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相良家文書506_島津義久起請文&507_島津義久書状

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳
【506_島津義久起請文】
コノ起請文ハ牛王寶印ノ裏ヲ反シテ書セリ
   起請文
一申組代々之辻、弥於向後可爲深重候、自然世上雑説之時者、?實否可相決事、
 若此旨於違犯者、
梵天、帝釈、四大天王、惣者日本六十余州大小神祇、殊者當國鎮守新田八幡大菩薩、開門正一位、大隅正八幡宮、霧嶋六所権現、諏訪大明神、天満天神、部類眷属、神罰冥罰可蒙者也、仍起請文如件、
   永禄五年壬戌拾月二日       (島津)義久(花押)
          相良殿

一申し組は代々の筋(辻)、
申し組み(和睦)は代々からの筋(道理)(`・ω・´)キリッ
弥(いよいよ) 向後(こうご)に於いて深重(しんちょう)爲(な)す可(べ)く候
いよいよ、今後において大事をなす事になります。
自然(じねん)世上(せじょう)雑説の時は、実否(じっぴ)相決(あいけっ)す可(べ)く事
おのずと、世間で様々な話が出た時は、嘘か真かキチンとしましょうね(^ -)---☆Wink
若(も)し此の旨に於いて違反は(以下、誓った神様の名前)仍て起請文 件(くだん)の如し
この内容を破ったら神様から罰を受けます、この通り起請します

さすが三カ国守護の島津氏、起請した神様は当国(薩摩)、大隅、霧島とちゃんと三カ国が書かれています。
さて、連動してる書状も短いんで次も一気に行きます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
【507_島津義久書状】
(折封ウハ(上)書)(折封、堅紙)
     「相良殿            義久」
 「- ーー」(端裏切封)
度々無別儀申合之由、雖深甚候、依無其證跡、以牛王之裏、企壹行候、此等之趣、於御同前者、可爲本望候、猶老者可申候、恐々謹言、
(永禄五年)十月二日         義久(花押)
       相良殿
度々(たびたび)別義無く申し合わせの由(よし)、深甚(しんじん)雖(いえど)も候
何度もですが、別の事ではないけど申し合わせ(和議)のことですから、大事なことなんです(´・д・`)
其(そ)の證跡(しょうぜき)、牛王の裏以て、企一行候、
読み下し方が・・・依無の部分がチト判らん^^;
意訳としてはその證跡(証拠)に起請文を書きましたです。
これ等の趣き、御同前に於いては、本望為(な)す可(べ)く候、なお老者(ろうさ)が申し可(べ)く候、恐々謹言
これらのことは以前と同じく本望なんです。なお老中より話があります。恐々謹言なぅ。

ちょっと面白かったのが起請文と書状では宛名の位置が違う事です。
雰囲気出そうと頑張ったけど判り辛くてすいません^^
起請文の方の宛名「相良殿」は月日と同じ位置です。神様に誓ってることですから^-^
ですが書状の方だと宛名「相良殿」は、月日より一文字分下げて書いてます。

これは上位者が下位者へ敬意を払って書くパターンの宛名。
永禄年間ですから被官関係云々ではなく、島津氏が守護職の家柄だからなのかなぁ~と推測してました。
というのも大友義鎮(六ヶ国守護職)が相良へ宛てた手紙の宛名も、島津からの書状と同じ位置だったから^^;

書状を読んで感じたのは・・・ズバリ、義久がくどい!です^^;
この年の2月に日向伊東氏に対抗すべく島津・北郷(ほんごう)・相良の三氏で、北原氏を支援する同盟を組んでました。
(北原が伊東に家督を乗っ取られたので、三氏で対抗馬の北原新当主をプッシュしてた)
で島津氏と相良氏の芦北衆が交代で真幸院(北原氏所領:現えびの市)に入り番兵してたんです。

相良は大口城番として八代衆と球磨衆を交代で入れてたので、他へ派兵できるとしたらフリーなのは芦北衆だけです。
大口番という華やかな部署をとられてた芦北衆にとって、手柄をたてるチャンスだったとは思います。
が・・・芦北から宮崎県のえびの市までの移動ですよ?一旦球磨に入るのかな?山越えキッツイわぁ~~^^;
芦北衆の士気も不明ですが、何より地理不案内なアウエーをリカバーするのは厳しい・・・(-ω-;)ウーン
伊東は自分サイドの北原旧臣(ジモティ)を攪乱に使うだろうから、手こずったと思います。

義久のくどさから察するに、島津としては真幸院に領地が隣接してる相良氏の働きに期待する部分が大きかったっぽい。
が、戦況が思うようになってなかったらしい。
それで【起請文&書状】って形で相良氏へプレッシャーというかプッシュしたのかなぁ~と^^;
結果として相良義陽は島津を裏切り伊東氏へ寝返るのですが、当初から島津と相良では歩調が合ってなかったのでしょう。

一方で相良氏は島津に抵抗を続ける大隅国衆・菱刈氏を支援していました。
となると相良内部において「島津を敵視する派閥」と「島津との同盟関係を維持したい派閥」と割れてたのは容易に想像がつきます。
相良義陽が相良家を統率するのは大変だっただろうし、おそらく島津でも相良内部事情は判ってた(大口番に相良兵が入ってるんで)。
それだけに「この和睦に島津は物凄く期待」してたのが見えてくる【義久からの起請&書状セット】なのでした^^
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 当国(薩摩)、大隅、霧島

>霧島って日向? と思ってぐぐったら鹿児島の神社っぽい説明が(ほへっ?

説明不足ですいません。
正確に言うと宮崎と鹿児島の県境にある霧島山周辺の神社なんです。
だから鹿児島県側にある神社と宮崎県側にある神社と両方あります^^

>永禄年間だったら

相良が島津を倒せるチャンスがあるとしたら、この永禄年間の初期までかと自分も思います^^
ただ倒した後で残党とかにリベンジされそうですけど(笑

コメントありがとうございます^^

当国(薩摩)、大隅、霧島

三カ国守護の島津氏……薩摩、大隅、あと……………………霧島?

霧島って日向? と思ってぐぐったら鹿児島の神社っぽい説明が(ほへっ?

同名で別物の神社だったらすいませぬ
あとつまらぬツッコミであることもお詫びしませう(平伏



相良って菱刈にかまわず南肥後の経営に専念してたら島津もうかつに手出しできず敗北する運命を免れてたかも、って思っとったのですが、家中の統一ができなかったのではいずれ呑み込まれてたんでしょうなあ

歴史にifはないけれども相良も菱刈も永禄年間だったら島津を倒して南九州の覇者になれたのかしらと想像の翼を時々羽ばたかせてみたくなりまする

ではでは~
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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