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後編_河川から見た水ケ江城

国人領主が被官から自立した勢力に成長(戦国大名化)するには、「津(港)」が必要というのは、あくまでも肥前の場合です。
例えば甲斐国のような山国では適用しないと思います。

肥前における物資流通で河川を使った舟便は欠かせません。
何故なら、満干潮による河川逆流現象で浸水被害が必ずあるため「安定した陸の輸送」が困難だったからです。
逆を言うと肥前において一定の勢力がある国人領主は、物資流通の要である河川港か河口港を何らか形で保持してたんじゃないでしょうか。

龍造寺初期台頭時代は、位置的に八田江川流域にあった八田橋の津を利用してたと推測出来ます。
剛忠(家兼)の代で勢力拡大し、少弐氏が開港した今宿・今津・相応津は龍造寺が支配下に治めた・・・と思う。
思う~~になるのは、剛忠(家兼)が兵馬を用いず政略結婚などで「周囲の豪族を手なずける」という長いスパンをかけたからです。

人物・剛忠小 剛忠(家兼)イメージ画像

剛忠(家兼)という人物は、とても強かで、凄く慎重で、相当に用心深い。
自分の調べた範囲ですが、剛忠(家兼)の方から大内氏に接触した事はないでしょう。
(和睦の仲介を「大内の方から」頼まれた事はある)
でも少弐の資産だった今宿・今津・相応津(周辺領地含む)を支配下に治める行為は、龍造寺が「主君に対する重大な裏切り」を働いた証になります。

剛忠(家兼)も、それを判ってるから少弐に気付かれないように、ゆっくり、じんわりと勢力を広げてた。
勢力拡大の分岐点は、鍋島様の赤熊武者が活躍し龍造寺の武勇を肥前中に轟かせた「田手畷の戦い」ではないでしょうか。

相応津・今津を支配したのは、肥前石井氏が龍造寺家臣になった頃(田手畷合戦以降)になると思います。
剛忠(家兼)は肥前石井氏に海岸警固を命じてます。
当然、警固対象には河口港である今津と相応津が含まれます。
何故なら肥前石井氏の飯盛城は、今津と相応津の中間地点に位置してるからです。

今宿が龍造寺勢力圏に入ったのは、シオ推測では1536年の少弐資元自害以降。
この時に蓮池城の肥前小田氏が「御父上(資元)が自害になったのは、龍造寺が裏切ったから」と、少弐冬尚に讒言してるからです。

佐賀江川流域が勢力圏だった肥前小田氏にとっても、今宿は喉から手が出るほど欲しかった河川港だったはず。
ショートカット工事前の佐賀江川は、物凄く蛇行してて浸水被害も広範囲。
戦国期は大きな津を作るほどの治水土木技術が未だ追いついてません。
治水の神と称えられた成富茂安ですら「佐賀江川の蛇行には手をつけるな」と遺言してたほどです^^;
(手をつけて失敗したら元に戻せない)

従って肥前小田氏は、佐賀江川と八田江川の分岐点である河川港・今宿に、物資流通ライフラインを依存してたでしょう。
今宿には商人たちが移り住み後世の繁栄を予測させる商業圏が育ちつつありました。
運上金とかの利権が絡んできまつよね・・・( ̄ko ̄)
肥前小田氏と龍造寺は、今宿の支配を巡るライバルだったのではないか?というのが自分の推測。

その肥前小田が龍造寺を讒言するって事は、今宿が龍造寺勢力圏に入って、経済的に肥前小田を脅かす危機が高まったからじゃないでしょうか。
少弐資元自害で少弐がゴタゴタ混乱してる頃なら、龍造寺が今宿をゲットする絶好のチャンスですよね(^ -)---☆Wink

神埼に拠点を移した少弐氏は佐嘉郡に目が行き届かなくなり、龍造寺の勢力拡大に対する認識が遅れたと思います。
気づいていても大内へ対抗する為には「龍造寺の武勇」が必要で、切り捨てる事が出来ませんでした。
ジレンマの果てに我慢の限界に達し、馬場頼周立案「龍造寺抹殺計画」が遂行されます。

家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

剛忠(家兼)がリフォームした水ヶ江城は、クリークを利用しており5つあった館(曲輪)は、それぞれ独立してたそうです。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さでした。( ゚д゚)ンマッ!!
無数にあるクリーク。広大な場所にある独立した各館。
火縄銃・大砲のない時代なら充分に「攻めづらい城」です。

少弐氏が剛忠(家兼)を裏切り水ヶ江城を囲んだ時に、万単位の兵力を揃えたのは、後世になったからの数の盛りじゃないでしょう。
この広さなら、そのくらい要ります~本館だけ囲むって都合良くいかないですもん~( ̄ω ̄A;アセアセ
それを思うと、少弐が有馬と組んだのも、万単位の軍勢が必要だったからだったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

地形と城って密接な関係があるんですが、肥前は独特です。
パッと見は無防備そうに見える平城でも、戦国当時は城周囲がクリークや湿地帯で守られてて、敵が簡単に攻略できないように工夫されてるんです。

これは干拓・灌漑・護岸工事が終わった平成現代の地図からでは、イメージ出来ません。
戦国時代の海岸線・河川蛇行・逆流現象浸水被害の範囲・クリークの有無が予備知識として必要になります。
もちろん周辺にある山の標高とかも必要なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
地理嫌いだったので初めは大変でしたが、今は楽しく地形を調べてます^^

末筆ですが、ブロ友様へ~水ヶ江城をリサーチするヒントをありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げますm(__)m
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中編_河川から見た水ケ江城

水ヶ江城、村中城、与賀城。
この三城に最も近い河川は八田江川です。

基本として佐賀県の河川は、有明海の満干潮によって逆流現象があり、周囲は浸水被害が必ず起きます。
むろん現在では河川工事によって改善されてます^^b

河川工事前の八田江川の逆流現象による浸水被害は、八田橋まで及んでいたそうです。
水ヶ江城・本館があった乾亨院(佐賀市中の館町7-11)から6~800mほどしか離れてません。
ちなみに乾亨院も剛忠(家兼)所縁の開基^^/

戦国時代の海岸線は今より内陸に引っ込んでるので、浸水被害も八田橋より更に北に及んでた可能性があります。
とうぜん周囲には逆流現象対策として、逃げ水用のクリークがあったはずです。
江戸期以前なら未だ人工的なものでなく、元からあった自然クリークを利用してたんじゃないでしょうか。

「満干潮時による浸水被害が必ずある土地」そこは地盤が軟らかく宅地に不向きな泥土です。
干拓が進んだ江戸期においても八田江川流域では、泥土を取り除く作業が定期的にありました。
従って八田江川から一定の距離を置かないと築城が困難だったんです。

もう一つ大事なのは与賀神社(与賀庄鎮守宮)の存在です。
与賀神社2

まず前提として理屈抜きで「城と神社」は、建築物としてSETと考えて下さい。
賃貸物件で言うなら、風呂はなくとも居間とキッチンが必ずあるようなもので、切り離せません。
大きな城になると城内に神社があるくらいなんです^-^
城の側に神社があるんじゃない。神社の側に城があるんだ。(by踊るアレ風)って感じで^^
与賀神社のように権威ある神社があれば、その神社近くに城や館が集中します。

更に一つ。
浸水被害があるのを判ってて、ギリ傍に築城する理由。
実は八田江川の八田橋付近に「津=港」があったそうなんです( ゚д゚)ンマッ!!

現在、地名として残ってないため気づかなかったです。
起点(河川港・河口港)近くには城がある~~というシオ持論にも合致します(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
龍造寺は自前の船があったんじゃないか~というシオ推論の傍証にもなります(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

1478年~1482年にかけて、少弐氏を一時的再興した少弐政資が、河川港・今宿と河口港・今津、相応津を開港します。
今津と相応津は本庄江川の河口(戦国当時)港です。
今宿が佐賀江川と八田江川の分岐点にあり、八田江川の八田橋より数百メートル上流になります。

二つの河川の分岐点たる土地は、河川港としては最高の立地。
では今宿が出来たら、龍造寺は物資流通ライフラインは今宿に依存したのでしょうか?
それは有り得ない!
少弐支配下の今宿に物資流通を依存したら、龍造寺は少弐に逆らえない。
龍造寺が自立した勢力になるためには、自前の津(ライフライン)が絶対に必要です。
ましてや八田江川流域は鍋島様本貫地付近でもあるんです。何も残ってないはずない。

八田橋付近の津・・・津・・・地名が変化した?どうやって探す?
今宿じゃない・・・宿・・・・・・宿場町!( ゚д゚)ハッ
廃れたんじゃなく江戸期も繁華なら宿場町になってるはず。
八田「津」じゃない!八田「宿」でアレコレ検索・・・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
「さがの文化・お宝帳」より「八田宿~(佐嘉)城下より犬井道・早津江へ行く街道に面して(以下略」
やっぱり江戸期もライフラインとして機能してる。八田橋まで貨物船が来て物資を陸揚げしてました。
街道に面してた土地が八田宿として栄えたんです。

あ~~ダメだ!平成現代の犬井道は、戦国時代だと有明海にザブンil||li _| ̄|○ il||l
地名じゃ辿れない~~~~建築物!
最低でも江戸初期からあって、大事にされてて、簡単に引っ越ししない・・・神社だ!

八田宿にあった神社・・・・八坂神社・・ダメ!名称がメジャーすぎて大量HITする。
こっち!粟嶋(あわじま)神社・・・佐賀市北川副町大字新郷・・・キタァ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~八田橋とも400m弱しか離れてない。ここだ!

北川副町大字新郷周辺が、江戸時代の八田宿にして、戦国初期龍造寺の台頭を支えた津(港)ライフラインではないか・・・
というのがシオ推測なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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前編_河川から見た水ケ江城

現在、水ヶ江は地名になってますが、築城前は槇村と呼ばれていました。

【戦国大名閨閥事典(ブロ友様提供資料)】によると、
「康家は延徳3年(1491)頃、槇村に別館を造り水ヶ江館と称し、
永正2年(1505)には新館を加え、末子家兼と共にこの地に隠居して、龍造寺中興の基礎をつくった。」


剛忠(家兼)パパン・康家は生没年が不明な為、剛忠(家兼)が水ヶ江を遺産として継承した正確な年度は不明です。
どうやら家和(康家次男)家督相続時だけでなく、1505年までは存命だったみたい。
剛忠(家兼)の長命・子沢山は、パパン康家DNA譲りの生命力ですね(^ -)---☆Wink

佐賀市史によると上記にある永正2(1505)に隠居したとあります。
その時に作った隠居館が「水ケ江茶屋」です。

ですから家兼が水ケ江城を譲り受けたのは「父が隠居した時」と推定するのが穏当でしょう。

館だった水ヶ江を城へとビフォーアフターしたのが、剛忠(家兼)です。
西館の二館と中館・東館・本館の五館に分かれ、本館位置は現在の乾亨院(佐賀市中の館町7-11)
乾亨院・・・日程に余裕があれば行きたかった (゜-Å) ホロリ

『史伝 鍋島直茂 「葉隠」の名将』(中西豪著 )より抜粋(ブロ友様提供)
前略 「水」は竜の連想、「江」は方言の「え」、家の謂(い)いであり、
水ガ江とは「竜の家」ほどの意味を持たせたものである。


なるほど~と思いました。
確か中西先生は地元の郷土史研究されてる方ですので、方言解釈は異論のないところだと思います。
龍造寺家は史料の中で、簡略に「龍家」と書かれてる事が結構あります。
それと掛けてるのもありそうだな~と^^

水ヶ江城の特徴は肥前独特のクリークを利用して築城された城であるという点です。
クリーク(ウィキペディアより抜粋)
水域が陸地に入り込んでいる地形(入り江)。または 水を流すための人工的な構造物(水路)。

肥前の場合は自然のままのクリークと人工的に造ったクリークとの混合です。

龍造寺の村中城、水ヶ江城、少弐氏の与賀城。
半径数百m以内に3つの城が集中したのは何故なのか?
それは自分の中で長い間の宿題でした。

結論から言うと、村中城、水ヶ江城、与賀城も、築城は地形的にココでなければならなかったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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