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54_今川了俊(貞世)書下(下松浦バージョン)

【 】は文字欠落部分です。
欠落部分については同内容と思われる【文書55の草野駿河入道宛】の書下を参照しました。

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

肥【前国河】上社雑掌申、當【宮造営段】別銭事、任平均例、【先度】被仰之處、于今不事行云々、【爲事】實者、太不可然、所詮、爲【平均役】之上者、厳密可被致其沙汰状如件、
 至徳元年八月廿一日       (今川了俊)沙弥(花押)
  下松浦一類中


テンプレにしないで怒り方のニュアンス変えてるのが、余計に怖い^^;
雑掌と段別銭の説明は割愛^^/

肥前国河上社雑掌(ざっしょう)申す、
當【宮】造営段別銭の事、平均例に任し、先度(せんど)仰せられの處(ところ)、今において事行わずウンヌン、
事実爲すは、太然る可(べ)から不(ず)、所詮(しょせん)、平均役爲す之(これ)上者(うえは)、厳密沙汰致ら可く状件の如し!!!(# ゚Д゚)・;'.

河上社雑掌が言うには、社造営のためにバランス配分した負担額を提示したのに今になってもやらないとかとか。
それ有りえないから!!
とにかく相応の負担額は納税してもらう!厳密に命令するからな!!
下松浦の皆さんへ  by了俊


あ~なんか社の雑掌が促しても言う事聞かなかったみたい^^;
ちょっと面白いと思ったのが一類(一族、一門)という宛名で上松浦と下松浦と分けている点です。

至徳元年とは1384年で北朝側で使用していた元号。
南北合一である「明徳の和約・1392年」の8年前でバリバリ争乱真っ最中。
松浦党も一族が南朝北朝と別れて・・・ぶっちゃけ複雑で個々に把握しきれてません。

で松浦党といえば【一揆契諾状】ですが、これは一度ではなく応安6年(1373)から63年間に9回にも及んでいます。
これには今川了俊が介入していました。
松浦党を味方にするために松浦党の一族間で盟約を結ばせたのが一揆契諾状の始まりです。
(今川了俊が九州探題に任命されたのが1370年ころ)

肥前中世史に大きく関わった九州探題職・今川了俊。
租税(川上社造営負担分)を納税させることで従わせようとしたのが窺えますが、社の役人じゃ松浦党が言う事を聞かなかったんですね^^;
松浦党が愚図愚図してたのは、ほんとに負担額が不満だったのか、権威付けの為に了俊から直々の書状が欲しくてゴネたのか、そのあたりの駆け引きは、この文書だけでは判りません。

苦手な南北朝時代も、肥前中世史だと面白いわぁ~~(*´pq`)ウフ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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