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204_千葉胤盛書下

緑文字---原文(翻刻版)ママ
青文字---読み下し
赤文字---意訳

※手っ取り早く内容を知りたい方は、赤文字の意訳まで飛んでください^^/

就神野仏性料田事、兵部少輔、背成敗、致違乱候之通、申談候之處、被閣之上者、於末代、不可高木名字候、仍為後日状如件、
 文明八年丙申二月三日
                 平(千葉)胤盛(花押)
  河上山座主御坊


神野仏性料田事に就いて、兵部少輔、成敗に背き、違乱(いらん)致し候之通り、申し談候の処に、被閣の上は末代に於いて「高木」の名字不可候、仍(よ)って後日為す状件(くだん)の如し
(以下略)


神野の河上社の料田(りょうでん=社領)で、兵部少輔が掟に背いて秩序を乱したとのこと。
この上は兵部少輔には末代まで「高木」姓を名乗ることを禁じる。後日実行します(`・ω・´)キリッ


えっと まず千葉胤盛は系図で言うと~~アタフタ ヘ( ̄□ ̄;)ノ ヽ(; ̄□ ̄)ヘ アタフタ
家系図・肥前千葉系図・決定

で、東千葉初代の父(=東千葉の祖)でして、兄である千葉胤朝と家督を争っていました。
近年、研究が進み千葉胤盛は胤朝と対立関係(一時は和睦?)のまま河上社の大宮司の地位をゲットしてたらしいと考えられています。

その証拠として挙げられているのが、この文書です。
根拠として
1)河上社の社領で乱暴した者を処断している事
2)かつて大宮司職にあった高木一族の者に対し「高木」姓を禁じるという罰を決定している事


更に言うと河上山で座主という地位は、御坊のTOPを指します。
その宛名を日付より下の位置に書いているという事は、千葉胤盛が上位者だからです。

これらの事から、この文明8年2月3日の時点で、千葉胤盛が河上社大宮司の地位にいたと考えられます。

つまり、過去の考え方が完全に ひっくり返ります。

東千葉氏初代・興常は大内の後ろ盾で千葉家の家督を狙ったのではなく、
父・千葉胤盛が大宮司(=千葉家当主)であった事から、むしろ千葉氏家督相続の有資格者。

少弐政資の方が千葉氏家督を狙い【横槍して介入した方】です。

ウィキペディアでは千葉胤盛の没年を文明10年10月27日としてますが、これも過去の古い研究データ。
其の後も存命してたことが河上神社文書で判明してます。
千葉胤盛は、千葉氏に介入しようとする少弐政資に抵抗していたものと思われます^-^




河上神社文書は年代別に収蔵されてないんで、探して拾わなきゃならんのよ~
間違って年代の順番が前後しちゃったけど、自分が判ってるから、まぁ良いことにします・・・ポリポリ(6 ̄・ ̄)
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 朧豆腐さま

こんばんは

簡単にしちゃうと「立ち位置」の違いですね。

従来の権利を守りたいのが肥前千葉氏。

逆に龍造寺や有馬のように「途中から台頭した勢力」には「少弐という神輿」は価値があるんです。

綱引き勝負で、どちらが悪いとは一概に言えないですが、
個人的な感想だけで言うなら「肥前を仮の宿」扱いする少弐には好感持てません^^

コメントありがとうございました^-^

No title

>少弐政資の方が千葉氏家督を狙い【横槍して介入した方】です。

なんてこった!?

千葉を国主と仰ぐ肥前の国衆からは『侵略者』と見なされてもしょうがない状態だったと……
この辺りも在地武士たちの支持を充分に得られず劣勢を挽回できなかった理由かもしれませぬな

少弐も『肥前守護職』の肩書きを持ってたようだから正統性がないわけでないのかもしれませんが、
ずっと肥前に根を下ろしてきた『国主様』千葉氏と比べたら色褪せて見えてしまってもしかたなかったかもしれませぬな

ではでは~
プロフィール

時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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