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参照文献_秀吉研究の最前線(日本史史料研究会編)

第一部 政治権力者としての実像とは
●堀越祐一「五大老・五奉行は、実際に機能していたか」より気になるとこ抽出
五大老、五奉行の成立は慶長三年(1598)七月、または八月上旬成立
文中では小早川隆景がカウントされてないなぁ~自分の知識が古い学説なんだろか(* ̄* ̄*)むぅ
五大老、五奉行の呼称は江戸時代からで、戦国当時は呼ばれていなかった。
当時は五大老は奉行と呼ばれていた
五奉行は年寄または奉行で呼称は固定されていない

石田三成は「家康を奉行」と呼ぶ一方で「自らを年寄」と呼んでいた。
つまり三成は自分たちを豊臣政権の宿老級とし、家康を命を奉じる下位者と位置づけていた。

★五大老の職務_3点
朝鮮からの撤兵遂行、謀反・反乱に対する処置、領地給与
ということは家康が秀吉死後に各大名へ与えた領地は、豊臣政権の奉書の形式だったことになるわけか
★五奉行の職務_豊臣直轄領統括

三成失脚後の慶長四年(1599)閏三月二十一日、家康と毛利輝元が和睦のため起請文を交わす。(毛利家文書)

__φ(.. ) メモメモ
特に呼称に関しては不勉強だったので参考になりました。
慶長年間の一次史料読むときに気を付けようっと(*´pq`)
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 朧豆腐さま

>豊臣での上下関係がはっきりしてなかったという話もあるようですのー

三成の中の認識は文官派だけで武闘派は認めてなかった?スルー?のような記述でした。

>それはそれで秀頼が成長した後にもめごととなりそうではありますけどw

秀次だけだと揉めたと思います。
秀長、秀次が両輪の役割であれば、秀頼成人まで政権がもったんじゃないかな~
家康も諦めたかもだし^^

コメントありがとうございます^^

No title

三成は「年寄」を自称してたけど、周囲の大名の多くは家康や利家らを「年寄」、三成や浅野長政らを「奉行」と認識してたって話もあって、豊臣での上下関係がはっきりしてなかったという話もあるようですのー

三成としては、豊臣政権の脆弱な基盤を少しでも安定化させようと自分たち奉行を家康ら諸大名の「上位者」として位置づけようとしたかのように思えまする
ただ、その振る舞いが他者からは「驕慢」に見えて、秀吉の死後に加藤や福島らとの決裂を招いてしまったような気も

成熟した官僚組織によって国家運営できる状況ならともかく、当時は「家」単位でないと天下国家について考えられない時代
豊臣政権を安定化させるなら、秀長の病死はやむをえなかったとしても、秀次を切腹へと追いやるべきでなかったでせうな
むしろ秀次を秀吉の後継にきちんとすえて、家康ら諸大名の上位者とし、三成たちはあくまで秀次の補佐に徹するべきであったかと思いまする

それはそれで秀頼が成長した後にもめごととなりそうではありますけどw
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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