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改13【少弐復活】

長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink

大内VS大友の争いが激化するなか、肥前の龍造寺は間接的に大内配下となっていた。
文亀(1502)1月16日、龍造寺家和、千葉興常の推挙で(元)将軍・義尹へ御礼と遂げる(北肥戦誌174P)

千葉興常=東千葉氏=嫡流
少弐が西千葉を立て肥前千葉の家督に介入してきたので、少弐の敵である大内配下となったのが東千葉氏です。
北肥戦誌では将軍と書いてますが、実は亡命中の【元将軍】です( ̄ω ̄A;アセアセ
で、亡命先が大内義興の山口~~
つまり龍造寺家和は東・千葉興常と共に大内領に出仕したことになります。

一方、少弐の方も反撃を開始。
同年月日不明、少弐が西の千葉胤繁と胤治と共に、綾部の渋川尹繁を攻め筑後へと追う(千葉氏略年表)
渋川尹繁=九州探題職=大内の支援受けてる=少弐の敵認定

大内だって黙ってない
文亀3(1503)、大内義興が陶尾張守を派遣し「大友&少弐」と戦う

文亀4(1504)
少弐政資の生き残った息子(幼名不明)、北肥戦誌から算定すると数え16歳。
現将軍・足利義高の赦免で資元と名乗る。(元服か)

間が空き過ぎたので説明すると、現将軍・足利義高サイドなのが大友氏(`・ω・´)キリッ
少弐資元は大友親治・義親の親子からの支援で大内に反撃。
勢福寺城の江上興胤を追放し、勢福寺を拠点とする。


同年2月10日、大内勢VS少弐勢、筑前怡土郡で争う
この争いの中、少弐&西千葉の復活で亡命していた龍造寺胤家が肥前へ帰還。
(※胤家は一族の反対を押し切り西千葉に加担したため一時的に龍造寺を離れていた)
弟で胤家に代わり嫡子となった龍造寺家和に迎えられ、大財端城へと入る。

同年2月30日、文亀は永正へと改元される

ここまでを三行まとめ
・龍造寺は大内配下の東千葉の配下。
・少弐資元、大友の支援で元服し西千葉と共に大内に反撃開始
・少弐氏、拠点を佐賀郡から神埼郡・勢福寺城へと移る


少弐と西千葉が復活するということは、またまた肥前が巻き添えを食うのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

改12【対立、大内VS大友】

長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink
明応9(1500)年1月、前年11月に近江で敗れた亡命将軍・足利義尹は再び大内義興を頼る(佐賀市史)

同年3月、亡命将軍・足利義尹は山口の神光寺に入る。
(適当な館がなかったのかな?)

同年4月、ここからが大事なところです( ̄ko ̄)
亡命将軍・足利義尹、肥前神埼郡にいる九州探題・渋川尹繁らに自分への忠節を求める。
同時期、現室町将軍・足利義高が大友親治、少弐資元に足利義尹討伐を命じる。

あ~あ、二人の将軍の争いが思いっきり肥前に飛び火してる(´・д・`)
まぁ、討伐って言っても亡命将軍の方は、西国のドン・大内義興の本拠地山口で保護されてるからして。
現実問題、討伐なんて無理なんだけど~~~でも戦の大義名分にはなるよね(・∀・)

とはいえ肥前は戦どころじゃなかったみたい。
北肥戦誌によると、この1500年3月~5月の間に降雨が一切なかったそうなんです。
稲や作物への恵みの雨が~~~~(;´・ω・)
同じく北肥戦誌より、同年8月2日、大風おびただしく、大水が山林を洗うとあります。
要するに台風で大規模な浸水被害があったってことなんでしょう。

日照りに大浸水・・・この年の収穫は絶望的だったに違いない(´;ω;`)ウッ

明けて明応10(1501)年、2月29日に文亀へと改元。
文亀元年4月20日、肥前に栗くらいの大きさの雹(ひょう)が降る(by北肥戦誌)

また田畑が・・・・il||li _| ̄|○ il||l
もう栗くらいの大きさったら「降る」っていうより「落ちる」ですな( ゚Д゚)y─┛~~

同年閏6月23日、大友親治の嫡男で当主の義親が豊後・筑後・豊前守護となる。
同年閏6月24日、大友義親は現将軍・足利義高より偏諱を受けて大友義長となる。

同日、大友親治(実権持ちの隠居)、少弐資元が、大内の豊前・馬岳城を攻める!
歴代鎮西志によると大内家臣で馬岳城主・杉兵庫助弘隆が討ち死にしたとある。

柳川市史によると大友親子は、筑後へも兵を進めていたそうで、
足利義高の「(亡命将軍を擁立しようとする)大内を討て!!!(# ゚Д゚)・;'.」の大義名分のもと、活発に軍事行動を始める。

だが豊前での大内の力は衰えたわけではなかった。
同年9月13日、周防の深野興信に豊前と筑前の土地を安堵している(大内氏実録土代)

では、ここまでを三行で説明(`・ω・´)キリッ
亡命将軍・足利義尹現将軍・足利義高の対立が激化
足利義尹は大内に、足利義高は大友に忠節を求めたので大内VS大友の対立も激化
・自然災害に苦しむ肥前は、両者の争いに巻き込まれようとしていた。

この動きの中で衰微していた少弐と西千葉が復活するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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改11【誕生・水ケ江龍造寺】

長文が苦手な方は三行&大文字説明に飛んでください(^ -)---☆Wink

明応7年2月、西千葉氏with龍造寺胤家が敗れて筑前に亡命した年の8月のこと。

あきらめない少弐は、未だ少年の少弐資元を擁立して綾部(肥前神埼郡)の渋川刀禰丸(大内サイド)を攻めたのだが、
大内が渋川へ救援を送ったので撤退した。

同年9月吉日、筑紫満門が河上神社へ河上宮の造営・遷宮の願文を出しています(河上神社文書176)
少弐一門でありながら、大内に降伏し幕下となった筑紫氏。
川上(河上)社へ造営・遷宮に関する願文を出すほど力を付けていたのが判ります。
あ、そういえば筑紫家は江戸期は幕臣で残るから、少弐一門の一つとして生き残った勝ち組になるんだよな^^

ちなみに、この年は平戸の松浦氏が松浦宗家を破った年です(松浦家世伝)

明応8(1499)年、戦国ミレニアムのせいだからか北肥戦誌によると、この年から飢饉が続き餓死者が多数出たそうです。

同年、渋川刀禰丸が大内義興の働きかけで元服、拝謁した足利義尹から偏諱を受けて尹繁となり、九州探題の任命された。
ちなみに歴代鎮西志では明応9年8月12日の事になってます。

で、亡命将軍・足利義尹は大内義興の庇護を受けてたのだが、もう大丈夫だろうと戻って近江で敗れた(11月)^^;
結局、亡命将軍・足利義尹は再度亡命して大内を頼ることになる。

では、ここまでを三行で説明(`・ω・´)キリッ
・大友は現将軍・足利義高に従う
・大内は亡命将軍・足利義尹をバックアップ。
・結果、大友と大内が対立する

ここから派生した現象を三行で説明(`・ω・´)キリッ
・少弐&西千葉は大友のバックアップを受ける
・九州探題・渋川&東千葉は大内のバックアップを受ける。
結果、少弐&西千葉VS九州探題・渋川&東千葉になる

大物の対立も派生した対立も連合軍になる場合もあれば、個々で戦ってる場合もありで、明確が決着がつかない状態がグダグダ続く事になる。

この明応8(1499)年に、龍造寺家兼が父から相続された水ケ江館を城に改築する
家兼がリフォームした水ヶ江城はクリークを利用しており、5つあった館(曲輪)は それぞれ独立していた。
その為、5館全部を合わせた広さは30町(約3.3km)という広大さ( ゚д゚)ンマッ!!

水ケ江龍造寺が龍造寺分家として頭角を現すのは、この時になるのではないでしょうか。
少弐の被官(家臣)でもあり、東千葉(嫡流)の被官でもある龍造寺。
両者の争いの中で生き残るべく、龍造寺は難しい舵取りを要求されるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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改10【龍造寺分裂_後編】

追放された亡命将軍をテコに中央政界に介入しようとする大内義興。
現将軍を後ろ盾に家中の混乱を治めようとする大友親治。

明応7年1月~2月にかけて両者が激突した。
豊前や豊後が戦になり、バタバタしてるスキをついて西千葉が小城郡高田城に戻った。

大友相手に忙しい大内義興は、西千葉に対し筑紫満門、東尚盛を差し向け、これに東千葉の興常が加勢した。
結果、西千葉一族は小城郡から佐賀郡・川副へと逃れた。

ここで西千葉の実質的総領である尼日光(初代未亡人にして11代目千葉氏の娘)が、龍造寺に加勢を求めた。

ここで龍造寺内部で意見が分かれた。
嫡男・龍造寺胤家は加勢すると言い、
次男・龍造寺家和は大反対した。

嫡男・胤家は、この時に家督を継いでいた説と継いでいなかった説があるが、それはさておき。
胤家は次男・家和の反対を押し切り、西千葉へ加勢した。

その出陣にあたり龍造寺胤家は嫡男の座を捨てた。
以降、村中龍造寺宗家は次男・家和系統となり、胤家系から宗家当主が出ることはなくなった。

このあたり非常にモヤモヤする。
西千葉氏は少弐一門・横岳家から養子を迎えた少弐系千葉氏。
少弐が大内氏に敗れ滅亡寸前である以上、西千葉に加勢するのは龍造寺全体に危険が及ぶ行為。
それと敢えて侵すのだから、それで胤家が嫡男の座を捨て龍造寺から離れたのではないだろうか。

少弐は滅亡寸前までは行ったが、男子・資元が生き残り横岳家が保護していた。
だから少弐が(また)復活する可能性がゼロじゃない。
龍造寺は東千葉(=大内サイド)を怒らせず、かつ西千葉(=少弐サイド)からも恨まれないよう苦肉の策をとったとも言える。

だからって加勢は嫡男でなくても・・・となるのだが、これは胤家の性格の問題らしい(;´・ω・)
どうしても自分が助けに行きたかったのだろう。

それで西千葉の求めに応じて加勢したのが、
龍造寺胤家、光益光廣、渋谷河内守、壬生新左衛門、鏡山平右衛門、諸富、南里、石井。

すったもんだで明応7年2月24日「川副の戦い」となり、西千葉・胤繁が敗れ弟・胤治や尼日光は筑前へと亡命した。
龍造寺胤家も母の実家・小鳥居氏を頼り筑前へと亡命した。
(小鳥居家は大宰府天満宮・別当家の一つ)

武家にとって嫡男が家を捨てるというのは大事件だったはずで、何も記録に残ってないのが逆に気になる^^;
ただ兄弟の父で当主である康家がいたので、嫡男の座を次男へスライドさせる事自体は難しくはなかったと思う。
相談の上じゃないかな~と感じるのは嫡男の座を捨てた胤家が、亡命するときに生母の実家を頼ったから。
なんだけど、細かい記録がないので想像で補完するしかない状況です^^;

こうして龍造寺は大内と少弐、ひいては東千葉と西千葉の争いに巻き込まれ、一時的に分裂した。
後に龍造寺胤家は再び龍造寺へと戻るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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