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27【筑後、星野氏分裂】

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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
基本ベースは北肥戦誌(九州治乱記)です^-^

大永5(1525)年、大友義鑑が田北親員を大将にして討伐軍を筑後に入れた。
筑後の国人衆が謀反を起こしたんです。

この争いの中で星野氏は一族が敵味方に分かれた。
大友サイドの星野親忠は黒木氏、上妻氏らと先陣を賜った。
激戦の結果、草野・溝口・川崎氏らは降伏し、謀反側の星野正実は豊前に逃れて大内義興を頼った。

大友氏では断続的に筑後・・・特に星野氏の謀反に手こずっていたようだ。
1518年に亡くなった大友義長は「警戒すべき一族」として、星野氏、阿蘇氏、相良氏、大友分家の田原氏を挙げている。

特に星野に関して義長は遺言で「星野九郎(重泰)の兄弟子孫は絶対許してはならぬ」と書いたそうだ。
九郎の兄弟子孫とは大内義興を頼った星野正実のことかもしれない。
とはいえ実は七回葬儀伝説の星野伯耆守重泰は、系図上では実在しない人物なんです。

ひょっとして星野伯耆守重泰は、大友に反旗を翻した複数の星野一族が一人の人物として伝わったのでは?などと妄想炸裂してます(*´pq`)クスッ

さて史実の星野正実を迎え入れた大内義興は、その後、豊前田川郡位登(糸)庄を正実に与えた。
位登(糸)庄はもともと星野氏の領地であったところで、義興はゆかりの地を正実に与えたらしい。
こうして星野氏は筑後と豊前に分裂し、豊前田川郡の星野氏は「糸の星野氏」と呼ばれ、生葉郡の星野氏は「筑後の星野氏」と呼ばれた。

豊前「糸の星野氏」は大内から毛利配下となり、九州の役を生き残り小早川隆景配下となった。
だが御存知の通り、小早川家は関ヶ原の後で。。。ショボーン..._φ(・ω・` )
それとも隆景亡きあとで毛利家臣になったものか、シオペディアでは辿れませんでしたil||li _| ̄|○ il||l

不安定な筑後の中で大友に積極的に近づいたのが田尻氏だった。
大友から偏諱を受け、領地の安堵を受け、家督相続では大友の許可をもらう。
それは同時に大友の筑後における支配体制が固まる時期と並行する。

享禄元年(1528)15代目当主・龍造寺家和が死亡。
少弐氏がリベンジのために再び動き出そうとする中で死んだ家和は さぞ心残りだっただろう。
大内家も義興が死に義隆が22歳で当主となるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
筑後星野氏が分裂し、負けた方の星野氏は大内を頼った。
筑後田尻氏は積極的に大友配下としての地盤を固める。
龍造寺家和が死亡、大内も代替わりする。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

改26【裏切り?】

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詳細出典史料「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用
大本は北肥戦誌が基本ベースです^-^

馬場が少弐を見限った筑紫満門を謀殺してスッキリした大永4(1524)
馬場から見て裏切りしてるのが未だいた。

同年3月28日、龍造寺胤久(17代目)が千葉興常より佐賀郡と小城郡の領地安堵を受ける「龍造寺文書105」
千葉興常は少弐のライバル・大内のバックアップを受けている東の千葉氏。
ちなみに嫡流は東。
少弐の一門・横岳から胤勝が養子に入っているのが西の千葉氏。

龍造寺は四年前までは西千葉と繋がりを濃くしていたのだが、この頃から東千葉との関係を強化しはじめたらしい。
四年間の間に何があったのかは記録がないので不明。

馬場から見れば、龍造寺が西千葉から離れて東千葉寄りになるのは十分裏切り圏内だと思うのだが、
馬場はそれどころでなくなった。

同年夏ごろ、西の千葉胤勝が大内へ寝返ったと噂が出たのだ。( ゚д゚)ンマッ!!
え~と、ここで季節の話になるんだが、
昔の北海道を含まない日本の旧暦季節感では4月くらいが既に初夏なんです。
これは中国の暦を日本にそのままあてはめた為に実際の季節感とはズレが生じてます。
そのために江戸期に渋川春海により暦は作り直されています。

噂を聞いた馬場頼周は、これを諌めようと胤勝の老臣3人へ送り状を出した。
だが、大永4年(1524)の夏に「胤勝は頼周の諌めを聞かず大内に通じた」と聞こえた。

諌めたのが逆効果だったんじゃ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

馬場頼周は佐嘉の龍造寺・蓮池の小田と共に4月に小城へ出陣し晴気城を攻撃。
5月12日に城は落城、千葉胤勝は密かに落ち延び筑前で浪人したそうな( ̄ω ̄A;アセアセ

ここで龍造寺はシッカリ少弐のために動いてる。
うまくやってるな~

大永5(1525)年、千葉興常は光勝寺に小城郡内の土地を寄進「佐賀市史」

寺社への寄進・安堵は安定した実力の証。
龍造寺が東千葉寄りになるのも納得というもの。

同年、千葉喜胤(興常の嫡男)横辺田で有馬に敗れ、大内の助けで小城に帰る「千葉氏略系図」
東へと勢力を伸ばそうとする有馬の動きは断続的にありました。
領地を守るためにも東千葉には大内の力が必要だったんです。

歴代鎮西志によると、この横辺田の戦いで須古の平井氏が有馬へと属します。
須古・平井氏。
もともとは千葉家臣だったのが有馬に属したことで、後に龍造寺を悩ませるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
龍造寺は東千葉とも少弐とも、いい感じの距離感で上手くやってた。
西千葉が寝返ったと噂が出て、馬場が西千葉を追い出すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
須古の平井が千葉から有馬に寝返る

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改25【後編・謀殺、筑紫満門】

本日は物語風に^^
出典は北肥戦誌です^-^

一門でありながら少弐から大内に寝返った筑紫満門。
同じく少弐一門で、筑紫の娘婿である馬場頼周は筑紫満門を謀殺してします。

それは我が子の病気を理由に妻(=筑紫の娘)に文を書かせ、誘き出して多勢で殺すという酷い方法だった。
人物・馬場頼周(黒い馬場頼周:監修様作画)

夫に父と兄弟を目の前で殺された馬場の妻の嘆きは計り知れず、後に夫へ暇を乞い髪を剃って仏門に入ってしまいました。ショボーン..._φ(・ω・` )

同行してた筑紫家臣の生き残りは、大急ぎで勝尾城へご注進~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
筑紫家臣らはリベンジのために綾部城へと向かったが、もとより準備万端の馬場にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!一蹴されてしまう。

馬場が喜びすぎたせいだろうか・・・筑紫満門は死して怨霊となってしまったそうです( ̄ko ̄)
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現代(北肥戦誌が書かれた江戸時代)でも、月が曇り雨暗き夜は綾部城の旧跡に叫喚の声が聞こえ、人心を悩ませている。
或る時、ここの領民が草を刈りそれを馬に積んで乗馬していた際、満門の墓の辺りを通ると、忽ち逆さに落ちて悶絶した。
近くの者は驚き、山伏を呼んで祈祷させると、「我は筑満門という者なり」 と口走り始めた。
更に「昔ここで命を失い、多くの年月が過ぎたと雖も魂は尚も留まりて、折しも今朝卯の刻より猿楽を興行し自らも舞い遊んでいたところ、下々ながら馬に乗り、舞台の前を通るなど奇怪の至りである。だがこれを許し命は助けよう」 と発した。
領民は汗水流して寝入るかと見えていたが、また息をしだした。

200余年の星霜は送ると雖も、その魂は尚も青苔に残る事、不思議な次第である・・・と北肥戦誌は結んでいる。
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馬場の忠義には私心はないであろう。
だが、裏切り者を決して許さず、相手を滅ぼすために謀を巡らすのが、果たして少弐のためになったのだろうか?
相手にも言い分がある以上、馬場の行動は恨みしか残さない。
相手が返す復讐の刃は、馬場の何より大切な少弐に降りかかるのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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