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参照7・秀吉研究の最前線_第3部_秀吉の宗教・文化政策の実像

まだ、この他に茶の湯とか出自と清洲会議があるの(´・д・`)

=== (中編)秀吉は、なぜキリスト教を「禁止」したのか 清水有子 ===

家紋・豊臣 豊臣家紋ロゴ


赦さんとサルが怒った、6月19日は、伴天連追放記念日

サラダ記念日風にこじつけると日付は覚えられるが、天正15年を忘れそうだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

で、秀吉が規制(18日令)から禁制(19日令)へと方針転換の理由です。

伴天連側が18日の規制に対し反発し従わなかったのが一つ。
キリシタン大名である高山右近が秀吉の棄教の命令に従わなかったと。
などがあり、キリシタンの統制が難しいことを悟ったからなのが大きかったようです。
(それまでの秀吉は、博多を拠点にしてコントロールしようとしてた)

で、秀吉がキリシタンをどの程度に危険視していたかと言うと、

まず秀吉は自らを日本国主と呼び日本の国益である国内の牛馬と民を南蛮勢力が侵食していると問題視いていた。
※参照文献には詳しく書いてないんですが、南蛮商人は『日本の男女を海外に商品として売買』してたんです。
(傭兵とは違いガチの人●売買です)
※でもって貴重な労働力である牛を食用で売られるのも困る
更に外国と連携するキリシタン宗門が、一向宗以上に日本国内で階級を超えて結集し拡大し、ついには日本を征服するんじゃなかと危惧していた。
※宣教師は「南蛮貿易したいなら布教させろ」だから、トラブルの元になる

それプラス、秀吉のキリシタンに対する保護⇒規制⇒禁制への態度豹変は、先日自分が脳内整理&前フリで考察してた祭政一致が解っていれば不思議じゃないんです。

秀吉は追放令の前年4月から京都の新大仏建立を計画してて、神仏を介した秀吉バージョン Ver祭政一致を目指していました。
つまりは、こう⇒≪祭祀:豊国大明神≫=イコール≪政治:豊臣政権≫です。
この形は家康Ver『祭(東照神君)政(江戸幕府)一致』へと受け継がれます。

とにかく信長も秀吉も家康も、某漫画のライト君のように「自分が新世界(政権)の神になる」(`・ω・´)キリッ」を最終目的にしてたんです。
「本来の意味としての祭政一致」は「帝が政治を直接執る(親政)」の状態を指すのですが、
①信長~秀吉の流れで、帝は政治から離れた人畜無害の祭祀を祀る大元締めとしての存在のみに昇華。
②家康&江戸幕府によって、帝を含む公家社会が更に政治とは無関係になるように制限(公家法度)してました。

日本古来の習俗にならい、己を神とする祭政一致を目指していた秀吉にとって、キリシタンは日本の国益を損なう危険で邪魔な存在だったんです。

ところが、各地の領主がキリシタンを匿ったりとか、だんだんザル法になってきた^^;
文献によると禁教に対して宣教に励んだ結果、追放令前より信者数は2割減程度しか影響してなかった^^;

では、その後はって言うと、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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