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【地図から見た肥前石井氏】

石井家が正式に龍造寺配下になった時期は調べきれませんでした。
ウィキペディアだと「田手畷の戦い(1530年)」に鍋島氏と共に龍造寺に加勢した事になってます。

石井氏は元々は下総千葉氏家臣で、はるばる肥前千葉氏に仕えた譜代みたいなものです。
肥前千葉氏が東西に分かれた時は、総領家である東千葉初代興常に仕えていたようです。

石井家が龍造寺配下にったのは、石井家5男・兼清の強力なアピールがあったとされています。
龍造寺家兼は、石井家が配下になったのを非常に喜んだそうです。
そして石井家の総意をまとめるキッカケになった石井家5男に、自分の文字・兼を偏諱し「兼清」と名乗らせました。

龍造寺家兼が「ひゃっほーい♪ヽ(*´∀`)ノ」した事には、当然理由があります。
このカテゴリ壱で説明した佐賀県独特の「地名スライド現象」を覚えておいででしょうか?
現代に残る地名が、干拓埋立により戦国時代は位置が違うという、罠?のような現象です。

平成の現代、本庄町鹿子にある石井氏の飯盛(いさがい)城は、場所は同じなのに戦国時代の地名だと与賀郷なんです。

東肥前ぬくもり戦国地図

しかも手書き地図にあるように、干拓造成前は海の側(やや内陸)でした。
龍造寺配下になった石井氏は、水ケ江城の出城(支城?)として海岸警備を担当したそうです。

この「海岸警備」というのが曲者です。
ネタだから秘密・・・ではなくて、スペースの関係で描ききれなかった亡き少弐政資が開港した港。
そのうちの今津と相応津が、実は飯盛城の御近所~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

飯盛城を起点にすると、1km北西にあるのが今津で、1km南西に位置するのが相応津。

海岸警備とは、綺麗に言っただけに過ぎません。
少弐氏蔵入地(直轄地)だった与賀郷の今津と相応津は、石井家が味方になる事によって、龍造寺支配下の湊になったのではないでしょうか。

今宿(川副郷)今津・相応津(与賀郷)が、少弐直轄領だという文献的根拠はシオレベルでは探しきれず、あくまで推測です。
が、湊を造る主な目的は、利便性だけでなく、交易による収入と運上金(関税)です。
湊や、そこから派生した商都は、時の支配者が必ず真っ先に押さえるので、シオ推測は外れてないと思います。

少弐が肥前国で勢い盛んだった頃、財政基盤の一部だったであろう湊。
その財は、少弐の胃袋に入る前に、喉元を龍造寺に抑えられた。


自分の見るところ、龍造寺家兼は慎重な人物です。
だから少弐エリアに、ダイレクトにちょっかい出すような下手はしないと思います。
その代わり、拝領した川副千町を足掛かりに周辺豪族を手なずけ始めてたんでしょう。

大内と戦う事に夢中だった少弐は、佐賀郡の豪族たちが龍造寺に靡き始めてる事に、すぐは気づかなかったんじゃないでしょうか。
亡き少弐政資が定めた「津町(港?)の制令」も、少弐のほうで権益保護を維持するのが難しくなってたはず。
佐賀郡の豪族たちは、どっちにしろ少弐へ与力してくれてるので、パッと見だと区別つきません。
ですが、少弐が佐賀郡豪族を動かすのに、いつの間にやら龍造寺を介さなければ出来なくなってきて、やっと悟ったと思います。

佐賀において龍造寺が台頭するということは、必然的に龍造寺が主君である少弐エリアを侵すということです。
龍造寺のした事は、被官の分際で主君の領地を霞め取ろうとする行為で、少弐としては断じて許し難い 。
看過できない重要な裏切り行為で、下克上の一種とみなされる動きでしょう。
少弐(主君)と龍造寺(被官)の関係が破綻するのは、時間の問題でした。

家紋・少弐
(ロン様作成:少弐家紋ロゴ)

飯盛城跡、現在は石井家菩提寺となった常照院です。
ちなみに鍋島直茂公が正室・彦鶴姫の元へ通った時に、ロミオよろしく超えた豪は残ってません(残念!
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【地図から見た肥前小田氏】

与賀神社2
室町時代の色彩を残す与賀神社(国重文指定)の楼門は、少弐政資が与賀神社を中興した際の建造ともいわれている。

居城を増改築し与賀城を築城(正確には改築)。
与賀郷の開拓・開墾。
入り江を改修し今宿・今津・相応津等の開港。

大内に大宰府を追い出され肥前・与賀郷に入った少弐政資。
上記に挙げた与賀における少弐の業績を、支えていたのが対馬・宗氏だ。

朝鮮交易セレブだった対馬・宗氏だが、少弐教頼(ダディ)少弐政資(ジュニア)を支援していた頃は、肝心の朝鮮国とトラブってたそうだ。
おそらく、その打開策として「太宰少弐」のネームバリューが必要だったのだろう。

その宗氏が少弐政資と距離を置き始めたのは、大内家による離間策があったと幾つかのサイトにあったが、具体的な事は判らない。
また宗氏は、少弐政資が肥前千葉の家督に介入する事にも反対だったと言われている。
(宗氏の利益にならない上に、対馬の兵力を便利使いされるから)
(ただし宗氏一門が少弐と縁戚関係だったのもあり、宗一門の一部は少弐家臣となった)

少弐政資自身は、宗氏が離れても不安は感じてなかったと思う。

なぜなら少弐のパトロンは宗氏だけでなく大友氏もいたし、肥前千葉氏の家督介入に成功し、肥前国人たちを自分の影響下に置くことが出来た。
さらに少弐自身も直接対馬と交易しており、また今宿・今津・相応津の港から来る運上金(関税)が、少弐の胃袋を満たしていたはずだからだ。

今津・相応津は与賀郷にあり、戦国時代は海沿いで本庄江川の河口港にあたります。
今宿は川副で佐賀江川の起点となる位置です。
東肥前ぬくもり戦国地図
河川が縦横にある佐賀県。
明治以降に開通した鉄道による「陸の輸送」が完成するまで、河川を利用した流通が物資輸送のメインでした。
特に筑後川の支流になる佐賀江川は、運河として盛んに物資輸送が行われ、届いた荷物は川副郷・今宿で陸揚げされてたんです。

そして今宿から運ばれた荷物にライフラインを依存していたのが、肥前小田氏の蓮池町です
これは江戸期の河川流通ルートを参考にしてますが、おそらく戦国時代も同じはずです。
というより少弐が港を造った事により、物資流通ルートが確立したんじゃないでしょうか。
一度ライフラインが出来れば、それが無かった頃には戻れません。
その方がコスト安いし便利だからです。
だが肥前小田氏にとって不味い事に、今宿を有する川副郷に龍造寺領が出来た

それは「田手畷の戦い」の恩賞として、少弐資元(政資ジュニア)が龍造寺家兼に与えた川副千町です。
いくらなんでも川副千町に今宿は入ってなかったでしょう。
少弐にとって収入源の一つですから。

IF「今宿に陸揚げされた生活物資全般を運ぶためには、龍造寺領(or近所)を通過しなければならなかった」
としたら、肥前小田氏にとって龍造寺は、目障りな存在だった事でしょう。
ただでさえ龍造寺が邪魔だった肥前小田にとって、さらに龍造寺が川副に勢力を広げるのは脅威。

少弐の龍造寺潰しでは、馬場頼周ばかりが注目されます。
ですが、そもそも「龍造寺裏切り」を少弐冬尚に吹き込んだのは、小田資光。
肥前小田氏の龍造寺への讒訴は、龍造寺が邪魔だったからじゃないか・・・というのが自分の推測です。

後に今宿は佐賀藩祖・鍋島直茂が城下町を形成するにあたり物資輸送拠点として利用されます。
下今宿は、宿場町として大いに賑わったそうです^-^
後年の賑わいから見ると、与賀が拠点だった頃の少弐は財政的に豊かだったと推測できます。
そして、その財は少弐復活力の一部だったと思います。

だがそれも、龍造寺が台頭するまでの事だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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【地図から見た肥前】

ちょっと過去記事を再編集してるので被りますが、まぁノンビリお付き合いください。

自分は「父が偉大過ぎて大変だった二代目萌え」でして、色々好きな二代目はいるんですが、
肥前では初代藩主・鍋島勝茂が好きです。
むろんパパで藩祖の鍋島直茂公も大好きです。

で、鍋島家が主家(龍造寺)から肥前を簒奪したんじゃないってことを証明できないかと思い肥前を調べ始めたのが、
元々の動機でした。

んで調べているうちに「始まりの切っ掛け」を知ろうと時代を遡るうちに「肥前千葉氏」にハマった^^;
これで肥前から中央政界へ引き返せなくなりました。,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
調べていくなかで、これは学生時代に大嫌いだった地理から逃げられないと悟りました(-ω-;)ウーン

まずはコチラ~方向音痴の道産子シオが、艱難辛苦・試行錯誤の末に完成した「戦国時代の東肥前地図」です。
東肥前ぬくもり戦国地図

東肥前戦国(手書きの)ぬくもり地図(*´m`)

右上のグレーゾーンからは筑前・原田氏勢力圏です。
もうちょい上の海岸近くに姪浜城があるんだが、紙が足りなくなって描ききれんかった(爆

調べてるうちに判った(シオ的)トリビア。
( ̄ko ̄)<グレーゾーンの下にある馬場氏の綾部城ですが。。。。。
実は「綾部城」って城はありません

綾部神社の側に幾つか山城があります
その複数の城郭郡の総称が、綾部城の正体(大袈裟?)です


そのうち、遺構が残っているのが「宮山城」「百虎山城」「少弐山城」で、それぞれ「別名・綾部城」です。
少弐一門にして家臣・馬場氏が入ったのが「少弐山城で綾部城」
東肥前19将の一人、綾部鎮幸がいたのが「百虎山城で綾部城」


総称されるだけあって、メチャクチャ近所,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
それぞれ直線距離だと1km以内なんです。
詳細はサイト「城郭放浪記」が詳しいです^-^

上記、三城は遺構が残っているので、地元の郷土史ファンなら知ってる方は知ってる・・・という感じだと思います。
ですが道産子のシオには、ちょっと盲点でした( ̄ω ̄A;アセアセ
さて、ぬくもり地図に話を戻します。

肥前の地形における最大の特徴は、時代によって海岸線が違う事です
干拓は何処でもやってるんですが、たいていは技術が発達した江戸期。
肥前は、もっと前から営々と干拓しています。

干拓埋立による造成前なので、現代より海岸線が内陸に引っ込んでます。
例えば、現代は佐賀空港にあるあたりが川副町です。
が、戦国時代は佐賀空港は有明海でして、筑後・一つ木の対岸が川副町。

現代と地名は同じなのに、戦国時代は位置が違うと言う、恐怖の地名スライド現象が肥前の特徴
造成した土地って、殆ど新名称がつくものなんですが、肥前は変えてない所ばっかり・・・il||li _| ̄|○ il||l
但し、平成になってからの土地区画整理により、また変化が起きてます(´;ω;`)ウッ

地元民はジモティであるがゆえに、他県人は地理感覚がないがゆえに、勘違いして地名の森に迷い込む~~
地形から戦国肥前を俯瞰・理解するには、まず当時の海岸線を頭に叩き込まなきゃダメなんです(´;ω;`)ウッ

・戦国時代~与賀庄(現、与賀町+西与賀町一部)
・江戸初期~上与賀(与賀町)+下与賀(西与賀町)
・現代~~与賀町、西与賀町、東与賀町

ザックリですが大体、こんな感じです^^b

戦国時代は東与賀町は一部だけで、後は有明海の底~~( ̄ω ̄A;アセアセ
地名変遷=土地造成ですから、当然、町の大きさ(広さ?)も違うはずですが、さすがにそこまでは調べきれなかったです( ̄ω ̄A;アセアセ

自分が与賀に拘り続けた理由は
少弐が神埼郡・勢福寺城に入る前は、
戦国時代の与賀庄が本拠地だったから


龍造寺が大きく飛躍したのも、与賀荘に領地を得たからだと考えているのだが、それはまたの話^-^

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高橋元種8【改易】

高橋元種の関ケ原に関してはカテゴリ「関ケ原~大垣城編」で記事にしているので割愛する。
家紋・高橋(ロン様作成高橋家紋ロゴ)

縣藩主としての元種は縣城(後の延岡城)を築城し町割りなども行い、延岡市の基礎を築いた。
しかし1613年、幕命により改易される。
理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに宇喜多直盛の甥・坂崎左衛門(宇喜多左門、水間勘兵衛)が出奔したのを匿ったためとされている。

この坂崎直盛という男、かなり偏執的な男でしつこい。
出奔した板崎左衛門の居所を探りあて城主自ら成敗しようとしたのだが、さすがに家臣が止めた^^;

そこで坂崎直盛は幕府に訴えでた。
坂崎左衛門を匿った元種は改易処分となった。
元種の正室が宇喜多氏で憐れんだ夫人が米300石を送ったのが咎められたのだ。

元種の身柄は陸奥棚倉藩主立花宗茂(柳川藩に復活前)にお預けの処分となった。
かつて豊臣秀吉が親同士の遺恨を忘れよ。
と言ったのは立花宗茂は忠実に実行し、元種は丁重に扱われた。

ご子孫様によると、立花宗茂は元種の大名復帰運動を幾度となくしたらしい。
が、すべて幕府により却下された。
ご子孫様は元種がキリシタンだから許されなかったのだ!と、言っている。

棚倉の地で没した元種の墓に十字架が刻まれているのが証拠だと。
正直、管理人はこれだけじゃなぁ~と思う。
せめて洗礼名とか、いつ、誰から受洗したか分からないと史料としては乏しい。

元種は1614年10月9日、棚倉で死去した。享年44の若さだった。
長男は一緒に棚倉へ預かりの身となり、その後が分からないのだが、
7歳だった次男は家臣に連れられ薩摩島津氏を頼り、そのまま島津藩士となった。

ご子孫様はブログを作っているのだから高橋の系譜は続いたのであろう。
そのことに何よりホッとしている。

秋月種実関連は、これで終わりたいと思う。
ちと史料不足なのと、それなりに達成感があるのです^^

次は佐賀に戻ります。それはまたの話

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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