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【新納忠元_市山城包囲_市山の合戦その五_】

出典~近代デジタルライブラリからコピー「菱刈史:有川国千賀編、大正13」
(以下、緑太文字は原文、ただし( )内と句読点や段落はシオ補足)

※菱刈史以外を参照した時は別色文字で表記します。

新納忠元の背後から進み寄って左脇を刺したのは、菱刈史では相良家臣・竹添丹後守となっています。
編者の有川国千賀は相良側史料として求麻外史と南藤曼綿録を参照していたようで、
求麻外史には的場後藤右衛門 忠元と槍を接して之を刺すとあり
と( )で補足を入れていました。

この市山の合戦は、永禄11年(1568年)2月28日として話を進めているんですが、
永禄10年(1567年)4月9日説(ウィキペディア赤池長任を参照)もあるそうで、島津側と相良側では人物名など細かい部分に相違があります。
まぁ、史料アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

相良と島津、いずれにしても「忠元が負傷した」って記述は共通です^-^
主君・忠元を小苗代薬師堂から引っ張り出した家臣・久保勝八。
彼は負傷した忠元を助け【忠元の刀を抜いて】丹後守を退けた。

なんで忠元の刀を?と不思議だったが、その答えは本藩人物誌にあった。
本藩人物誌によると、忠元が左の片腹を槍で突かれた際に、久保筑前(通称が勝八)が忠元を坂の下に引き下ろした。
その際に自分の槍を手放しちゃった
とかで、それで咄嗟に忠元の刀を借りたんでしょう。

とにかく忠元の従兵・川畑藤七兵衛、春成外記らも駆け付け、負傷した忠元を回収。
だが、忠元には ゆっくり休んでいるヒマはなかった。
菱刈勢の方でも、市山城番・新納忠元が小勢で城外にいる事に気づいたらしく、それを狙って軍勢が増して来たんですΣ(´Д`;)はぅ

忠元は負傷しつつも指揮をとり、時に戦い、時に退くなど時間を稼いでいたら、市山城兵が忠元ピンチの連絡を受けて馳せ寄った。
これで漸く忠元は急を脱し、市山城へ入ることが出来たのだった。

たぶん、この話のことだと思うけど
菱刈史でも南藤曼綿録でも、新納が詠んだという和歌も出てないし、雰囲気がかなり違う^^;
大口を巡る争いは何度もあったので、伝承されてるうちに混ざっちゃったのか、2ちゃんスレに投稿した人が端折ったかのどっちかです。

とにかく忠元が市山城に戻っただけじゃ話が終わらなかった。
勢いの増した菱刈勢は、そのまま市山城の四面を囲んだ。


誰が大将だったのかとか、どのくらいの兵数で囲んだのかとかとか、全く書いてません^^;
ただ大口城には元から相良の在番兵が詰めていたし、菱刈側は他の支城を捨てて大口に集結しているので、
新納の市山城単体の兵力より「菱刈+相良連合勢」の方が兵数としては優勢だったはず。

島津本軍の攻撃で八城を失い、
この2月28日の戦いで、将を鉄砲で撃ち取られていても、
菱刈の士気が衰えず、強気な姿勢を崩さないのは、大口在番の相良から援兵が来るからです。
ちなみに、この時の相良側・大口城在番は赤池 長任(あかいけ ながとう)
相良における島津交戦派の旗頭ではないか~と思われる人物。

いくら菱刈の残党をモグラ叩きしても、彼らを支援する相良をどうにかしない限り、島津は大口を完全に掌握することは出来ないのだ。
相良からの援兵を得て、市山城を囲んだ菱刈勢。
負傷した新納忠元のピンチは続くのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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