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【本家没落_日向DE新納(にいろ)】

ひぃーん・゜・(PД`q。)・゜・編集中の記事消しちゃったぁぁ~やり直しでつ(´;ω;`)ウッ

日向在住の島津分家リスト
・飫肥(日南市)の豊州家
・都城の北郷氏
そして志布志の新納氏本家
(※志布志が鹿児島県に編入されたのは明治後です)

この分家三氏が協力して伊東氏に対抗していたら、日向戦国史の歴史は違っただろうし、そうなると猛将・島津義弘公の日向における戦歴も違ったかもしれない。
島津久逸とも不仲だった新納氏だが、どういう訳か北郷氏と豊州家とも不仲だった。
北郷氏に至っては、新納氏が伊東との戦でピンチになった為の救援依頼を無視し、それで新納氏が伊東に敗北したこともある。

ここまで来ると伊東が共通の敵だから分家同士で力を合わせ・・・などは到底無理。
豊州家・北郷家(プラスα国衆・北原氏)が連携して伊東氏に対抗しているのに対し、新納氏は彼らに与することなく己の領土拡大に専念しリア充。
新納氏の日向での活動が知名度低いのは、他の分家と違い単独行動だったのもあると思います。
とにかく新納氏本家の最盛期は、志布志の他に財部、大崎、末吉まで広がってました。
(ちなみに財部は北郷エリアの都城と目と鼻の先^^;)

日向における島津分家の対立の構図は、そのまま「薩州家VS伊作家」の宗家の座を巡る抗争に持ち越されました。
伊作側が薩州家側の城を攻略し始めた事に対し、薩州家・島津実久は日向における諸氏を味方につけて対抗しようとしたんです。
天文6(1537)年12月、実久(26歳)は自ら薩摩守護職にならん、とするが新納氏の反対にあい断念。
時の新納氏本家当主は新納忠勝。
彼が大嫌いな豊州家と北郷家が薩州家サイドだったので、反対したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
そのため、天文7年(1538年)、薩州家・実久押しメン連合な島津忠朝(豊州家)・北郷忠相・肝付兼続らにフルボッコ攻撃を受ける
さすがの新納本家も、これには抗しきれず伊作の忠良・貴久親子へ援軍を依頼したのだが間に合わず(´・д・`)
城が次々と落とされた為、ついには新納本家降伏・・・(´・д・`)ショボーン
新納忠勝と次男は、忠勝が嫌っていた飫肥の豊州家を頼る羽目になる(´・д・`)ダブルショボーン
ちなみに長男は伊東の佐土原に亡命で新納氏本家は一家離散となった(´・д・`)トリプルショボーン
新納氏本家の領地は、北郷と豊州家で分捕りな件~~

実のところ、実久派が日向で新納を攻略してる間に、伊作の忠良と貴久は薩州家の喉元目指して攻略続行中だった。
新納の要請を受けて伊作の忠良が兵を日向に割いたら、実久の狙い通り?思う壺?だったかも。
このあたり伊作側の新納救援が本当に間に合わなかったのか、薩州家エリア攻略を優先して新納を後回しにしたのか、細かい時系列が判らないので何とも言えないところだ。
もっともシオが伊作・忠良なら、実久側の陽動にも似た動きには乗らず、気の毒だが新納の日向戦線は切り捨てる。

没落した新納本家に代わって、歴史の表舞台に出るのが新納家庶流。
それには伊作島津に嫁ぎ、忠良の生母となった美女・常盤が大きく関わっている。
なぜなら忠良に仕えた新納氏庶流は、常盤の実甥の系統。
そもそも彼らを忠良に介したのは常盤だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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