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改9【龍造寺分裂_前編】

西国のドンは忙しい。
大内義興は少弐氏をコテンパンにした次に大友の家督相続にイチャモンつけた。

そもそも大友16代目(パパ)と大友17代目(息子)との壮絶が親子相克にもチョッカイ出して。
大友16代目は大内義興に殺されています。
(大友17代目は父より先に死亡。父による暗殺説がある)

で、家中の混乱をまとめたのが16代目の実弟にして家督を継いだ18代目大友親治(←宗麟の曽祖父)
その大友親治が息子・義長(←宗麟の祖父)に相続したのに、大内義興が文句つけた。

というのも18代目大友親治は家中の混乱収拾にあたり、室町幕府管領であった細川政元や将軍足利義澄らと通じたから。
伏線張ってたけど覚えてるかな?
西国のドン・大内義興がバックアップしてるのは亡命将軍・足利義材だってこと。

大友が少弐を支援してたこともあり、大友との過去の経緯も重なり、あっという間に関係悪化。
大内が大友の家督相続に難癖つけるまで拗れた。

明応7(1498)1月~2月、大内義興VS大友親治【下毛郡(大分県)の戦い】が起きた。
三行でまとめる(`・ω・´)キリッ
・大内義興が大友親治の従兄弟・大聖院宗心を担ぎ出した
・下毛郡の戦いで大内方を破って大聖院宗心を追放 o( ̄Д ̄θ★大友キーック!
・大友親治が大友家中の実権を完全掌握(=^・ω・^=)v ブイ

大友が戦国大名化への道を歩み始めるのは、この時からになるでしょう。
家紋・大友
ロン様作成:大友家紋ロゴ

で、豊前(大分県)の戦に出兵するために、大内配下となった元千葉家臣・東尚盛が出兵した。
このドサクサに紛れ、西千葉(少弐系)の尼日光や千葉胤繁、胤治が小城郡に返り咲いた。
シオは調べきれなかったんだが、千葉氏HP(小城千葉氏)によると高田城に入ったらしい。

で、この情報を知った西国のドン・大内義興。
大友と対立してる真っ最中で自身が動くわけにいかない。
筑紫満門、東尚盛を差し向け、東千葉初代・千葉興常も加勢した。

持ちこたえることが出来ず西千葉氏は、小城郡から佐賀郡川副へと逃れた。
11代目千葉氏の血を引く尼日光は龍造寺に加勢を頼んだが、それは・またの話 by^-^sio
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改8【少弐氏、滅びの序章_後編】

明応6(1497)1月、筑前で大内に少弐が敗れた頃のこと。
同年1月23日、千葉胤盛(東千葉の祖)が河上山(社)へ安堵状を出した(河上神社文書208)
同年3月27日、千葉興常(東千葉初代)が河上神社へ禁制を出す(河上神社文書172)

東千葉氏は本来は嫡流なのだが、少弐の千葉氏乗っ取り(西千葉を立てた)を憤り、大内氏の支援を受けていました。

肥前一宮の川(河)上社。
由緒ある神社への安堵も寄進も禁制を出すのも、権力者の専売特許でありステータスです。

東肥前・西肥前を制圧し、松浦党を従えた少弐政資が本貫地・大宰府を大内に奪われた結果。
肥前における少弐の権威も大きく失墜しようとしていた。

家紋・少弐
ロン様作成:少弐家紋ロゴ

少弐政資と息子たちは、政資の実弟・千葉胤資のいる晴気城へと落ち延びた(筑前から肥前へって事)
だが3月下旬には、大内軍が肥前への侵攻開始。
「晴気城では支えきることが無理!」と判断した千葉胤資によって、少弐親子は夜陰に紛れ二手に分かれて脱出したのだった。

同年4月19日
千葉胤資・・・城から討って出て戦死、西千葉氏の晴気城が落城
少弐頼高(政資の子)・・・東千葉の興常勢に討たれる
当主・少弐政資・・・逃亡先の多久宗時(側室パパン)が変心。自害を勧められて切腹、享年57歳

同4月21日
少弐高経(嫡男)・・市ノ川で敵に追いつかれ山中で自害、享年36歳
勝敗は大内義興の圧倒的勝利に終わった。

千葉興常⇒肥前守護代に任ぜられる
寝返り組・東尚盛⇒佐賀郡の一部を与えられる
寝返り組・筑紫満門⇒三根群と神崎郡を与えられる
陶弾正忠⇒博多に駐留させる


大内義興は戦後処理を終えると意気揚々と山口へ帰国。
さらに少弐氏累代の官職である「太宰少弐」の地位までゲッツする。
ここまで来ると大内の全盛期は義興の代なんじゃね?と思いたくなってくる。

が、そう話は上手く運ばなかった。
なぜなら、ここまでやられたにも関わらず、少弐が完全滅亡までには至らなかったからです。
当主・嫡男・他男子・一族多数と死亡した少弐氏でしたが、自害した政資には、もう一人・男子がいた。
生き残った男子は、少弐資元。(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ
でも未だ数え9歳 il||li _| ̄|○ il||l
少弐一門の横岳氏が匿い保護しました。( ̄ω ̄A;アセアセ

日本国内における戦の不思議さは、滅多なことで相手を完全滅亡させないことです。
平家が源氏の頼朝を生かしたことでリベンジされたことは武家における常識です。
にも拘わらず、敵に男子が残っていても殆どが殺さず、大人しく家臣になるなら家名を存続させたり、出家させたり。
逆に男子がいなければ女系の男子で系譜を繋いだりします。
後に少弐を滅ぼす龍造寺隆信も少弐生き残りの男子を殺してはいません。

この不思議さは別にして、大内義興も横岳が保護した少弐資元を殺しませんでした。
完全に留めを指すことにより、肥前国衆がドン引きするのを恐れたのかもしれません。
だって少弐政資が作った西千葉氏も残っているからです。

家紋・肥前千葉
ロン様作成:肥前千葉家紋ロゴ

西千葉には11代目当主・胤朝の一人娘・尼日光が嫁いでいました。
彼女には息子がいないまま夫が亡くなったので、少弐資元を匿ってる横岳家から養子を二人迎えていました。
ちなみに横岳家は少弐一門です。
だから実質「少弐=西千葉」と思って差し支えありません。

尼日光が何故、東千葉に敵対したのかは不明です。
(※東千葉祖・胤盛は尼日光の叔父で、初代興常は尼日光の従兄弟という関係。)
(※尼日光の父・胤朝と胤盛は兄弟で肥前千葉の家督を巡って争った過去がありました。)
彼女が心ならずも少弐政資実弟との結婚を無理強いされたのなら、この時点で降伏することが出来たはず。
だから西千葉を存続させる道を選んだのは、彼女自身の意志でしょう。

晴気城が落城する直前に、千葉胤資は妻・尼日光と養子である胤繁・胤治も逃がしたらしい。
でないと三人が生きてるはずないんで^^;
胤繁・胤治の二人は多分元服はしてたと思うが、未だ10代だったはず。
西千葉を実質的に総領として仕切っていたのは、肥前千葉家の血を引く尼日光でしょう。

大内にすれば肥前の問題は肥前として、守護代にした東千葉に委ねることにより自分の手を汚すのを避けたんじゃないでしょうか。
争いは「大内と少弐の争い」から「東千葉と西千葉の争い」になり、必然的に龍造寺を巻き込むことになるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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改7【少弐氏、滅びの序章_中編】

はじめに【滅びの序章】だから、少弐は滅びず「滅びかける」んですよ^^

明応6(1497)1月、吉見正頼・熊谷膳直・小早川詮平・陶一族ら計2万余騎を、義興自ら率いての筑前入り。

家紋・大内 ロン様作成:大内家紋ロゴ

少弐高経(政資嫡男)、大内先陣・杉興正の布陣前の隙を突いて、これを討ち取る(=^・ω・^=)v ブイ
大内第二陣・陶興房&熊谷膳直が少弐に反撃 バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
少弐高経は敗れて大宰府へ退く((((((((((っ´0`)っキャイ~ン
大内勢は勝ちに乗じ、兵5万騎(人?)に膨れ上がり箱崎(筥崎?)へ攻め入る

北肥戦誌には詳細はないが、おそらく筑前・豊前の国人らが大内軍に靡いたんだと思う^^;
「ヤバい」と感じた少弐は親子で相談し、二手に別れて逃げることにした。
少弐さんってば、何回も御家存亡⇒御家再興を繰り返してるんで、
落ち延びる手際が慣れてる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

当主・少弐政資⇒⇒岩門城に籠る
嫡男・少弐高経⇒⇒勝野尾城へ入る


大内勢は大宰府を制圧し、これを本陣とする(`・ω・´)キリッ
高経の勝野尾城へ、陶興房&陶安房守の2万が攻撃
政資の岩門城へ、陶弾正忠が同じく2万で攻撃


岩門城、落城!!!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
少弐一族10余人討死!岩門城の雑兵たちも殆どが討たれる

大内義興は、ガチで、完全に、少弐を滅ぼすつもりだったようだ。
通常の城攻めでは、わざと攻撃の一角を開けて、敵城兵の脱出ルートを作る。
そうすれば敵側は、抵抗するよりは逃げる方を選ぶ(特に城兵として徴募された雑兵たちが脱出)

そうなったら籠城を維持できなくなるので、敵も諦め降伏する。
結果として、攻撃側も損耗を抑えつつ早期に城を落とせるからです。

城の雑兵たちが殆ど討たれる・・・
って事は、大内は少弐の降伏助命を視野に入れない殲滅作戦をとったって事です。
しぶとい少弐が、今度こそ二度とリベンジ出来ないように、徹底的に潰すであります!o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

少弐政資は岩門城を脱出し、実弟・千葉胤資の晴気城へと逃げた
家紋・少弐 ロン様作成:少弐家紋ロゴ

陶興房と陶安房守が勝野尾城を攻撃~バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
少弐一門の筑紫満門、東尚頼が大内に降伏。
嫡男の少弐高経は肥前・神埼郡は勢福寺城へ逃げる。

つまり少弐は本貫地である筑前を追われ、(また)肥前へと逃げたんです。

3月下旬、大内勢が肥前へ侵攻開始。少弐高経のいる勢福寺城を攻撃。
3月28日、少弐政資は河上社へ「武運長久」「帰国安堵」の願文を出した(河上神社文書173)
大内の勢福寺城を攻撃は、歴代鎮西志では4月3日とあるので、少弐政資の(-人-)☆彡神様オネガイが攻撃の前か後かはイマイチ不明。
少弐が肥前に逃げるときは、基本、崖っぷち。
大内の肥前侵攻と、その攻撃目標に気づき「嫡男の無事の願いを込めた」のではないでしょうか (゜-Å) ホロリ

川上社の加護でしょうか。
4月8日、少弐高経は勢福寺城から父のいる晴気城へ逃げる(ギリギリセーフ)
4月13日、大内勢が晴気城(西千葉居城)を攻撃(大内の高笑いが聞こえてきそうだ^^;)
この攻撃には東千葉の千葉興常も参加してます。
地図・晴気と牛頭
だって、こーんな目と鼻の先にあるんですもん^^;

千葉胤資「兄上(少弐政資のこと)これ以上は無理~~支えきれない~~」
晴気城も危険でつ~兄上の側室の父・多久宗時殿を頼って下さい~・゜・(PД`q。)・゜・スマヌ

ちょっと秀吉の弟を思い出した・・・己は出しゃばらず、兄を補佐し続ける忠良な実弟。
少弐が肥前全体へ勢力を伸ばしたのは、この実弟が・尼日光(肥前千葉11代目娘)を妻としたのが大きい。
尼日光は肥前国人たちに対し、衰退する少弐への助力を依頼している。
(実質的には東千葉との戦い)

話戻って4月18日夜半・・・千葉胤資は、実兄・少弐政資を城から逃がした。
さらに時間帯をズラして別ルートで少弐の息子・高経、頼高を逃がす。

やっぱ落ち延びる手際が慣れ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ここまでコテンパンにやられても、未だ滅びない少弐の家運が凄すぎるんだが、それは・またの話 by^-^sio

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改6【少弐氏、滅びの序章_前編】

明応3(1494)動きを止めない少弐に対して大内が動いた。

大内義興は淡路島に下向していた足利義材(よしき)に申し出、「少弐退治」の上意を賜る。
足利義材
「少弐は勘気の身であるのに公儀を軽んじ私に弓箭を爲す意味を得ていない。
急ぎ吉木御所を言上し少弐一族をことごとく誅殺すべし」

少弐「何が下向だ亡命将軍め!そっちがそうくるなら・・・」
明応4(1495)正月、少弐政資の子・頼資が上洛し将軍より偏諱を受け「高経」となる。
(武雄市史、歴代鎮西要略、多久市史より)
少弐の嫡男が偏諱を受けたのは将軍は将軍でも10代目・義材ではなく、11代目・義高(後の義澄)。

大内家は京都の細川家と対抗し、亡命した元・将軍を擁して京都に上洛しようとしていました。
その擁立しようとしてた元・将軍が足利義材です。

同年、大内義興は上松浦へ東尚盛、原田興種を派兵するが敗れる(by多久市史)
少弐に服属した松浦党は、大内勢を撃退した。

明応5(1496)春、少弐政資は高祖城を拠点とし長島、飯守、小田郡、荒平等の地を攻略し、嫡男・高経と共に大宰府に入る(歴代鎮西要略)

この年の大内は豊後・大友氏の家督にちょっかい出してました^^;
大友は以前に少弐に合力してましたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
親・大内の大友当主に代わって欲しかったのではないかと・・・φ(.. ) メモメモ

そこまで行かずとも、家督のバタバタで大友は少弐を手助けする余裕がなくなります。
そっちを狙ったのかもしれません。

準備が整った大内義興。
同年12月・・・大内義興は幕府より「少弐追討令」を受けて山口を出陣!
明けて明応6(1497)1月、吉見正頼・熊谷膳直・小早川詮平・陶一族らを大内義興自ら率いて筑前入り、動員兵力は2万余騎

少弐一族必滅の構えで堂々な威容の大内軍~~豪華フルコンプ~(人´∀`).☆.。.:*・
これで滅びない少弐って・・・しぶとさが凄すぎるんだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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