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相良家文書404_有馬晴純書状~龍造寺は思い通りになるはずって未来予想図?

今回からは有馬氏~本業の肥前と関連するものです(=^・ω・^=)v ブイ

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---超意訳
(折封ウハ(上)書)
「                     有馬
相良殿
  御報                    晴純」

「- ーー」(端裏切封)
芳礼令披見候、仍官務殿就帰路之儀、此堺驚(警)固等之事、被仰越候、随分致馳走候、其趣御使儈御存知之前候之条、不及口能候、次龍造寺一類蜂起候之間、近々至小城表一手遣為可取成、令出張候、案利不可有程候、心事猶期来喜、令省略候、恐々謹言
    (天文十四年)十弐月廿二日        晴純(花押)
   相良殿 
      御報


芳礼披見せしめ候、仍(よっ)て官務殿帰路の儀に就いて、此の堺警固等の事、仰せ越られ候、随分馳走致し候、

御礼(の手紙)見ましたよ~
官務殿の帰りなんですが、国境まで警固って話があったんで、随分馳走・・・随分奔走しちゃいました(^ -)---☆Wink
官務殿=小槻(大宮)伊治(おずき これはる)---この後の文書の登場するので、その時に改めて説明します。
芳礼=芳の文字は相手への敬意ですので訓読には含みません。
其の趣は前の御使儈御存知の候の条、口能に及ばず候
そのあたりの事は前の御使者が御存知のことなので、口能(こうのう=斡旋)には及びません^-^
************************************
ここまでは簡単だった~(*´pq`)ウフフ
段落としては、ここで一区切りになります。
古文書というか昔の文章って改行しないから、内容で判断するしかないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

相良氏を訪問してた【官務殿】が無事に帰れるように、有馬氏に警固を頼んだようです。
有馬ってことは、陸路ではなく海路を使ったんじゃないかな。
このあとの文書に出るんですが、帰りコースで藤津を通過してます。
官務殿の説明は違う文書でしますので、ここでは割愛します。
************************************
次 龍造寺一類(一門)蜂起候の間、近々小城表に至り一手遣わし取成し為す可(べ)く出張せしむ候、案利(あんり)程有る可(べ)から不(ず)候、
次、龍造寺一門が蜂起した話ですが、近いうちに小城表へ兵を遣わし取成しに出張する予定です。
まぁ、思い通りになるでしょう。

心事 喜び来る猶期 、省略せしむ候、恐々謹言
これから新年を迎えるんですが、御挨拶は省略します~恐々謹言なぅ
************************************
おにょれ有馬め~~~(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
人物・有馬仙巌(晴純)
(久々登場、有馬晴純イメージ画像)

天草地方にチョッカイ出しかけてた有馬氏が、その後に関心を失った(らしい)理由は史料が残ってないので憶測するしかありません。
天文年間の有馬の動きとしては、南下ではなく小城⇒佐賀を目指して肥前を東進してるんです。
最盛期だった有馬氏は島原半島~六角川流域までが勢力エリアで、更に小城&佐賀郡を窺う勢いでした。

有馬にとって美味しい状況になったのが、少弐氏が龍造寺の台頭を恐れて潰しにかかったことです。
そのために少弐氏は有馬と手を組み、小城、佐賀へと有馬軍を招き入れてしまいます。
もっとも少弐にすれば、有馬だって本来は少弐の被官でしたので「手を組む」って感覚じゃないのかも^^;
一門を騙し討ちされた龍造寺剛忠(家兼)は、再起のために蜂起し城を奪還し少弐らを追い出しました o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

ちょっと天文13年か天文14年か年度推定に迷ったんですが、
「龍造寺蜂起」とあるので翻刻版にある通り天文14年なんだと思います。

キリシタン(史料の宝庫・神社仏閣破却)で龍造寺の台頭で一度没落し、江戸期は本貫地から離れたのもあって、有馬氏に関する中世・戦国期の一次史料は潰滅状態。
他家に残る一時史料で足跡を辿るしかない状況です。
にしても天文年間の有馬氏と相良氏が交流してたのは、今回初めて知りました( ゚д゚)ンマッ!!

どうやら有馬晴純は再度、小城郡(佐賀県小城市)へ出兵するつもりだったようです。
表向きの名文としては「(少弐と龍造寺の)取成し」だったようで^^
有馬の脳内構想では「案利(あんり)=勝利or思い通り」になる予定だったみたいですが、結果として出兵してません。

それも有馬側史料がないので憶測になるんですが、少弐が敵となった龍造寺(村中宗家)が大内義隆の被官になったのが影響したんじゃないかな~と^^
とにかく、この文書は天文年間の有馬晴純の心底がチラ見できる、肥前にとって貴重な一次史料なのです^-^
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 朧豆腐さま

> 村中が少弐に追われたり大内の被官となったりしたのも、水々江の没落と同時期という説もあれば、

江戸期二次史料によれば、大内の被官になったのは剛忠(家兼)の死後です。

> 個人的には、有馬内部、家中統制の問題が大きかったのでないかと思っています
> 有馬衰退の原因にあげられるキリスト教を巡る親子一門の対立、龍造寺の台頭は、むしろきっかけにすぎなかったのでなかろうかと

そのあたりは有馬の史料が少ないので、決め手になるものがないんです。
言われた事は全てあてはまると、個人的には感じますよ^^

ではでは、コメントありがとうございました^^

No title

こばわっす

>少弐が敵となった龍造寺(村中宗家)が大内義隆の被官になったのが影響したんじゃないかな~と

この辺りいろいろと情報があいまいになっとることが多いようですな
村中が少弐に追われたり大内の被官となったりしたのも、水々江の没落と同時期という説もあれば、最初龍造寺をつぶす気はなくただ弱体化させるだけのつもりが剛忠が佐賀へ帰還し仇討ちを果たしてから(少弐が危機感を抱いたのか?)発生したという説もあるようで

個人的には、有馬内部、家中統制の問題が大きかったのでないかと思っています
イメージ画像そのままに陰け……もとい精力的に領土拡大へ奔走し、有力国人領主へ息子を養子としてねじこんだり娘婿として取り込んだりして有馬の最盛期を築いた晴純は確かに傑物なのでしょう
しかし、やり口が強引すぎて反発を招いたり、一門化したはずの西郷氏などが勢力持って従えにくくなったり、と徐々に体制のほころびが生じてきて、少弐や千葉の勢力圏へ進出する余裕がなくなってきたのではないかと推測する次第です

有馬衰退の原因にあげられるキリスト教を巡る親子一門の対立、龍造寺の台頭は、むしろきっかけにすぎなかったのでなかろうかと
とはいえ専門的に研究してるわけでないので、的外れかもしれませんがw

次の読み下しも楽しみにしておりまする~
ではでは~

Re: No title

内緒様 こんばんは~
有馬画像、迫力あるでしょう^^

はい、新たな一年を終えて肩の荷が降りた気がします^^
気が緩んで失敗しないように、精進します^^

お気遣いありがとうございましたm(__)m

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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