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終_葉隠の系譜

八戸宗晹の誤算は、龍造寺剛忠(家兼)が90を超えた高齢でリベンジに成功した事。
八戸宗晹の不運は、跡を継いだ義弟(妻の弟)隆信が歴史に名を残す英雄だった事だ。

地図・八戸エリア2

弘治4年元旦にリベンジを果たし旧領に復活した神代勝利。
この動きに龍造寺家では、八戸宗暘が大友勢を城へ入れて背くのではないかとの風聞が立った。

三瀬村誌によると、情報は鍋島信昌(後の直茂)家臣と佐嘉郡新庄の伊東兵部からもたらされたものだったらしい。
佐嘉郡新庄は現在の佐賀市鍋島町大字森田にあり、ガチ八戸宗晹エリア内。
伊東兵部とは地元豪族だろう。地元情報ということで信頼性は高いかな?

知らせを受けた龍造寺隆信は 同日 八戸城へ兵を差し向けた。
北肥戦誌にある同日というのは、弘治四年の元旦の事で、神代勝利のリベンジと同時期だったらしい。
(ちなみに同じ元旦でも三瀬村誌では弘治3年になってます)
夜中から未明にかけて神代が山内に復活し、同日知らせを受けて、速攻で八戸城を攻撃。

多少日付がずれていても正月三が日以内なのは確かで、隆信の早すぎる動きは前々から八戸宗暘を看視してたからだと思う。
八戸城攻撃メンバーは三瀬村誌によると、隆信の弟・信周、一族の家就、納富、福地、石井の兵4700。

この人数を正月に集めた?神代の動きを受けて同日に?ヽ(。_゜)ノ へっ?
たまたま同じタイミングになっただけで、前々から八戸城攻撃準備してたんじゃないかな~アヤシイ・・・|壁|_ ̄)じぃー

それはさておき元旦で油断してた八戸城では、突然の攻撃に仰天!( Д )  ゚  ゚
おそらく新年の振る舞い御屠蘇で寛いでいただろう八戸城兵たち。
すっかり動転し防戦はおろか、城内を意味なく右往左往~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

そこへ鍋島信昌が城の風上に回って陣屋を破壊、城内の森に火をかけ焼き立てた。
城内に火の手が上がったのを見て八戸城兵は完全に狼狽し、交戦どころでなくなってしまった。
八戸宗暘は何とか城を落ち延び、神代勝利を頼った。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

八戸宗暘は妻(隆信の姉or妹)との間に二女一男を儲けていた。
妻子は宗暘退去の際に逃げ遅れ、龍造寺家に囚われの身となり佐嘉へと護送された。

裏切りに厳しい肥前の熊さん「(# ゚Д゚)・;'.怨敵の子であるから、男子は殺すべし!!!」と言った。
そこへ隆信の嫡母・慶誾尼が憐み、隆信を諭して押しとどめた。

八戸宗暘の妻と隆信は同母姉弟だったかもですね^^
そうなると八戸の男子は、慶誾尼にとって実孫ですもん。そりゃ助けたいでしょう。

於保の家督ですが、八戸との確執で胤宗系から本来の嫡流である鎮宗系に戻ったんじゃないでしょうか。
鎮宗系於保氏は、龍造寺家臣となり、その後は鍋島家に仕え佐賀藩士となります。

一方、八戸宗暘の息子は八戸姓を名乗る事を許されず「山本姓」に改姓しました。
それが系図にある山本宗春で、これまた子孫が佐賀藩士として残りました。
この山本宗春の孫が葉隠の口述者・山本常朝です

江戸期に鎮宗系於保氏と胤宗系山本(於保で八戸)氏とが、交流あったのか、互いにスルーなのか、他県人の自分には窺い知る事は出来ませんでした。
だから於保・八戸・龍造寺の複雑な関係が、山本常朝の心理に陰を落としていたかは判りません。
ただ常朝の生い立ち自体が複雑ではあります。
なにせ常朝は実父が70の時に儲けた子で、常朝は年上の甥っ子に養育されたんです^^;

さて伏線をタップリ張ったところで、肥前中世史②剛忠(家兼)さんの時代を始めたいと思います^^
それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

4_葉隠の系譜

八戸(於保)氏の最盛期を作った人物が、八戸(やえ)宗晹。
下野守。東肥前十九将の一人。生年不明。
八戸宗晹の妻は剛忠(家兼)の曾孫・・・龍造寺隆信の姉(妹説あり)だった。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(八戸宗晹の漢字が間違ってる・・・il||li _| ̄|○ il||l)

於保氏が、いつから八戸氏を称したのか、正確な年代は特定出来なかった。
てか、そもそも宗晹は次男であり、於保当主じゃなかったはずです。

これまた推測なんですが、
剛忠(家兼)は自分の娘の孫(剛忠(家兼)から見て曾孫)である宗晹の器量を見込んで、これまた自分の曾孫にあたる隆信の姉を娶せて、於保から独立させて別家を立てたんじゃないでしょうか。

曾孫夫婦って事は、親同士が従兄弟だからして、ハトコのカップリングになるのか?(-ω-;)ウーン
島津並みの同族・血族婚です( ̄ω ̄A;アセアセ

この推測でいくと、八戸宗晹が八戸姓を称した時期は、結婚した時or八戸城に入った時orどっちも同時、の三択。
年代が曖昧な最大の理由は、八戸(やえ)城の築城年代、もしくは八戸宗晹が八戸城に入った時期が不明だからです( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに八戸城で検索するのは御勧めしない。佐賀市と入れても検索結果が・・(以下略)

地図・八戸エリア2
(うねってる水色線は嘉瀬川~^^/)

八戸城の場所は、現在の龍雲寺(佐賀市八戸1丁目6-35)です。
佐嘉(村中)城&水ケ江城から1kmちょっとの近さ。
於保城(現在の於保天満宮で嘉瀬川リバーサイドカントリークラブの近所)とは3km弱の位置。
於保と龍造寺が連携を組むための「仲立ち」として程よい場所にあります。

剛忠(家兼)は、於保御家再興の後見し、本来なら嫡流でない次男(胤宗~宗晹の祖父)系統に於保家督を継がせ、さらに次男の宗晹自身に曾孫を娶せ八戸城を継がせたんです。
当然、八戸宗晹を自分の一族としてカウントしてただろうし、龍造寺配下とさえ思ってただろうし、それが態度に出ちゃってたかもです。( ̄ω ̄A;アセアセ

過度な恩というのは、相手の器量次第では毒になります。
普通に一般家庭で考えても、婿入りした訳でもない・自分から頼んでもいないにも関わらず、嫁実家都合で、嫁実家から援助され、家庭に口も手も出されるのを喜んだり、プライドが傷つかない旦那はいないでしょう。

少弐と龍造寺が手切れになった時。。。八戸宗晹は少弐サイドにつきました。
八戸宗晹は嫁実家・水ケ江龍造寺から、いえ剛忠(家兼)から離れ、自立したかったんだと思います

さらに重要なのが八戸エリアの位置。
仮に龍造寺に与した場合、八戸宗晹エリアが、VS少弐、ひいてはVS神代の最前線になります。
ここで思い起こすのが、龍造寺勢に編成されてた(らしい)於保氏が三代に亘り次々戦死し、滅亡しかけたという事実(推測)です。
これ以上、龍造寺に便利使いされて、最前線に狩り出され戦死の憂き目は真っ平御免。
自分の利益だけの為に行動したい・・・という欲求が出ても不思議じゃありません。

少弐の陰謀で、90という高齢になって、長男・次男・孫一族を失った剛忠(家兼)。
まさか剛忠(家兼)がリベンジに成功するとは、八戸宗晹は夢にも思わなかったでしょう^^;
復活力という点では龍造寺も少弐とドッコイです。

剛忠(家兼)が死んだ時、八戸宗晹は龍造寺が分裂すると判断したと思います。
少弐の陰謀後、一時期ですが村中と水ケ江は別行動でしたから。
八戸宗晹の最大の誤算は、妻の実弟が「肥前の熊」と異名をとる英雄だったことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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3_葉隠の系譜

まず一番?重要な事から・・・特にシオ同様に関東以北の方々へ・・・
佐賀県の八戸 は・・・
[はちのへ]ぢゃないよ。「やえ」と読む。
(脳に浸透させるのに難儀しました・・・by道産子)

龍造寺と同じく、高木氏を祖とする於保(おぼ)氏の複雑さは、八戸氏と同じであって、同じでないところにある。
八戸氏のエリアは、サイトによって佐賀市中央部だったり、西部だったりする。
このブレは、本貫地である於保村を、入れるかor入れないか、の差です。

地図・八戸エリア2

実はシオも迷って、初めに描いた八戸エリアには於保を入れてたんです。修正テープ跡が物語る(爆
結論から言うと、八戸宗晹エリアに於保は含みません。
何故なら、於保氏は 龍造寺に従った於保(兄で本来の嫡流)龍造寺に敵対した於保(次男←八戸氏はコッチ) の2系統に分裂したからです。

龍造寺の始まりが龍造寺村の地頭だったように、於保氏も於保村の地頭でした。
現在残る於保天満宮が於保の城跡だと言われています。
嘉瀬川リバーサイドカントリークラブを目印にすると(比較的、地図上では)探しやすいです^^;
あ、書き忘れた・・・地図上のウネウネっとした青い線は嘉瀬川なのネ^^;
少弐か大内か、浮沈の激しい肥前戦国史の狭間で、於保氏は概ね少弐被官だったようです。
で、於保は龍造寺旗下で働いてたっぽい。
むろん於保の方では、龍造寺配下になったつもりないでしょう。
当時の龍造寺は少弐被官の中で上位にいたのと、動員兵力の関係で、龍造寺勢に編成されてたと思います。

戦いの中、於保氏は三代に亘って、当主や嫡男が戦死してしまいます。
これは想像なんですが、龍造寺勢に編成された(と思われる)於保氏は先陣を担ってたんじゃないでしょうか。
でなければ当主や嫡男の戦死率が高すぎます。
一族の多くが戦死した於保氏は、一度没落の憂き目にあう。

当主(or嫡男)戦死で、残る弟・於保胤宗の妻が、剛忠(家兼)の娘という縁から、龍造寺に取り立てられ御家再興を果たします。

系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜

このあたり剛忠(家兼)が黒い,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
何故なら戦死した兄の鎮宗には、男系がキッチリ続いてるからです。
揉めてないところを見ると、戦死兄・鎮宗の遺児は幼かったのだろう(たぶん、きっとそう・汗)

剛忠(家兼)娘婿・胤宗は、時の龍造寺当主・家和(剛忠(家兼)の次兄)の養子となり、龍造寺の後見で於保当主となった。
於保胤宗の「胤」は龍造寺絡みなら、偏諱の(-人-)☆彡オネガイは龍造寺経由だと思う。
(経由することで於保は龍造寺配下になる)
やはり本来の嫡流である実甥を差し置き当主になるには、偏諱による箔付が必要だったんじゃないだろうか。

於保当主が龍造寺後見を受けていたので、於保(八戸)エリアの表記がサイトによって佐賀市中央だったり西部だったりするのでしょう。
後に(取り立ててやった)剛忠(家兼)娘婿~弟・胤宗男子系統が、龍造寺に敵対したのだから、皮肉な話ですな( ゚Д゚)y─┛~~

おそらく剛忠(家兼)は、於保(八戸)を取り込む事によって、於保(八戸)エリアを己の影響下に置こうとしたのだろう
剛忠(家兼)は与賀郷、川副郷と河川流域から河口に向かい有明海沿岸にと勢力範囲を広げていました。
これに於保(八戸)エリアが加算されると、佐賀市中央部から嘉瀬川流域にかけてが、龍造寺(実質は剛忠(家兼))エリアになる計算です。

剛忠(家兼)の目論見通りになれば、佐嘉郡主要地域の殆どが龍造寺の影響下に入り、小城郡を領する千葉氏と近いだけの実力を有する事になる。
主君である少弐氏と、その家臣・馬場が、何としてでも剛忠(家兼)を潰そうとしたはずです^^;

慎重な剛忠(家兼)は、あからさまに兵を用いて侵略とかはしません。
高木のように養子縁組したり、於保のように婚姻関係になったりと、時間をかけて影響力を広げています。

逆に剛忠(家兼)が兵を使う時は、西千葉からの要請だったり、少弐への助勢だったりと、必ず何らかの大義名分があるんです。
その大義名分を使って豪族たちを招集し、戦場で信頼関係を築き何時の間にか豪族たちを己の懐に飼い慣らす。
おそらく同時代の人間は剛忠(家兼)を「頼もしき仁者」と、尊敬していたことでしょう。

龍造寺エリアを広げるのに、時間かけて布石のロングパス・・・・
よっぽど自分の寿命に自信が・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

だが剛忠(家兼)の密かな大望は、挫かれた。
八戸(於保)宗晹が、龍造寺から寝返り少弐の陰謀に加担したからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

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2_葉隠の系譜

戦国時代、高木氏は龍造寺氏と養子縁組の関係だった。
系図~高木・於保・龍造寺の関連系譜
(手書きの)ぬくもり系譜,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

右端~□で囲んでる部分です^^/

胤家とは剛忠(家兼)の長兄でして、世が世なら彼の系統が龍造寺嫡流でした。
少弐か大内か、西千葉か東千葉かの狭間で出奔する羽目になり、嫡流から外されちゃった(自ら捨てた)んです^^;
その後、胤家は龍造寺に戻り彼の系譜は続いてますが、彼の系統から当主が出る事はありませんでした。

胤家は他に実子(男子)がいたんですが、高木家から養子を迎えています。
それが龍造寺盛家です。
その盛家の息子・鑑房が高木家の家督を継いでいます。

盛家の孫説もありますが、年代的に実子説の方がシックリ来ます。
「盛家の龍造寺養子入り」「鑑房の高木相続」の時期が、それぞれ不明なので剛忠(家兼)が一枚噛んでたかどうかも不明です。

他家へ養子に出した男子の子供に、実家の家督を継がせる事には二つの理由が考えられます。
1・高木家の男系が絶えたか、適当な男子が一族内にいない
2・龍造寺家との関係強化

この2点。

養子縁組関係で上手く行ってた(であろう)高木と龍造寺の関係が破綻しました。
少弐と龍造寺が対立関係となり、高木は少弐に与したからです
高木鑑房が少弐に与した最大の理由はズバリ「本拠地の位置」だと思う

地図・八戸滅亡前

高木鑑房の本拠地は春日山にある甘南備(かんなび)城。
ちなみに甘南備は(も)サイトによって甘奈備だったり、甘南比だったりで表示がバラバ・・(以下略)

春日山にある城なので、北肥戦誌では春日山城になってますが、春日山城で検索するのは御勧めしません。
「佐賀県 春日山城」で検索かけても、某毘沙門天さま関連が(かなり)上位に出てきます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この場合、注目するのは少弐配下の神代勝利エリアです。
(佐賀県の)春日山を囲む大和町大字梅野、同大字久池井、同大字尼寺、同大字etc・・・この一帯が神代エリアなんです。
最盛期における神代勝利エリアは、佐賀市中央部の愛敬(島)、大財まで食い込んでおり、高木エリアと龍造寺エリアは神代によって完全に分断されています。

ガチ少弐配下にして龍造寺とガチ敵対関係の神代エリアに、すっぽりと包まれた高木の状況で、同族・養子縁組の誼みを期待するのは酷というものだ。

高木鑑房の実父・盛家は、最期まで養子先である龍造寺の男として生きて、そして死んだ。
龍造寺盛家は、少弐の陰謀で偽の有馬討伐に出陣し戦死している。

生前、親子間での交流が薄かったのか、実の親子で敵対関係になる悲哀のようなものは、高木鑑房からは感じない。
国人領主としての高木氏は、龍造寺隆信に滅ぼされた。
さて、次ぎは於保(おぼ)氏。

於保氏は於保村の地頭で、現在の於保天満宮が於保城跡だと言われている。
実は、この於保村も佐賀市大和町の中にあるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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1_「葉隠」の系譜

さて葉隠の系譜を紐解く前に、まず龍造寺のルーツを御説明したいと思います。

さて、龍造寺のルーツには諸説あるそうなのですが、一番有力なのが肥前高木氏。
肥前高木氏からは複数の分流が出ており、本記事と直接関連あるのが(高木氏以外で)「龍造寺氏」「於保氏」です。

家紋・竜造寺 ロン様作成:龍造寺家紋ロゴ

で、ここで家紋に注目^^/
ルーツである高木氏と龍造寺は同じ家紋を使用してたんです。

ちなみに肥前高木から派生した同族は全て日足家紋でして、区別としては御日様の後光のような足?の本数が違います。(デザインも若干違う)
だから同族かどうか、互いに家紋を見れば一目瞭然^-^

よくある「総領の座」争いですが、高木氏と龍造寺が、そういう方向で諍いした形跡は見受けられません。
ただ肥前高木氏が衰退していくなかで、龍造寺の方で(高木に代わって自分が)総領家意識があったかも?
って印象をシオは感じましたが、そのあたりは微妙です。剛忠(家兼)は本音を見せないタイプなんで^^

肥前高木氏は鎌倉時代に勢力を誇り、官位は太宰大弐・・・これはホントか不明^^;
官位はともかく、前回紹介した「肥前国一宮・川上社(現:與止日女神社)」の大宮司でした( ゚д゚)ンマッ!!

それが九州ではよくある南北朝時代に衰退。
代わって台頭するのがシオが大好き「肥前千葉氏」川* ̄д ̄*川ポッ 

家紋・肥前千葉 ロン様作成:肥前千葉氏家紋ロゴ

それまでの肥前千葉氏は下総・千田庄(本貫地)と肥前・小城郡を行ったり来たりしてたんです。
イザ鎌倉・元寇のため嫡男でありながら九州へ強制移住させられた肥前千葉氏。
弟が継いだ千葉氏総領の座を諦めきれず、肥前千葉当主は頑張って千葉県と佐賀県を往来。
してたんですが、さすがに南北朝動乱期に二つの領地支配が物理的に難しくなった^^;
そこで千田千葉氏(本家)と肥前千葉氏(分家)に別れ、肥前千葉氏は小城郡に土着した。

もともとが勢力ある一族なので、肥前小城に本腰入れたら、たちまち肥前高木氏を圧倒。
「肥前国一宮・川上社」の大宮司職も、肥前千葉氏にとってかわられます。
肥前千葉が東西に分裂してから、大宮司職がどうなったかまでは辿りきれませんでしたが、
総領家は東千葉氏ですので東千葉氏が大宮司として行動したり、東西両家が和睦し蓮著で川上社に文書を発給してます。
ちなみに元亀4年の西門寄進時の大宮司が千葉胤連(鍋島殿を一時養子にしてた西千葉氏)です^-^

実は肥前千葉氏が「肥前国一宮・川上社」の大宮司だった事をシオが知ったのは割と遅く2013年7月^^;
というのも参照先サイトによって「與止日女神社」が「川上社」だったり「河上社」だったりと表記がバラバラでして。
そのため「川上社」で「河上社」が「與止日女神社」と同じ神社の事を指し、かつ「肥前国一宮」だって気づいたのが、3年前なんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

佐賀県の方はどうでしょう?、
川上社はともかく河上社が與止日女神社と同じって、すぐピンと来ますか?(道産子涙目)
土地勘の無いシオは読んでいても関連性に全く気付かず、地道に地名検索と各国人勢力エリアをコツコツと照合してたら、[神社とデータ]スッ≡( ̄ー『+』ゝハッケンしたんです。

愚痴はさておき、肥前国主とまで尊崇された肥前千葉氏が、「肥前国一宮・川上社の大宮司」というのは、頷ける話(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
祇園社を招聘しただけじゃ、東国御家人系氏族が勢力地盤を築けないよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

肥前高木氏は在地領主クラスまで衰退、家は東高木と西高木に分裂し、肥前千葉氏の被官として偏諱を受ける立場に・・・ (゜-Å) ホロリ
それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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