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【3_分裂の明暗】通史①肥前千葉氏

縄文よりこのかた、西へ東へとフットワークの軽い日本人。
やがて朝廷や武家社会が成立すると移動の要因に「戦」が加わる。

鎌倉期の東国御家人が九州へ辿り着くには大きく3つの要素がありました。
「平家討伐」「元寇」「南北朝の争乱」です。

下総を本貫地とする千葉氏。
「平家討伐」の功績で肥前小城の地頭職になり、
「元寇と異国警固」で肥前千葉と下総千葉に分裂。
さらに「南北朝の争乱」で肥前千葉が肥前と千田に分裂します。

系図・千葉氏(鎌倉用)

南北朝の争乱期に肥前と下総の領地を一人の当主が二元統治するのが物理的に困難になってきたのだと思います。
(時代背景が脳に浸透してないんで、史料読んでも脳内で繋がらない^^;)

とにかく生年も没年も不明な肥前2代目・胤貞の嫡男は、若くして亡くなったようなんです。
で、次男も亡くなった・・・らしい。
このあたり譲り状と過去帳が???(@@)理解しきれなくて、自分では掌握出来ませんでした^^;
それで、肥前2代目・胤貞の三男が下総国千田庄(ほか八幡庄、神保郷)を受け継ぎ、
親子ほど年の離れた肥前2代目・胤貞の弟が、養子となり肥前千葉を継ぎました。

同時に、宗家総領の座を取り戻したいという、肥前千葉氏の宿願は下総国の千田千葉氏に受け継がれます。
南北朝の争いは、そのまま千葉宗家の座を巡る争いとなり、それは忽ち下総一円に広がりカオスとなる。

・・・どうも、その、なんだ下総千葉家は世渡り上手だったらしい( ̄ω ̄A;アセアセ

戦では千田千葉に降伏した南朝サイド・下総千葉だったのだが、ちゃっかり北朝へ寝返り。
更に下総千葉は室町幕府から安堵を受けて宗家の座をゲッツしちゃうんです。 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

千田千葉氏は戦に勝って政治で負けた・・・il||li _| ̄|○ il||l
具体的に「どんな手」を使ったのかは、下総と関東の歴史が複雑すぎて自分レベルじゃリサーチ無理^^;
ただ、折角勝利した直後に肥前千葉2代目・胤貞が病没したのが大きく影響したと思います。

室町期でも宗家の座を取り戻せなかった千田千葉氏は衰退し、戦国期には完全に下総千葉の下風に立たされ・・・。
もう殆ど空気というか、どこに埋没したのか領地がどうなってたのかサッパリ判らないくらい、千田千葉氏は衰退した^^;

風向きが変わるのは秀吉の北条征伐です。
下総千葉は北条が敗れると共に領地没収で浪人となり、一族は散り散りバラバラになる。

一方の千田千葉は徳川家康の関東入府で召し出されたようで。
旗本直参・・・とは行かなかったが、千田千葉は徳川家臣成瀬家に仕え、犬山藩(藩主が成瀬氏)が立藩されると家老となり幕末・明治へと続く。
ただ、千田千葉が犬山藩家老というくだりは、千葉氏一族を綿密に調べたサイトの方からの孫引きですので、自分自身では未確認です。

家紋・肥前千葉 ロン様作成_肥前千葉氏家紋ロゴ

さて、宗家の座を巡る争いの柵から解放された肥前千葉氏は、小城を本拠地として独自の勢力として成長していきます。
肥前千葉氏初代・宗胤が死んだとき、次男の胤泰は2歳ほどだったというが、年齢には諸説あるのでハッキリは判らない。
いずれにせよ幼児~幼少だったのは間違いなく、兄で肥前千葉2代目・胤貞が養育した。
てことで、胤泰も下総育ちということになる。

兄で養父でもあった胤貞の死去により、弟で養子の胤泰が肥前千葉氏を相続し5代目となったたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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