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改3【家督乗っ取り】

大内の訴えにより室町将軍・足利義政の勘気を蒙った・・・簡単に言うと「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と怒られた少弐政資。

亡命先の肥前を出たらしいのだが、その後の少弐が何処を拠点にしてたのか記録にない。
状況を辿ると筑前と肥前を行ったり来たりしてたようだ。

文明15(1483)、少弐政資は筑前に進出して大内勢と戦う(by佐賀市史)

で、同年の秋になると少弐は渋川氏(大内サイド)を肥前神埼郡・綾部を襲い敗走させている。

懲りない少弐に室町幕府、同年10月25日、渋川氏に命じ大内と共に少弐を討たせる←死んでませんよ~

文明16(1484)大内政弘、陶弘仲をして少弐政資の族を筑前で撃つ(by歴代鎮西要略)

こんな塩梅で、どうも筑前での少弐の様子は芳しくなく、はっきりしてないけど肥前に舞い戻ってるっぽい^^;

文明17(1485)10月20日、少弐政資、肥前神崎郡・仁比山社の社領を安堵する(by佐賀市史)
同年12月13日、少弐政資、肥前・光浄寺の三根郡うちの寺領を安堵する(by佐賀市史)


寺社の領地安堵は上位者のステータスの証。
大内と争い、肥前で勢威を保つだけの力が少弐政資にあったということです。
与賀神社2
与賀神社の楼門、少弐政資が造立したと言われている。

少弐政資を支えていたのは朝鮮との交易からもたらされる富だった。
その少弐政資が肥前千葉氏の家督に介入する。

文明18(1486)10月、千葉胤将(四男)が兄であり11代目当主である千葉胤朝に対し蜂起する。
肥前千葉の本拠地・国府(小城市)は夜襲され千葉胤朝が討ち死にしてしまう。

謀反した胤将はというと「少弐政資が討伐に来る」という噂にビビり逐電し行方知れずとなった。

不味いことに11代目・千葉胤朝は男子がいなかった。
代わりに、もう一人の弟(三男)胤盛の子・興常を養子にしていた。
順当にいけば、実甥で養子の千葉興常が家督を継ぐはずだったのだが、少弐政資は自分の弟を捻じ込んだ。

千葉胤将の一人娘(後の尼日光)と少弐政資実弟・胤資を結婚させて肥前千葉氏当主としたんです。

当然、正当嫡流である千葉胤盛・興常親子は、少弐政資による千葉氏家督乗っ取りに憤る。
何とか抵抗しようと少弐の敵である大内氏を頼った。

肥前千葉氏の家督を乗っ取り、肥前での勢力を増々拡大した少弐政資。
少弐の勢いの前に龍造寺も従わざるを得なくなるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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改2【少弐政資】

少弐氏が肥前に亡命し龍造寺を頼ったのは、龍造寺が剛忠(家兼)の祖父・家氏の頃からで、少弐は教頼の代だった。

では龍造寺・・・ひいては肥前全体に大きな影響力を持った少弐当主は?
というと、少弐教頼の息子・政資になる。

父の14代目教頼が大内に敗れて戦死(1468年・応仁2年)したため、
息子の政資は、11代目宗貞国(47歳)に保護されて対馬に亡命していた。

その対馬の11代目・宗貞国が室町将軍・足利義政から御教書(公式文書)を貰い、少弐の御家再興に成功する。
大宰府を安堵された少弐政資は「五州太守様(筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬)」と仰がれた。

が、少弐の御家再興に成功した少弐政資は、ちょっと勘違いしはじめた。
北肥戦誌によると
少弐政資は筑前・宗像家代々の宝物「金の猫」の話を耳にすると、無体にも宗像に対し「献上せよ」と要求した。
宗像氏は泣く泣く先祖代々から伝わるニャンコ像を少弐に献上した。
(どんな猫だったんだろう。。。。)
すっかり天狗になった少弐政資は宗像に対し「もう一匹あるはず。出し惜しみせずに寄越せ」
理不尽な要求にブチ切れた宗像は、いかにも神社の大宮司らしい切れ方をした^^;
宗像は神前で小指を噛みきり、流れる己の血で少弐を呪詛する歌を社殿の扉に書き付け死んだ。
家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

驕り高ぶる少弐政資は、さらにやらかした。
少弐は青山城主・留守左衛門大夫を微罪で所領没収してしまう。

だが青山は宗像と違い呪詛なんて回りくどい事はしなかった。
直球、ドストレートに青山は大内政弘に少弐の非道を訴えた。
大内にすれば邪魔な少弐を潰すチャンス~即効で室町将軍・足利義政に訴え出た。

文明14(1482)年春、少弐政資は足利義政の勘気を蒙り大宰府から肥前へと移る事になった。
この年の4月3日に少弐政資は河上社へ社領を安堵している「河上神社文書169」ので4月には肥前入りしてたことになります。
そして肥前に亡命した時、少弐政資は父と同じく与賀館に入ったんです。
少弐政資は与賀館と城へと改修し、与賀神社を城の鬼門の鎮護にと利用した。
藤龍家譜では「龍造寺家氏を頼り、家氏が与賀館を城に改修した」とあるそうだが、年代からいって少弐教頼の亡命の時と混同していると思う。
何しろ与賀城と龍造寺の村中(佐賀)城と水ケ江城は超近所(歩いて行ける距離)なので、城の改修には当然合力してるだろうし、被官として出仕してただろう。

同年秋、大内への意趣返し?少弐は大内サイドの渋川萬寿丸の綾部城(肥前神埼郡)を攻撃して落とす。

怒った大内は再び公儀(室町幕府)へ申し立て。
大内からの申し立てにより、自分の勘気を無視されメンツを潰されたと知った将軍・義政が切れた。
足利義政【御教書】公布⇒近隣の御家人よ!(少弐に攻撃された)渋川に合力せよ(`・ω・´)キリッ

ヤバイと思っても後の祭り、将軍の公式発表という大義名分のお蔭で少弐の四海は敵だらけ。
少弐政資は、自業自得で肥前からも逃亡する羽目になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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改1【時代は室町、5男坊】

龍造寺のルーツは別にして「龍造寺中興の祖」と呼ばれているのが、龍造寺康家、その息子・剛忠(家兼)です。
特に剛忠(家兼)は善政を布き、それを懐かしむ人々から【剛忠さんの時代】と呼ばれていたそうだ。

自分は旧肥前記事などで剛忠(家兼)は本音を見せないと書いたのだが、
正確に言うと本音が判らないというのが正しい。

剛忠(家兼)に関することは江戸期の二次史料(北肥戦誌や歴代鎮西志)にはあっても、一次史料が残っていない。
そのため【剛忠(家兼)が何をしたかは書いていても】【なぜ行ったか理由(本心)が判らない】んです。
ですから剛忠(家兼)の行動原理に関しては100%推測になります。

道産子の自分が佐賀県の史実上の人物をアレコレ想像するのは僭越かもしれないが、
肥前中世史を心から愛するゆえと笑って許して欲しい。

龍造寺は少弐氏の被官として鎌倉の御代から仕えていた。
やがて南北朝時代より台頭した肥前千葉氏にも被官として仕えるようになる。
(主君が二人いるのは主君同士の立場(地位)が違えば無問題)

龍造寺が、大宰府の名門少弐氏と格別の接点を持つようになるのは、室町後期の宝徳2(1450)年。
北肥戦誌によると少弐教頼が龍造寺家氏を頼り、龍造寺のご近所・与賀館に入った。
ただし歴代鎮西志だと文安4(1447)、歴代鎮西要略だと文安5(1448)

つまるところ例によって、この間、少弐は大内に敗れて旗色が悪くなったので肥前に亡命してたんです。
室町後期から戦国初期にかけて、少弐は亡命するときは佐賀郡は与賀を拠点にしていた。

剛忠(家兼)が生まれたのは、少弐教頼が与賀館に入った4年後。
享徳3(1454)年。龍造寺家氏の孫にして、龍造寺康家の5男として生を受ける。

剛忠(家兼)が生まれた頃は、肥前千葉氏が「肥前国主」と尊崇されるほどの全盛期だった。
一方の少弐教頼は筑前に戻ったかと思えば、次は松浦郡へと亡命してます「by佐賀市史」( ̄ko ̄)

で、剛忠(家兼)が元服した年とか、結婚した年とかは全然わからん(;´・ω・)
しいて言うなら家兼の家は、祖父の家氏からかな~~~~~~と想像する程度。

で、何も判らないが、文明11(1479)年に剛忠(家兼)の嫡男・家純が生まれています。
29歳で嫡男誕生・・・ちょっと遅いかな(;´・ω・)
それ以前に、剛忠(家兼)が何処に住していたかも判らんっす( ̄ω ̄A;アセアセ

父・龍造寺康家は、延徳3(1491)年に槇村に水ケ江館を造った。
で康家が隠居したのは永正2(1505)年、別館(水ケ江茶屋)を作る。
水ケ江館を相続し分家した時、剛忠(家兼)は既に40を越えていた。

剛忠(家兼)の人生は、宗家である村中龍造寺を支える役割を運命づけられていたとも言える。
それが剛忠(家兼)自身の武勇で違う方向に舵を切ることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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