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北肥戦誌【1553年】肥前へ帰還~

●天文22年(1553年)

★隆信は蟄居先に老臣を集め、「斯様に月日重ね既に三ヶ年に及び、他国にありて恥を晒したるも甲斐なし。ここは是非とも当家恩顧の者共を語らい、肥前に討ち入りて敵と雌雄決し、敵わざれば腹を切らんと思い定めた。御主らは如何思うや?」と問うた。

これに石井兼清は、「斯様流浪の身と罷りなりて年月を送らん事、まことに口惜しき次第にて候。されば、興賀郷、川副郷の者共は予てより当家に二心無き者らにて候。中でも古賀民部丞は、その父・越後の頃より剛忠公の御計らいにて鹿子村の庄官なれば、その御恩忘れず、昨年も忠心を現しましたれば、御帰国の偽は彼の者に御下しなさるべきやと・・・」と述べた。

これに皆が同意し、隆信より吉岡蔵人が、隆信の弟・長信からは早田次郎左衛門が、肥前の古賀民部の元へ遣わされた。

両人は、川副郷は鹿子木天満宮での連歌の会に事寄せ、古賀民部の他、村岡興三左衛門、徳久主馬允、久米長門守、副島右兵衛門允と対面し、隆信帰国の首尾に関して談合し帰った。

肥前の5人は、周辺の百姓らへ相語らい、且つ興賀、川副の志ある武士を募った。

★隔して7月25日、鹿江兼明、その子・南里左衛門大夫、鹿江久明、南里左馬大夫、南里治部少輔の1000余人、
石井和泉守、弟・三河守、同石見守、内田美作守、久布白又右衛門、横尾刑部少輔、立河讃岐守、堀江筑前守、堀江右衛門大夫、副島民部少輔、飯盛備前守、石丸備後守ら、併せて都合3000余人が兵船を揃えて、筑後の隆信を迎えに参じた。

宿主である原野十郎もこれに従い、三人の子の内、次男・左馬介、三男・権兵衛を隆信へ付属させる。

また、蒲池鑑盛もこれを喜び、見舞にと渡辺上総守、横田大膳亮、萩原志摩守に200余騎を付けて、隆信勢へと付属させた。

隆信は鹿江崎に着船、乾堂を過ぎ27日に威徳寺に入り旗を掲げた。

福地長門が先達て興賀船津に上がり、村岡藤七兵衛の居宅に篝火を立てれば、古賀民部ら5人が率いた者共が此れに馳せ集まる。

隆信勢は4-5000余騎にまで膨れ上がり、隆信は実久村の潮音寺に陣を布いた。

そこで軍議を行ったが結論が出ず、付近の若宮八幡宮で神託を仰ぐと、「戦は速やか用いよ」とあった為、軍勢は実久村を発って西小路へ打ち入る。

このとき高木鑑房が攻めてくるとの風聞があり、隆信は軍勢の半分を佐嘉・蓮池へ廻し、残りで高木勢を攻め崩す様に命じる。

佐嘉の城は小田政光が守り、神代勝利、高木能登守鑑房が交替で飯盛城を守っていたのだが、そこを隆信勢は息もつかせず攻め立てる。

そこへ風聞通りに高木勢1,300が現れるが、討ち負けて若村へ退散した。

八戸宗暘も若村へ出陣したが、これを討ち負かし、高木勢は精町へ追い詰められ自領へ退散、八戸も八戸城へ退いた。

そして飯盛の神代勢も討ち負けて八戸宗暘の八戸城へ逃れた。

隆信は梅林庵に陣を移し評定を開き、まずは八戸城を攻める結論に至る。

★8月8日、小河武純、納富信景、福地信重らが攻め進んだ。

逃れた神代は本丸を守り、二の丸は伊東・諸熊・光岡ら数百騎を向かわせてこれを防ぐ。

城兵多く討ち死にし、城戸口が破られんとしたとき、神代より和を請うて来た。

八戸・神代は隆信へ面褐し、城を開け渡して山内へ退いて行った。

宗暘は龍造寺家より奪った領地を返還し、八戸城へと戻された。

隆信は敵の瑞城7つを攻めると、佐嘉の城を守っていた小田政光は蓮池城へ退いた為、隆信は即座に佐嘉の城へと入った。

次は城原(勢福寺城)の江上を攻めるか、蓮池の小田を退治すべきかと評議する矢先、9月26日に江上は降参を申し出る。

なればと10月8日、蓮池城攻めへと取り掛かった。

隆信は井尾を本陣と定め、そこで評定するに、

「小田政光は必ずや城を打って出るであろう。故に政光が城より出てきたならば、龍造寺左馬頭信周の備えの一つは北の方より廻って政光の跡を取り切り、また兵庫頭長信は南の方より城の大手駕興丁口へ廻り、短兵急に攻めるべし」とした。

8日の東雲に南北二手に分かれ、隆信の旗本衆は井尾の陣から静かに進軍する。

総勢3,700余である。敵は2,300(本告勢を入れれば2,600)である。

旗本先手である馬渡栄信は、先の戦いで功を上げられなかったのを悔み、頻りに旗を進める。

城からも一陣・江口源世入道、二陣・深町理忠入道が打って出る。

また夜も明けようとする頃、北方より神埼の本告義景の勢300が、小田に加勢して隆信本陣目掛けて切り掛かる。

此れを見て北方に控えていた左馬頭信周が本告勢と戦う。

また、本告義景には馬渡栄信が組み敷いた。

本告義景は馬渡の右の小指を食い千切ったが、馬渡はその首級を見事討ち取った為、大将を失った本告勢は総崩れとなって退いて行った。

だが、江口・深町勢は退かずに左馬頭勢と戦う。

この隙に兵庫頭長信は南に廻り、駕興丁口へ攻め入った。

崎村の犬塚左近大夫鑑直、蒲田江の犬塚民部大夫尚重、直鳥の犬塚鎮尚らが馳せ来て、小田に加勢し防戦に努める。

城主・小田政光は押され気味であるのを悟ると、小田利光、小田掃部助を始め、山田河内守、原河内守、薗田三河守、内田治部大輔、吉島新七郎、末次興七郎、横山、大隈以下、一族郎党200余人を左右に従え、旗本勢に討って掛かる。

これに隆信の旗本勢は我先にと小田勢に打ち掛かった。

南里左衛門大夫国有、南里治部大輔胤有、南里左馬大夫信有、南里宮内少輔ら父子4人の手勢が小田掃部と渡り合う。

彼等は小田掃部を討ち取るが、左馬大夫は深手を負い、残る3名と手勢30名が討ち死にした。

福地長門守信重も一族を率いて戦い、膝口を槍で突かれ、肱肩を三ヶ所射抜かれた。

秀島主計允も鉄砲に当たる。

一進一退の攻防に隆信は退屈して見ていた。

これに倉町帯刀信家が濁り酒を隆信に勧める。

隆信はその一杯に気を漲らせ、頻りに采配を振るい始める。

これに佐嘉勢は奮起、小田勢は次々と討ち取られていった。

更に、遅れて来た鍋島勢が兵庫頭の勢に加わり、犬塚左近大夫、犬塚左衛門大夫以下300余人を討ち取った。

小田政光は悉く敗れて城内に戻ると、隆信への降伏を申し出た。

隆信は信じ難いと述べ、更に「小田は龍家を傾けし家なり、城中へ攻め入り首を刎ねよ」と命じたが、老臣らが「これは征伐の初めなれば、和平に応じ給わねば国中の者共は、以後降参しようと致しませぬ」と諭した為、隆信も和に応じて佐嘉の城へと戻った。

★さて、水ヶ江の左衛門大夫鑑兼は小城へ蟄居を命じられたが、元より一族であり、まだ齢12の幼少ゆえ全ては土橋の叛意の為した事で、土橋の叛意は知らなかったとし先非を悔いた為、後にその罪を許され帰国している。

此度の元凶たる土橋加賀守栄益は捕縛されて首を刎ねられ、土橋の相談人・西村美濃守は罪を許された。

以後、隆信は納富道周(栄房)、小河武純、江副久吉を執権と定め、水ヶ江を隆信の弟・長信の所有とし、その与力には石井兼清を尾張守に任じて、福地蔵人助、吉岡蔵人と共に付属させた。





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Re: No title

あらたに判ったことがあるのでメールします^^/

No title

時乃栞さんのブログを始めて目にしたのが このあたりだと思います。
石丸備後守のことがありますが,このところでは 与賀川副の郷士のように 書かれていると思います。

胤家の子孫であることが判明していますから、出奔先で子供が出来たのでしょうか?
だとすると私どもの石丸も関係ありそうな気がするんですが。
沖田畷の戦死者の名簿(主な人物だと言うことで,その他名前も分からないものが多くと)の中で石丸は弥次郎一人ですし。

2コメへの返信

系図が数パターンでカオス!

って、郷土史レベルだと、良くある話なんですよ~( ̄ω ̄A;アセアセ

寺の位置・・・慶長年間に移設されたのは、与賀郷を重要視したからだと思います。
与賀は元々は少弐氏が鎌倉時代に地頭だった地で、戦国初期の文明年間に開墾開拓開港とテコ入れした地です。
少弐が中興した与賀神社は佐賀城しか数百mしか離れてません。
龍造寺家の墓所は龍泰寺(元少弐氏の与賀城)から高伝寺に引っ越ししてるし。

佐賀・・・肥前戦国史は複雑に大人の事情が絡みすぎ。
江戸期に佐賀藩に遠慮してるうちに伝承が途切れるのは、有り得る話です。

>墓の大きさ

それも大人の事情( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺隆信の墓も「普通」です( ̄ω ̄A;アセアセ
鍋島家よりデカくても小さくても、色々憶測されそうだからだと思います^^;
でもって初代佐賀藩主より、龍造寺高房(隆信嫡孫)の墓の方が「立派」です( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく鍋島家では、色々と龍造寺に遠慮や気配りしてたんです。( ̄ω ̄A;アセアセ

Re: No title

なるほど、、、庶流四家。親類格ですね。
鎮家の足跡が辿れなかったのは、改姓してたからか(納得

再確認した龍造寺家臣(五ヶ国御領地之節配分帳)だと、鎮家は100町とあったので、龍造寺隆信家臣だったのは確かですね。
少弐家臣って自分の早とちりだったかも il||li _| ̄|○ il||l
でもって、叔父で家老の家親が500町で一門筆頭です。

改姓するとすれば、佐賀藩が成立した頃になると思います。
龍造寺姓だったものは、鍋島家に遠慮し一斉に改姓してますから。

先の回答と重複しますが、龍造寺村中宗家において、本来の嫡流は胤家でした。
それで隆信の初期活動期は、胤家系統の家親(鎮家叔父)が一門筆頭だったんだと思います。

ですが、隆信の勢力が大きくなるにつれ、隆信の実家である水ケ江系統龍造寺が一門の中心となっていきます。
それが後の龍造寺四家(諫早・須古・多久・武雄)です。

そのため胤家系統は一門ではあっても、藩内政治の主流からは外れたと推測できます。
とはいえ、主家の姫君が嫁ぐのであれば、家臣の列であっても家格は求められます。
一門に連なる家なら、家格の釣りあいとしてはバッチリで問題なしです^-^


>戦後の・・・中略

龍造寺家に遠慮し気を使い続けていた鍋島家では、明治維新の後も龍造寺一門へ援助してたそうなんです。
龍造寺一門の、どこまでが援助対象だったかは、判りませんでした。
その援助も戦前までだったと聞いてます。
戦後混乱期ですから鍋島家でも限界だったんでしょう・・・
鍋島から何らかの恩恵を受けていた一門は、それが無くなった戦後は、かなり苦労したんじゃないでしょうか。

で、肝心の御先祖です。
一族だとは思いますが、縁戚関係まで辿るとなると難しいかもです( ̄ω ̄A;アセアセ
おじい様存命中に、もう少し話が聞けたら・・・残念です。

道産子の自分としては、そこまで辿れただけでも、かなり羨ましい話ですけど(^ -)---☆Wink

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質問への回答②

>もし竜造寺胤家の子孫であっても、やはり家臣・・・(略

胤家系は一門ですが、家臣になります。
系図としては、サイト武家家伝の龍造寺系図がメインの流れを見るのに一番判りやすいと思います。

経緯を簡単に説明します。
そもそも龍造寺胤家は高名な家兼の長兄で嫡子でした。
北肥戦誌では家督を継いでないような記述になっておりますが、いったんは家督を継いでいたようです。

ですが当時の主家だった肥前千葉氏が西千葉と肥前千葉氏に別れます。
西千葉の方が、後に龍造寺が被官となる少弐サイドです。
で、例によって少弐が没落した為、西千葉(&少弐)派だった胤家は巻き添えで亡命を余儀なくされました。
当主不在となった龍造寺家では、次男・家和を当主とします。
以来、龍造寺当主は家和系統が続き、それを隆信は継ぎました。

数年後に胤家は肥前に帰国しますが、既に龍造寺は家和当主で落ち着いてしまってたので、一門の列に入り、そのまま家臣化したという流れです。

胤家系本家筋は家老職だったと記憶してましたので、一門としてカウントできるのは「龍造寺姓(江戸期は鍋島姓?)の者だと思いますが、いずれにせよ家臣の位置であることにかわりはないです。
他だと胤家曾孫の鎮家は少弐家臣となり、龍造寺家と敵対し少弐滅亡後も龍造寺には戻ってないようです。

質問へ回答①

初めまして**様

当方、北海道在住ですので史料等は現地で閲覧確認が出来ません。
ですので、あくまで「推測できる範囲」としてお答えします。

①について
勝手ながら、お名前で検索かけました。
現在の所「可能性の一つ」としか言えません。
同族だとは思いますが、子孫なのかどうかハッキリさせたいとなると、自分レベルでは無理です。
質問されるということは、由緒or伝承のみで家系図はないと推察しております。
それ以外の確認方法としては、菩提寺に残っている過去帳の記録を丹念に辿るしかないでしょう。
戦災等で紛失されてなければ、寺に頼めば閲覧できると思います。
それと過去帳で名前を拾ったものを、墓石の脇書でも確認していくと、ある程度は辿れます。
とはいえ、かなり根気のいる作業です。
即答できなくて申し訳ないですが、これ以上の簡易な方法は自分も思いつきません。

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プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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