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相良家文書494_島津陽久(義虎)書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
(折封ウハ(上)書)(折封、裏打、堅紙)
※裏打---紙・布・革などの裏にさらに和紙や布などを張って厚く丈夫にすること
 「                  嶋津薩摩守
 相良殿
     御返報               陽久」

「- ーー」(端裏切封)
誠御慶重畳、久木野之輙被任御所存候、此方以大慶此事候、仍太刀一腰織筋二端預候、令祝着候、自是?同一振緞子赤地一端進之候、殊爲禮義、玉圓坊桑原常陸介殿御越候、外聞實畏入候、何様態可申談候、猶両使可被達候之哉、恐々謹言、
(弘治三年)
  八月七日         陽久(花押)
  相良殿
     御返報


裏打ちは意味の通りなんだが、初めから裏打ちされた状態で届いたのかがワカランです^^;
【返報】なので、まず相良側からアクションがあり、それに対する義虎の返書になります^^

義虎の初名は「晴久(足利義晴より偏諱)」で、将軍死去後の諱が陽久(はるひさ?)、義虎名乗るのは7年後。
実は、この陽久って呼び方も好きなんです。川* ̄д ̄*川ポッ 
太陽の陽に、密林の王者・虎、どっちの諱もスター性があると思いませんこと?(←萌えバカ)
薩摩守・・・薩摩守・・・薩摩守・・・薩摩守 島津氏分家筆頭、カッコイイ~(人´∀`).☆.。.:*・
薩州家が薩州家と呼ばれた所以たる受領(ずりょう)名なのです。(*´pq`)
さて、ファンの依怙贔屓は、このくらいにして真面目に行きます(`・ω・´)キリッ

誠に御慶び重畳、
誠に喜ばしいと重ねて申します。
久木野の御所存に輙(たやすく)任され候、此方(こちら)を以(もっ)て大慶とは此の事候、
久木野をお気持ちの通り容易に運ばれた事、これを以て「大慶」とは まさに此のことを言うのでしょう^^/
ふーむ・・・まず相良側で「大慶」って表現を使ってて、それを受けた上での返しっぽいなぁ
仍(よ)って太刀一腰と織筋(おりすじ)二端(反)預り候、祝着令(せ)しむ候、
よって太刀一腰と絹織物を二反を(使者に)預かります。祝着・・・お祝いします。
令(せ)しむ---この表現自体は相手への敬意として盛り込むものなので、意訳では深読みや捻る必要なしです^^
?是(これ)自(よ)り同一振、緞子(どんす)赤地一反 進(まい)らせ候

?より同(太刀)一振り、緞子(どんす)---繻子(しゅす)の絹織物の赤地一反をお届けします。
?部分には何か花押っぽいサインがありました。崩し字の上に印字も小さくて判読できなかったんです^^;
どうも義虎が贈る太刀と反物以外に、「誰か」が同じく太刀と絹織物を一緒に届けて~と言付かったみたいです。
父の実久は既に亡くなってるし、となると可能性として高いのは宗家の貴久かなぁ。
ちなみに島津義久長女・御平は、この時期には義虎に嫁いでます。
殊(こと)に礼儀を為し 玉圓坊 桑原常陸介殿 御越し候、外聞実に畏れ入り候

特に礼儀をもって、玉圓坊と桑原常陸介殿がお越しになり、体面上、実に畏れ入ります。( ̄ω ̄A;アセアセ
玉圓坊って誰?状態ですが、桑原常陸介は南藤曼綿録ですと八代奉行とあるそうです。
八代奉行が、どういった職制・職分かは不明です。
ともあれ相良側では薩州家へ、重臣クラスを使者として派遣したのでしょう。
それで陽久(=義虎)は恐縮してます^^;
何様態と申し談じ可く候、猶 両使い達せられ可く候の哉、恐々謹言
どんな様子か申し談じます。なお使いの両人へ伝えます。恐々謹言なぅ
家紋・相良 ロン様作成、相良家紋ロゴ

えっと~まず弘治3年に当時若年だった義陽の後見の上村頼興(義陽の実祖父)が亡くなります。
で、同年6月に頼興の息子たち・・・義陽を支えるべき立場の実叔父たちが謀反を起こしました。
更に相良氏の被官だった(と思われる)菱刈一門の菱刈重任が、叔父たちの謀反に呼応して、久木野城から湯浦方面へ侵攻します。
それが同年6月15日でして、相良はホントにホントに秋月のヘルプどころじゃないのです(´・д・`)ゴメンネ
ちなみに久木野城は水俣市にありました^^

てことで、7月9日相良側の津奈木・水俣・湯浦勢が菱刈勢に反撃し追い返すo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
7月25日、久木野城が落城&菱刈重任が戦死してます。
一か月以上かかってますが、実は叔父たちに呼応した北原氏(日向・真幸院=宮崎県えびの市)も兵を出してて、相良の領内は西も東も大忙しだったんです アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
(つまり、久木野城は津奈木・水俣・湯浦勢だけで何とかしなきゃならんかった)

ちなみのちなみに・・・この前後2年間ほどで天草地方で騒乱が起きてました 。ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
天草地方は相良が配下にしてたんですが、名君と謳われた先代・晴広が死去した事で政情不安定になってたみたいです。
史料が少なすぎて詳細不明なんですが、相良家文書によると相良氏では島津から軍船を用立ててもらい天草へ軍勢を送ってたようです。
島津家老の伊集院忠朗と書状のやりとりが残ってます。(弘治3・3月)
過去記事では義陽と伊集院忠朗が佐敷で会見した(弘治3・3・15)のは「菱刈からみ?」と書いてたんですが、相良家文書の遣り取りを見てると、寧ろ天草地方の和与(和睦)からみの可能性が高そうなんです。
対応する島津家文書がないかとチャレンジしたけど、島津が専門外なんで、何処にあるか、それとも無いのかすら判らず挫折した^^;

で、6月に叔父たち謀反ですから、相良では天草地方の騒乱も和与する事が出来ずグダグダが続いてたと思われます。
島津の方でも若年当主の為に領内不安定になった|相良家|_ ̄)じぃー と見てる訳です。

そこで相良家では、上村兄弟の謀反に呼応した菱刈重任を討ち果たし久木野城を落としたことを、薩州家の島津陽久(=義虎)へ重臣クラスを派遣して伝えたんです。
おそらく相良側では、陽久から島津宗家へ伝わる事を期待して・・・てか直球ストレートに頼んだのかも。
それで戦勝祝の品が陽久だけでなく【?是自】からも預かったと思います。
てことで「?」部分の崩し字は宗家じゃないかって推測が出てくるわけです^^

若年で、父と祖父を相次いで失い身内に裏切られた弘治年間が終わると、義陽にとって試練の永禄年間が始まります。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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