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高橋元種7【関ヶ原~大垣城留守番組】

(高橋家子孫のHPで見つけたエピソード)

話は遡って九州征伐が終わった天正15年のこと。
関白・豊臣秀吉は高橋元種と立花宗茂を呼んだ。

秀吉「両名は互いの父の代から争った因縁の家だが、今日よりは過去の遺恨を捨てて仲良くせよ。
   そうだ!京都御所の右近の橘(立花から連想したらしい)左近の桜のようになるように、
   それにちなんだ官位を与えよう。」

そこで秀吉は高橋元種を右近大夫、立花宗茂を左近侍従とした。
以来、二人は互いを良きライバルとして意識しあうようになったという。
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最後の一文は子孫補正のような気がする∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
管理人のイメージしてる立花宗茂だと「人は人・自分は自分」って感じで、「誰かに意識される」ことはあっても「自分が誰か(身内以外ね)を意識する」って無さそう。
ただ「過去の遺恨を捨てよ」の言葉を立花宗茂は本当に実行した。
後々、立花宗茂と高橋元種は思いもかけない縁で深い関わりを持つようになるのである。

さて、九州征伐のあとの高橋元種の足跡だが、前回(米良氏とのトラブル)前々回(三田井討伐)以外は大きな動きがない。
といっても後の延岡市の土台を築く人物なので色々忙しかったとは思う。
ただ北海道に住む悲しさでネット検索では、これ以上のネタが拾えなかった_| ̄|○ il||li がくぅ

1598年(慶長3年)8月18日~豊臣秀吉が伏見城で亡くなる。
歴史は大きなうねりを上げて動きが加速するのだが、ぶっちゃけ5万石の高橋元種には関係ない∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

九州は島津(薩摩・大隅)と小西(肥後半国)が西軍で、豊後でも大友家再興のために兵を募る大友義統が西軍だ。
周りが西軍なので日向の伊東祐兵・秋月種長(兄)・高橋元種(弟)も成り行き任せの西軍入り。
でもって伊東祐兵だけが、本戦前に心変わりして東軍に寝返ったのは伊東家編で語った通りだ。
混沌としてる中なので伊東家の寝返りを西軍中枢が知ってたかは定かではない。
とにかく残る日向の小大名・・・秋月種長と高橋元種の兄弟は大垣城の守備に配置された。

どうも石田三成は九州の大名を余り信用してなかったようだ。
秋月兄弟はともかく、立花宗茂を大津城に使うのは勿体なさすぎる( ̄ー ̄A 汗フキフキ
まぁ途中まで一緒に行動してたのに、伊勢でSTOPしちゃった鍋島さんもいるから「諸将はあてないならない」と三成が疑心暗鬼になっても無理ないかも。

さて、その大垣城の前・・・本戦直前の7月に三河で一つの殺人事件が発生し、それが秋月兄弟の運命と大きく関わることになる。
その殺人事件とは徳川家康の叔父・水野忠重が加賀井 重望(かがのい しげもち)に酒宴の席で口論となって殺されてしまったのだ。
犯人の加賀井は酒宴に同席してた堀尾吉晴に殺されたのだが、時期が時期だけに江戸では大騒ぎになった。

「徳川実記」によると「加賀井は石田三成に徳川家の重臣暗殺を依頼された」とあるが、それは徳川実記にしか無い記述なので俄かには信じがたい。
とにかく最初に事件が報告された時には「同席してた堀尾も徳川に異心を抱いており水野を殺害した」という誤報となって伝わった。
この時、宇都宮にいた徳川秀忠の側には堀尾の息子・忠氏がおり、もし堀尾が真に「徳川に異心あり」となったら忠氏の身柄もどうなるか解らない。
顔面蒼白・万が一の覚悟を決めた堀尾忠氏クン。

そんな中で後に二代将軍となる秀忠が言った。
「堀尾吉晴親子は、我が家に背くような者たちではない。
例え承った通りに堀尾吉晴が水野を殺害したのだとしても、忠氏に於いては、二心を持つような者ではない。
彼をこの件で召しだしたり監禁するような真似は、一切不要である。」
後に水野殺害時の詳細が解り堀尾への疑いは晴れた。
人々は「中納言(秀忠のこと)様は人を良く知り使う」と褒めたたえ、この秀忠の言葉に感謝した堀尾忠氏クンは関ヶ原前哨戦でハッスルすることになる。

ちと前置きが長くなった。
この事件で当主が死亡したために水野家の家督は息子の勝成が急遽継ぐこととなった。
で、水野勝成は・・・というと、


こういうエピソードを持つ豪傑な人です∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
小牧・長久手の戦いで出陣した時に「兜を被って無かった(理由は解らん)」のを突っ込まれてパパン忠重と大ゲンカして家を出奔((((((((((っ´▽`)っフリーダム
出がけの駄賃に親爺の家臣をブッタ切ってたので「マジ切れ」パパンに「勘当+奉公構(再就職の妨害)」を食らった。
徳川の息のかかったとこじゃ再就職できなくて偽名使って西国大名に仕えるんだが、
あちこちでトラブル起こしては刃傷沙汰になって出奔を繰り返してた札付きのヤンキーです∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!

そんな彼ですが関ヶ原直前に徳川家康の仲介で、やっと親爺と和解したばかりのところに親爺が急死・・・しかも殺された。
この手で犯人を~~~と思ったが犯人の加賀井は既に掘尾さんが成敗しちゃってる。
どうにも治まらないスッキリしない暴れたりない水野勝成は大垣城に目を付けた。
[大垣城]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケン

大垣城には親爺の仇の加賀井の息子が西軍として入っていたのだ。
暴れはっちゃく水野勝成の「関ヶ原・大垣城攻撃」が始まるのだが それは またの話
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

高橋元種6【米良氏、訴える!】

1591年9月・・・高橋元種軍の攻撃で落城した高千穂の三田井には「槍飛」という逸話がある。
城を脱出しようとした三田井兵たちの前に、幅2~3mほどの川があった。
兵士たちは、棒高跳びの要領で槍を使って川を飛び越えようとした。
槍を手前側に突いた者は、上手く対岸に飛び移ることが出来たのだが、槍を向こう側に突いてしまった者は、飛び移れずバランスを崩して川に落ちてしまい、高橋兵に討ち取られたのだという。
(槍飛橋という地名が残る)

ことの是非を論ずる前に「国人領主(いわゆる豪族)が大名の家臣になる」という場面を現代に置き換えてみるとしよう。
例えるなら「家族経営の中小企業社長」が「経営は順調なのに突然廃業」し「ただの平サラリーマンに転職」したのと同じです(* ̄・ ̄*)b
とうぜん「社員として働いていた家族は失業」し、家族たちの自由になる小遣いは無くなり、与えられるサラリーでのヤリクリ生活に大変換。
生活レベルの変化に慣れるまで&ボーナスが出る位までは、夫婦親子間はギクシャクするだろう。

武家の場合、このような事情の上に更に「先祖伝来の土地を死守」「○○家の名誉と武門の意地」「祭祀を守る」が加味される。
だから国人領主は、ぜ~~~~~~~~~たいに土地にシガミツイテ離れない。
独立自尊・プライドが高いので、にわかに大名になった若造の家臣になるなど笑止千万・考える余地すらない。

もちろん国人領主の立場を捨て、誰かの家臣になる例が無いわけでは無い。
(薦野さんとか益田さんとか吉見さんとか肝付さんとか・・・どこの大名の家臣か知ってる人はマニアック・爆)
その場合の多くは「本貫地安堵~もしくはそれと同等の見返り」がある事が前提条件になる。

仮に高橋元種が、三田井を家臣として向か入れるとすれば、三田井に対し「高千穂安堵」しなければならない。
それでは家中での力関係のバランスが崩れてしまい、内部に不和の種を撒くようなものだ。
そうなった時、元種には家臣たちの不満を押さえつけるだけの「絶対的な権力」は無い。
何故なら高橋家自体が「もともとは国人領主」で「君主権」を確立する「近世大名」になる前だからです。
高橋元種が日向・縣(あがた)5万石の大名となるためには、土着の国人・三田井討伐は避けれらない運命で、土地台帳への記載ミスは単なるキッカケになったに過ぎない。

死んだ三田井氏には息子がいた。
元種は遺児を引き取り育て、成長した三田井の子供は高橋家に仕えたそうだ。
一方、三田井を裏切った筆頭家老の甲斐宗摂は始末され「裏切り者定番の末路」を迎えた。
甲斐の妻子のその後は記録には無い・・・武家としてでなくとも人知れず生き残ったと思いたい。
さてハッスルする高橋元種の次なるターゲット[壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝ・・・高千穂の隣・米良(めら)氏!

米良というと、もののけ姫の唄が真っ先に浮かんでしまう管理人だが、戦国時代の米良は超名門の末裔なんです。
その名門とは肥後の菊池氏。
最後の菊池当主は大友宗麟の実叔父にあたる人物で、菊池家の家督だけでは飽き足らず、大友家の家督を狙って謀反を起こした。
宗麟が大友の家督を継いで間もなくのことだ。

肥後の反乱は、苦労しつつも鎮圧され、逃げた菊池当主も数年後に宗麟に謀殺された。
それで菊池の家名は絶えたのだが、その数代前から分かれた傍流の子孫が米良氏だ。(と主張してるの)
米良氏は「肥後の反乱」の影響を恐れたのか、人目につかない山奥の米良という土地に棲みつき「米良姓」を名乗ったそうだ。
上記に述べたように三田井との争いは止むを得ないが、元種の米良への干渉は明らかに領土的野心から出たものだ。
なにせ高千穂の更に山奥なんで誰にも目をつけられず、改まった領地安堵状も未だ発行されていなかったらしい。(チャァ~ンスby元種)
でもって元種の領地の中には「高千穂」「穂北」とあって、その間に挟まってるのが「米良」だったの。
穂北が「飛び地状態」では支配しづらいので、「米良」も手に入れたいと思ったらしい。

驚いたのはオッコトヌシ・・・じゃなかった米良氏だ。
かといって高橋の兵力には及ばず、戦って粘ったとしてもいずれ力尽きてしまう。
1596年~米良氏は石田三成に「高橋元種を私的闘争を禁じた掟違反」で訴えた。。゜゜(´□`。)°゜。タスケテェ
石田三成は熟慮の末「高橋・米良の双方、大坂城にて申し開きせよ」となった。


米良氏は自らの血統を証明する「家宝の家系図」を抱いて、文字通り野を超え山超え谷超えて、生まれて初めての海路・船旅を、必死の思いで遠路はるばる大坂城まで伺候した。
評議の日、米良氏は関白・豊臣秀吉の前で「家系図」を広げ、米良を領する正統性を縷々訴えた。
秀吉は得心すると「米良領は、これまで通りとして安堵状を出そう」と裁定を下した。
さらに秀吉は米良氏を「名門の血筋」として、改めて丁重に別室に案内すると、手ずから槍を与えたのだそうだ。
ちなみに米良氏の「菊池氏末裔」の主張は江戸幕府も認め、相良家預かり「準大名格」として家名は続いた。

さて、高橋元種は何と言い訳・・・もとい申し開きをしたかというと・・・




高橋元種は石田三成の呼び出しをバックレた ∴・…( ̄◆ ̄爆)ブハ!
本人はもちろんのこと、家臣も来なけりゃ使者も来ない。完全すっぽかし~~( ̄▽ ̄)ノ_彡☆バンバン
生真面目な石田三成が、よく元種を「処分・処分」と騒がなかったなぁと思うが、なにせ朝鮮の役でゴタゴタしてる上に、他の御家騒動の裁定(ぶっちゃけていうと相良家)もあって、多忙過ぎて手が回らなかったようだ。
それと何より高橋元種が「秀吉のお気に入りの武将の一人」だったことが幸いした。
さて、次回は秀吉と元種のエピソードを語るとしよう、それは またの話

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高橋元種5【高千穂神社と猪掛祭】

前回の記事で紹介した「娘を生贄に捧げる秘祭」ですが、
元ネタ [壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝ はっけ~~ん。
それは現代にも続く高千穂神社の猪掛祭(ししかけまつり・旧暦12月3日)のことでした。

現在は猪をドド~ンと一頭、捧げるのですが、もともとは若い乙女を生贄にしてたそうです。
それは高千穂に伝わる「鬼八伝説」が元で始まった祭りでした。
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鬼八(きはち)伝説

(近畿東征から)帰郷したミケヌ(高千穂神社の祭神)は高千穂に居を構えた。
同じ頃、二上山の洞窟に住んでいた「荒ぶる神・鬼八」は山を下り、美しい姫・ウノメをさらって高千穂の洞窟に隠した。
ある時水面に映し出されたウノメの姿に助けを求められたミケヌは、他にも悪行を繰り返す鬼八の討伐を決意し家来を率いて鬼八を攻めた。

鬼八は各地を逃げ回った挙句、二上山に戻ろうとしたところでミケヌらに追い詰められ、ついに退治された。
しかし鬼八は何度も蘇生しようとしたため、亡骸は3つに切り分けられ別々に埋葬されることになった。(現在も埋めた場所の呼び名が残ってます)
救出されたウノメはミケヌの妻となり8人の子をもうけ、その後代々高千穂を治めた。

ところが、死んだ鬼八の祟りによって早霜の被害が出るようになった。
このため、毎年慰霊祭(猪掛祭のこと)を行うようになった。
この慰霊祭ではかつて乙女を人身御供としたが、娘をふびんに思った甲斐宗摂の命により、イノシシを代用することとなった。
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祭りのの説明だと簡素ですが、逸話だと毎年秋に生贄の娘が選ばれ(選び方は前回の記事と同じ)、甲斐の娘が選ばれてしまった。
「何でワシの娘を生贄にするんじゃぁぁ、生贄なんぞ猪で十分じゃぁ」
と、逆切れした甲斐は(強引に)それまでの祭礼を変更し、生贄を猪に変えてしまったそうです。

我が子を差し出す「キツイ祭り」が変わったことに領民も大層喜んだのだが、面白くないのは先祖代々続いた祭りを変えられた主君の三田井氏です。
それ以降、主君・三田井氏と筆頭家老の甲斐は不仲となり、二人の不仲が高橋元種の知るところとなって、裏切りの誘いをかけた・・・というのが事の流れだったようです。


前回の記事だと、だいぶ「管理人補正・小説風」が入っちゃってたので( ̄ー ̄A 汗フキフキ
前回の記事を直すより、高千穂神社の祭りも紹介したほうが、郷土史オタ・ブログらしいので原典に近い形のものを改めて紹介させて頂きました。

写真はサイトからの転載が禁じられていたので「猪掛祭」で検索して見て下さい。
本殿横に鬼八を退治する彫像があります。
実際の祭りでは神楽も奉納されるそうですよ^-^

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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