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北肥戦誌【1557年】古処山城落城・秋月氏滅亡

●弘治3年(1557年)

春、隆信は敵討伐の大軍を上げた。

3月11日に小田が討ち負ける(詳細不明:時系列の間違いかも)。

その頃、筑前の秋月文種と筑紫惟門は、元は大内に通じていたのであるが、大内義隆が陶に打たれて以後は大友に属しており、今回共に示し合わせて、大友義鎮(後の宗麟)に背き、毛利元就に通じた。

これを伝え聞いて義鎮は立腹、急ぎ両人を征伐すべしと

5月に戸次鑑連(後の立花道雪)、臼杵鑑速、吉岡長増、田北鑑生を始めとした軍勢が府内を発し日田へ着陣する。

大友騎下である筑後勢も合力せんと、蒲池鑑盛、田尻親種らも出陣する。

大友勢は、まず秋月の古処山城を攻め立てる。

文種は防ぎきれず城を落ち延びたが、7月13日に家臣の古野九郎右衛門が心変わりして文種を殺害(詰め腹を切らせた)、その首級を豊後陣へ持参した。

だが大友勢はこれを賞賛せず、むしろ憎んだ為に古野は流浪の身となり、程なく息絶えた。

同日、豊後勢は筑紫も討たんと山隈原に陣を布き攻撃、岩屋城・若杉城の両城が同日に落ち、筑紫は五箇山に入った。

この年、隆信も納富信景を毛利家へ派して誼を通じている。

7月24日、隆信は鹿江兼明の鹿江城へ攻め込む。

鹿江は大軍に防ぎきれず、父子3人は討ち死にした。

鹿江は大友と敵対していた人物で、隆信は鹿江の首級を豊後勢の陣に差し送り、大友と和融するに至った。

豊後勢は悉く勝利を治めると、宮尾城へ筑後衆を入れ、岩屋城へは三原和泉守紹忍、高橋三河守鑑種らを入れ、勢福寺城へは(龍造寺家が大友へ譲渡したか?)豊饒鑑栄を在番と置いた。

8月12日、隆信は上佐嘉へ進軍、神代衆を多数討ち取った。

9月3日に江上武種も没落、同5日に隆信は山内へ攻め入り、神代勝利の谷田城にも攻め掛かった。

勝利は僅かの兵で打ち出て佐嘉勢と戦った。

合戦中盤、隆信は兵を割いて東方へ差し回し、松瀬より仏坂を越え環尾に至らせ、谷田城の高所へ登らせ、城を前後から攻め立てた。

谷田城は要害で、南は大川、北は長山、東西は一騎のみが通る程の細道で、その左右は切り立った岩に囲まれていた。

だが、城内はあまりに無勢であった為に、勝利は城を出て筑前へと逃れると、高祖城主・原田入道了栄(隆種)を頼り長野の地へ蟄居した。

隆信は神代家の領地の山々へ代官を据え置いた。(弘治元年かも)

しかしながらその冬、勝利は家臣を呼び集め、年明けと共に油断しているであろう代官共を討ち払うべしと述べた。

かくて12月の晦日の夜、松明も持たず暗がりの中、長野を打ち出た。




秋月の家臣は「古野」となってますが、おそらく「小野」の誤記でしょう。

小野九郎右衛門は戸次道雪家臣・小野鎮幸の一族で、そのツテで裏切り交渉した。

小野九郎右衛門が古処山落城後にどうなったか解らなかったんですが、

北肥戦誌では「大友勢はこれを賞賛せず、むしろ憎んだ」とあるので、戸次家臣団からハブられたみたいですね。

秋月が古処山へ復活した時に「小野姓」の者を見せしめに殺したそうですが、裏切った本人が既に死んでいたからだったのかなぁ(-ω-:)ウーン

秋月編の時に参考にしよう___φ(.. ) メモメモ
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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