分が私服を肥やすためにしたんじゃ無いですよ^^b

お兄ちゃん秀吉のために、軍費の足しにしようとしたの(いい弟だ・・早死にが惜しまれる・・)
とにかく武将達からの苦情が秀吉の耳に達し、秀長は兄・秀吉に叱られる。

秀吉「あなた、こんな時にセコイこと止めなさいよ。そういう時には無償で渡すのが大将の度量よ」
秀長「。。(ω・`))ごめんなさい」

・・・・・・・・秀吉の器を大きく見せるための「小芝居」の匂いが、しないでもない(* ̄ー ̄*)ニヤリ
一方「大将の度量」を見せた意外な人物が毛利輝元だ。

輝元は、毛利家が集めた兵糧を諸将に「貸し与えた」。
輝元「うちは大目に用意してたので大丈夫ですから、どうぞ~^-^支払は戦の後で結構です」
と書くと、秀長と変わらないのでは?と思われるが、違うのはここからです。

戦後、兵糧を借りた諸将が輝元に返済の話を持ちかけると、
輝元「あ、いいんです。困った時はお互い様ですから、誰に如何ほど兵糧を渡したか控えておりませぬゆえ、自分も忘れました^-^」
と言って返済を受け取らず、諸将は「流石、大毛利家だけのことはある」と褒められたのです。
更に、この貸しを政治的に全く利用しなかったので、「人の」いい話だけで終わるのが、いかにも輝元らしい(*´艸`)


5月8日~島津義久が、大軍に抗じ難しと、剃髪し「龍伯(隠居号)」となって秀吉に降伏した。
5月22日~抵抗してた島津義弘が降伏し、嫡男・久保を人質に差し出す。
秀吉軍・秀長軍が食料不足に悩んでいるのは島津側でも承知していた。
だから「粘れば状況打開できるかも」「ダメでも薩摩武士の意地を見せられる」ってことになり、従って降伏も足並みが揃わなかった。

島津の猛将・新納(にいろ)忠元、人呼んで「親指武蔵」も抵抗を続けた武将の一人。
(新納が親指なのは、島津の猛将として一番に指折り(親指ね)数えられるのと、背が小さいから( ̄ko ̄)コゴエデ)
大隅の大口城を守備していた彼は、細川忠興&蒲生氏郷軍に囲まれていた。
もちろん細川・蒲生のどちらも兵糧不足で、忠興自らも一両日食べ物を口にせずに節約してるほどだった。

ある時、新納から塩や米を携えた使者が細川軍に来た。
新納の使者「旗印を見るところ、我が主君の友・細川家の方とお見受けした。
      聞けば、そちらは食料が乏しく苦しんでいる御様子。
      日頃の主君への交誼の礼として我が方の進物を受け取られよ。
      腹が満たされたところで存分に我が方を攻撃されるが良い、いつでも御相手致す。」

この時、忠興「涙が出るほど嬉しかった」そうだが、武士の意地を見せて食料を断り、使者を丁重に返したそうだ。
新納には籠城中に細川幽斎と交わした和歌の逸話もあり、「彼ほどの武将を死なせるのは惜しい」と、細川家は秀吉に新納の助命を働きかけた。

義久が降伏した日、関白・秀吉の命令を受けた石田三成が、新納に降伏を働き掛けたが新納は拒否し籠城続行。
三成は自分には説得は無理と、すでに降伏してた島津義久・義弘に降伏するよう説得してくれと頼んだ。
主君二人の説得で、ようやく新納は降伏・開城したのだった。

秀吉は日向を大友宗麟に与えようとしたが、宗麟は辞退した。
宗麟は自分の死期を悟っていたのかもしれない・・・5月23日、義弘降伏の翌日に死去する。

さらに秀吉は「仲良し兄弟の離間策」を目論んだ。
5月26日に義弘に「大隅国・領地安堵」の朱印状を与えるんです。
(後日、義久には薩摩国だけの領知安堵の朱印状を与える)

大隅も薩摩も島津本貫地で、とうぜん当主たる義久が継承したものだ。
それを秀吉の命令で、弟に強制分知させられたのだ。
反発した義久は「島津当主の証・御重物」を、秀吉の肝入りで17代当主となった義弘に渡さず、末娘・亀寿に与える。

亀寿と義弘の息子が結婚し、二人に子どもが生まれ家督を継げば、義久系統当主に大隅が戻ってくるからです。
(その思惑が外れ色々揉めるのは何度も書いてるので省略、
 最終的に19代(義久の曾孫の息子+義弘の孫)で、義久と義弘の血統は一つに結合してます)

とにかく日向拝領を宗麟が断ったので、秀吉は日向を細かく分配したのだが、それは またの話(* ̄∇ ̄*)
次こそは高橋元種を出すぞ^^;

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高橋元種1【島津・若草物語?!】

日本書紀に曰く「日の出ずる方に向けり、ゆえに、その国を号(なず)けて日向(ひむか)という」
日向の古名は「日向国・ひむかのくに」だった。

日向(ひゅうが・現宮崎県)は、21世紀の今日でも日本で一番日照時間が長い「太陽の国」だ。
だが、その名もなき太陽の民たちは、長きに渡り国土が戦で荒廃する苦しみを味わう。
さらに時の政権の思惑でバラバラに分割された日向が「国」として一つにまとまるには、260余年後の明治維新・廃藩置県まで待たねばならない。

大友・島津・伊東・土持の縣・財部・宮崎・三田井・米良・・・!戦国乱世の国人と大名たち・・
彼らの治乱興亡の果てに来た「九州の役」・・・それで争いは終わらず、新たな戦いの始まりとなる!
九州の役の時、島津の仲良し4兄弟のチームワークはバラバラだった。

一つには4兄弟の3男・歳久が病に倒れたことが大きい。
歳久は長兄で16代当主・義久と最も仲が良く、義久の傍らで島津全軍の統括指揮を行っていた。
その歳久が倒れたことで、まず4兄弟のバランスが崩れる。
歳久が倒れたのが何時かは解らないが、「九州の役」のころには自力で馬に乗れなかったらしい。

さらに次男・義弘と末弟・家久が前年の「島津・豊後侵攻」で大ゲンカしてしまった。
もともと長兄・義久は、家久と義弘それぞれに一軍を率いさせて、ハッスル材料として互いに功を競わせていた。
それが豊後侵攻が失敗したために、常日頃のライバル関係が逆に裏目に出た。

1586年10月~大友当主・義統が、何を血迷ったか秀吉が派遣した「先発軍・四国勢」を引き連れて、豊前へ援軍に出陣した。
当主不在でガラ空きのチャンスを島津が見逃すはずもない。
(と言うより、義統を見放した大友家臣が島津に内通したんです)

家久は日向コースで義弘は肥後コースからと豊後へ侵攻し、途中までは大友内部の裏切りもあってサクサク絶好調(* ̄・ ̄*)Vブイ。
ところが義弘は岡城で、家久は鶴ケ城で躓いた・・・何としても落とせず粘られたんです。
家久の方は、慌てて戻った大友軍+四国勢・大将が仙石ネと「戸次川・へつぎがわ」で激突。
島津軍が勝って四国勢は四散(大将の仙石本人が四国・讃岐まで逃げた)したため、鶴ケ城はやむなく降伏。
大友義統は驚いて首都・府内を捨てて、つい先日、援軍に行ったはずの豊前へ逃亡してしまう。(ナニヤッテンダカ・・・

家久軍は一気に府内まで雪崩込み「略奪ワッショイ\(≧▽≦)ノフィーバー」したとこまでは良いが、兵2000を割いて(鶴ケ城攻撃前に抑えようとした)大友宗麟のいる臼杵城に向かわせたら「フランキ砲・別名国崩し」の逆襲に合い遭えなく敗れる。
さらに大友家臣・佐伯惟定の栂牟礼(とがむれ)城攻略にも失敗、城壁に近づくことすら出来ずじまい。

その間の義弘は?というと、この戦いで「天正の楠正成」の異名をとった岡城の志賀親次に、振り回され続けてイイとこ無し><;アウチ☆
困った義弘は「家久~~援軍よこしてたもっせ~~」と頼んだのだが、家久も上記の状態でテンパッテテそれどころではなく断った。
だが一度で引き下がる義弘ではなく、「ゴルァ弟のくせに、とっと援軍寄越せ!」とケンカ腰になり、
切れた家久が「断る!占いで援軍は縁起が悪いと出たでごわす!」と却下。
(島津は占いスキーだから、ホントにやったかも)

結局、戦況が思わしくなく、豊前にも毛利・吉川・小早川・黒田の援軍が入ったの知らせに、退却することになったのだが、
援軍の催促にイラついてた家久は、義弘への連絡無しに自分だけ撤退した。Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
って話をネットで拾ったのだが実際は協力して撤退したっぽい。
豊後侵攻から帰った二人は、完全に不仲となり宴で同席しても一言も口を訊かなくなってしまった。

二人はそれぞれ・義久ニーちゃんに訴えた。
義弘「家久のやつ、豊後では、あーでこーで~~~悪口・文句・苦情」
家久「殿!(兄だけど主君だから)義弘兄上の作戦は、下の下ですぞ!」
義久「あ~~~~~~~頭痛いかなぁ!!!」
歳久が倒れなければ、フォローできたかも・・・( ̄  ̄)トオイメ。。
そんなグダグダのままで1587年「九州の役」に突入。

1587年4月17日~根白坂の戦いで島津軍と秀吉軍が激突する。
トップが意思統一出来てないのに、前線が上手く機能するはずがない。
この戦いでは、島津家老の伊集院忠棟が「秀吉軍に内通していたのではないか?」という疑惑がある。
伊集院は「攻撃合図の太鼓が聞こえなかった」と言い張り、攻撃に参加しなかったの。
真相は闇の中だが、後に伊集院忠棟は島津忠恒(初代薩摩藩主)によって手打ちに(斬殺)されており、少なくとも島津宗家では、親豊臣派の「伊集院は裏切り者 |_ ̄)じー」と疑っていたようだ。

とにかく攻撃がバラバラでは、勝てる戦も勝てないだろう。当然ながら結果は島津の大敗。
当主・義久の孫で次男・歳久の婿養子19歳(産まれは薩州家の次男)が戦死している。

そして同じ4月に、4兄弟・末弟・家久が羽柴秀長に降伏した!Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
秀吉軍の中で、日向から薩摩へ進軍するコースの大将が、秀吉の異父弟・秀長だった。
降伏した正確な日付が不明だが「根白坂の戦い」の結果を受けてのことだろう。
もちろん家久の独断で、他の兄弟たちには寝耳に水の降伏だった。

野戦指揮官として天才と謳われていた家久は、純軍事的に見て「秀吉軍に勝てない」と判断したようだ。
かといって、独断専行で降伏しちゃうのもイキナリ過ぎるが、大ゲンカしただけに相談できる雰囲気では無かったように思う。
とにかく真相は解らない・・・なぜなら二か月後の6月5日に家久本人が病死してしまうからだ。Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ(今回・ええっの連続^^;
あまりにもタイミング良すぎる死に、様々に憶測(毒殺説だが犯人候補が多過ぎ)されている。

とにかく、降伏を受け入れた羽柴秀長サイドの記録に「家久、病にて・・・」とあるのが傍証となり、病死説が通説となっている。
家久の急死で、息子の豊久に「領地安堵」させるか、若干の混乱があるが、それは少し先の話。
1587年4月現在で、次男・歳久が病で倒れ、末弟・家久が降伏した。
混乱の中、島津家にとって怒涛の5月を迎えることになるのだが、それは またの話め

次回「腹は減っても戦は止めぬ!」九州の役続きます^-^
マニアックすぎて主役の高橋元種が出てこない^^;

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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