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【相良義陽65_起請文(後編)】

東郷の一族代表起請文に対し、義陽は返事として自分も起請を交したようです。
相良家文書523_相良頼房(義陽)起請文案(御返事まて候)
渋谷一族へ送った起請文の案です。
起請文案の日付が永禄11年4月4日・・・なので、東郷からの起請は それ以前。

それ以前・・・なのだけれど、3月28日の曾木城攻撃で島津に撃退された前なのか、後なのかは判りません。
面白いのは義陽の起請文案で
自嶋津殿何条御懇望之儀候共、信用申間敷候、
嶋津殿より どんな懇望(こんもう)・・誘いがあっても信用しない=応じない

義陽の本心だったのか、これだけでは判らないけれど、義陽の島津外交がブレまくってたのは確かです。
個人的な意見としては、義陽自身のメンヘラ的なブレというよりは、家臣の意見が統一できず その場その場で動いた結果のような印象を受けてました。
家紋・相良

菱刈史によると、同年5月 島津貴久が相良義陽に対し、山野を譲渡するのを条件に菱刈の加勢を止める旨の約定と交わしたとあります。
大口で山野というと伊佐市大口山野で、現代でもドストレートな地名です^^
山野は島津貴久が薩州家義虎に与えていた領地だったと菱刈史にありました。
島津は相良のOKを貰った事で早速に大口攻めをしたのですが、相良は速攻で菱刈支援の球磨勢を堂崎に出して菱刈隆秋を援けたそうな。
堂崎は伊佐市大口堂崎で川内川支流である羽月川周辺ね^^。

というか、そもそも大口には相良兵が在番しているので、大口に関しては相良と菱刈は運命共同体状態だったんじゃないでしょうか。
そういう状態で、相良のみを一本釣りするのは、かなり離れ業の外交テクになります。
相良側にも記録が見つからず、正直(-ω-;)ウーン?な記述の菱刈史です。
あぁ~山野を譲渡って話は何処かで見た気がするんだが、思い出せん,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

永禄12年の大口攻めと混同されてるのかな?
菱刈史の記述が数行だけなのもあって、信憑性の判断するのが難しい^^;

それと島津側の記録(本藩人物史、諸県興亡など)によると、同年8月に日向の伊東と相良が組んで、島津義弘公を挟撃して撃つという作戦がありました。
これは相良の大河平ナミが軍事情報を事前リークしたために、伊東&相良の作戦は失敗に終わってます。
(カテゴリ:日向_大河平氏「御家再興編」を参照ください^^)

渋谷一族、菱刈氏と島津へ抵抗を続ける勢力を支援し、意気盛んな状況に見えますが、菱刈は奪われた(退避の為に捨てた)城を一つも奪い返せてはいません。
それに小勢でチャレンジした島津義弘公を破ったけど、義弘公は討ちとれなかった。
新納忠元が小勢で参詣した時も、結構洒落にならない負傷はさせたけど、討ち取れず市山城も落とせなかった。
日向における伊東勢も、真幸院飯野の島津義弘公を討ち取れず捗々しくありません。

状況は徐々に徐々に島津氏へと傾きつつあったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 朧豆腐さま

こんばんは^^

>国人領主たちが長期間抗い続けられたこと自体、まさに「乱世」だったという何よりの証拠でせうな

そうですね^^
武家社会における新たな秩序への移行期だったのかもしれません。

> ……といっても戦国期の島津も分家の端く(げふんげふん

しー・・・それは内緒 ( ̄ko ̄)

> いずれにせよ永禄年間の終わりは戦国時代の終わりの始まりだったのかもしれませぬ

終わりの始まり~さすがカッコいい表現^^

コメントありがとうございます^^

No title

>状況は徐々に徐々に島津氏へと傾きつつあったのだが

とはいえ本来なら上位権力の守護に対し守護代ですらない国人領主たちが長期間抗い続けられたこと自体、まさに「乱世」だったという何よりの証拠でせうな

……といっても戦国期の島津も分家の端く(げふんげふん



いずれにせよ永禄年間の終わりは戦国時代の終わりの始まりだったのかもしれませぬ
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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