FC2ブログ

北肥戦誌【1559年】秋月種実(大友に)1回目の降伏

●永禄2年(1559年)

1月上旬、隆信は再び勢福寺城を取り囲む。昨年の和議は偽りであった。

油断していた城兵は取り乱し、江上武種は降伏し、城を出て筑後へ逃れた。

残された冬尚は成す術無く、同月11日に自害した。享年33。

一説には江上は隆信と内通していたとも言う。

また、冬尚も江上と共に城を忍び出て、有馬仙岩父子を頼み藤津へ逃れ、七浦にて病死したとも言われている。

さて、冬尚落居を知り千葉胤連は、不仲である冬尚の実弟・千葉胤頼の晴気城を攻めるべく龍造寺家に助勢を頼み、差し向けられた1,500と共に牛尾城を出陣する。

これに胤頼は、城を出て東の山路で戦うも、家人12人、又者(陪臣)4人と共に討ち取られた。享年28。

尚、胤頼には男子が一人あり、胤頼討ち死にの後に、上佐嘉川窪へ赴き神代家を頼った。後に千葉(屋形)胤誠と名乗る。

千葉胤連は以後、龍造寺に属し小城一郡を領した。

この年、五箇山領主・筑紫惟門が再び大友に背き、今度は豊後勢が討ち負けた。

これに、中国に逃れていた秋月文種の次男・秋月種実が筑紫と申し合わせ、父の仇を奉じんと古処山城に立て籠った。

これに豊後から《田北大和守鑑生》らを出陣させる。

だが、古処山城はあまりに要害であり、要領を得ぬまま季節は秋に至り士卒は大いに困窮した。

田尻親種の提案で山隈に陣替する。これに筑紫勢が田代に出て豊後勢と遣り合うも、此方も要領を得ずに五箇山に引き退く。

豊後勢は古処山を開き、佐嘉まで攻め入らんと欲し、8月28日に畠山まで陣を寄せた。

これを聞いた小田鎮光と江上武種は、このとき龍造寺の為に浪人していたが、大友に合力せんと動く。

鎮光はまず私領の三潴に至り従者600余人を集めた。

龍造寺家中では大友を如何に防ぐかを談合した結果、一旦和を請うべきと決し、9月15日、隆信の代理として左衛門佐鑑兼を畠山の豊後陣にて和議を求め、これを容れられた。

また、小田鎮光に旧領5000余町を安堵し蓮池城へ帰還させ、江上武種にも2500町を返し勢福寺城へ帰らせると、大友勢は陣を返して筑前若宮庄の河底という場所へ陣を移し、古処山を伺い続けた。

古処山城では、長い籠城に遂に力尽き、種実は田尻伯耆守の仲介で和を請うた。

田北はこれを容れ、種実は城を出る。

筑紫惟門は秋月降参を聞き落胆、止む無くこれも田尻伯耆の仲介で赦免を請うに至った。

以後、佐嘉周辺は一時的に平穏となる。




ほ~~~~~~北肥戦誌では筑紫より秋月が先に降伏したことになってるのか___φ(.. ) メモメモ

この年、肥後の相良家では「獺野原(うそのばる)の戦い」がありました^^b

スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリ
月別アーカイブ
アクセスランキング
[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
653位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
111位
アクセスランキングを見る>>
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR