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プロローグ_通史①肥前千葉氏

肥前の話をしよう。
豊かな水の恵みにより肥沃な土地を約束されながら、
同時に自然の過酷な試練も与えられた國の話を。
イメージ・花

戦国時代がいつから始まるのか、未だ決着がついておらず、
鎌倉時代も室町時代も包括し戦国時代も未分化のまま一括りに「中世」とされている(教科書が自分の頃と変わってなければ^^;)
一応「応仁の乱」から・・・・ということにしているが一律に線引きするには、あまりにも各地方において様々な事象がある。

肥前中世史研究を専門にしている立場から言わせて頂けるなら、
千葉氏が東西に分裂した文明16(1486)年をもって、肥前戦国時代のスタートと考えています。
(※応仁の乱は応仁元年(1467))

千葉氏はサイトによって『肥前千葉氏』と表記されていますが、佐賀県小城市を本拠地とした武家なので『小城(おぎ)千葉氏』とも呼称されている。
個人的に「肥前千葉氏」の方が好きなので、ここでは「肥前千葉氏」としたい。
本拠地・小城は国府(こくふ=首都の意)と呼称され、当主は肥前国主と尊崇を受けるほどの権威・実力を有した肥前千葉氏。
が、その肥前千葉氏は地生え(じばえ=地元っ子)ではなく、姓の千葉から察せられるように日本最大のマンモス氏族・下総千葉氏の一族だった。
守護職でもなく、地生えですらない肥前千葉氏がいかに肥前の覇者へと成長したのか、それが肥前中世史を紐解くキーとなる。

戦国の幕開けが肥前千葉氏の分裂ならば、
中世史の黎明は肥前千葉氏の勃興に始まる。

肥前千葉氏の興りは、鎌倉期が中世に包括されるが如く、鎌倉初期まで遡る。
下総千葉氏は源頼朝に従い平家打倒の奥州合戦などの戦功で陸奥国、九州などに膨大な所領を与えられた。
その中に小城があり、それが後の肥前千葉氏の土台となる。

家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

千葉氏研究プロジェクト『中世小城の歴史・文化と肥前千葉氏』にある宮島敬一氏の論説によると、(以下参照部分は緑色文字)
建長七年(1255)の段階で、千葉氏が大番役で在京の時に、小城郡内の訴訟審理が当事者を上洛させて行われていたそうです。
また千葉時胤(千葉氏七代目)が死去した際は、千葉で火葬した後に小城郡平吉保(芦刈町)内阿弥陀堂に遺骨を納めたという記事(千葉氏大系図)があり、
代官支配ながらも千葉氏にとって、肥前国小城は強い関心を持つ領地だったようです。


日蓮宗の強力な外護者=パトロンだった千葉氏は、遠隔地支配の管理にあたり日蓮宗高弟・富木常忍(ときじょうにん)を中核官僚としておき、摂関家所縁の僧侶などを各地に派遣していました。
(それで各地の千葉氏領地には日蓮宗系列の寺院が多いんです^^/)
これらのことは「中山法華経寺所蔵の日蓮遺文紙背」の発見(1966年)&解読&解釈進展により、一気に研究が進みました。
一方で肥前の武士を下総にスカウトもしてまして、千葉氏は『下総ー鎌倉ー京都ー伊賀ー肥前ー大隅」を結ぶ支配ネットワークを確立してたようです。

千葉氏は小城郡惣地頭だけでなく、大隅国守護職だったのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

鎌倉当時の小城郡には宇佐神宮関係の領地が多数あり、これは後年に肥前千葉氏が宇佐神宮系列にして肥前国一宮・千栗八幡宮の影響力を川上社(肥前国総鎮守)をもって排除しようとした事に繋がっていきます。
とにかく宇佐神宮系列の地頭が多い状況のままでは、東国御家人千葉氏が土着支配するのは難しかったと思います。

そんな中、千葉氏が肥前国小城に土着する契機となったのが元寇でした。
これにより下総千葉氏は分裂し、惣領の座を巡る一族相克の始まりとなるのですが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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