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【5-3_中興の祖・後編】通史①肥前千葉氏

永享9年(1437)、大内持世に内通した肥前千葉の家老・中村胤宣が、千葉⑦胤鎮の弟・胤紹を奉じて謀反を起こす。
胤紹は大内持世のバックアップで肥前千葉の家督を簒奪し、当主となる。
城を追われた⑦胤鎮は、僅かな供で落ち延びたのだった。。。ショボーン..._φ(・ω・` )

家系図・肥前千葉系図・決定

翌、永享10年(1438)12月29日、室町幕府は、胤紹と中村胤宣へ通達を出した。
幕府「大内持世と諸事相談し、幕府に忠義を尽くしなさい」
年末に慌ただしいですな( ゚Д゚)y─┛~~

年明け永享11年(1439)1月21日、再び幕府から胤紹へ命令が下る
幕府「千葉家の混乱は⑦胤鎮が原因だから必ず探して厳密に沙汰せよ(`・ω・´)キリッ」
同年6月、再び幕府から「早く⑦胤鎮を探せ!ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.」と催促
正当な当主・⑦胤鎮が生きている限り、胤紹は家督簒奪者の誹りを免れる事は出来ない。
⑦胤鎮を始末するために幕府の威光を利用する大内持世。
西国のドンは容赦ない~仕事がシッカリしてます( ̄ω ̄A;アセアセ

一方、大内持世のバックアップで胤紹がウホウホ♪かというと、そうでもなかったらしい。
というのも、大内持世は「少弐を滅亡寸前まで追い込んだ」のだが、言葉通り「寸前」で留めを刺さなかったから。

どういうわけか、大内持世は室町将軍・足利義教を通じて少弐と和睦し、少弐家を存続させたんです(1440年)
少弐と同盟してる対馬・宗氏との関係悪化を恐れたかもです(貿易で困るからかな?)
または単純に少弐ほどの武家名族になると、完全に根絶やしすることに躊躇したのかもしれません。
(日本人同士の戦では、敵を完全抹殺って殆どなくて、嫡男でも助命されたり庶子が残ってたり、家名だけは女系男子に存続させたりする)

結果、肥前千葉の胤紹は、その短い当主期間に「VS少弐」のため大内の先陣に駆り出され、戦に奔走する日々だったらしい。
このまま大内持世無敵状態が続くかと思われたが、天下を揺るがす大事件が起きる。

嘉吉元年(1441)「嘉吉の乱(将軍暗殺事件)が起きる
宴に相伴していた大内持世も巻き添えで重傷⇒⇒怪我が元で死亡!


当主交代がリベンジのチャンス~~少弐⑭教頼、大友⑫持直、大内教幸(庶子)が挙兵。

潜んでいた千葉胤鎮も同調し挙兵・・・・・・・・・・・・・
したんだが負けたでござる  il||li _| ̄|○ il||l 再び逃亡。
胤鎮の敗北⇒逃亡を受けて、室町幕府が正式に胤紹を当主として認定~公式に8代目当主となった。

家紋・肥前千葉
(ロン様作成_肥前千葉家紋ロゴ)

正式に当主となった⑧胤紹の喜びは、長く続かなかった。
文安2年(1445)、逃亡していた胤鎮がリベンジ挙兵!

同年8月17日~⑧胤紹は、兄の胤鎮に殺害される。

⑧胤紹の嫡男・政胤も、胤鎮に殺されたが、次男・胤朝、三男・胤盛は城を脱出した。(四男は僧侶)

胤朝が大内家の庇護下に入ったのは言うまでもない。
で、三男・胤盛も一緒に大内保護下に入ってたみたい(こっちは記録が乏しく推測)

⑦胤鎮は当主に復活し、千葉氏領地(小城郡、杵島郡、佐賀郡一部)を取り戻す。
宝徳2年(1450)、⑦胤鎮は三男・教胤を授かる。

1452年から1455年の間に7代目・千葉胤鎮は「肥前国主」と尊崇された

波乱万丈の人生だった胤鎮は、1455年6月25日に54歳で没するのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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