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大友ワード_城督(じょうとく)前編

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
 論  考:大名領国における公的城郭の形成と展開
       ----城督を手がかりに----馬部隆弘

まだ同じ本です。
で島津から離れて違う論考の話です。

まず読み方ですが「城徳」と当て字がある用例があるそうで、「じょうとく」で間違いなさそうです。
大友氏で城督というと、立花道雪、高橋紹雲、田原親賢が知られています。

大友氏における城督=任地における大友公権の施行者

城督という言葉は同時代の史料用語としてある言葉なのだそうです。
従って各地の在城している重臣は、「方分(守護代みたいなもの)」ではなく城督と呼ぶのが相応しいとする。

で、ここから自分が面白いな~と思ったのは、
城督という言葉は大内氏にもあり、使い始めは大友ではなく大内が先だったそうです。

ただし、大内氏では領国の行政権は守護代・郡代が掌握していたため、大友における城督ほど大きな権限は与えてなかったらしい。
また城督という言葉は、重臣だけでなく敵側城将にも使ってたとか。

まとめると城督という言葉は大内発祥で、大内から大友に電波・・・じゃない伝播した言葉だった。
大内と大友は敵対したり和睦したりが幾度かあったので、其の時に言葉のやりとりから伝播したんじゃなかろーか~って話なんです。

大内における城督とは、あくまでも大内氏から城を預かった城将の意味で使っていたらしい。
大内・大友・毛利の領国では「城主」という言葉は殆ど使われていないそうで、それに該当する言葉が城督だった。
だから城の本来の城主はあくまで大名。

大内における城督の初見は文明10(1478)年。
大友で敵将を城督と呼んだのが弘治3(1557)年。
大友が自分の家臣を城督と読んだのが永禄3(1560)年と、意外と遅い( ゚д゚)ンマッ!!

で、城督の一番の特徴は、本貫地を離れて派遣されているということ。
大内にとって城将(城主)的意味だった城督だが、軍事的緊張下においては城の維持管理を担う領域の設定が必要になってきたんじゃないかと書かれています。
というのは、大内領(筑前)の郡代が城督を兼務してたからです。

大内のいわば後継者となった毛利氏も城督を踏襲していました。
が、元々の大内ワードであった在している城将や敵将に使う用語に戻り、大友のような領国支配の意味合いで使うのは僅かになり、戦国以降は全くなくなります。

次は城督の問題点なり~(*´∀`)ノ
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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